死者の如き従順

全ての陰謀に関与する戦闘的ジェスイットの身辺雑記

自炊即人間賛歌

 諸般の事情でマッマが1か月ほどいないので、飯を自弁する必要が生じた。自弁って書くとアテナイの重装歩兵っぽいな。

 

 平日は家帰ってから何かやるのが面倒なので大体外食なのだが、ふとした思いつきで休日は自炊をやることにした。先週は豚肉のピカタだけ作って後はスーパーのカット野菜にオリーブオイルと塩かけて簡易サラダにして、白飯を食った。今週はローストビーフ、アジのなめろう、エリンギとマイタケのバター醤油炒めを3品作って酒を飲んだ。料理はほとんどやったことのないタイプの典型的薩摩隼人(生まれは東京)なので、かなり苦労したし、そこそこ失敗もあったが、個人的には味にも満足している。アジだけに、って書こうと思ったあたり俺もヤキが回っちまってる。

 

 前職時代は3年間一人暮らしだったが、フライパンを握った回数は10回未満、包丁は3回ぐらい。その前は実家暮らしなのでほとんど料理する必要がなかった。これぐらいのド素人でもローストビーフあじなめろうやキノコの炒め物みたいに工程数の少ない料理なら何とかこなせるのは、インターネット時代の集合知クックパッドや料理系のYoutube動画)のおかげだ。

 今回、スーパーのお魚コーナーで店員さんに「あの、これ、三枚におろしてください……」と言えるだけの勇気を持ち合わせていなかったので、いろんなYoutube動画を見てイメトレしてからアジを自分で三枚におろした。魚をおろすというのは強い人間の証だと思っていたので、できてよかった。まあ、ちっちゃいアジだったのでそもそも歩留まりがよくなかったが、皮を剥ごうとした時に身の部分も持って行っちゃたりとかしてかなり小さくなってしまった。恐らくあれはそのまま刺身にはできないので、なめろうになるべくしてなった魚という感じだった。

 ローストビーフでも似たような失敗があった。肉を四面焼いて後は余熱で放置するという簡単プレイで、余裕があったのでソースも作ろうと思い立ちバルサミコ酢、みりん、しょうゆ、にんにくを煮詰めたのだが、火をいれすぎて飴っぽくなってしまった。何かソースというよりもぼてーっとしたヘドロみたいなのができてしまい、あとテフロンのフライパンにメチャクチャこびりついて落とすのが大変だった。ただ、味は悪くなかったのでよしとしよう。

 こういう定番の料理なら、今やほとんどの作業過程が動画となっている。ネギのみじんぎりの仕方がわからなかったのだが、ネギに斜めに包丁を入れたあとに一気に細かく切るという所作は動画を見て初めて自分の身体に移し替えることができた。静止画と文章だけの説明だったら恐らく失敗していたと思う。また、アジを三枚におろすのも、背と腹から如何に包丁を入れるかみたいなのを詳しく解説している動画があり、それを流しながら成功にこぎつけた。

 そもそもまともに包丁を握った経験がないので、切り方とか含めて無であり、お母さんと台所に立ちながら料理のイロハを学ぶということすらしていない人間がここまでできるのは何でなのかと思ってしまう。いろいろとルーティン動画(それこそ大蛇丸一般男性とかぼっち系Youtuberとか)を日課で見ている時に、料理シーンが結構多く見ていた。それによって料理をすることにあたっての心理的障壁がかなり下がっていたのではないかと思う。この心理的障壁さえ乗り越えてしまえば、あとは手先の問題であり、そして神様が器用か不器用かをより分けてくださるということだ。

 

 既にいろいろ言われていることだが、自炊は自己肯定である。俺の好きな小説家である田中慎弥はマッマのお金で食いつないで家に引きこもって小説書いていた時期も、自炊だけはちゃんとしていたという(これは『孤独論』という本に書いてある。類書の中でも極めて優れていると個人的に思う)。「僕らは命に嫌われている」と思うぐらいの人生の虚無にあっても、飯を作って食うということは大事だと田中は繰り返し説いている。今回自炊をやってみて、自分でもそう感じた次第だ。自炊、掃除、洗濯、風呂わかし、こういった生活の細々から人間はどん底にあっても自分の生をやり直し続ける。いい話だなあ。

 

 追伸:麒麟がくる、面白そうですね。俺にとっての長谷川博己はMOZUのサイコ公安こと東のイメージが強すぎるので、何かさわやかなことやってるのを見ると凄い不安になっちゃうねえ。でも序盤の殺陣はかなり三次元的でカメラワークの立体感もよかったし、三十年戦争のカロ風とでもいうような中世の暗黒をこれでもかとばかり細部に詰め込んでいたし、そして吉田鋼太郎大塚明夫の睨み合いがヤバかった。これであと三好役で山路和弘が出てくるのヤバくないか? まあとりあえず大河はだいたい3話ぐらいまで見るので継続的に見ていきたい。

【書評】古賀敬太『カール・シュミットとその時代』(みすず書房、2019)

 本書は、国法学者(公法学者)、政治思想家として著名なカール・シュミットを彼が生きたワイマール共和制やその前後、ナチ期、大戦後に区分した上で、彼が生きた時代状況に照らし合わせて彼の全体像を解明する試みである。

 

 シュミットといえば、「ナチの桂冠法学者」(これは彼と袂を分かった弟子ヴァルデマール・グリアンによる呼称である。グリアンといえばアーレントの友人であり、彼女は『暗き時代の人々』の中で彼に1章を割いている)、「魔性の政治学者」(とはいえ、このような理解は今日では少数派だろう)、さらにヨーロッパの新左翼新右翼、あるいは現代思想アガンベンシャンタル・ムフ)への不気味な参照項として知られている。日本においても、丸山真男橋川文三藤田省三らによる1960年代のシュミット受容(このあたりの消息について、みすず書房の創業者小尾俊人のノートをまとめた『小尾俊人日記』の巻末に収められた対談で、藤田の弟子筋の市村弘正が伝えている)を嚆矢として、連綿と読み継がれている。そうした受容の中でも、「政治神学」や「友敵理論」、「広域」「ヨーロッパ公法」といった特異な鍵概念、「政治的ロマン主義」や「永遠の討論としての自由主義」のような批判的分析概念ばかりが目立っている状況である。

 

 これは著者が指摘するように、「具体的な法的・政治的現実の構造変化を把握し、それを概念にまでもたらす」(p104)シュミットの「精神史的」方法論がそういう読み方を惹起しているのかもしれない。著者はそうしたシュミットの思考を『現代議会主義の精神史的状況』や『合法性と正統性』、さらに後期の『大地のノモス』にまで認めており、「全生涯を貫いている赤い糸」(p97)であるという。そうして把握された理念型をベースに議論を展開していくところがシュミットの魅力であり、読み継がれる理由であると評者は思料する。

 

 本書で著者は『政治神学』、『政治的なものの概念』などの分析のみならず大著『憲法論』や、パーペン・クーデター(プロイセン州政府のみならずワイマール体制への破壊的な攻撃として知られる)やヒトラーが主導したナチ党内の粛清「長いナイフの夜」において、パーペンやヒトラーを擁護したシュミットの法実務的な対応などにも分析を加え、国法学者としてのシュミットによりフォーカスを当てた上で、包括的な理解を目指している。

 

 シュミットにおいて有名なのは「独裁」の肯定である。ただし、こうした「独裁」は無制約の独裁ではなく、例外状態を克服するための一時的な措置としての「委任独裁」であった(こうした議論は『独裁』や「大統領の独裁」において展開される)。ワイマール憲法秩序を論ずるシュミットの言説からは憲法体制そのものの破壊は読み取れず、「委任独裁」の最たる例である大統領の緊急権行使にも議会の事後的な承認を要する点や、現行憲法秩序の変更を認めないなどして歯止めをかけるべきだと主張していた。一方で、シュミットは『現代議会主義の精神史的状況』においては、現代にも通ずるような闊達な自由主義批判を展開し、議会に対して事実上の死亡宣告を行う。

 一見矛盾とも思えるこうした言説に対して、著者はシュミットを「合法性を重んじる憲法学者として、ワイマール憲法秩序の枠内において発言していたが、彼の政治思想は反議会主義、反自由主義であり、権威主義国家を目指していたものとする」解釈(p57)に依拠しつつ整理していく。各著作への目配りは程よく適度で、シュミットの政治思想の「過激」さと、一方で国法学者としてのシュミットの「慎重」さを浮き彫りにしているように思う。

 

 シュミットの国法学者としての理論形成は、法実証主義者であるアンシュッツやトーマとの論争、自身の前任者フーゴー・プロイスの影響、そして国家、即ち「政治的なもの」を決する主体を法規範に解消しかねない「ユダヤ人」ケルゼンに対する挑戦などを素材としている。一方で彼の政治思想の源泉は、表現主義の詩人ドイブラーの「極光」やドノソ・コルテスへの傾斜に示されるようなある種の「終末論」(それは機械化時代やその時代精神たる自由主義への批判を含意する)、信仰を個人の内面に帰着させたプロテスタンティズムに対して「教会の可視性」を対置する「文化闘争」以後のカトリシズム(これは著者の前著『カール・シュミットとカトリシズム』に詳しい。苦言を呈するようで恐縮だが、本書はドイブラー論の紹介の部分など、前著からの引用を断っていないとみられる)、ドイツの戦間期知識人の多くが魅了されたキルケゴールの受容による決断主義など多岐にわたる。

 著者はこうした部分も丁寧にフォローしつつ、シュミットの日記や書簡も参照しながら彼の個人的なパーソナリティーとしての不安定な自我も浮き彫りにする。第一次世界大戦中に自殺衝動を仄めかし、戦死したユダヤ人の友人のために嘆き、ドイツの敗北さえ希う。しかし、戦争を生き残った彼はパーペンやナチに擦り寄って立身出世しようという意図もあった(彼のヴァイマル後期の著作においては、むしろ大統領の権力を強化することでナチの党勢拡大を阻止しようとしていたことを考えれば、驚くべき変節である)。こうした自我の揺れは、内面にとどまらず、著作にも表れる。彼はヴィルヘルム期において、ミュンヘンを事例として軍事的指揮官が「戒厳状態」の名において、行政権力のみならず立法権司法権を集中させている状況を、法治国思想の観点から批判した(「独裁と戒厳状態」)。だが、ナチ期においては「長いナイフの夜」で即決裁判で大量粛清を行ったヒトラーを「総統は最高の裁判官として行動し、友・敵を区別し、適切な権利を有する」と主張した(「総統は法を護持する」)。

 シュミットの中に一貫性を見出すことが難しく、彼の言説は彼自身が「政治的ロマン主義」の名の下に批判した「機会原因論」そのものの場当たり的な対応であると指摘したのはレーヴィットだが、本書はそれをさらに多角的な視点から立証しているという点でも特筆に値する。著者は「シュミットは時に『無政治的個人主義者』となり、権力と衝突して『内面世界』に没入するのであるが、他方において振り子は正反対に揺れて、『国家主義者』として登場してくることになる」(p186)と分析する。まさにシュミットについての正鵠を射た指摘であろう。

 

 本書の特徴をさらに記述するならば、シュミットの思想を出来る限り時代状況に連関させて理解するという観点から、シュミットと同時代の法学者や哲学者との言説の対質も試みていることである。アンシュッツとの緊急権を巡る論争や、トーマとの自由主義と民主主義の連関を巡る論争、さらにはナチに協力したハイデッガーやケルロイターといった御用法学者の「民族重視」に対してシュミットがあくまで「国家」を重視したこと(これが結果としてシュミットの失脚につながる)も論じている。シュミットだけを読んでいても分からない部分についてもわかるように整理されている。そして、本書はシュミットが「緊急権」論争に与えた影響を、現代のボン基本法までも射程に含めて通奏低音的に論じているのも、類書にはない魅力ではないだろうか。

 

 諸々論じたが、本書の価値はこれまでの日本語文献では分かりにくかったシュミットの全体像を明らかにすることに概ね成功している点であろう。大竹弘二の『正戦と内戦』、和仁陽の『教会・公法学・国家』、初宿正典の『カール・シュミットと五人のユダヤ人法学者』といった優れた個別研究が存在することを勘案すると、本書の叙述がこれら先行研究と比べるとやや散漫で、深く分け入った分析的な記述になっているとはいいがたい部分もある。しかし、これらの個別研究では拾い上げられなかった部分にも光を当てた上で、シュミットの全体像を眺望できる業績は、今後のシュミット研究の礎石となるのではないか。その意味で本書はシュミットについて概説的に知っている、あるいはシュミットの著作を読みかじったという入門的なレベルの学生にも、有用な手引きとして利用可能であることを付言しておきたい。

 一方、不満を述べるとすれば、著者の前著『カール・シュミットとカトリシズム』において著者が強調したシュミットの「政治的カトリシズム」や「終末論」が後景に引いており、その連関がいまいち見えてこなかったことである。しかし、本書の目的がシュミットについてのパノラマを提供するということであれば、これは望蜀かもしれない。

 

カール・シュミットとその時代

カール・シュミットとその時代

 

 

女の子に声をかけて撮った写真を展示すると怒られる時代は複製技術時代なのか?そうです

 昔話をしよう。ヴァイマル共和国初代大統領のエーベルトが閣僚とパンイチでバルト海に立っている写真が、当時の週刊誌に掲載された。夏休みのちょっとしたプライベート写真で、週刊誌側にエーベルトをこき下ろす意図はなかった。だが、初出し水着で写真集を爆発的に売る乃木坂みたいな手法をきたねえおっさんがやっても受けるわけがなく大顰蹙を買った。共和制を快く思わない人たちがメタクソにこき下ろし、一部は「過去と現在」なんていう題名のポストカードでエーベルトのパンイチ画像をヴィルヘルム2世とヒンデンブルクの軍装写真と対比するという悪辣なコラ画像を作っていた(この辺のことはBernhard Fulda Press and Politics in the Weimar Republic,2009に詳しい)。だが、このような悪辣さを全く笑えない時代に生きていることは、トランプがCNNをぶん殴るアレを思い出さなくても皆さん重々承知の助だろう。

 

 全く笑えないとタイプした指先が収まらぬ(何という陳腐な表現!)うちに恐縮だが、実は結構笑えることもある。個人的には、反社会勢力と政治家のツーショットが問題になることにある種のバカバカしさを感じる(少し考えればわかるが、政治家は誰とでも写真を撮るタイプのアホだし、そうじゃなきゃ政治家なんかやらんのである)。別に政治家に限らず、アイドルと妻子持ち編集者の路上ベロチューとか、広域指定暴力団NHK組員のカーセックスとか、闇営業芸人と金塊強盗のやっていき写真とか、どうしても笑ってしまう。下劣な人間性を隠しもしないタイプのクズなので。しかし、この手のクズにとっての嬉しい時代である、複製技術時代という奴は。

 

 もうベンヤミンがどっかで言っているのかもしれないが(というのも大学1年生の時に『複製技術時代の芸術』を読んで以来この優れた思想家にほとんど触れあっていない)、複製とは、とどのつまり「無際限の公開性」と「秘密の再現性」の合わせ技である。本来であれば居合わせなければ遭遇しない(つまり、それこそ大多数の第三者にとって秘密の)いま・ここの事象を媒介的に捉え、それがダビングやらコピペやらで「無限に」拡散する。リングの恐怖は、髪の長い女がテレビからワーッと出てくることにあるのではない。本来なら遭遇の必要すらない超自然的現象が、人間の胸三寸で無限に拡大する可能性を秘めていることである。複製技術時代の不安をうまく描きだした作品であるが、その後「呪いのビデオシリーズ」という大量のエピゴーネンを生み出して陳腐化したあたり、「模倣」というよりも機械的な「複製」の運命を作品自体も逃れられなかったのかなと思った。これは根拠薄弱の人文漫談です。まあいつもやってることなのでお目汚し失礼します。

 

 話をどんどん変えていくが、声かけ写真展はよくないという論調がある。まあそれはそうかなと思わなくもない。リベラルなので。だが、じゃあ声かけ写真そのものはよくないのか?となると、それはどうだろうかと一回立ち止まってみたくなる。とはいえ、ググってみると、声かけ写真展がジャップオスの異常性と気持ち悪さを含有しているので何もかも無理という人が世の中にはたくさんいるらしく、問題を腑分けしたことがなさそうだし池袋のバンザイプリウス事故で厳罰の署名とか書いてそうという率直な気持ちを抱いてしまった。もちろん、子どもの合意を得たということの法的な評価や、声をかけた子どもがエーベルトよろしく水着であってその写真を売ったら児ポに引っかかるだろうという論点もあるかと思うが、女の子に声かけて写真撮るのが一律にダメということに強い根拠は見出せるのだろうか。

 

 声かけ写真展への嫌悪感を複製技術時代の文脈に置き直すと、きっと女児を「展示的価値」を帯びたものとして見ることに起因するのかもしれない。それはまさに無際限に秘密を覗かれることを意味するからだ。でも、芸能人や政治家は許可なく写真を撮って週刊誌にあげるのはよくて、女児に許可とって撮った写真を展示するのはダメらしい。あまり比較としてはよくないが、このあたりの線引きはバカバカしくも愛おしい時代を読み解く鍵な気がする。ちなみにハゲワシが近くにいた場合の女の子の写真はとりあえず撮ってNYTに送ろう。

 

 先述した通り品性下劣なウクライナ21系男子なので、実際の死体画像とか「welcome to underground」って呟きながら見ることもある。30年前なら見ることはなかっただろう、ゾッとする光景が今やインターネットにバラまかれている。複製技術時代だ。ベンヤミンはここまでのことを予想していたのだろうか。していたのだと思う。彼の叙述を読むと分かるが、芸術を庶民に開くという観点から彼は複製技術に肯定的な側面を見ている(それをディスり倒したのがぼくらのアドルノである)。しかし、庶民でも所有可能な絵画写真だけが開かれたわけではない。ありとあらゆる秘密が公然と、無際限に暴露される可能性。「鉄の檻」の柵の内側に取り付けられた無数の監視カメラのレンズが世界を覆っている。ベンヤミンの肯定は、きっと乾いた笑いとともになされたに違いない。

 

2019年――近代2.0から3.0への移行期間における神学的諸前提のリブート

 タイトルに深い意味はありません。意味はどこまで潜っていても俺たちの手には届かないので。つまり、Vtuberを死姦したことがある奴がいるのかという話です。

 

 今年はよかったですね。検察がやらかしまくって人々を逃がしまくったと思ったら、カルロス・ゴーンも逃げて完全にお祭りみたいになってきた。日本の法曹のお粗末さが世界に知れ渡ったので俺は嬉しい。こんな奴らに死刑とか任せていいんですかという素朴なお気持ちで東京拘置所のロープを断ち切りましょう!(政治的スローガン即ち空疎)。まあ12月も振り返りつつ、総括していきましょう。

 

 〈苦役〉

 新しい職場はまあ悪くはない。悪くないけど、しかしやはりフィットしない職場である。でもしょうがない。正直俺にフィットする職場なんてどこにもない気がする。もう生きるために自分を曲げることを許せる年になってきた。できないことが増え続け、妥協に身を委ねる年頃になってくると、人間はせめてもの可能性の拡大を求めて生存を延長したがるのだろう。この生まれた世界が最悪だとしても、生き続けることがもはや最後に残された抵抗の手段なのではないか。逃走は究極の手段であっても、唯一の手段ではない。

 でも職場の他の人とのライフステージに関する根本的な見解の相違は乗り越えられないと思う。そしてだいたいそういう話しか出てこない。まあ、仕事の話もしたくない、趣味も共通項に乏しいとなると、人間のありがちなモデルケースが話題になるのかもしれない。もうこれも仕方のないことなのだろう。そういう話をしなくてすむような共同体が俺にはまだひとつだけ残っている。そこに残りの人生の賭け金を全額ベットするしかないのだろうか。それはわからない。5年後にその共同体は今のままである保証はない。何ひとつ確定的な未来など存在しない。それでも生き続けるために、仕事をしなくてはならない。思えば前職は狂った出来事の連続であった。今の仕事こそ、苦役というのにふさわしいのだろう。

 とはいえ、仕事に希望がないわけではない。幸い勉強が無駄にならないタイプの仕事だ。周りの先輩は勉強よりはコミュニケーションや仕事上のノウハウの蓄積が必要と考えているが、俺はそうではないような気もする。何故なら、勉強することでそうした仕事上の条件も変わってくると思うからだ。それに、幸い自分の分野の勉強は他のことでも役に立つ。なので、何とか勉強につなげていきたいと思う。惰性を繰り返さないというのを、2020年の、いや人生のテーマにしたいと思う。まあ、こんな言明を繰り返しているばかりでは永遠に惰性と初夜を迎え続けるんでしょうね。悲しいね。

 

 〈社交〉

 東京に帰ってきたので、昔なじみの友人と飲むことが多くなった。やはりそれは楽しいものだし、今後も楽しくしていきたい。

 ただ、基本的に昔なじみの友人も俺も陰キャなのでそんなに飲みに行くわけではない。あと付き合いもお互い悪いので、必然的に噛み合わないケースも多い。昔だったら気にしないのかもしれないが、最近はちょっと気になってきた。やはり人生に対する焦りがあるのだろうか。辛い辛いだねえ。

 前職の先輩とかともたまに飯に行くことがある。大体いつでも戻ってこいみたいな話をされるのだが、まあ日本で唯一過労死を問題視しない職業なので自殺を真剣に考えたらまた門を叩こうと思う。

 

 〈読書〉

 今年はいろいろと読んだ。興味のある研究書とかが多かった気がする。12月に読んだ中谷功治の『テマ反乱とビザンツ帝国』はよくて、史料の少ない時期の中期ビザンツにおいて、小アジアのテマ軍団に支えられた中央政権という仮説を手掛かりに、テマ制などの軍制や反乱などの事象を読み解くという、仮説と史実のフィーリングを楽しめる面白い本だった。ジャンルで言えば、西洋史古代ギリシア哲学、ドイツ文学、政治思想史などをよく読んだ気がする。多分一番面白かったのはブログでも書いたバイザーの『啓蒙・革命・ロマン主義』だろうか。

 しかし、読んでも片っ端から忘れていく。なので、来年からは読書ノートを作ることにした。来年からこのブログにちょこちょこあげていくつもりである。もし月ごとの振り返り記事の読んだ本リストと読書ノートの数が合ってなかったら、読書ノートをとるに値しないレベルの本を読んでいたか、俺が怠惰だったかという二択でしかないので、まあそこは各自ご判断いただければと思う(圧倒的に後者だと思う)。

 あと来年、どうせ時間があるのでいろいろ基礎的な部分の足固めにもしたいと思っている。何をやるかは決まっていないが、とりあえず1月2月はちょっといろいろと自分でやっておきたいこともある。ブログではあまり報告しないかもしれないが、そういうことも頑張りますとだけ。

 

 〈文化活動〉

 映画、やはり『サタンタンゴ』が圧倒的で、今年一番頑張って見た映画だと思う。腰も痛くなったし。

 あと、Youtubeにハマりすぎた。来年はYoutube離れをしていきたい。個人的に魅力に思うYoutuberは結構いて、でもあまり人には言いたくない(ブログでちょこちょこ言及はしている)。Youtube、長くても30分が目標です(こうやって言うということは1時間ぐらいやってしまう可能性が高い。というか絶対そうなる)。

 友達に勧められた乃木坂の動画を見てたらいつの間にか1期生から4期生まで全員言えるようになったし、かなり彼女たちのバラエティ的な文脈に詳しくなってしまった。今考えるとマジで何やってんだという感じで、本当に好きでも何でもないのに何故か日課で見ている自分がいたわけだ。この時間を何か別のことに使えただろうという気がしないでもないが、そういうことを考えると人生は詰み始めるので「気がしないでもない」で打ち止めにする。俺は人生というゲームに詳しいんだ。

 ゲームはスカイリムメチャクチャやりましたね。やっぱり俺の故郷はベセスダソフトワークスなんですよね。そして今はFallout4で実銃MODてんこ盛りにしてレイダーの頭ブチ抜いている。人は過ちを繰り返すので(War Never Changesの名訳です)。

 

 〈よもやま話〉

 来年の目標を前の記事で適当に書きました。訂正します。

 

 ①インターネットにかかわらない。

 ②何かのテーマを1年かけて勉強する。

 ③仕事にのまれない。を自分のものにする。そして30になる前に判断する。

 ④貯金して、来年一人暮らしプランを現実にする。

 ⑤アイドルの握手会に白い手袋はめて真っ黒の葬式みたいな格好で参列する。人生に時間はないのでそんな無駄なことはしません。刻苦勉励して生に抗います。

⑥チャンネル登録者数1万人以下の面白いYoutuberを10人見つけてそいつらが伸びたら古参イキリをする。Youtube離れを頑張る。

 ⑦海外ドラマを見る。

 ⑧Sound Horizonに対する気持ちを中2の時ぐらいまでに高める

 ⑨オープンワールドゲーム以外のゲームをちゃんとやってみると真剣に向き合う

 ⑩7時間睡眠で生きていく覚悟をする

 

 そして、ブログでも言及しておかなきゃと思った最近の思考テーマは老いである。

 やはり諸々の認知がバグり始めているというか、スムーズかつアプロプリエイトな行動がとれないような気がする。記憶ができなくなっているとか、怠惰で説明できるような次元ではないような何かを自分の中に感じ始めている。

 そりゃいつかは人間は年老いることはわかってきたし、これまでも老いてきた。14歳の頃のパッションを19歳に持ち越すことはできなかったし、21歳の頃の頭の冴えも25歳ですっかり失われてしまった。だが、それとは違う、根本的に今後の「生の条件」となりうるような何かが降りかかってきたのだ。やはりそれについて真剣に受け止めなきゃなと思ったのが、今年下半期に突然出てきた最大のテーマである。

 最近、酒も弱くなった。あまり食べなくなった(体重は落ちないが)。負債を積み上げながら、徐々に支払い能力も衰えていく。不良債権化していく人生である。救いはあるのだろうか。2020年、今度こそ人類は滅びてくれるだろうか。何もわからない。わからないまま、大人になれないまま、大人のデメリットを引きずって新年を迎える。物悲しくもあるが、それでも老い自分のものだと引き受けるつもりだ。

 

 このブログタイトルの「死者の如き従順」はイエズス会のモットーだと思っている人が多いと思う。だが、実はこれ、アイヒマンがよく使っていた言葉でもある(もちろんラテン語のperinde ac cadaverではなくドイツ語化されたKadavergehorsamで)。彼がカントの定言命法を法廷で諳んじたのはアーレントの報告でよく知られている。「絶対的な何かに従う」というアイヒマンの態度は、悪の凡庸さとかナチズムの理念的特殊性には回収できない、まさしく「アイヒマン」ならではの精神性ではないかと個人的には推量している。彼は中間管理職の最高峰である「親衛隊大佐」にはなりたかったが、将官にはなりたくなかった(と俺が勝手に思っている。実際のところはどうだろう)。大戦末期、彼はなおもカルテンブルンナーに「命令」を求めていた。主体性の喪失とか、権力や多数派への追従という理由づけではなく、「服従」そのものに彼が酔いしれていた、という気がするのである。

 そして、まさしく俺はそういったところに自分を見ている気がした。これがブログタイトルの理由である。タイトルの下の一行文に戦争的ジェスイットであると書いたのは、多分ブログを書いたあたりでエーコの『プラハの墓地』を読んだからかもしれない。そもそも「死者の如き従順」自体、言葉として出会ったのは高校生の頃に読んだ『屍者の帝国』だ。だが、この個人的内省の集積の如きブログにふさわしいタイトルという意味では、やはりアイヒマンのことを考えざるを得ないのである。まあ、年の暮れのしょうもないネタバレです。皆さん、よい年をお迎えください。

世界戦争丸腰でやる26歳~武装解除2019~

 毎度お馴染みハッピーバースデーエントリです。ハッピーなわけねえ。

 

 歳を重ねるごとに考えることも増えていく気がする。貯金、将来、人間関係、両親、社会情勢、敗北主義……本当に今年はいろんなことを考えさせられた。基本的に俺のパラノイア的な性格と被害妄想がもたらしていることが多い気がするので、こういうところを何とかしたいのだが、しかしもはや偏執と妄執が趣味みたいなところもあり、人間というのはうまくいかないなと感じます。

 

 今年、なんといっても最大の変化はクソッタレ前職を辞めたことだ。これは間違ってなかった。あんなもんはバカにやらせておけばええ。奴らに入る墓はねえ、野垂れ死にがお似合いなんだよな。

 

 そして、転職活動。普通に結構苦労した。周りとかインターネット見てたらみんなスムーズに決めてたので、エントリーシートがまず通らなかった俺とは……となったし、公務員試験もまあ苦戦した(主に公僕の心ない質問に、あいつらは市民と国会対応で感情のHPがゼロになってるからね)が、結局収まるべきところに収まった感じだ。年収は大幅ダウンだが、人生は金じゃない。いや金は大事なんだけど、金なくてもどうにかやっていっている人というのを少なからず知っているし、俺は実家に寄生虫パラサイト丸なので何とかなるだろう。

 

 そして、かつて自分がいた場所における絶望的な変容へ向けた悲しみ。これが下半期における俺の感情の主旋律である。生きるに値しない命という言葉をおおっぴらに使っていい時があるとは思いもしなかった。まあいい、もう俺は知らねえ。そういうスタンスでやっていく。

 

 身体的な面で言うと腰が痛い。恐らく4度目のヘルニアである。全く困ったもんだよこの身体にも。母親がリセマラしなかったことが悪い。

 

 来年の目標。

 ①インターネットにかかわらない。

 ②何かのテーマを1年かけて勉強する。

 ③仕事にのまれない。

 ④貯金して、再来年への一人暮らしプランを現実にする。

 ⑤アイドルの握手会に白い手袋はめて真っ黒の葬式みたいな格好で参列する。

 ⑥チャンネル登録者数1万人以下の面白いYoutuberを10人見つけてそいつらが伸びたら古参イキリをする。

 ⑦海外ドラマを見る。

 ⑧Sound Horizonに対する気持ちを中2の時ぐらいまでに高める

 ⑨オープンワールドゲーム以外のゲームをちゃんとやってみる

 ⑩7時間睡眠で生きていく覚悟をする

 

 これ以上特に書くことはないです。つまらない日常を生きているので。んにゃぴ。

 

異常独身子供部屋おじさんでも「ここが私のアナザースカイ」と叫びたい瞬間があったりする

 銀魂の低劣なパロディみたいなタイトルにしてしまったんですけどね、反省です。というか記事を書く前にタイトルを決めるの辞めた方がいいっぽいんだろうな。

 

 今日、人生で初めて有給休暇を自分の意志で行使しました。というのも、前職では有休がたまりにたまりまくっていて、辞める時に強制的に消化したのを除くとほぼ使っていなかったからだ。有休使おうもんなら殺されていたような職場だからね、仕方ないね。

 

 というわけでじゃあその貴重な一日を何したかというと、ほとんど母親の買い物に付き合って終わりました。悲しいね。というか、1日が過ぎ去るのが早いよ。午前中に新しいスーツを買いに行って、午後にいろいろ買い物してたら、家に帰りついたのは5時で、そこから昼寝したらもう夕飯ですからね。その後はずっとYoutube見てました。最近は毎日一応本のページを捲ることはしているのだが、今日に限ってはまだ活字に触れておりません。

 

 じゃあこの有休に意味がなかったのかというともちろんそんなことはなく、満員電車に乗らずにすんだり、仕事にメリハリを持たせたりといろいろと意味があったと思う。

 

 あと久しぶりに長尺のYoutube動画を見た。最近はいろいろ見過ぎてて節操がないのだが(今の推しYoutuberは神戸大学のぼっちと大蛇丸の声真似をしながら酒のあてを作ってビールで優勝する異常一般男性)、乃木坂46と往年のクイズ王が前者にクッソ有利な条件や問題構成でクイズ対決してギリギリクイズ王が勝つというものを見て普通に感動した(普通に考えたら乃木坂がクイズ王とデッドヒートまでしているところを見るべきなのだろうがミソジニストなのでその発想がなかった)。QuizKnockとか見てても思うが、クイズの「文法」みたいなのをしっかり理解しているオタクは強い。あれは完全に解釈学ですわ。伊沢氏とか古川氏みたいな知識に基づいた想像力が豊富な人間に俺もなりたいですね。

 

 とまあこんな感じで有休使って全力で無為に過ごしてみた。最高ですわ。またやりたいですね。有休がある暮らしありがとう。

自分に恥じない生き方をしたい

 最近は本当にそう思う。

 

 思い返すと先月あたりから俺のメンタルは最悪だった。前の仕事していた時のメンタルが「荒廃」だとしたら、先月のそれは「堕落」に尽きる。

 

 低級なものにかまけすぎた。本当に愚かなことだった。そして、俺はあまりに他人やら何やらに優しすぎた。いつの間にか他人の顔色を伺って生きていた。本当に見つめなきゃいけないのは自分の内面だった。

 

 かつてペトラルカはデカい山のてっぺんでアウグスティヌスの本を開き、そこで自分の内奥を見つめることの大切さに改めて気づかされた。今ちょうどそんな気持ちだ。俺はつぎはぎだらけの俺の手当てをしなければならないし、ねじ曲がった性根がどうなるのかを経過観察しないといけない。

 

 自分に恥じないための生き方、少なくとも俺がやりたいことを全力でやりきろうと思う。12月はそのための種まき期間としたい。