死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

7月を振り返る

 今日で7月も終わり、明日は8月ですね。7月32日を生きる運命を背負ったデルヴェニアスの忌み子*1以外は……。

 

 毎日更新するのはしんどいが、やはりある程度大雑把な記録ぐらいは残しておいた方がよくない?と俺の中でなったので、項目ごとに7月にやってきたことを思い出しつつやっていこうという感じ。とはいえ、これは本当に俺用のものなので、だいぶ記述としてはあっさりしていると思う。

 

 〈就職活動〉

 頑張った。というか、民間企業への就職活動を本格的に始め、応募書類とかバンバン送りまくって、今は結構面接で身動き取れない人生みたいになっている。入りたい業界があるのかというとそれはだいぶ微妙なところで、残業時間そんなにいかなくて肉体労働でなければ何とでもなるんじゃないかぐらいの気持ちを持っている。というか、前職の業界が極めて特殊で、しかも新卒就活の時はそこばっかり受けていたので他業界のことをあまり知らなかったし。

 

 面接は新卒ほどは厳しい質問は飛んでこなかった。「何で前の会社辞めたんですか?」⇒「親父が病気したのもあるんですけど、残業時間があまりにも長すぎて……」、「転職でどのようなことを実現したいですか?」⇒「新しい知識を覚えて、業務に取り組むみたいなのと、労働時間の適正化です」みたいな感じ。そんな新卒就活生からするとぬるま湯みたいな面接でも、たまにイラっと来て喧嘩することもあった。そこはもう如何に選考が進んだとしても行かないと決めたので、特に気にはしていない。

 

 8月中には精神的安定のためにどこかから内定が欲しいな~と思ったりする。さてさてどうなるかな……。

 

 〈社交〉

 たまに友人たちと飲みに行くか、それか知り合いの伝手で色々人と会ったりという程度。今月は累計6回ぐらいだろうか。後者でご飯が伴う場合は、結構奢ってもらうことになってしまい、曖昧な善意で生きている感じがする。それ以外はずっと実家でご飯のお世話になった。

 

 自分のお金で払った現代インド料理はうまかった。現代インド料理って何を食わされるのかと思ったが、普通に色んなところの料理にインドっぽさを加えたという感じで、それがよかったのであった。

 

 〈文化〉

 まず読書。応募書類を作ったりとかしていたのと、何もなくてぼーっと寝転がっている時が多かったので、月の前半部はほとんど読まなかったと思う。本は多少買ったが、ほとんど積読行き。でもたまたま読んだ今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書)は面白かった。政府に対していつも思うことだが、そろそろCIAとまではいかないでもMI6とかモサドぐらいの情報機関は作れよ。いつまで公安調査庁ひかりの輪とかアレフへの立ち入り調査で仕事やってる感を出させるのやと。

 

 月の後半部にようやく気力が戻り、ここ数日はいろいろ読んだ。その書目についてはツイッターや昨日のブログに書いたからまあいいや。

 

 個人的には、毎日コンスタントに新書なら1日1冊、ハードカバーで難しめの学術書でも1日100頁ぐらい読めたらうれしいなと思う。まあ、日々ゆっくり頑張ろうという気持ちだ。ここらへんは焦ってもしょうがないので。

 

 映画はブログにも書いたが、『新聞記者』を見た。もう見たくない。あとは『アンノウン・ソルジャー』、『天気の子』を見た。どっちも感想はツイッターでも多少書いたので繰り返さない。あとテレビでは結構見たな。午後のロードショーとNHKBSの午後1時からやる奴が好きなので。

 

 アニメ。今期は「手品先輩」に全てをかけている。

 

 〈社会〉

 まず参院選。特に驚きはなし。国民民主党改憲について議論するというと裏切りだ!とみんなして怒っていたが、個人的には立憲と多少なりとも差別化できなかったら政党として存在する意味がないと思う。元々俺はどちらかというと右派的な人間なので、いきなりすぐリベラル左派の模範解答みたいな立憲や、とてもスマートにインターネットリベラルのお気持ちにズキュン!とやったれいわに投票するのは何か嫌だったし、国民ぐらいがちょうどいいと思って比例には入れたのだが。

 

 京都アニメーションの放火殺人。あの事件でみんないろいろなことを言っていて、いろいろな気持ちになれるんだなすごいなとなった。感情の薄い人間なので、その日の午後ぐらいから特に関心がなくなってしまい、1週間ぐらい後は新聞の続報を一応読むようにしていたが、今は見出し読みしかしていない。ただ、あの事件についての人々の反応はとても面白く読んでいる。まあ、多分俺は「ちょっと黙っといて」と言われるタイプの人間なので……。

 

 〈その他〉

 国民保険と市民税の支払いが厳しすぎる!!!!!!!!!!!!!!!!!人殺し重税国家に死を!!!!!!!!!!!!!

*1:これはかつて私が中学生の頃書いた雑なファンタジー小説用設定集に書いてあったワードです

新書 それは君が見た光 僕が見た希望――池内紀『ヒトラーの時代』(中公新書)の騒動を受けて

 ところで、今回このエントリを書こうと思ったのは、俺のこのツイートがやけに伸びたからだ(100RTもないのだが、フォロワー30人もいないので驚きである)。

 

 

 まずは前提を共有する。今、インターネットでドイツ文学者池内紀氏がものした中公新書ヒトラーの時代』が燃えに燃えている。要は単純な間違いが多いし、研究成果も踏まえられていないということで、とてもじゃないが信頼に堪えないと、ドイツ近現代史研究者らの間で問題視された。そして、訂正表が新書編集部に送られるまでに至った。

 

 中公新書といえば、硬派なレーベルというイメージがある。大学時代、新書なら信頼できる順に岩波か中公、次点で講談社現代かちくま、そこに光文社、文春、新潮……が続くみたいなのは、複数の大学教員から聞いたし、俺の周りにいた本について目鼻の効く先輩や同級生、そして俺自身も持っていた共通認識みたいな感じだった(もちろん、日本史やドイツの現代史ならば中公、哲学でも最近のはちくまもいい……みたいに分野ごとにこのランキングは微変動することは言うまでもない)。その中公が!?しかも得意のドイツで!?という驚きが、今回の一件がツイッターで話題になった要因だと思う。あと、池内氏が「ドイツ文学者」だからこそ「ヒトラー」について語る意義があると広く認識されていたのではないか。というのも、某元都知事ヒトラー本を出すようで、こちらは刊行前からだいぶ警戒されている。その点池内氏はドイツ文学という「近隣」分野の研究をされているし、きっと大丈夫……みたいな安心感はあったはずで、そんな感じで蓋を開けたらびっくり。驚きの度合いも大きかったのだろう。

 

 単純に著者の思い違いというならまだしも、通常、編集や校閲の段階で気づくようなミス(たとえば蔑称としてのナチスを自らの通称とした、とか)がそのまま通ってしまったのはやはり編集部も一定の責任は免れない。これは邪推だが、『ヒトラーの時代』は恐らくここのブログ形式の連載(http://www.bungenko.jp/yhj/blog/2015/03/31/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89-%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E6%B1%A0%E5%86%85/)をある程度加筆訂正して本にしたと思う*1。今回その本を買ってはいないので、どのような編集過程だったのかは分からないが、もし仮に出版社側サイドで「ウェブ連載で一回校閲かかってるっぽいし大丈夫っしょ……」というのがあったとしたら、これは大変残念なことである。

 

 と、まあ、こんな状況がありまして、上掲ツイートの話に戻る。池内氏の別の中公新書『闘う文豪とナチス・ドイツ』を読んだのは、俺自身このヒトラーの時代騒動に触発されたからだ。まさか前著も……という好奇心で読んだことは否めない。刊行時に買い求めたが、そのまま積読としていて、恐らくこの機会がなかったら読まなかった可能性の方が高い。

 

 そこで上掲ツイートをしたわけなのだが、正直なところ、これは別に伸びるような話でも何でもない。新しい間違いを見つけたわけでもないので、ぶっちゃけ「その報告いる?」というぐらいのものだ。俺自身、単純に備忘録ぐらいのつもりで書いたものを、恐らくこの問題に比較的早く言及したナチズム研究者である田野大輔氏が最初にリツイートし、それが予想以上に広がったようだ。俺のしょうもないツイートを広めたところで……という気持ちはしなくもない。

 

 ツイッターは本当に内輪でワイワイぐらいにやっていたので(それでいて鍵をかけていなかったのは単純に俺の過ちなのだが)、俺のツイートがはからずも多くの人にリツイートされて最初はびっくりしたが、「そうかみんな意外にこういうことを気にしているんだな」と実感した。それで、一応この件に関連して自分の考えを書き留めておくのもいいだろうと思ったのである。

 

 さて、本題(というか、ここからは今回の騒動とは関係ない記述です)。とはいえ、下記に記すことはオリジナリティなど到底獲得しえないような、言い古されてきたことの「再確認」である。とはいえ、インターネットさえ通っていれば無料なのでお得、誰か暇潰しに読むかもしれない。ということで書いてみる次第。

 

 新書という本の形態がある。その創始である岩波新書の刊行の辞において岩波茂雄は「現代人の現代的教養」を刊行目的として挙げる。さらにその後「岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない」とする。「大国民」が気になるが、引用してない部分には「東洋民族の先覚者」だとか「優秀なる我が民族性」とか書いてあり、今日読むと「ハァ?」となってしまうこと間違いなしだ。ただ、その「現代人の現代的教養」という点については今の岩波新書の最後尾ページにある「岩波新書新赤版1000点に際して」にも引用されている。岩波文庫が供する「古典的知識*2」の特徴をさしあたって述べると、①そうそう変わるもんじゃない②多くの人が共有するべきもの、ということになるだろうか。

 

 では、対置させられた岩波新書における「現代的教養」というのは何なのか。ちょっと20分ぐらい考えたがうまい説明が意外と思いつかないものである。というわけで補助線を引く意味で、他の新書の刊行の辞を見てみよう。

 

 「現代を真摯に生きようとする読者に、真に知るに価いする知識だけを選びだして提供すること。(中略)私たちは、作為によってあたえられた知識のうえに生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。一貫した特色として自らに課すものは、この事実のみの持つ無条件の説得力を発揮させることである。現代にあらたな意味を投げかけるべく待機している過去の歴史的事実もまた(中略)数多く発掘されるであろう」(中公新書*3

 

 「教養は万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません。(中略)わたしたちは、講壇からの天下りでもなく、単なる解説書でもない、もっぱら万人の魂に生ずる初発的かつ根本的な問題をとらえ、掘り起こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中に送り出したいと念願しています。」(講談社現代新書

 

 これらは相違点*4も多いが、古典とは違った「現代的教養」や「新しい知識」を供するものとして新書を想定するというスタンスはおおむね共通している。古典あっての新書、ということになるだろうか。しかし、これ以上詳しくとなるとどうだろう。「新書」とはこれまでとは違う何か新しいもの、ということは分かるが、その「これまで」が各々によって違う可能性がある。岩波文庫と対置して岩波新書があり、岩波新書と対置して中公新書ということもありうるとすれば、両者の描く「新書」が違うことは明白だろう*5

 

 どうやら古典的定義ほどはっきりとこうとは言いづらい気がしてきた。これ以上この定義に深入りすると大変面倒なので、それでは試しに俺がここ数日で読んだ新書をあげてみよう。

 

 ①志垣民郎『内閣調査室秘録』(文春新書)

 ②亀石倫子・新田匡央『刑事弁護人』(講談社現代新書

 ③大木毅『独ソ戦』(岩波新書

 ④池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書

 

 まず、①は新たに発見された一次資料的な側面がある。②は体験談をもとに構成したノンフィクション、③は独ソ戦というテーマについて今日の研究水準での概説、④はトーマス・マンの日記を題材とした学術的ではない自由なエッセイ。まあ、バラバラですよね。上にあげた意味で「新書」っぽいのは、ぶっちゃけ③だけではないだろうか。もちろん①も②もそれ自体は面白いドキュメントで、新しい知識を得たといえば得たのだが、しかし上にあげたような意味での「新書」かと言われると疑問符がつく。

 

 もちろん、岩波・中公・講談社の新書御三家が主張する「新書」像だけが新書というわけでは全くない。そもそも新書は判型でしかない。それにトマス・アクィナスや正義論、美学についての優れた概説から、池上彰佐藤優の異常対談本、果ては京都の悪口やバッタを倒しにアフリカへ行く人の話まで、入ってはいけないというものはないだろう。それについては、それぞれの出版社にそれぞれの新書があるので、これまで通りやっていけばいいと思う。

 

 だが、そういう状況が長く続くと困ることも出てくる。今回の池内氏のように、「ドイツ文学者の見るヒトラーとその時代」という一見それは魅力的なテーマであっても、記述の中に致命的なミスが散見されると、池内氏が本領を発揮する時代や個人への洞察も含めて疑問符がつく。これを「研究者が書いているわけじゃないんだから……」と言って、新書の「おおらかさ」をもって丸め込んでしまっていいわけがない。

 

 事実誤認や、アップデートされていない古い知識に基づく記述であれば、分かりやすい分まだいいのかもしれない(よくはない)。深井智朗氏の『プロテスタンティズム』(中公新書)のことを思い出してほしい。発覚した彼の捏造とは直接は関わらないものだが、この新書には参考文献リストはあるけど註がない。こうなると本当にこの文献から引用されているのかなどを確かめるのは結構大変なのだが、捏造までしている著者の記述を鵜呑みにはできない。結局、この本からの引用は事実上不可能となってしまったし、この本をもってしてプロテスタンティズムを語るのはなかなか勇気がいることになったと思う。

 

 そして、文献を指示する註がついている新書はそれほど多くない。先ほどの③はツイッターでも色んな人が太鼓判を押しているので別に疑う理由はどこにもないが、註はないし、④には至っては参考文献リストもない。一度疑義が発生すると、その検証が困難なものが新書には多いと思う*6

 

 それでも、ある種の性善説でもって新書を「新しい知識」の贈り物として我々が享受できたのは、冒頭にあげた「レーベルへの信頼」にほかならないだろう。岩波や中公なら「事故らない」「まあ大丈夫だろう」という連綿と続く出版社と読者の間の信頼関係が、岩波・中公・講談社が掲げる「新しい知識」を伝えるものとしての「新書」をかろうじて成り立たせてきたのである。そして残念ながらその信頼を毀損してしまったのが今回の件だ。SNSでアカデミシャンが多くいる分野では今後このような「発覚」は起こり続けるだろうし、今回の件は氷山の一角で、実は……という新書がたくさんあることは想像に難くない*7

 

 しかし、新書がアカデミズムとジャーナリズム(という三木清チックな対比が古ければ、もしかするとハード・アカデミズムとソフト・アカデミズムに近いかもしれない)の健全な橋渡し、門外漢へその分野の「裾野」を広げる重要な機能を持つことは論を俟たない。1000円の昼飯ランチを我慢しておにぎり1個食べて、お釣りで200頁ぐらいの分量の本を買えて、それで当該テーマについてある程度のことが分かり、目星がつくというのはよくよく考えると凄いことである。これを「いやでもホントなのかわかんないし……」ということで活用できなくなったら、それこそ文化の損失ではないだろうか。

 

 ここまで取り留めのない記述が続いたが、最後に一新書愛好家としての思いをぶちまけたい。一番最初に読んだ新書は菊池良生の『傭兵の二千年史』、高校生の時である。著者には申し訳ないが、ブックオフで200円ぐらいだったのを買った。その時、「こんな面白い本が定価でも1000円いかんで買えるのか!」と思い、毎日親からもらっていた昼飯代500円を使わずに同級生からタコさんウィンナーをもらって食いつなぎ、お金をためては帰り道の途中だった春日部のリブロでいろいろと新書を買ったのだった。中公でいえば、『批評理論入門』『国際政治』『言論統制』などは、ともあれば知的に爪先立ちしたがった高校生の自意識に「まあとりあえず勉強しよか」と呼びかけてくれるありがたいものだった。

 

 大学時代も常に新書はカバン、バッグにはしまっていた。読んでいた古典や学術書で頭がどうにもならない時は思い切って新書を読み始める。よし、この本はまだわかる、俺は大丈夫だ――と言い聞かせるためだったが、専攻や講義、サークルの勉強会と関係ないところでの読書量が自分に自信をつけてくれたのだと思う。

 

 そして卒業し、ついこの間まで実定法など何も分からない文学部生だった俺が、仕事の都合で法律をやらないといけない羽目になった際、まず自分の中の取っ掛かりを作るために岩波の刑法、労働法や独禁法の新書にはお世話になった。忙しく働くさなかで何か面白く新しいことを読んでみたいなと思い、世界史専攻で西洋史ばかりやってきた自分にとっては中公の応仁の乱オスマン帝国の歴史も面白く読ませてもらった。そしてここ数日も、いろんな会社の新書を読んでまた勉強させてもらっている。

 

 自分の人生において知的なものを自覚し始めた頃から、新書と長いこと併走している。それだけに今回の騒動はとても残念だ。なので、今回の件をしっかりと反省し、中公新書編集部さんには刊行のことばに立ち返った出版活動をしてほしいし、他の新書レーベルさんも他山の石としてもらい、またいい本を出してほしい。その本とまた、一緒に人生を走りたいものである。

*1:ただ疑問なのが、ナチズム研究者の小野寺拓也氏がツイート(https://twitter.com/takuya1975/status/1154596185589420032)で指摘している「フェルキッシェ・ベオーバハター」という新書の間違いは、この連載を閲覧した2019年7月29日現在では当該文章は正しく「フェルキッシャー・ベオーバハター」となっている。新書の方で転記を間違えたのか、それとも騒動を受けて直したのかは不明

*2:

一応、詳しく述べておく。自家撞着的な言い回しではあるが、岩波文庫のラインナップを見て率直に抱く印象はやはり「古典」であろう(この語義やそれを読むことについて俺なりに雑に考えた過去記事もある)

 この「古典」について最近の話をひとつ。バリントン・ムーアの『独裁と民主制の社会的起源』はかつて岩波現代選書から出ていたものだが、それがこの夏岩波「文庫」に入った。正直これは「社会科学の古典」ではあるが、岩波文庫に入るような「古典」的なものとは思わず、てっきり岩波「現代」文庫に入ると思っていたのでやや驚きがあった。これで大体俺の考える「古典」像は明らかだろう。ある分野における「古典」、つまりその分野を専攻する人であれば当然抑えておかねばならないような本というよりも、むしろいろんな人が読むべきもの、という風に雑に考えている。その意味でホメロス源氏物語は別に西洋古典学者や国文学者だけのものではないし、プロ倫やリヴァイアサン社会学者や政治思想史家だけが読めばいいとは思わない。

 

 こうした「読むべきもの」というのは早々変わるものではないし、それが時間の経過によって「これもそろそろ古典だよね」ということで追加されることはあっても、削除されることはそうないだろう。「自然状態とかいうの乗り越えたんで」とか「イリアスはもう飽き飽きだよいつまで死体のことでもめてんだよ」ということでもういらねーとなっていたら、これだけ古い書物が何故今もなお『必読書150』とかグレートブックスとして読め!と一部界隈から圧力をかけられる羽目になるのか。まあ、万古不易、とまでは言わないにしても古典の一群のリスト改変作業というのはとてもゆっくりした時間が流れている気がする。

 

 もちろん、岩波新書にも丸山真男『日本の思想』や脇圭平『知識人と政治』、カー『歴史とはなにか』から滝浦静雄『時間』まで、もう正直「岩波文庫に入っててもええんとちゃいますのん?」みたいな本が多々ある(中公なら山口定『ナチ・エリート』、堀米庸三『正統と異端』なんかは古典的名著という地位を獲得しているように思う)。しかし、当時はそれが「現代人の現代的教養」という形で売り出されたわけだ。

*3:いじわるな笑みを浮かべたのは言うまでもない

*4:ここで論じる余裕はないが、新書の開祖である岩波が一貫する「教養」と後発の中公、講談社がプッシュしている「知識」には明瞭な差があると思う

*5:https://www.iwanamishinsho80.com/contents/8fe8b2dcを参照。中公はかなり岩波を意識し、「観念論を排除する」ことで方針を決めていたという

*6:これからテーマ概説的な新書には全部註をつけろ!みたいな過激な意見を述べるつもりはない。それこそ本末転倒だろう

*7:岩波のホッブズとか……

無day

 マジで今日無為な一日を過ごしたので、時系列順に書いてみる。

 

 8時~

 起床。転職活動はお休みで、今日は母親も一日中パートでいない。布団の中で今日は何しようかなと考えた途端、意識が飛んでそのままストンと眠りに落ちた。

 

 10時~

 二度寝から起床。最高の二度寝だった。もうこんな二度寝はできないんじゃないかというぐらい、入眠から起床まで完璧な二度寝だったと思う。ちなみに二度寝の途中に見た夢が「生きたメキシコ」(検索してはいけない言葉)みたいな奴だった。

 起き上がってからパソコンを起動し、メールをチェック。転職エージェントがやたらめったらでっかい求人票を送り付けてきて「いや流石にこれは」という気持ちになった。しかも、応募できないことの理由を向こうに伝えなければいけないらしい。これが結構面倒だなと感じ、このメールを放置した次第。

 図書館でも行こうかなと思ったが雨が降っていた。なので一日中家に引きこもることにした。俺はそういう人間だ。

 

 12時~

 何をするでもなくだらだらとしていたら昼飯の時間だ。俺は重い腰を上げ、歩いて3分ぐらいのセブンイレブンに昼飯を買いに行った。

 今日は母親もいないし、ビールでも飲もうかなと思ってアサヒの500m缶に手を伸ばし、やめた。こういう消費は身の丈に合っていないと感じたのだ。そこで俺はクリアアサヒの500缶を選びました。人間は愚か。そのほか、ビールに合いそうなペペロンチーノ、三角錐の電子レンジでそのままあっためておつまみになるシリーズにフィッシュ&チップス、揚げ鶏を購入して1300円ほどの昼飯と洒落込んだ。貴婦人かな?

 ペペロンチーノをあっためている間に、クリアアサヒをぐいぐい飲む。フィッシュ&チップスは結構タルタルソースありきという感じだったが、まあおつまみにならなくはない(それよか同じシリーズのタンドリーチキンや明太子ポテトの方が好きだが)。クリアアサヒがすぐなくなったので、親父が冷やしていた淡麗500を勝手に飲み始めた。

 

 13時~

 NHKBSで「追跡者」をやっていたのでそれを見る。トミー・リー・ジョーンズ主演で、ウェズリー・スナイプスとかロバート・ダウニー・Jrの若き頃が見られるという映画。伏線回収のお手本みたいな映画で、手堅くまとめてきたサスペンスアクションなのだが、こういうの見ながら酒飲むのが最高なんですよね。思えば前職で極まっていた時も車を飛ばしてマックのフライドポテトとチキンナゲットの夜マックセットを買い、コンビニでビールを4~5本買って、テーブルに新聞紙を敷いて飲み食いしながらアマプラのハリウッド映画を観たりしていた。とはいえ、究極完全態無職でも別にこういう時間は至福なのであって、お金がある限りはこういう生活を続けるのは悪くないなと思った。今日の生産的活動ですが、「追跡者」見ている間に母親がAmazonに頼んでいた品があったのでそれを受け取っただけです。

 

 15時半~

 「追跡者」を見終わる頃には、淡麗を4本も空けていた。そこそこ気持ちいい状態になりながら自分の部屋に引っ込み、ぐうと寝た。

 

 17時~

 起きてもそもそとネットサーフィンをする。Youtubeで大食い企画みたいなのを無限に流したかと思えば、ICE BAHNのLOYALTYを聞いてブチ上がっていた。重んじるものは利よりも義という男になりたいと思ったが、そういえば後輩はそういうイカレた職場で働いてたなと思い出し笑いしてしまった。

 

 20時~

 夕飯と風呂をすませ、また自室でYoutubeをずーっと見ていました。

 

 総括

 こんな無みたいな日でも、俺は愛しているよ。

キモくて金のないおっさんのためのセプテット

 今日は朝から転職活動があり、まあいろいろ面接とかやって「あー終わった終わった終わってねーよ」と思いながらネクタイを緩め、午後3時すぎに家に帰ってきた。家のポストを見たら国民保険納めてね!って区役所から手紙が届いた。中を開いてみると、毎月5万3000円払わないといけないのである。

 

 保険料も市民税も前年の給料から算定される。俺は月残業が100時間を下回ったことがほとんどない異常労働者だったので、給料は他の同世代よりは高かった(ちなみにみなし残業だったので別に100時間分の給料をもらったわけではない)。しかし、今は無職なので貯金をガンガン切り崩さないといけない。

 

 じゃあ貯金してなかったお前が悪いやん!って思った人は今すぐ俺と殺し合いをしろ。言語なんてちゃちなもんじゃねえ死ぬまで殴り合いだ。いや違う、まあ言い訳させてもらえれば前職での異常なストレスを異常な金遣いで対消滅させていた(いや実際には麻痺させていた)ということなのだ。あの金遣いがなかったら今ごろ俺は頭がおかしくなって4歳児への殺人事件でも犯していたに違いない。動機は「年中さんの全能感を許せなかった」だと思う。

 

 まあ、いろいろと出費が重なって、退職金を入れても貯金は100万程度だった。この貯金をやりくりしつつ……と思っていたが、結局国民保険+市民税+国民年金でこのお金は全てなくなりそうだということが判明した。

 

 俺はこのクソくだらねえ国家に税金を納めるためにわずかばかりの貯金が全部パーになるのか?笑えるぜ。無職にはお似合いの顛末ってことか。何が国家だ。ふざけやがって。俺は前にもらった官公庁のパンフレットをさっき全部捨てた。知らねえ。どこもかしこも火だるまになりやがれ。

 

 前職で得た貴重なスキルは極限まで増幅する被害妄想だ。俺の顛末を見てみんなが笑っている気がする。ふざけんな。お前らも無職になりゃわかるんだよ。次会ったらあいさつする前に殴るからな。

 

 転職エージェントとの電話、面接先との日程調整、そういう中で自分が見下されている気がする。そうだ、何のとりえもない無職、貯金も消し飛ぶことが確定している無職、今や障害者の方が生産性がある無職、こんなもんは見下されて当然なのである。

 

 キモくて金のないおっさん問題というのがインターネットで流行っている。きっと俺もそうなるのだろう。今は全てのことがイライラするからだ。

 

【映画感想】『新聞記者』――どこまでリアリティがあるのか

 就活、全くうまくいきませんね。というわけで登録サイトだけが増えていく。そろそろ転職エージェントとやらとも会ってみないといけないでしょうね。神様お願いします、今年中には食べていける職業、残業50時間以内の職業、理不尽な命令のない職業、精神論で全てをごまかさない職業、俺が一番いい職についているんだっていう顔をする社員がいない職業をご紹介ください。

 

 就活がうまくいかない時、人間は現実逃避しがち、ということはPeterson and Clayman 2017*1でも明らかですが、俺もお母さんに就活しに行くよと偽って映画を見に行きました。まあ今話題の『新聞記者』を見に行ったんですね。

 

 結論から申し上げると、肯定的なことはあまり言えそうにないと思いました。よかったことがないわけではない。とりわけ言及しておきたいのは演技。主演の韓国人女優シム・ウンギョンと松坂桃李、あと脇を固める北村有起哉田中哲司も含めきちっとした演技がこの映画を最低限映画として見られる作品にしているのではないかと思った。前者2人はその時々に見せる表情がとてもよかったし、役に徹している感じがした。その徹底ぶりに関しては、個人的には内調の幹部である内閣参事官・多田を演じた田中哲司のいやらしく黒っぽい演技がパーフェクトで、松坂演じる内調官僚の杉原をみんなの前でなじった後に机をさらっと見たりするところとかいいですね。

 

 で、まあ作品の評価に立ち入る前にこの映画を取り巻く前提についてもう少し触れたい。https://digital.asahi.com/articles/ASM725JF0M72ULZU00L.html この記事でも紹介されているように、何かもう上映前から「今の日本社会ではこの映画を撮ることのハードルが高いんや!」的なアピールが繰り返されている状況があった。それが本当なのかどうかはさておき、ツイッターなどで検索するとこの作品の評価にて「この映画を撮ったことがすごい!」「演じてくれた役者さんに感謝!」みたいなのが散見される。

 

 しかし私見を言わせてもらえば、それは映画作品そのものの評価というよりは、作品外の社会情勢などのコンテクスト含みの評価であると思う。もちろんそれが悪いとは言わないが、じゃあ演出がどうだった?とか脚本はどうだった?みたいな視点がこの映画を手放しで褒めている人たちにないように思われる(ツイッターでざっと見ただけなのでアレなんですが、もしあったら教えていただければ幸い)。

 

 仮に脚本などの評価があったとしても「これが日本社会の現実だ」とか「官邸や内調のあくどさがよくわかる」という感じで、「現実」に近いものとして描かれているがゆえにその「リアリティ」を評価している感じが見受けられるし、多分制作側はそういう部分に目的意識をもって作っていると思われるので(でなければあそこまで現実には似せてこないだろうし、朝日新聞の南彰に司会をさせた望月、前川、ファクラーの鼎談討論番組をわざわざ引っ張ってこないだろう)、その意味で一定程度映画を観た人にそう感じさせることは成功しているのだろう。俺はこの後、そんなにリアリティは感じなかったという感想を述べるつもりだが、俺と真逆の意見を持つ人もいるはずだ。まあそれは否定しないけど、一応もっともらしい意見を述べるつもりなのでまあ参考程度に見てくれやという気持ちです。

 

 ※以下、ネタバレ全開なので「見るつもりだよー」という人はそっと閉じてください。とはいえ、個人的には別に顛末を知ったところで見る価値が損なわれる映画でもないと思う。つまり、元々見る価値があるかと言ったら……あとは分かりますね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 ストーリーは簡単。序盤から官邸がフルスロットルでヤベェことをし出す。文科省の元幹部が野党女性と不倫をしている疑惑の読売へのリーク、デートレイプドラッグおじさんの逮捕状執行差し止め案件(さらに告発者の女性へのネガティブキャンペーン)など、「あれ、どっかで見たことあるぞ……?」と思うような事件が展開。この映画の中では大体内調が仕込んでいるという感じ。シム・ウンギョン演じる主人公の社会部記者・吉岡は、自社に来た特区への大学新設のリークについて調べている。一方外務省から出向中の内調職員・杉原(松坂桃李)は徐々に上司のヤベェ命令に疑問を抱きつつ、さらにその大学新設をやっていた外務省時代の上司で内閣府に出向中の官僚が突然不可解な自殺をしてしまう。その官僚は内調に目をつけられており、杉原も大学新設と自殺に関係があると思い、ここで吉岡と杉原が何やかんやあって協力し合う関係となる。そして新設される予定の大学には、軍事転用可能なレベル4のウイルスを研究できるような設備を作る予定だということが分かり、杉原の協力を受け吉岡は朝刊一面トップの特ダネとして記事を掲載する。しかし杉原は多田に圧力をかけられ……というのが大まかな流れだ。

 

 全般的にどっかで聞いたことあるなあっていう話ですよね。もちろんこれは制作側の意図であり、この作品を「現実」に似せて描くことによって、我々が知りえない官邸や内調の「あくどさ」のできるだけリアルな部分に到達したい、という思いがあるのだと推量する。じゃあそれに成功しているのか?というと俺の意見は先も言った通りNOである。理由を説明する。

 

 まず、全体的に「ほんとかよ?」と思うことがしばしばあった。俺が気づいた点を、とりわけ制作側が「敵」として描く「内調」について述べる(新聞記者サイドについても言いたいことはたくさんある。たとえば吉岡が大学新設担当の後任の官僚に朝、職場である内閣府庁舎の手前で取材を試みるのだが、これは杉原がその後任の部屋から大学新設の書類をスマホで写真撮影して盗み取るための時間稼ぎだったかもしれない点を措いても、素人目にも相当デリカシーに欠ける行為だと思う。同僚が見ている蓋然性が高い職場近辺でそんなクリティカルな話題を出すというのは新聞業界の常識なのか。教えて偉い人)。

 

 最序盤、文科省幹部と野党女性の密会シーンを誰かがカメラでパシャるのだが、パシャっているのは公安だということが示唆される。公安というと公安警察公安調査庁か迷いどころだが、普段「公安」と略すのは前者なのと、そんなアホな任務ができそうな組織はどっちか、ということから考えて公安警察とみるべきだろう。まずこの点が「?」となる。いろいろ仕事を持っているはずの公安警察がわざわざ内調の手足になるのだろうか。内調には多くの公安警察官が出向しているらしいことは知られているが、そいつらも尾行や秘聴・秘撮の技術はあると思うので、何故彼らでやらずに公安に外注するのか。内調と公安はそんなツーカーの仲なのか。いろいろと疑問が出てきてしまった。

 

 一応、これを最大限ありそうな話と思って受け取ると、この案件の「もっともらしさ」は週刊現代やリテラなどの記事(あまりにもくだらないのでリンクは貼りません)で示唆される「官邸に出向している『警備局系の警察官僚』(杉田官房副長官、北村内閣情報官ら)たちを介した公安警察の私兵化」というイメージに依拠しているとみえる(ちなみに当該記事を読んだ限りでは、実際に「公安が動いている」という確たる証拠がないどころか、大体が推論ですまされている。信じるか信じないかはあなた次第)。しかし、である。内調はロシアに出し抜かれ、それを公安に検挙されているようなところだ。公安と内調が非公然に一体化していたら、お互いの手の内がバレるというか、カウンターインテリジェンスの観点から大丈夫なんだろうか。「官邸⇒内調⇒公安」という指揮系統も微妙で、いくら官邸サイドのお偉方が警備畑の出身者だからとはいっても、セクショナリズムの垣根を超えられるのかというところには疑問符がつく。まあ俺の考えが実は間違っていて、ホントのホントは……というのもないではないかもしれないが、しかし以上のことから、少なくとも映画で公安がやったようなことについてリアリティがあると即断できるのは、週刊現代やリテラの当該記事を「真実」が書かれていると考える人たちだけだろう。

 

 次に、映画内の内調のオフィスはいつもメチャ暗く、揃いも揃って陰キャっぽい連中がカチャカチャとパソコンで何しているかというと、偽装したネトウヨアカウントでネガキャンを展開しているのである。「ネットサーフィンぐらい電気つけてやれよ……」という真剣な気持ち(ダークな内調を演出したいということかもしれないが、職場にあんなに人がいるのに誰も電気つけねえとか働いている奴頭おかしいだろという素朴な気持ちが先行してしまった)、あと流石にネトウヨアカウントで毎日頭の悪いツイートをするのが内調の職務というのはにわかに信じがたい。

 

 最近刊行された今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書)によると、内調は国内部門に世論班なるものを持っている、とされる。また、初代室長の大森義夫はその人脈を使って、よく月刊誌に知り合いの学者などに論考を書かせて、間接的な世論操作を行っていたともある。よって、SNSに手を出していないとは限らないが、しかし流石に何十人もパソコンにむかってあんな罵詈雑言をカチャカチャしてたらそれこそ悲劇である。内調の人数は多く見積もっても数百人なので、あの人数が日ごとSNSに興じているとしたら、我々はそのような政府に今後一切税金を納めるべきではない(それはともかくとして俺が払った市民税と国民年金と国民保険の30万返せ)し、何なら毎日内調のオフィスに手紙爆弾を送っても違法性が阻却される気がする(しない)。仮にSNSでの世論形成工作があるとしたら、海外のトロール・ファクトリーのようにそれこそ「外注」するのではないか。

 

 まあ、官邸の体たらくを見ているとそういうことを信じたく気持ちはわかる。さらに、よくいるネトウヨアカウントがマジで金太郎飴みたいな印象を受けるし、昔何かインターネットの求人でネトウヨ的な意見をばら撒こうぜ!みたいなのもあった気がする。だが、俺が内調ならむしろ大森のように中道右派の論客(ソフトな語り口のリベラルホーク、たとえばスリーパーセルIN大阪ウーマンみたいなの)を増やしてそれなりに「まともな」ことを言わせた方が、中道左派にも影響を与えられるのではないか。名指しはしないが、ツイッターで安倍政権と日本社会を叩かずにはいられない/褒めずにはいられない連中はどうせ何したって変わらないので、相手にしても無駄という気がする。

 

 どちらにせよ、俺があのシーンにリアリティを感じなかったのは以上のように、そうした世論掲載の「手段」を「内調職員」たちがわざわざとる必然性を理解できなかったことによる。ちなみに制作側がかのSNS世論工作について「内調」だけに責任を負わせているわけではない。たとえばあるネガティブな情報を拡散するにあたって内閣参事官・多田が「与党ネットサポーターズにこの情報をばら撒け」と指示したり、吉岡の同僚記者が「内調がネットカフェ難民雇ってやらせている噂があるみたいですね」と示唆する場面がある。これは①ネトウヨアカウント偽装ネガキャンは与党支持者も噛んでいる②ネットカフェ難民でも雇ってんのかという話がまことしやかに囁かれている、という制作側が思っているということだ。

 

 ①はまあわかる。②はよくわからない。先ほどの公安警察私兵化とは異なり、ネットで検索した限り、雑誌ベース、バイラルメディアでもそんなことを示唆する記事は見当たらなかった(もしあったらご教授いただければ幸い)。これは恐らく制作側のオリジナルとみるか、もしくは公表されてはいないが制作側と同じ政治的傾向を持つ人たちにはある程度真実味を帯びた「ありそうな話」ということになっているのだろう。ネットカフェ難民はその日暮らしだからどんな仕事でもやるし、内調はそれだけあくどい組織だ――というのは単なる「偏見」ではないか、と考えるのは行き過ぎだろうか。とにかく、あの場面でネットカフェ難民が出てくる「必然性」もよく分からないというのが正直なところだ。

 

 とまあこのように言及したいことはいくらでもある。たとえば加計学園の大学は生物兵器のために~~~みたいなツイッターで囁かれているような話に着想を得てマジでその路線で話を展開させるのは、まあ自由ではある。俺がその話を見て「陰謀論やんけ!!!!!!」と思うのも自由だろう。大体そこについてお粗末だなと思ったのは、そんな生物兵器禁止条約にも抵触するようなことを文書にしておいて、しかも簡単に見られちゃうような机(杉原が開けられるということは鍵もかけてないとみられる)に入れておくとか、もうそこからして何とも言えないというか……。お粗末さは監視されているかもしれないという危険性を分かっていながら、普通に夜道歩きながら話しちゃう吉岡や杉原とかにも言える。ポリティカル・サスペンスでもあまり見ないようなチープさが、この映画のリアリティを損ねまくっている。単純に細かい演出から脚本のあらすじまで「うさん臭さ」が充満していると、うーんという気持ちにならざるを得ない。

 

 結局のところ、これらは現実の事件を素材にしつつも、その裏側として、制作側が「これが説得的な答えや!」と提示したのは終始「ありそうな話」の寄せ集めである。これに「リアリティ」を感じる人は、ある程度制作側と政治的傾向の軌を一にするのだろうし、制作側と見ている世界が一緒なのかもしれない。一方、俺はどっちかというと右派的な人間(しかし内調の工作員ではない。内調さん無職の俺を雇ってください。俺は80時間までなら残業できます!!!!!)で、制作側と政治的見解や世界観が異なると思う。その俺からすると、残念ながらこの映画にはリアリティを感じなかったと言わざるを得ない。もちろん、万人に同じように訴求する映画なんてないだろうし、人それぞれの見方があることは尊重されるべきだ。しかしだからこそ「リアリティ」にこだわるのであれば、俺みたいな奴に「ああそうだな、それはありえそうだな」と思わせるぐらいの作り込みがなければそもそも作る意味があるのか?と思う。もしこの映画が参院選向けの左派のための票固め映画だとしたらまあ特に文句はないが、プロデューサーらが種々のインタビューで言っていることからするとそんなことはないだろう。

 

 確かに多くの人が言うように、こういう現代政治を描くことにそれなりの意義があるのかもしれない。ただ、じゃあ果たして作品が「意義」の重みをしっかり支えていたか。本当に問われるべきなのかはそこではないだろうか。終盤の松坂桃李の苦悶の表情、ラストシーンの含蓄には俺も唸るものがあったので、ただただ残念である。

 

 追伸:あ、あと一つ俺の理解力の足らないせいでよく分からなかったところがある。これは教えてほしい。ラスト間際で杉原が受け取っていた元上司の手紙には「実は大学新設にあたって総理のお友達企業に金が流れてる。その決裁を押したのでもう無理になちゃた」みたいなことを書いてあった気がする。アレはどういう意味なんだろうか。ストーリー上、大学新設を巡る黒い話は生物兵器だけだったし、新聞社に新設をリークした元上司は確かに生物兵器の話に記者が辿り着けるような誘導をしていたと思う。その中で「実はもう一個おっきな話がありました!!!」みたいなことでまだまだ明かされぬ真実がある中で、多田に圧力をかけられた杉原は無理になってしまい、ラストの声にならない「ごめん」(議論の余地あり)につながったということなんだろうか。

 

 

 

 

*1:そんな研究はない。為念

虚無すら美味

 久しぶりの更新です。

 

 まあ、明日(というか今日)一応公務員試験を受けてきますが、来年の偵察という感じです。でも家庭の事情的に今年に転職を決めたいので、今回が最後の記念受験になるのかなとも思っています。民間のいろんな業種を視野に入れていろいろ動き、まあ種々の失敗をやらかして今に至っています。

 

 ところで、俺は何がやりたくて仕事を辞めたのかよく分からなくなってきました。地獄みたいな環境だったので辞めたことは今でも間違っていないと思います。しかし、辞めた後の迷走っぷりは正直自分でも酷いなと感じる。いやまあこれは必然的な帰結なのかもしれないけど。とはいえ私は運命論者ではない。神様がサイコロを振るんじゃない、神様をサイコロステーキにしてやる。

 

 思えば前職も無定見ゆえに喜んで入ったバカなので、まあ単純な因果の類推が許されるのであれば、歴史は繰り返すというかなんというか……。もはやそれをコミカルに自嘲するほどの気力もないのですが、かといって「あー終わった終わった」するほど世の中を諦めてもいない。心のどこかで警察官が「終わってねーよ!」って言っている気がする。現実の警察は嫌いですが。

 

 親と暮らしているとご飯が勝手に出てきたり風呂が沸いてたりというのがありますが、しかし当の親は25歳の息子が意味不明な感じでもがいている様を見ていてどう思っているのかと。辛いんでしょうね、でも本人が一番が辛いからねみたいな感じで俺にはあまり何も言いませんが、こちらとしても何とも言えないですね。感情とかいうノーガード戦法で内側から破壊しにやってくる奴、これを失うことができたらどれだけいいか。どれだけの感情の失ったオタクたちの生贄を捧げても本当に感情なぞ失えやしないという事実が、俺たちをキリキリと苦しめている。終わらないもぐら叩き。

 

 俺は結局のところがむしゃらに何かに取り組むようにはできていない生命体なんだということを痛感します。

 

 まず記憶力が致命的にない。毎日公務員試験の過去問を見て「あれ、これわかんないな」と思ってノートをひっくり返してみると前日に解いている。あれっと思ってさらに遡ると、4日前にも解いている。もちろんそれらの記憶は全くない。毎日新しいことを勉強しているような新鮮な気分になるよなんていう慰めは、全てのゲームから解放された高齢の年金暮らし認知症患者にのみ適用されるのであって、俺のような実社会でまだまだプレイしないといけない若人には残酷な事実以外の何者でもありません。小林泰三の小説に出てくる前向性健忘症の男のように、いずれこのノートだけが俺という継続的集積になるのではないかという気がしています。自己同一性が不安です。

 

 次にすぐ移り気しちゃう。これを解決するために図書館で勉強しているのですが、それでも2時間に1回は立ち上がって本を読んでしまう。多分記憶の定着しなさはこういうところにも起因するのではないでしょうかね。

 

 それと、最近頭を使っていなかったからか、毎日のように頭が痛い。これも結構辛くて、1日1時間ぐらいは昼寝に使っています。何なんでしょうね。

 

 とまれ、6月中はそんな感じで一応勉強はしていたのですが、今急に怖くなって過去問を一通り斜め見しながら正答を導こうとすると、やはりできない問題がそこそこある。そこで一気に虚脱感を覚えたわけです。

 

 費やした時間が無駄だったとは思いません。3年間の絢爛たる悲惨を過ごしてきた身にとって、静謐な環境で何か新しい分野の勉強するなんてことはたとえその目的が達せられなかったとしても、その過程自体を祝福しなければ。しかし、レームダックならぬレームお脳な俺がこんなことをやっていても……と思い、最後の追い込みをすっぱり諦めてさっきまでDivision2をやり、今はブログを書いています。バカバカしいですね。この世界のバカバカしさの総和を思うといつだって気が遠くなりますが、まさかそれに自分が荷担しているとは。首吊りピエロと燃えるような赤い髪の女もこうやってパレードに加わったのかもしれない。

 

 今は完全に即興で、書きなぐるように書いています。でもブログは時々読み返して、こんなこと考えてたなとか、理知的にふるまおうとしている跡があるなとか、まあともかく過去の自分というのはいつだって微笑ましいですね。現実がいつまでも悲惨だと、その微笑ましさが最後の拠り所なのでしょう。

 

 この記述もいつかそのような形で昇華されたらうれしいですね。明日は早いので、スカイリムのMOD漁ってから寝ます。

 

 

 

 

 

 

近況、あるいは茫漠について

 仕事をやめてから、そろそろ1か月ぐらい経つ。

 

 今何をしているかといえば、就職活動を曖昧にしつつ、友人の会社に転がり込んで時給1000円の雑用を週20時間やっている。なので、稼ぎは1か月で8万ぐらいだ。これは前職に勤めていた俺の可処分所得の3分の1である。

 

 当然生活も3分の1にダウンサイジングしないと間に合わない。本は買っていない。珍しいことだ。だが、結構飲んだりもしているのでどうなるかは見通せない。

 

 のんびりやっているといえばそれまでだが、それでいいのか。1日10時間は公務員試験の勉強をしないと今年の試験は無理な気がする。いやそうだ。なのに、俺はDivision 2をやったり、関係ないノンフィクションを読んだりしている。書いたESは早速落とされた。官民問わず俺は無理なのではないかという不安が頭をよぎる。そういう中で、雑用をしながら、わずかながらの社会とのつながりを維持している。

 

 だが、だがである。こういうふわっとした状況、よしとしましょう!!!!!!!

 

 もうね、よくわかったんですよ。俺はどうしようもないクズ人間です。目標に向かって突き進めないんです。外圧がないと仕事ができないんです。どうしても低きに低きに流れることを許してしまうんですよ。

 

 大学時代、一応アカデミックサークルに所属していたので、そういう意味では勉強の外圧はあったのでそれをよくやった。前職では仕事をしなかったら全てが回らなかったので、ある時期まではよく働いた(サボり方を覚えてからはサボることも多かったが)。その手の外圧から解放されて1か月、自分はとことんクズになれるということがよくわかったのである。

 

 こうなったらせっかく得られた無職の地位を存分にいかして、適当に曖昧にやっていこうと思えてきたのである。ある程度居直って、あーそろそろ部屋掃除しないとなぐらいの感覚で社会をやっていければそれでいいんじゃないか。

 

 幸い、貯金はまだあるし、失業保険だって3か月以降はもらえる。今年の年金やら何やらもクリアできそうな見込みだ。あとは、日々の生活を徹底的に抑えるだけである。

 

 とはいえ、本は図書館でいくらでも借りられるし、暇つぶしの材料はいくらでもある。何より、一応働いているので小さい収入がある(とはいえそれは5月末までなので、別の適当な働き口を探す必要はあるかもしれない)。

 

 そういうことなので、俺は適当に曖昧にやることにした。公務員試験、まあ気が向いたら来年かな。就職、適当にES出しとこ、落ちたらそれはそれでよくね? 生活、まあ普通に本読んで飯食ってって最高では? あとは他人の曖昧な善意を頼りに生きていくことにした。各位、おごってくれていいよ。

 

 この「人は2000連休を与えられると、どうなるか」という興味深い記事(http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/ueda09_1)によると、恐怖と逃避という感情は100~300日ぐらいで現れてくるという。それに比べると俺なんかまだピカピカの1年生だ。しかも引きこもりでも何でもない。ただ定職についてないだけの親のすねかじり虫じゃないか。何一つ怖がることはない。やっていきましょう。