ところで、今回このエントリを書こうと思ったのは、俺のこのツイートがやけに伸びたからだ(100RTもないのだが、フォロワー30人もいないので驚きである)。
まずは前提を共有する。今、インターネットでドイツ文学者池内紀氏がものした中公新書『ヒトラーの時代』が燃えに燃えている。要は単純な間違いが多いし、研究成果も踏まえられていないということで、とてもじゃないが信頼に堪えないと、ドイツ近現代史研究者らの間で問題視された。そして、訂正表が新書編集部に送られるまでに至った。
中公新書といえば、硬派なレーベルというイメージがある。大学時代、新書なら信頼できる順に岩波か中公、次点で講談社現代かちくま、そこに光文社、文春、新潮……が続くみたいなのは、複数の大学教員から聞いたし、俺の周りにいた本について目鼻の効く先輩や同級生、そして俺自身も持っていた共通認識みたいな感じだった(もちろん、日本史やドイツの現代史ならば中公、哲学でも最近のはちくまもいい……みたいに分野ごとにこのランキングは微変動することは言うまでもない)。その中公が!?しかも得意のドイツで!?という驚きが、今回の一件がツイッターで話題になった要因だと思う。あと、池内氏が「ドイツ文学者」だからこそ「ヒトラー」について語る意義があると広く認識されていたのではないか。というのも、某元都知事がヒトラー本を出すようで、こちらは刊行前からだいぶ警戒されている。その点池内氏はドイツ文学という「近隣」分野の研究をされているし、きっと大丈夫……みたいな安心感はあったはずで、そんな感じで蓋を開けたらびっくり。驚きの度合いも大きかったのだろう。
単純に著者の思い違いというならまだしも、通常、編集や校閲の段階で気づくようなミス(たとえば蔑称としてのナチスを自らの通称とした、とか)がそのまま通ってしまったのはやはり編集部も一定の責任は免れない。これは邪推だが、『ヒトラーの時代』は恐らくここのブログ形式の連載(http://www.bungenko.jp/yhj/blog/2015/03/31/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89-%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E6%B1%A0%E5%86%85/)をある程度加筆訂正して本にしたと思う*1。今回その本を買ってはいないので、どのような編集過程だったのかは分からないが、もし仮に出版社側サイドで「ウェブ連載で一回校閲かかってるっぽいし大丈夫っしょ……」というのがあったとしたら、これは大変残念なことである。
と、まあ、こんな状況がありまして、上掲ツイートの話に戻る。池内氏の別の中公新書『闘う文豪とナチス・ドイツ』を読んだのは、俺自身このヒトラーの時代騒動に触発されたからだ。まさか前著も……という好奇心で読んだことは否めない。刊行時に買い求めたが、そのまま積読としていて、恐らくこの機会がなかったら読まなかった可能性の方が高い。
そこで上掲ツイートをしたわけなのだが、正直なところ、これは別に伸びるような話でも何でもない。新しい間違いを見つけたわけでもないので、ぶっちゃけ「その報告いる?」というぐらいのものだ。俺自身、単純に備忘録ぐらいのつもりで書いたものを、恐らくこの問題に比較的早く言及したナチズム研究者である田野大輔氏が最初にリツイートし、それが予想以上に広がったようだ。俺のしょうもないツイートを広めたところで……という気持ちはしなくもない。
ツイッターは本当に内輪でワイワイぐらいにやっていたので(それでいて鍵をかけていなかったのは単純に俺の過ちなのだが)、俺のツイートがはからずも多くの人にリツイートされて最初はびっくりしたが、「そうかみんな意外にこういうことを気にしているんだな」と実感した。それで、一応この件に関連して自分の考えを書き留めておくのもいいだろうと思ったのである。
さて、本題(というか、ここからは今回の騒動とは関係ない記述です)。とはいえ、下記に記すことはオリジナリティなど到底獲得しえないような、言い古されてきたことの「再確認」である。とはいえ、インターネットさえ通っていれば無料なのでお得、誰か暇潰しに読むかもしれない。ということで書いてみる次第。
新書という本の形態がある。その創始である岩波新書の刊行の辞において岩波茂雄は「現代人の現代的教養」を刊行目的として挙げる。さらにその後「岩波文庫の古典的知識と相俟って大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない」とする。「大国民」が気になるが、引用してない部分には「東洋民族の先覚者」だとか「優秀なる我が民族性」とか書いてあり、今日読むと「ハァ?」となってしまうこと間違いなしだ。ただ、その「現代人の現代的教養」という点については今の岩波新書の最後尾ページにある「岩波新書新赤版1000点に際して」にも引用されている。岩波文庫が供する「古典的知識*2」の特徴をさしあたって述べると、①そうそう変わるもんじゃない②多くの人が共有するべきもの、ということになるだろうか。
では、対置させられた岩波新書における「現代的教養」というのは何なのか。ちょっと20分ぐらい考えたがうまい説明が意外と思いつかないものである。というわけで補助線を引く意味で、他の新書の刊行の辞を見てみよう。
「現代を真摯に生きようとする読者に、真に知るに価いする知識だけを選びだして提供すること。(中略)私たちは、作為によってあたえられた知識のうえに生きることがあまりに多く、ゆるぎない事実を通して思索することがあまりにすくない。一貫した特色として自らに課すものは、この事実のみの持つ無条件の説得力を発揮させることである。現代にあらたな意味を投げかけるべく待機している過去の歴史的事実もまた(中略)数多く発掘されるであろう」(中公新書*3)
「教養は万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません。(中略)わたしたちは、講壇からの天下りでもなく、単なる解説書でもない、もっぱら万人の魂に生ずる初発的かつ根本的な問題をとらえ、掘り起こし、手引きし、しかも最新の知識への展望を万人に確立させる書物を、新しく世の中に送り出したいと念願しています。」(講談社現代新書)
これらは相違点*4も多いが、古典とは違った「現代的教養」や「新しい知識」を供するものとして新書を想定するというスタンスはおおむね共通している。古典あっての新書、ということになるだろうか。しかし、これ以上詳しくとなるとどうだろう。「新書」とはこれまでとは違う何か新しいもの、ということは分かるが、その「これまで」が各々によって違う可能性がある。岩波文庫と対置して岩波新書があり、岩波新書と対置して中公新書ということもありうるとすれば、両者の描く「新書」が違うことは明白だろう*5。
どうやら古典的定義ほどはっきりとこうとは言いづらい気がしてきた。これ以上この定義に深入りすると大変面倒なので、それでは試しに俺がここ数日で読んだ新書をあげてみよう。
①志垣民郎『内閣調査室秘録』(文春新書)
②亀石倫子・新田匡央『刑事弁護人』(講談社現代新書)
③大木毅『独ソ戦』(岩波新書)
④池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)
まず、①は新たに発見された一次資料的な側面がある。②は体験談をもとに構成したノンフィクション、③は独ソ戦というテーマについて今日の研究水準での概説、④はトーマス・マンの日記を題材とした学術的ではない自由なエッセイ。まあ、バラバラですよね。上にあげた意味で「新書」っぽいのは、ぶっちゃけ③だけではないだろうか。もちろん①も②もそれ自体は面白いドキュメントで、新しい知識を得たといえば得たのだが、しかし上にあげたような意味での「新書」かと言われると疑問符がつく。
もちろん、岩波・中公・講談社の新書御三家が主張する「新書」像だけが新書というわけでは全くない。そもそも新書は判型でしかない。それにトマス・アクィナスや正義論、美学についての優れた概説から、池上彰と佐藤優の異常対談本、果ては京都の悪口やバッタを倒しにアフリカへ行く人の話まで、入ってはいけないというものはないだろう。それについては、それぞれの出版社にそれぞれの新書があるので、これまで通りやっていけばいいと思う。
だが、そういう状況が長く続くと困ることも出てくる。今回の池内氏のように、「ドイツ文学者の見るヒトラーとその時代」という一見それは魅力的なテーマであっても、記述の中に致命的なミスが散見されると、池内氏が本領を発揮する時代や個人への洞察も含めて疑問符がつく。これを「研究者が書いているわけじゃないんだから……」と言って、新書の「おおらかさ」をもって丸め込んでしまっていいわけがない。
事実誤認や、アップデートされていない古い知識に基づく記述であれば、分かりやすい分まだいいのかもしれない(よくはない)。深井智朗氏の『プロテスタンティズム』(中公新書)のことを思い出してほしい。発覚した彼の捏造とは直接は関わらないものだが、この新書には参考文献リストはあるけど註がない。こうなると本当にこの文献から引用されているのかなどを確かめるのは結構大変なのだが、捏造までしている著者の記述を鵜呑みにはできない。結局、この本からの引用は事実上不可能となってしまったし、この本をもってしてプロテスタンティズムを語るのはなかなか勇気がいることになったと思う。
そして、文献を指示する註がついている新書はそれほど多くない。先ほどの③はツイッターでも色んな人が太鼓判を押しているので別に疑う理由はどこにもないが、註はないし、④には至っては参考文献リストもない。一度疑義が発生すると、その検証が困難なものが新書には多いと思う*6。
それでも、ある種の性善説でもって新書を「新しい知識」の贈り物として我々が享受できたのは、冒頭にあげた「レーベルへの信頼」にほかならないだろう。岩波や中公なら「事故らない」「まあ大丈夫だろう」という連綿と続く出版社と読者の間の信頼関係が、岩波・中公・講談社が掲げる「新しい知識」を伝えるものとしての「新書」をかろうじて成り立たせてきたのである。そして残念ながらその信頼を毀損してしまったのが今回の件だ。SNSでアカデミシャンが多くいる分野では今後このような「発覚」は起こり続けるだろうし、今回の件は氷山の一角で、実は……という新書がたくさんあることは想像に難くない*7。
しかし、新書がアカデミズムとジャーナリズム(という三木清チックな対比が古ければ、もしかするとハード・アカデミズムとソフト・アカデミズムに近いかもしれない)の健全な橋渡し、門外漢へその分野の「裾野」を広げる重要な機能を持つことは論を俟たない。1000円の昼飯ランチを我慢しておにぎり1個食べて、お釣りで200頁ぐらいの分量の本を買えて、それで当該テーマについてある程度のことが分かり、目星がつくというのはよくよく考えると凄いことである。これを「いやでもホントなのかわかんないし……」ということで活用できなくなったら、それこそ文化の損失ではないだろうか。
ここまで取り留めのない記述が続いたが、最後に一新書愛好家としての思いをぶちまけたい。一番最初に読んだ新書は菊池良生の『傭兵の二千年史』、高校生の時である。著者には申し訳ないが、ブックオフで200円ぐらいだったのを買った。その時、「こんな面白い本が定価でも1000円いかんで買えるのか!」と思い、毎日親からもらっていた昼飯代500円を使わずに同級生からタコさんウィンナーをもらって食いつなぎ、お金をためては帰り道の途中だった春日部のリブロでいろいろと新書を買ったのだった。中公でいえば、『批評理論入門』『国際政治』『言論統制』などは、ともあれば知的に爪先立ちしたがった高校生の自意識に「まあとりあえず勉強しよか」と呼びかけてくれるありがたいものだった。
大学時代も常に新書はカバン、バッグにはしまっていた。読んでいた古典や学術書で頭がどうにもならない時は思い切って新書を読み始める。よし、この本はまだわかる、俺は大丈夫だ――と言い聞かせるためだったが、専攻や講義、サークルの勉強会と関係ないところでの読書量が自分に自信をつけてくれたのだと思う。
そして卒業し、ついこの間まで実定法など何も分からない文学部生だった俺が、仕事の都合で法律をやらないといけない羽目になった際、まず自分の中の取っ掛かりを作るために岩波の刑法、労働法や独禁法の新書にはお世話になった。忙しく働くさなかで何か面白く新しいことを読んでみたいなと思い、世界史専攻で西洋史ばかりやってきた自分にとっては中公の応仁の乱もオスマン帝国の歴史も面白く読ませてもらった。そしてここ数日も、いろんな会社の新書を読んでまた勉強させてもらっている。
自分の人生において知的なものを自覚し始めた頃から、新書と長いこと併走している。それだけに今回の騒動はとても残念だ。なので、今回の件をしっかりと反省し、中公新書編集部さんには刊行のことばに立ち返った出版活動をしてほしいし、他の新書レーベルさんも他山の石としてもらい、またいい本を出してほしい。その本とまた、一緒に人生を走りたいものである。