死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

人生という獄について

 ここ最近、破滅的な状況に陥っていることは既に前の記事で紹介した。それでも人は生きていかなくてはならない。

 

 いやそりゃおかしいだろと、ある人は言うかもしれない。死ぬという選択肢があるぞと。そんな辛かったらさ、一緒に死んじゃお?と言う二次元の美少女がいたら俺も「うん、まあそうだねえ……」とか言いかねない。でもその後に「バカこの野郎!!!!」とカミナリばりのツッコミでそいつの頭をはたく。何でや!!!と言われたら、実はうまく理由を説明できない。仕方がないので、経験を開陳する。

 

 死ぬ、という選択肢を考えたことは人生で何度もある。というか、考えるぐらいなら誰だってあるだろ。考えたことがない人は死んでください。

 

 小学校の頃からクラスの陰キャで、カービィのエアライドやらナルトの激闘忍者対戦とかゲームでしか自分の家に友達を呼び込めない人間だった(ただ唯一の例外が、俺の住んでいた集合住宅を利用して縁日のくじで当てたエアガン使ったサバゲーもどきをしたぐらいか。それは3階に住むイシイさんというサイコパスが、冗談でエアガンを向けたバカな友達を箒でメチャクチャぶん殴ったっきりやらなくなった。ちなみにこの前東京帰った時にイシイさんと駅ですれ違い、相も変わらず電車に捨ててある雑誌とかを古本屋に売って生計を立てていた)。その頃からどうして俺はこんなうまくいかないんだろうという感じで生きていた。そして、地元の公立が嫌でやった中学受験も、第1志望(巣鴨)にはおっこちたのも屈折だった(思えば就活も含め、第1志望に受かったことはなく、常に第2志望だった気がする)。それとは前後するが、バトルロワイヤルのビデオを貸してくれたM君が、「完全自殺マニュアル」も面白いよと言って貸してくれていて、「首吊りはいいな~」とか漠然と思っていた。嫌なことがあったら死ぬ、ということについて意識にのぼったのはこれが初めてだと思う。

 

 中3の頃友達がいなくなった話はここで紹介した。この時もちらちら死にたい、なんて考えてばっかりだった気がする。School Daysひぐらしのなく頃にコードギアス、いろいろアニメを見始めていたが、惹かれたのは「死」の匂いがするものだった。つまり、問題の「答え」として用意されている「死」について。それは往々にして他殺の形態をとっていて、俺も同じクラスの”””リア充”””(もはや死語のきらいがある)を殺してやりたいと思ったことがあるけど、それ以上に自殺の方が適切だと考えていた。体育の時間、俺の背中に飛び蹴りを食らわせてきたり、ホームルームでワケわからん文脈で俺の名前を出してクラス中の嫌な注目を浴びせたりするような連中でも、殺されるほどの落ち度はないだろう。なぜか背伸びして、デュルケームの『自殺論』とか読んだ覚えがある。もちろん、それで何があるわけではないのだが、ただ「自殺」というテーマの粗雑なレファレンスを自分の頭の中に形作りたかっただけなのだろう。希死念慮と知的好奇心の奇妙な混淆でしかない感情だ。

 

 さて、高校から大学にかけては意外に俺の人生は凪だった。死にたい、なんてSNSで呟くぐらいはあったかもしれないけど、多分どれも本気じゃない。その証拠に、何で死にたかったのか全然覚えてないからだ。死にたいが辛さのポージングと化している現代社会では、丸の内OLの一過性の苦痛と投薬治療を続けるメンヘラの「死にたい」の区別がつかなくなっている。それは「死にたい」をひとつの時代精神にしてしまった。そして、ボーダーが曖昧な人々が飛び降りや首吊りにチャレンジする。少女病の歌にもそんなのがある。

 

 本気で自殺を試みたのは仕事を始めてからだ。まあ、バイトも碌にせずにエントリーした社会で、肉体労働を舐めてかかっていたので、俺にとっては”””死ぬ”””ほどつらかった。これはポージングでは全くない。それでも同じ苦労を共にする仲間や、理解のある先輩のおかげで何とか2月までやっていけた。ところが、2月にある案件が降り、それを俺が単独で専従していた。それまではチームでやっていて、責任はチームリーダーの先輩にあったのだが、今回は全ての手柄もミスも俺1人のものとなる。当然ミスばかりで、怒られる日々が続く。そうして気が変になり、深夜3時の公園でジャックダニエルを半分ほどラッパ飲みし、残った半分を持ってきた人形にかけてライターで火をつけるなんてこともした。他にもいろいろ奇行があり、法に抵触しないとも言えないのでそれについてはここでは書かない。

 

 死ぬか、って決めてからが早かった。その日も上司に「お前いつになったらまともになれるんだ!?」と怒鳴られた。まともになれる?それは無理ですよ。もう小声でつぶやいていたと思う。まともになれないし、死ぬか。ぐらいのスタンスだった。午後11時半に家に帰ってから、まず風呂場にお湯を3か月ぶりぐらいに張る。次にカッターを買いにコンビニに行った。家にあるカッターはなまくらすぎて、ばい菌とかが怖かった(今考えると、これから死ぬってのに理解に苦しむ)。そして俺は裸になって湯船に浸かり、カッターの刃を手首に押し当て――それを放り捨てた。

 

 別に、お母さんやお父さん、友人の顔が浮かんだとかではない。あるいは「あ、あの映画見てねえや」とかそういうのでもない。そもそも、死ぬと思っていた時には何の未練もなく、遺書すら書かなかった。はてさて、どういう心理的機制が働いたのか。俺も未だによくわかっていない。しかしとにかく、俺はそこで死ぬのを止めた。カッターを風呂場から投げ出し、普通に身体を洗って、また湯船に浸かった。その後すぐに服に着替え、車を走らせた。1時間ぐらい適当に南の方まで走らせて、何もない田舎の村まで行った。車を適当なところに止め、てくてく歩いていった。深夜1時ぐらい、星空を見上げた。綺麗、とかではない。正直そんなに星は出ていなかった気がする。なので、カントの「我が内なる道徳法則と星空~」のアレを思いついたわけではない。それでも、よくわからないが、死ぬのはやめようと思った。1時間ぐらいずっとぼーっとして、また家に帰って寝た。明日を恐れながら、それでも、明日を待ちながら。

 

 そんなこんなで、この辛く厳しい人生がコンティニューしてしまった。本当にあの時の感情は全く説明ができない。おかげで困っている。なぜ死ぬのをやめ、生きたいと思ってしまったのか。それが分からない人生は二重に辛くて厳しい。今のところ分かる見込みもない。とにかく働いて、食って、寝てを繰り返している。いつか夢見た人物像――何か一つの学問に通じ、なおかつ多くの学問を知るという謙虚なファウスト――からはどんどん遠ざかっていく。理想が朽ち果てるのではなく、理想を追い求める身体が朽ちていくことが辛い。それでも、何故だかやり続けなきゃいけないという気がする。間桐臓硯は元の理想を忘れ果て、生存を欲した哀れな老人として描かれている。そうだろうか。間際に理想そのものであるユスティーツァを見た彼が、穏やかにそれを「諦め」たのは、他者を苦しめ自己も苦しんだ「500年」という歳月を「理想」に賭けたからではなかったのか。今の俺にもう一回HFをやってあの場面を仔細に分析する、なんていうバカげたことはできないし、やろうとも思わない。

 

 今でも「死にたい」はよぎる。ただ、コンビニにカッターを買うようなことはしないだろう。「殺してくれ」とも思う。実際に殺人鬼にナイフを押し当てられた時、俺はどうするんだろうか。今はそれに、興味がある。