死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

山内志朗『目的なき人生を生きる』を読んで

 おっ、このタイトルさては書評か?と思われた向き、ごめんなさい。まず、自分語りをさせてください。 

 

 昨日、ひどいことが起きた。この一週間、ほぼそのことだけに頭を悩ませ(もちろん他にもたくさん悩みがあったのだが)、しかしやらねばという義務感でエイヤと仕上げた仕事を上司に提出した。その瞬間、金曜の夜――大いなる3連休を歓呼で迎えるべき夜――が砕け散った。まあ端的に言うと「なってない」ということで、やり直しを命じられた。そしてやり直しのプランを連休中に考えろとのお達し。俺は会社のドアを蹴飛ばして帰った。多分気づかれてはいないが。多分あの時銃があったらと思うと恐ろしい。日本が銃社会じゃなくてよかった。いやでも銃があったらいろいろと手っ取り早いことは認める。

 

 小さな焼き鳥屋でビールを一気に流し込み、タバコを一口。涙が止まらなくなった。いい年した男性の呻くような泣き声という、ジャイアンリサイタルばりに忌み嫌われる奴が出てしまった。あまりに酷かったのか、店主が「他のお客様のご迷惑になるので……」と言ってきた。無言で2000円ぐらい置いて、お釣りももらわぬまま飛び出した。フラフラとしていたら雪に足をとられて頭から突っ込んだ。人型でもできてりゃツイッターに投稿しようかなんて思ったけど、歪すぎて辞めた。タクシーで2軒目の、泣いても怒られなさそうなところにいった。酒の飲み方を知らない大学生のように酒を入れた。とにかく飲み、食べまくった。タバコもチェーンスモーカーよろしくほとんどふかし、30秒ごとにライターを点火した。一旦家に帰って休憩も挟んで3軒目。4時ぐらいまで飲んだんだろうか。記憶もなくなり、どうやって帰ったかも知らぬ家の中で目覚めたら11時だった。財布の中にあった3枚の諭吉はなくなり、残っていたのは強烈な吐き気とめまい。メチャクチャに嘔吐した後、1時ぐらいまでミネラルウォーターを飲みまくって何とか持ち直した。

 

 人生で一番うれしくない3連休の1日目。ホントどうしようかという思いで過ごしていたが、とりあえず腹は減る。外に出なけりゃ飯も食えない。国道沿いのラーメン屋で適当に飯を食った後、本屋でも行くかと思って車のハンドルを切った。

 

 本当はカッシーラーの『国家の神話』の講談社学術文庫版を買うために行ったのだが、田舎の本屋なので発売日には並んでいないことを失念していた。舌打ちしつつ、何か買わないことには駐車場代金がタダにならないので、いろいろ買った。新書コーナーを見てたら、山内先生の新著が出ていた。『目的なき人生を生きる』という奴で、そういやツイッターで言ってたなあとか思いながら、とりあえず手にとってレジに向かった。

 

 山内先生の本は学生時代、よく読んだ。一応哲学科だったので中世哲学もそれなりに関心があり、『普遍論争』や『存在の一義性を求めて』、『誤読の哲学』など。ただ、内容はもう千の風になってどっかいってしまった。卒論の参考にしようと思って『ぎりぎり合格への論文マニュアル』とかも読んだ。アレが実は一番身になったような気がする。ただ、『小さな倫理学入門』とか『湯殿山の哲学』など最近の著作には触れていなかった。今どんなことを書いているんだろうと気になったのと、目的なき人生というフレーズに惹かれた。

 

 内容紹介の前に、この本を午後いっぱい使って読んだ感想を述べたい。『目的なき人生を生きる』、メチャクチャ名著でしたわ。新書というスタイル、レーベル、あとオビの仰々しい感じからそんなに期待はしていなかったが、爽快なまでに裏切られた。今日中に仕事やり直しプランを仕上げるつもりだったが、そんなもんどうでもよくなってしまった。読み終わった後に人生が変わる!!!っていうものでは決してないが、「人生について考える」ということを、誠実に、真摯に、突き詰められた本だ。『ぎりぎり合格への論文マニュアル』でもそうだったが、山内先生の本は一見とっつきやすそうに見えて内容は濃く、ハードルは高い。しかし語りの配慮は随所に施されている。抽象概念の市街戦を従軍記者が弾雨の中見たまま速記したような「哲学論文」のような硬い・読みにくい・読んだとしてもよく分からんというのはあまりない(それでも8章は高難度だった)。もう専攻から離れて2年という俺でもそれなりに読めた気がする。少なくとも、柱となる主張は確かに伝わってきた。その主張を嚥下すると、昨日の思い出したくもない苦悩が、少しだけ、ほんの少しだけだが、和らいだのも事実だ(そういう処方箋的受容が正しいのかはわからないが)。何でもかんでも忘れがちな人生だが、忘れたくないもの、忘れちゃいけないものとして、この本は必ず手元に置いておきたいと思わされた。こんな本が900円ほどで読めるというのは、ちょっと信じられない。

 

 さて、内容について。一言で言うと、「人生に目的はねえ!!!!でも生きろ!!!!ドン!!!!」だと思う。いやこれは流石に酷いな。もうちょっと頭をひねります……本書の主張の要諦は「目的論を人生に適用するのはアカン」ということである。どういうことか。

 

 と、説明しようと読み返しているが、内容としてはやっぱ難しく、議論として色んな方向に行っているので要約が困難であるという気付きを得た。色んな方向に行っているというのはまとまりがないというわけではなく、論旨は一貫していると思う。ただそれについての各論がいろいろあり、一本の紹介というのが難しい。なので、ここからはテクストの正確な要約を提供するというよりも、俺なりのアレンジした解釈を提示することにする。もちろんテクストから大きく離れないよう注意するが、あんまり精確さは期待しないでほしい。

 

 まず、山内先生は「人生の目的はいつもひとつ!」ということを明確に否定している。「人生の目的がカントの三批判書を読むことであるとした場合、飲食店も清掃車も発電所も農業もこの社会からなくなってしまう。」(p77)。確かに、そんな社会は嫌だ。なので、「目的は無数に多数に分散しなければならないから、『無数にあるから決まらない』か『そもそもない』とするしかない」(同)。そしてこう続ける。「無数にあるとしてもよいのだが、自分のための目的があるとしても、それに出会う可能性は宝くじを当てるよりも難しい」(同)。宝くじのたとえは後半にもこんな形で出てくる。「人生の目的を目指して生きようとするのは、宝くじ売り場で『一億円の当たる宝くじを一枚ください』というようなものだ。」(p252)。人生の目的が完全にないというわけではなく、それを《予め》(ここ重要)見つけるのは不可能に近いと言っている、と俺は解した。このニュアンスの理解は大事、だと思う。

 

 ただ、これだと「人生の目的はよくわかんねえけどたくさんあります」というような感じもする。その言明はあんまり意味がないのでは……。はい、意味がないの話をしよう。山内先生は「人生の意味はない」とも言う。「意味」と「目的」がどのように使い分けて論じられているのか、浅い読解力ではよく分からなかったのだが、恐らく互換的な気がする。少なくともこの箇所については。「意味がないというのは答えではなくて、出発点なのだ。私はいつもここから始める。意味のなさとは自由ということだ。生きてみよという誘いの言葉だ。目的があったなら、目的への促成栽培をするために、途中まで育つと刈り取られてしまう」(p101)。続けてこうだ。「意味のなさとは、とても大事なものを守り育てるための容器のありかたなのだ。ワイングラスに〈形〉はあるが、すべてを受け入れる海に〈形〉がないように、意味のなさとは、『倫理学的な海』のあり方だ。」(同)。

 

 この考え方の背景にあるのは「偶有性」という概念だ。まあつまり、別にあってもなくてもよいもの。人生はそんなことだらけ、というのは納得できる。目的合理的で単線的なモデル、たとえば法律を勉強⇒司法試験に合格⇒弁護士になるという人生行程において、実は観念論哲学の勉強をしていたとか、ストリップバーで働いていたとか、ってことだろうか(自分で考えた喩えなので合ってるかは不明)。こういった偶有的な事象は、弁護士になるという目的設定とそこに還元される過程から零れ落ちる。

 

 問題なのは、弁護士になれなかった人はじゃあ「人生ミスった」で終わってしまうのか。そういうのでふざけんなって腐る人生は確かに面白くない。現に俺はそういう人生を送っているので面白くない。さらに、弁護士になった人はその後どうするのか。山内先生も「オリンピックで金メダルとった人がその後パチンコに溺れる」みたいなたとえを出しているように、《目的達成後》の生き方に難渋する人は多いと思われる。次の目的を見つけたとして、じゃあそれ達成したら?と、目的連鎖が生じる。

 

 そういうわけで、目的を達成しようが達成しまいが、山内先生は、「目的論的」に人生を組み立てて進むことは辛いので、人生の「偶有性」に積極的価値を見いだそうと主張する。そうしてとりあえず煩悶しながら生きていくうちに、自ずと「人生の目的」が現れてきますよという。人にはなんだかわからないけどとにかく俺は何かしてえ、俺はやる(by輪入道)的な焦燥感があると思う。それを山内先生は「先行的恩寵」として、それを生の駆動力として設定する。そのお気持ちに従ってりゃ、いつか目的は最後に、ふっと立ち現れてくるんじゃないかと。

 

 いろいろ書いたが、ざっとまとめると、「目的なき人生を生きる」というよりも、「人生に目的なんか設定する考え方だといろいろ不都合だし人生もキツイから、とりあえずあんまりそういうこと考えずに生きてみませんか?」ってところだろう。こう書くとただ当てのないまま生きろっていう感じの突き放した意見になるが、現代社会で生きづらさの要因となっているあれやこれやへの反論となっている。これがケセラセラで生きましょう~~~っていうような暇人の放言にとどまっていないのは、山内先生はその現代社会の問題(あらゆる人間関係の場で生起する権力関係の布置としての「空気」、頑張れば成果が出てくるという精神主義的信仰、プライドを守るために平然と人を傷つける防御的攻撃など)を丁寧に解きほぐし、読者に説得力ある形でそれが「目的を設定する」生き方に起因することを提示しているからだろう。

 

 ちなみに、山内先生は人生をうまいこと設計し、うまいこと目的を達成して生きる人もいるだろうことを否定はしていない。ただ、それが難しい人が圧倒的大多数だと言っている。これは「無我夢中で自分に与えられた少ない選択肢の中から『ぎりぎり』のところで選んで生きていく人間」(p55)に向けられた本である。それは小さなもの、《地の民》などという言葉でパラフレーズされ、彼らを救い上げる負け組の「倫理学」を考えていく、というのが本書のおおよその筋、ということだろうか。これ以外の各論(カール・シュミットの『政治的なものの概念』を援用した分析や、徳倫理学について、またアーレントアウグスティヌスの愛の概念』やベンヤミンを介した「伝達可能性」の話など)もメチャクチャ面白く、恐らく各章ごとにレジュメ切って読書会しても十分内容があって面白い本であると思う。

 

 ともすれば理想的人生モデルや幸福論がかまびすしく叫ばれる時代だ。実際的なことを言うと、福利厚生のしっかりした大手企業に就職しろとか、男は年収800万円以上で転勤のあんまりない奴を狙えとか……。俺もその犠牲者といえば犠牲者だ。ストレートに大学まで進学し、いわゆる有名企業に就職した。それは高卒の両親が、せめて息子には……という思いから自分たちの幸福を後回しにして用意してくれたレールである。

 

 だが、残念ながらレールは就職で途切れた。その先の目的をうまくつかむことができず、今や自堕落な日々を過ごしている。俺は何がしたいのか?俺は今幸せなのか?一日一億回はこの問いをしていた。だが、山内先生の本はこれらの問いが容易に呪詛に転化し、自分を苦しめているという状況を見えやすくしてくれた。とはいえそれが人生の救いになったわけではない。今のところ俺は仕事のやり直しプランを考えなければならないし、何か問題があったら連休を中断する可能性にビクビクしている。それでも、それでもだが、「目的のない人生」という視座は、少しだけ、俺に勇気をくれたような、そんな気がするのである。