死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

俺が「センス」を憎悪してきた理由

 音楽を聴く。小説や詩を読む。美術館などで絵を見る。舞台を観劇する。映画を見る。服を買う。美味しいものを食べる。花を愛でる……などなど。こういう感性が重きをなす文化的営為を、俺はうまくやれたと思うことがない。俗にいうセンスがないという奴だ。そして、俺はこうした「センス」を求められるものを過度に恐れ、憎んできた。そしてその反動で「知識」を武装するという空虚な営為をしてきたことになるのだが、今日はそうしたことについてちょっと書かせていただきたい。

 

 センスがない、なんて本当に勝手な言葉だと思う。そもそも、それはテメェがある審美的な価値観を勝手に押しつけて判断しているだけであって、ある/ないで言表すべきではないだろう(たとえば「私のセンスとはちょっと違うな」ぐらいならいいんじゃないかとは思う)。大体センスがないわけねえだろ、経験論みっちりやってから出直せドサンピンという話だ。同様の理由で「センスいい」「センス悪い」もムカつく。もし他人からウエメセで「センス悪いな」とか言われたら「決めつけんなやテメェの家族と一緒にドラム缶に突っ込んで公海に沈めるぞ」ぐらい言ってもいいし、実行しても公判では情状酌量の余地が十分認められてほしい。裁判員裁判であなたが裁判員になったら、この手の事案については執行猶予をつけるべく主張しよう。

 

 ただ、自分で感じる分には本当にそうだなあと思うことがしばしばある。他人から言われたらそいつをぶっ殺せば問題はないが、自分で感じる分には厄介だ。センスがないだけでいちいち自殺してたらかなわない。なので、俺はとりあえず俺自身のお気持ちをとりあえず言語化し、分析の俎上に乗せてみようと思う。

 

 まず、「センスがない」≒「センスが悪い」と感じる瞬間はどんな時か。自分の持つ審美的な価値観が理想的なそれよりも劣っていると感じているのだと思う。たとえば、ある人が「これすごい音楽!」と褒めているとして、俺がそれを聴くとしよう。だが聴いてみると「ん?そうかな?」という気分になる。特に自分の感情がアガってくる感じがしない。さて、こうした時に「あっこの人と俺のセンスはまあ全然違うんだなあ」と処理すればいいのだが、事はそう単純ではない時がある。てか、そういう場合の方が多いと思う。

 

 「センスがない」≒「センスが悪い」というのは、相対的な評価だろう。つまり○○に比べて俺はセンスがない、センスが悪いと言っているのだ。では何と比較しているのか。それは大体において尊敬できる誰かの価値観だったりする。その人が「これはいい」「これはすごい」「これは美しい」(もちろんその逆も)と言っていることは「そうなんだろうなあ」と信じたくなる。それはその人が評価する対象をこちらが感覚的に把握(音楽だったら聴く、映画だったら見るという意味で使っている)しているわけではないが、その人が評価するなら……とその人の「センスのよさ」を信じているからだろう。

 

 この場合、センスのよさを信じるためにその人のセンスのよさを検証するべくその人が褒める/けなすものを片っ端からこちらが感覚的に把握し、その人と同じ評価を獲得/納得している人はそうそういないだろう。それはただのセンスのコピーである。大体において、普段の人付き合いで「この人面白いな」とか思ったら、その人が面白がるものも面白がっとけとか、たまたま自分が感覚的に把握していたものをその人が褒めていて「そうそうそうなんだよ、この人わかってる!」と思ってその後もこの人のセンスのよさを信じるとかそんな感じだと思う。なので、実はその人の「センス」が本当にいいかは問題ではない(だから俺はずっと「信じる」と書いている)。ここら辺になってくると感性の問題というよりは、ある種の承認を巡るコミュニケーション的問題ではないかという気もするが、それはここでは措いておくこととする。

 

 もう少し駄弁を続けさせてほしい。それでは、とりあえず自分が信じている「理想的なセンスのよさ」に比べて自分の価値観が「劣っている」と感じるのはどうしてだろうか。恐らく「理想的なセンスのよさ」を持つ人の「気づき」の多さを感じるからではないか。

 

 たとえば、ある美術館である絵画を見たとしよう。この絵画に対して「これは印象派の絵画で、この絵画が描かれた時代背景はこうで、この風景は多分アレで……」とか「これは聖書のある場面の描いたもので、ほらここにあるシンボルはこれこれを意味していて……」っていうのは別にセンスのよさを披歴しているわけではない。それは「知的に整理された関連情報」に過ぎないと思う。あくまで関連情報抜き(どこまで抜きにできるかはもちろん議論の余地がある。キリスト教を題材にした絵画など)で絵画そのものから得られる「感動」みたいなものを引き出せるかだろう。「この人の表情がどこか寂しそうで、それがでも凄く背景と合っててエモい」とか「ここの小さい鳥とか描き込み方が凄い」……(特定の絵画を想定しているわけではない)。俺にセンスがないのであまり的確な喩えではないかもしれないが、この種の「感動」を見ても自分がそう感じないと、何か恥ずかしくなってくる。なるほど、そういう見方があるのか……。とか。それで「ああでも言われなきゃ気づかないってことは、俺のセンスがダメなんだろうな」とか思ってしまう。これに共感できる人がどれぐらいいるかはわからないが、このままどんどん進めていく。

 

 センスが悪いんだな、として劣等感が生まれるのは、そのセンスのよさが別に生得的なものではないとわかっているからだ。天性の感性、そんなもんはないと思う(いやあるのかもしれないけどそういう実例を知らないので)。センスのよさは育てられる、と心のどこかで思っているのだ。「理想的なセンスのよさ」を持っている人は、恐らくそういうもんをたくさん見たり聞いたりしているのだろう。あるいは、その人よりももっと優れた見方を持っている人の意見を本で読んだりして勉強しているのだろう。「センスを磨く」という表現にはそうした意図が込められていると思う。だからこそ、自分も「そうなれる」はずなのに「そうじゃない」というところから劣等感は生まれてくるのだ。いや、たとえ天性の感性みたいなのがあったとして、それを人にわかる形で共有するのは言語を介してである。言語化のための努力、と言い換えていいかもしれない(その部分でこの問題が根深いのは、センスを磨くということがそのままある対象を評価する言語体系やレトリックの獲得であり拡大であるということだ。これはあまりにも言語偏重的に過ぎると思うが、しかし俺自身はその側面は否めないと思う)。

 

 ※では、そういった経験の集積は、先に言った「知的に整理された関連情報」の収集と質的にどう異なるのか。これは誤っているかもしれないが、とりあえず一次的/二次的という区別を導入させてほしい。一次的なのが作品そのものを「感受」するための努力、二次的なのが作品を「解釈」するための努力ということ。ピエタをたくさん見ている人は、あの人のピエタがどうだとかこの人のピエタはこの辺がすごいということを言える。だが、その作品を《ピエタ》という文脈で解釈するためには聖書の知識(少なくともイエスは十字架にかけられるということ)が必要だろう。このたとえも適切なのかは自信がないが……。まあ、これはおまけ程度の考えとして受け止めてほしい。これもいつか主題的に考えたいところだ。

 

 以上の拙い整理を前提としたうえで、ここからが俺の話になる。俺の観測範囲の話でしかないのかもしれないが、こういう「センス」みたいなものが周りで過度に評価されまくってるような気がずっとして、そのたびに俺の自尊心は傷つけられたような気がしていた。大学に入ってからそんな機会はよくあったと思う。美術館に行く時、映画を見る時、おいしいものを食べる時、いい日本酒やワインを飲む時、文学や音楽について論じる時などだ。どれも本格的に経験したのは大学に入ってからといっていいだろう。

 

 俺が一番劣等感を感じたのは酒を飲む時だ。酒好きの先輩や同期、後輩ばっかりだったし、俺も酒の強さには自信があるのでよく酒宴には行った。そこで供される凄い美味い日本酒、珍しいワイン、どれも舌に触れて「あっおいしい」とは思った。ところで、そんな時に「おいしい」としか言えないと何か負けた気がするのは俺だけだろうか。というか、「おいしい」は感じる方にとっては10通りあるかもしれないが、「おいしい」としか言語化できなかった場合受け手には1通りの意味しかない。そうなると「おいしい」ばっかり言っていると「あいつ何でもおいしいしか言わねえな」となってしまう。なので、いろんな言葉を使い分ける必要がある。「凄くフルーティな味わい」、「角がなくて飲みやすい感じ」などだろうか。

 

 じゃあとりあえずそんな表現をしておけばいいんじゃない?という人もいるだろうが、事はそう単純ではない。フルーティ、と言われたら確かにそうだなフルーツの感じがするなと思う日本酒もあるが、角がなくて飲みやすいってどういう味覚の反応を示しているのか実は俺はよくわかっていない。つまり、自分の味覚とその形容が結びついていないため、すぐパッと言えないのだ。その表現をいくつも覚えていたところで、味覚がちゃんとしておらずに的外れなことを言ってしまえば、「おいしいマシーン」よりもセンスの信用が持たれないだろう。

 

 これは味覚というのに特別依拠している問題かもしれないが(俺は昔から味覚の後天性を主張している)、たとえば音楽でも「この音楽のこの部分ががエロい!」とか言われると「エロい????なんだそれは????」という感じになる。ここまで書いて気づいたのだが、俺に比べて「センスがいい」人は、感受する対象の様々にしっかり反応し、それをきちんと言語化できるのだろう。飛行機の計器類みたいにたくさんスイッチがあって、それぞれを押すと違った操作ができる感じだ。俺のスイッチはそれに比べるとせいぜい原付バイクぐらいなもんだろう。そのスイッチを「勘所」と言い換えるとわかりやすいのかもしれない。

 

 そういうことに遭遇するたびに俺はずっと考える。何でみんなこんなに「おいしい」ものを「おいしい」以外で区別できるんだろうか。俺自身何食って飲んでもも一緒だとは感じないが、その食った飲んだをしっかり言語で区別するのは経験のなせる技というわけか。飯でも、音楽でも、映画でも、文学でも。なまじっか文学部なんていう「感性」みたいなのを扱うところに入ってしまったがゆえ、それを意識していたのかもしれない。詩情も文学的感性にも乏しかった。ああ、感性、特権的な、あまりに特権的な!!!!とか叫んだことは一度や二度ではない。

 

 俺自身もじゃあ酒を飲みまくり、うまい飯を食いまくり、料理本やら吉田類の居酒屋本でも読めばよかったのかもしれない。が、当時俺にそんな金はなかった。いや、それに使う金がなかった。バイトしてないのもあったが、月のお小遣いの多くは本につぎ込んでいたからだ。じゃあ俺は「別にセンスねえ人間でいいですわ~」と諦めをつけときゃよかったのかもしれないが、道を誤った。あえて「二次的」なところで勝負しようと考えたのだ。

 

 美術館に行く前、俺は必ず勉強をする。特にルネサンス絵画なんかを見る時はその意味が分からないといけないと思って図像学の本とかをめくってた。抽象絵画とかでも同じで、その時代背景や画家についての知識、代表作はどうで、絵のタッチはどういうので……とか。誰かと見に行くとき、俺はずっとそういうのを説明して回っていた。昔、サークルの新歓で美術館に行くとなった時、俺はやってた企画展(ルネサンスだったと思うが)の目録を手に入れて片っ端から全部シンボルや背景を調べ上げ、新入生に解説するなんてしたことがある。そうするとみんな言ってくれるのは「すごい、知識が豊富なんですね」ということだ。感性的な部分で勝負できないので、二次的な部分で勝負するというのは、大学時代で身についた非常によくない癖だった。

 

 これの過剰が「ひけらかし」、最悪の形態は「スノッブ」だろう。加藤周一なんかは一定の「スノビズム」は文化発展に必要だと説いていたが、『虚栄の市』を読めばそれが度を超せば胸焼けするような気持ち悪いものになることは容易だ。そして俺は――当時は無自覚だったのだが――その意味では極めてスノッブなことをしていたように思う。主にやっていた読書会でもそうだ。俺は誰よりも二次文献を調べて、そこにあった一次文献への解釈や参考になりそうな文献を提示した。これは学問的なプロセスとしてはよかったのかもしれないが、読書会でテクストに沿って解釈を突き合わせていくという作業を阻害することになったかもしれない(これは俺だけではわからないので、当時の参加者に忌憚ない意見を聞いてみたいところだ)。

 

 こうして知識で自分を武装することが「センスのよさ」に対する単なる反動だということがここまで読んできた方はお分かりだろう。センスなんかくだらねえ、俺は知識で勝負だ。いつしかよいものをよいと手放しでほめるようなことはしなくなった。そうした価値判断を離れて、冷めきった知識を蓄積してきた。俺自身はセンスを”磨く”ことなく、頭の中にたくさん詰め込んだ種々の文献リストや雑多な知識を抱えて卒業した。

 

 今、新たに何かをやるという時間はあまりない。仕事が死ぬほど忙しいからだ。本を読むのも、映画を見るのも、音楽を聴く時間もあまりない。その一方で金は十分すぎるくらいもらってきた。その金で、店で高い順番でお酒を頼むとか、高い料理をひとりでもくもく食べるとか、そういうことをするときに思うのは、少しでもセンスを磨いておけばこんな衒示的な消費行動はしていないんだろうなあということだ。自分の中で確かな感性を育てておけば、おのずと選好は絞られていくはずだ。実際、趣味を楽しんでいる他の友人たちは楽しそうだ。それは時間と金を使って自分の育ててきた「センス」に自信を持っているのだろう。かつて「知識」を振り回していた俺はそれを羨んでみているのかもしれない。それを認めたくなくて、未だに俺は大学時代と同じ戦法で「知識」を追い求めているのかもしれない。だが、知識は「記憶」から零れ落ちていく。今や俺の持っている知識量は大学時代の半分以下だろう。しかもアップデートがなされていない古色蒼然としたガラクタだ。

 

 ここまで書き続けて、じゃあどうするんだ?という問いが自分の中でずっとリフレインしていたことに向き合わなくてはならない。頭の中ではずっとそれが響いてきた。それが分かりゃ苦労はしねえよ……これもずっと答え続けてきた気がする。これで擱筆としたい。そろそろタバコを吸いたくなってきたので。