死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

與那覇潤『知性は死なない』について

 書評というよりは、読んで得た随想の書き散らしです。

 

 與那覇氏といえば『中国化する日本』が凄い売れていたような記憶がある。出版時俺は高3で、話題になっていたのは大学に入ってからだったような気がする。俺はそこそこ有名なお勉強サークル(1冊の本を指定し、レジュメ切って解釈を議論してみたいなオールドスタイルのサークル)に入っていて、その時はルソーとか読んでいた。当時1年生だった俺は先輩が勧める本は何でも読んでやろうと殊勝なことを考えていて、それで確か勧められたのが『中国化する日本』だ。誰に勧められたかは覚えていない。いやもしかすると池田信夫氏のブログの書評を読んで興味もって買ったかもしれない。人の記憶は曖昧になりがち。なので内容も実はあまり覚えていない。ごめんなさい。

 

 だが、ニッポンのジレンマとか出てたよな……とか何となく與那覇氏のご活躍についての記憶は残っている。そういえばあんなスマッシュヒットな本を出してその後とんとご無沙汰……ってのはどういうことだろうと思い、たまにAmazonで検索とかかけていた。

 

 そんな氏が満を持して世に問うたが『知性は死なない』とかいう古代ギリシアとか中世哲学の言い回し?みたいなタイトルの本なので驚いた。それで想像したのはリベラルの虚妄を討つみたいなイノタツ的なアレなのかなあとか思っていたが、全然違った。どうやら氏はうつ病になっていたらしい。

 

 『知性は死なない』の記述からすると、氏は2014年に重度のうつ「状態*1」で勤めた大学を休職している。その後、「双極性障害」と鑑別された。

 

 うつ状態になってからは本も読めなくなってしまい*2、結局准教授の職を離職してしまったという。ストレートに博論を書き、ストレートに就職し、ストレートに売れ始め……というような印象を俺は持っていたので、その転落ぶりにビックリした。というか、一番ビックリしたのは氏本人だろう。全盛期には博論を書くときにメモを1本しかとらずに、「この本のこのあたりに、いま引用したい文章が書いてあったはずだ」という記憶術:Aばりの記憶力を発揮していたそうだ。これはどうも双極性障害の持つ「軽躁」の力らしい。そういえば俺の友人にも「異常な集中力を発揮できる」みたいな奴が何人かいる。みんな気をつけろ、鬱になったらヤバいことになるっぽいので今のうちに稼げるものを稼ごう。ちなみに俺は集中力が散漫でこりゃ研究者に向いてねえやっていうのも院進を諦めた副因の1つです。

 

 俺の話を唐突にしてしまったので、與那覇氏への共感を込めて1つ。今までできたことができなくなる、というのは本当に悲しい。俺も実はそうで、今の仕事を始めてから、疲労によるのか何なのかは知らないが、大学時代に出来たことが出来なくなっている。昔はそれなりの読書家で、與那覇氏ほどじゃないが記憶力もそこそこあった。いくつかのテーマについては「ああそれは誰それの何々のそこに書いてあって、それについて研究した文献があってそれはこういってて、でも別の人はこういってて……」ということを割と幅広く言うことができた。ところが、今じゃ家で本を読むなりヒュプノスに意識を刈り取られるので、喫茶店に行くか近くのガストで限界まで粘ってタバコ吸いながら持続させるしかない。忘却が猛スピードで俺の知識を収奪し、アップデートもしてない知識どころかそもそも再インストールが必要になっている。昔は何とかやれていたノートへのメモも、今は腕が疲れてしまう。急速に老いているのか、もしかしたら「うつ」なのか……怖くてまだ診断に行けていない。いや、正確には忙しくて。

 

 與那覇氏の話に戻ろう。氏は病院に入院し、同じように星辰の配列で精神が廃滅した人々と一緒に生活する。その中でトランプだのボードゲームだのをしていくうちに、氏は自分は能力を失ったから絶望する必要はないんだと気づく。直接氏の言葉を引きたい。

 

属性や能力がすべてではないということ、それをうしなってなお、のこる人との関係という概念があり、自分がいまだそれにアクセスできていなかったとしても、やがてつながる可能性はだれにも否定できないということ。そういう発想を社会的に育んでいくことが、だれにとってもいまより過ごしやすい世界を、長期的にはつくるのだと考えています

 

 誰だって個々の能力に差がある。属性にすら序列をつけたがる。だが、それを取っ払ってなお残るものを考える。そして、氏はそのために、個々の能力を問題とするのではなく、「能力の差をカバーできるかで、そのものの価値をはかってみよう」と考えるようになったという。それを氏は知性を紐帯とした「コミュニズム」(共存主義、と氏は訳す)の条件として措定する(というのは俺の読み筋なので、合ってるかどうかは読んで確かめてください)。歴史学者という「属性」、研究者としての「能力」を失った著者が見た現実と、そして実現可能だと目する理想については、「平成」という時代が終わりかけている今だからこそ一読の価値があるだろう。

 

 ところで、本書では氏のうつ「状態」の原因が明確に語られているわけではない。大学内での一部の教授との対立(これはかなり碌でもないものとして描かれている)とかいろんなことがあったのだろうが、それが病因の核をなす「主因」なのかどうかも、記述からは明らかでない。

 

 それは本書が「俺は〇〇や△△のせいでうつ病になって休職に追い込まれたんだ!」という告発のスタイルをとっていないことと関係していると思う。あくまで氏は冷静な筆致で、起こったことや経過を書き記していく。「告発」をしないことは、氏が第1章で述べているように「『弱者の正義』とでもいうべきものが、いかに危ういかを思い知らされた」(Kindle版なのでページ数が指定できない、許して)、「こっちは被害者なんだぞ、と叫ぶだけでは、だめなんだ。そういうやり方はいつか、もっと『力のある被害者』出てきたときに、あっさり足元をすくわれるんだ*3」という考えに立脚しているからだろう。「告発」というよりも、「省察」のスタイルで本書は書かれており、まずそのスタイルを選択したところに著者の静かだが光る「知性」が仄見える(もっとも、その知性は1度失い、取り戻しつつある途上なのだが)。

 

 氏の省察が及ぶ範囲は広い。省察の「手すり」となっているのは、木村敏精神病理学ハイデッガーデリダなどの哲学、アフォーダンス理論、マクガフィン概念など。しかも自分の言葉できちんと概念を説明しなおしている。その理解はややどうなの?と思うところ(たとえばデリダの「差延」と「散種」を並列で語る部分とか)もあるが、抽象的言語を咀嚼し直して自分のものにする姿勢は見習いたい。省察の「対象」は自分のうつだった頃の状態から、現状の国際情勢、今「知性」をとりまく状況など。これらの指摘はとても明快。正直、高校現代文で取り上げてもいい。それはそんな程度の内容、と言っているのではなく、こういったわかりやすい思索の成果を「高校生」ぐらいの人たちに示すことが日本の教育にとって絶対に有益だと思うからである。もちろん、「帝国」ってそれでいいのか?とか新自由主義をそうやって概括しちゃっていいのか?とかいろいろと沸く疑問があるが、こういった疑問は読者への開かれた道ともいえる。

 

 学問のスタイルからは解き放たれている*4本書だが、しかしそこに確かな「思考」の痕跡を認められる。こういった書き手は多いようでいて、結構少ない。氏は一度は論壇に重宝された存在なので、また書くことの依頼とかが舞い込んでくるだろう。出版業界が、この稀有な「ペン」を使い潰さないことを祈るばかりだ。とにかく本書に関しては、多くの人に読んでもらいたいので、ささやかながらブログで紹介させていただいた。

 

知性は死なない 平成の鬱をこえて

知性は死なない 平成の鬱をこえて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:うつ「状態」と書いているのは、うつ病うつ状態とは本来区別されるものだという本書の記述に従っている。うつ病だけがうつ「状態」を引き起こすわけではないからだ。このように本書の第2章には氏の経験を交えつつ、うつ病の「誤解」を解く形でうつtipsとでもいえるような知識が示されている。たとえば、うつ病は「こころの風邪」だから薬飲めば治るでしょ、みたいな誤解を、薬物療法が効く人はそんなに多くないというデータで反証している。

*2:なので漫画を読んでいたらしい。その後小説を読み、映画を見て短文のレビューを書き、学者が書いた一般向けの本まで読めるようになったという。これ、俺の友達も似たような人がいてビックリした。

*3:「被害者」と「加害者」の関係は容易に転換し、転倒することを小泉政治に見てとった氏の慧眼には頷くところも多い。その転倒のために、イラク戦争時の捕虜問題で「自己責任論」が沸き上がったという指摘も流石だと思った。政府でなくとも元から強い者が「被害者」面をし、それを間抜けに「政府が被害者だ!」と繰り返す人々というのは、我々はどこでもかしこでも見てきているような気がする。男女論でもむしろ今虐げられているのは「男性」だろ?ということを言うとして、たとえばいわゆるキモくて金のないおっさんを「男性」の「代表」としてまつり上げるのはダメだろう。ミソジニストの俺ですら依然として「男性」は色んな場面において優位で、その優位の原理は「男性」であることに求められるべきだと思う。個々のケースは別として、だが。

*4:「しあわせとは旅のしかたであって、行き先のことではない、というありがちな名言を引用しつつ、著者は学問に今しばらくの別れを告げる。だが、「もしまた訪れることがあるなら、いつかその日まで」とする最後の文章に、いくばくかの期待を抱いてしまう