死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

Vtuber死姦体験記

 俺の最大の欠点は長続きしないことだ。このブログも1か月も放置していた。かつては毎日更新していたのに……。まあ、もうこの欠点は人生賭けて付き合うしかないと思っている。

 

 とはいえ、正直書くことがない。ずっと仕事をしているからだ。最近世の中のこと、自分のこと、全部どうでもよくなるぐらい仕事に身を埋めている。多分これが40年続くと「終わる」んだろうなという気がする。平成最後の夏、朝鮮戦争、俺の人生……「終わり」がそこかしこに見え隠れしている。

 

 なので、これは抵抗として書いている。今一度自らの立ち位置を確認するために書いている。カフカはかつてヤノーホ(ゲーテにとってのエッカーマンのような存在)に対してこう言った。「人は、どうあっても書かねばならぬものだけを、書かねばなりません」と。今、そういう時なのかもしれない。

 

 俺は今、この絶望的な仕事の最深部にまで歩を進めようとしている。本当はそこに辿り着く前に脱出するはずだった。しかし「流されていく、時代の濁流に……」とごちうさ2期6話のティッピーみたいな感じで生きていたら、いつの間にかそうなっていた。そこに至るまで一切の思慮も反省もなかった。現在に全てを明け渡さないこと、いつも自分の中でそう言い聞かせていた。

 

 いつも俺はこのままでいいわけがない、俺はもっと別の何かの才能があり、そこで適切に働けるはずなんだ。そんなことを思いながら仕事をしていた。今思えばそれは、まだ余裕があったということなのだろう。本当にキビシイ仕事が襲い掛かってきた時、人はいっさいの思考を捨て去ってしまう。ただ忍び、ただ耐えるだけ。壊れたラジオを握りしめながら、1億年後の玉音放送を待ちわびる。ゴドーはもう来たというのに。

 

 結局のところ仕事をやめるか、やめないか、なんて問いかけは地獄のような作業量と狂ったプレッシャーの前では児戯に等しかったのだ。「逃げろ!」なんて思わない。逃げたとしても、逃げる先はいつだって前にある。後ろからはトゲが大量についた壁が押し寄せてきて、立ち止まれば串刺しになる。結局何はどうあれ、仕事をしてしまう。そうして1か月が過ぎていった。この1か月の部分には40年どころか1億年を代入できるだろう。

 

 だからといって俺はその選択肢を捨てたわけではない。いや、捨てなかったからこそ1か月生き延びたのだと思う。辞めることが「祈り」であり続ける限り、俺はいつまでも生きられる気がする。会社で上司に圧をかけられても、後輩が後ろから刺してきても、同期がどんどん死んだような目になっても、だ。もちろんこの「祈り」はいつか「叶う」からこそ成立する。叶わない祈りの美しさに身を晒すよりも、叶う祈りの歓びと俺は握手したい。

 

 だからこそ、いつか仕事を辞める。「祈る」者を裏切る神はいない。ましてや自分で自分の祈りを裏切ってはいけない。まずそれを確認する。何度でも確認するしかない。やりすぎた感傷だと思われても。