死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

経験を慈しむということ

 このほど両親が東京から俺のところにやってきた。まあ定年退職を迎えた父を祝いにうまい店に連れて行ったり、父の日に釣竿を1本買ったりしていたわけだが。まあそれは今回の記事にはどうでもいいことだ。日曜日、母を車に乗せて買い物に行った。その車中での会話だ。

 

 俺「俺ももう少しいろいろ頑張ってればもっと違ったんだろうけどね」

 母「そうねえ。あんたはそういうのが多いよ。勉強だってもっと頑張ってれば東大とか行けたんじゃないのかね」

 俺「いや、俺は大学選びは間違ってなかったと信じてるよ。俺の人生大体間違いだらけだったが、でも大学は間違ってなかった。そう思う」

 

 この会話にはいくらか解説が必要だろう。前段の文脈は今の仕事についての話だ。この1か月ほど2時に起きて5時に帰るような生活をしていたことや、上層部のプレッシャーが凄すぎて普通に血反吐を吐いたことなどを話して、「もう少しいろいろ頑張って」さえいれば別の道があったんじゃないかというこれまでの考えを繰り返しただけだった。すると母は仕事のことじゃなくて大学について言ってきた。まるでお前は「また」失敗したんだと言わんばかりに。そんな言葉に対してほとんど間をおかずに反駁したわけだ。つまり、本心からそう言った。

 

 先にひとつ言っておきたい。ある時期の「経験」だけを肯定することには避け得ぬ痛みが生じる。なぜならば、「じゃあ他は?高校は?中学は?」となるわけで、俺の人生がパッとしないことは以下の記事で紹介している。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 あまり自分でも繰り返したくないので皆さんの興味に任せるが、まあそれなりにパッとしない人生だ。そりゃアフガニスタンで不発弾に足吹っ飛ばされた子どもとか、「45年必死に生きてきた結果がこれなのか……?」おじさんよりかは十分恵まれている。恵まれているが、じゃあ俺が小学校の先生みたいに自分の人生に花丸おまけつきの「100点!」と赤ペンで書けるかといえば無理だろう。多分代わりに戒名の1つや2つでもつけてすぐに墓を立てて埋めてしまうだろう。「マザファカ居士」とか。

 

 特定の経験を称揚することは、否定された別の経験の応報を不可避にする。かといって人生全てを肯定するほど俺はお人よしじゃない。そうやって過去をうやむやにして「まあ、いっか」で終わらせるほど薄っぺらい過去を生きてきたつもりはない。スキット以上ギリシア悲劇未満でなければ、そいつの経験に何の意味があるのか? 俺は経験を否定こそすれど忘却はしない。

 

 だが、その痛みをひっくるめてもなお、肯定的感情と共に思い起こす価値がある大学時代を送ってきたと思う。学問が面白かったのはもちろんだが、何よりも仲間たちと「バカ」をやっていたと思う。

 

 この場合の「バカ」はもちろん酒を一気飲みしてとか乱交パーティーとかではない。もっと言語的なものだ。危ういジョークで人を笑わせることがその場の至上価値のようであった。たまたま人類の負の歴史に詳しい人間の集まりだったので、「前例」のサンプリングには事欠かなかった。反ユダヤ主義レイシズム、障害者差別、女性嫌悪……およそ褒められたものでないトピックから、その場で消費する残酷な笑いが引き出される。教訓抜きの歴史的知識を、自らの想像力をフルで悪用し、その場限りの「不謹慎ドラッグ」が生成される。そうして不謹慎ネタのオーバードーズが始まる。一度やってしまえば戻れないものだ。

 

 眉をひそめる向きには容赦なく表現の自由原理主義を振りかざす。それが公権力を制約するためにあるという「文脈」なんて百も承知だったわけだが。実際にそれが嫌で俺たちの集まりから抜けた人だっていただろう。だが、「来る者拒まず去る者追わず」のスタンスでやっていた俺らにとってはどうだってよかった(かのお題目はあっけからんとしているが、それが「現状維持」の裏腹でしかないことに気づくにはまだまだ俺は未熟だったのだろう)。もちろん、不謹慎ネタが本当のヘイトクライムにならずにあくまでその場で消費されたままだったのはいくつか特殊な理由が存在した。あまりに特殊過ぎるのでそれは書かないが、少なくともあの笑いを共有していた者の中で本当のレイシストはいないだろう(個別の憎悪はいざ知らず。俺は過去の経験などから女性一般に対する憎悪があるが、それを女性差別に結び付けたいとは思わない)。

 

 「お前、そんな経験を肯定するのか?」と思われる人もいるだろう。それは正しい反応だ。できれば俺もその正しさにつきたかった。だが、俺は怯まず、イエスと言う。何故か。その経験はもう二度とできないからだ。

 

 自由と無節操の境界がなく、笑いさえ起こせば何を喋っても許される空気を、もう日常的に味わうことは二度とないだろう。その《日常》は過ぎ去ったもので、たまに思い出すだけだ(ここで言う思い出すは俺の頭の中での想起から、かつての仲間と集まってたまたま大学時代のように会話することまで含まれる。後者も既に「思い出」のリピートアフターミーでしかないことを、残念ながら認めなくてはならない)。公的な場においては、リベラルで無害な市民諸氏との会話への失望を歪めた口角で一瞬だけ表明しつつも、俺自身もリベラル市民を演じるのだろう。これからも、これからも。そうして表現の自由を抱きかかえて鍵垢に閉じこもり、わずかな友人たちの思い出し笑いに貢献する。だが、二度と経験することはできないのだ。できたとしても、わずかにその経験を経験として十分に慈しむことぐらいだろう。

 

 今思えば、人生の苦悩は大体20歳ぐらいまでで一通り経験している。職場での労苦はその苛烈過ぎる再演と言えなくもない。いや、そんなことはないな。メチャクチャ残業して何も考えられなくなってバタンキューなんて22歳で初めて経験した。それも繰り返している。もし30になったら、こうした経験を「慈しむ」ことはあるだろうか。いや、ないだろう。やはり俺にとって「慈しむ」なんてのは大学時代に対してしかできないだろう。歴史はしれっと修正できるが、記憶の修正は頭を強くぶつけなきゃできやしない。かといって現実の代わりに麻薬で妄想を釘付けすることも難しい。今の俺が確かに幸せだと思えるのは、慈しむことのできる経験を持てたことだろう。