死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

高度プロフェッショナル反逆者のススメの献辞

時間割――仕事と娯楽の二者択一を認めないことほど、知識人にふさわしい生き方とブルジョアの生き方の間に明確な一線を引くことも少ないであろう。現実の要求に応えるために、あとでそのとばっちりが他人にも波及するいろんな良からぬことを先ずその主体が引っかぶらなければいけないなどといったことのない仕事は、そのためにどんな辛酸をなめることがあっても一つの快楽である。その眼目である自由は、 ブルジョア社会がリクリエーションについてだけ認めている、しかしそうした規制を設けることで事実上取り消している自由にほかならない。逆に自由を体得している者にとってブルジョア社会の許容している娯楽のすべてが耐え難い代物であり、自分の仕事以外に――もちろんその中にはブルジョアが「文化」という名目で勤務後の時間に取って置くようなことも含まれているわけだが――気晴らしを求めるような気持にはどうしてもなれないのである。働いている間はよく働き、遊んでいる間はよく遊べ Work while you work,play while you play――というモットーは、抑圧的に自己を紀律する原則の一つである。子供がいい成績を家に持って帰らなければ自分たちのメンツにかかわると思っていた親たちは、子供が夜ふかしして本を読んだり、親から見て精神的に無理と感じられるようなことに手を出すのをもっとも厳しく禁じたものだった。しかし親たちの愚かしさは、彼らの属する階級の精神の現われにほかならなかった。アリストテレスが唱えて以来人びとの胸に焼きつけられてきた中庸の教えは、一つには、互いに無関係な種機能に人間を分割するという社会の要請にしかるべき根拠を与え、それらの機能が入りまじってもとの人間を思い出させることがないようにする試みであった。しかしたとえばニーチェのような人が電話係の女性秘書を控えの間に侍らせたオフィスで机に向かい、一日の仕事を終えたあとでゴルフに出かけるなどという図は想像することもできないのである。社会の重圧の下、幸福と仕事を巧みに組み合わせる行き方だけが本当の経験のための余地を残していると言っていいのだが、情勢はそうした行き方を許さないような方向にどんどん動いている。いわゆる精神的な職業にしても、普通の生業との差がなくなって持ち前の醍醐味をすっかりなくしている。原子化は人間関係の間で進行しているだけではない。個々人においても、その生活領域が分断されるという形で進んでいるのである。勤労に充足感は禁物である。さもなければ目的に統合される全体の中でそれが果している機能的なつましさが失われてしまうからだ。余暇のさなかに思慮が閃くのも禁物である。さもなければそれが飛び火して勤労の世界に火をつけることにもなりかねないからだ。勤労と娯楽は構造面においてだんだん似通って来ているのに、目に見えない境界線による両者の分解はますます厳重の度を加えて行く。しかし境界線のいずれの側からも愉楽と精神が駆逐されてしまった。いずれの側でも動物じみたくそ真面目とまがいものの活気がはびこっている。

 

          アドルノ『ミニマ・モラリア』より、下線は引用者

 

 何度だって熟読に値する文章である。この約1300文字の引用を舐めるように読むことで何が得られるのか。それはわからない。だが、少なくとも俺を取り巻く現実が、そしてその泥沼から清新な空気を求めて顔を出し口をパクパクさせている俺の精神が、ここに何か手がかりをつかもうとしている、気がする。『ミニマ・モラリア』の副題は、「傷ついた生活裡の省察」であるということに触れ、この手抜き記事を擱筆する。