死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

醒めない夢のような感情が泥まみれに落っこちて 見たことない惨状が現実だと知ったんだ

 廃墟の国のアリスのカバーリングは花鋏キョウさん一択ですね。

 

 仕事を辞める目途がようやく立った。今任されている案件を全て終了させた後、来年初頭に辞表提出を決行する。事が上手く運べば、年度内には会社をオサラバできるだろう。そこからは再び労働市場に投げ出されるのみである。

 

 その先はもはやどうなるかわからないが、とりあえず公務員試験を受けてみようと思う。俺という人間がどこまでやれるのかを試金石として見てみたい。無論、今からの準備だと遅すぎるような気もするが、まあやってみるべきだろう。普通の就職活動も合わせて。就職活動は、やはり諦めきれなかった出版業界も見てみたい。基本的にブラックなのであまり今の業界と変わらないかもしれないが、まあこうなりゃ何でもやってみろである。

 

 1か月ぐらい既存の人間関係のほとんどをシャットアウトして考えてみたのだが、結局のところ俺は甘えていたのである。俺のように実務的なスキルもない、コミュニケーション能力も低い、そのくせ大食らいでのろまな人間が何かの間違いで名の知れた企業に入ったということのしっぺ返しがこの3年間だったのだろう。しかし俺はその現実に見向きもせずに、あの会社のせいにして悪口を吹聴していた。いや、4割ぐらいはあの会社が悪いと今でも思うが。しかし、それは自分を見つめ直さないで真剣に人生を生きない理由にはならない。

 

 遠い地方で働いている後輩がこの土日の俺のところに遊びに来てくれた。地元に帰って公務員として就職した彼と話し、地方の公務員というのも大変だなと実感した。残業はほとんどしていないそうだが(災害時は大変だとのこと)、給料は聞く限り俺の半分ぐらいだった。また、職場の人間にもとんでもないサイコ野郎がいるという。ストレスを酒で解消するので金が貯まらないというのは俺と一緒だなと思った。だが、彼は彼なりに自分の人生というものを見据えて生きていると俺は思った。

 

 置かれた場所で咲け、というのは美的で残酷な物言いでしかないと思う。甘受と受苦の呪いなどノーサンキューである。しかし、自分が主体的にその場所に立つことを選んだのであれば、それは世界の中にアルキメデスの一点を見つけることであり、即ちそこから運命へ立ち向かうことを意味するのだろう。もちろん、個人の生活を規定する所与の諸条件を考えれば、主体的という言葉がどれだけホンモノかはわかりはしない。しかし、それをホンモノにしていく努力は不断になされるべきだ。俺に欠けていたのはそれだ。別に今の会社がどうということではない。自分の人生を賭けてこの世界に立つこと、そういう意識が決定的に欠けていた。

 

 というわけで、俺は仕事を辞めます。東京に帰ったらまずは祝い酒を関係各位全員に奢るところから始めたい。