死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

トラックに轢かれて異世界に転生したら古典を読んでいたってしょうがないじゃないと言ったあの日の君に捧げる

0、はじめに(お気持ちなので読み飛ばしてもらっていいです)

 学生の時分は哲学科(分析哲学というよりも哲学史を基本的に勉強していたマン)、しかもサークルでは頻繁に政治思想史の読書会とかしていたせいで、自分の中で「古典を読む」というのは当たり前のことだった。ところが最近、この行為がだいぶ異常みが深いことがわかってきた。

 

  若者の読書離れ――が言われて久しい。もはや若者の読書離れ離れが起きなければ驚かない。今では読書しているだけで公安に監視され、そして外事三課の曖昧なスタンドアローンのパソコンからデータが流出し、個人情報がインターネットにはじけるご時世だ(俺はイスラム過激派ではなく戦闘的ジェスイットなので一向に構わないが)。そんな上で古典って……ってなるだろう。あまりに頭がおかしいので、ロシアが接触してくる可能性すらある。

 

 最近、俺もどうして古典を読むべきなのか分からなくなっている。というのも、昔みたいに何も考えずバンザイクリフするには差し支えないのだが、いざ「私が何で今古典を読むべきだと考えているのか」と説明する段になると、「うーん、まあ個々人の趣味だよね」としか言えなくなっている。人に説明できないのは、自分で納得してないからであろう。大学時代は「うるせえ!!!!!!!バカが!!!!!!!三親等以内闇討ちするぞ!!!!!」で終わっていた議論なのだが、社会に解き放たれた今、時間と脳のリソースを過去(文字通りの意味で過ぎ去ったものだ)の叡智にぶち込むことを一体どう正当化できるのか、料理とかプログラミングとか独禁法とかシステマとかやった方がいいんでねえのか、などという問いが自らのうちにも去来するようになったのである。他人は殴って執行猶予になれば一件落着だが、自分となるとそうはいかない。

 

 というわけで、このエントリは、かつては当たり前だったが今は何も分からなくなっている上述の問題について、自分を納得させられるかわからないがとりあえずブレスト的に考えや閃きを書き殴ってみるという反省的なエッセイ(とも言えぬぐらいまとまりのない乱雑な思念を文字化した集合体)の趣旨をとっている。そして記述のいくらかが誰かのハートに刺さればいいなと思った次第である。誰かといっても、一応頭の中でざっくりとした対象はあって、たとえば意味不明なまま文学部に入ってしまったパーソン、知的なことに関心はあれど古典とかマジかったりぃっすわ的なパーソン、などなど。多分俺と同じ悩みを抱えているパーソンは多いはずだ、お気持ちを#metooしていきましょう。

 

 ※補足するとこれからグダグダ述べていく「古典」については、一応書き言葉のものに限定している。映画や音楽などでも「古典=クラシック」という価値基準はあるが、ここでは考察の対象外としている。逆に言うと書き言葉であれば何でもありで、分野は問わない。文学の古典も社会科学の古典も同じ感じで取り扱っている。

 

1、そもそも「古典」とは――極々私的な見解

 

 まず、俺が古典についてどう考えているかを明らかにし、その後、何故それを読むべきなのかという問いに答えていく。

 

 古典の定義は種々ある。もし信頼のある客観的な定義だのなんだのを知りたい人は池田亀鑑『古典学入門』とか逸見喜一郎編『古典について、冷静に考えてみました』などにあたることを薦める。なお後者は人文に興味のあるオタク今すぐ読んで、尊いから。

 

 なので、アウルス・ゲッリウスの『アッティカの夜』の話とか、新旧論争とかに一切触れないで突き進んでいく。ただそれも申し訳ないので、個人的に面白いなと思った先人の定義をたった1つだけ例を挙げたい。サント=ブーヴの病的なまでに思慮深いそれだ。

 

真の古典(作家)とは、人間の精神を富まし、本当にその財宝を増やし、人間精神をして一歩前進せしめ、曖昧ならざる、何らかの精神的真理を発見したか、或るいはすべてのことが知悉されているか探検し尽されているように思われている人間の心の中に、何らかの永遠の情熱を取り戻す。それは、自己の思想、観察乃至は創意を、どのような形であるにせよ、それ自体広く、大きな、しかも高尚で、深い思慮の払われた、健全で美しい形式の下に表現し、あらゆる事柄について自己独自の文体で語り、新語を用いないで然も新しい文体、新しくて然も古く、容易にあらゆる時代と同時代的な感覚を持ち得る文体の中に万人向きの文体も見出される。   

          『古典とは何か』(土居寛之訳、一部訳文を変更)

 

 まあなんだか「ふーん」という感じの大仰な定義である(まあこの定義はアントワーヌ・コンパニョンも『文学をめぐる理論と常識』で絶賛しているので多分まあまあ妥当性があるのではないか、オタクは権威に訴えていけ)。これについてあーだこーだ言うこともできるけど、今回は例示するに留める。だが、文体上のことをとやかく言っている後半部分はさておき、前半部分は個人的には頷けるものだということは指摘しておきたい。

 

 俺が求める「古典」も、それが人間理解に資するものであってほしいと思うからだ。基本的に俺もそういう観点からホッブズを読み、ホメロスも読む。小学生の時俺に馬乗りになって「お前もお前の母ちゃんもキモいってみんな言ってるんだよ」とすごんできたいじめっ子も、他のいじめられっ子と共謀するなり闇討ちするなりで何とでもなることをホッブズから学んでから、地元で鉢合わせしても何も思わなくなった。そしてホメロスからは敵の死体を引きずりまわすとその親から金がもらえるということも学んだ。ありがとう。Here we go.

 

 ※本論ではあまり触れられない部分だが、古典の読み方について一言。上記のような「我が意を得たり」的な読み方は極めて「恣意的」なので、もしこれを読んでいる人で古典を「学術的」に読む作業を要する学問(人文学全般)を志す人がいたら絶対に真似してはいけない。もちろん読み方なんて人それぞれで、読書で何か得られたらラッキーというならば恣意的な読み方もありだし、自分の閃きのためにヒントにする程度でも自由だ。俺個人は、どうせ古典を読むなら高い解像度で読んだ方がよいと考えていて、学術的な読み(語義を厳密に確定し、論理展開や時代的文脈を丁寧に読み解き、テクストの外部も含めてじっくり考察するそれ)はメチャクチャハードルが高いのだが、そこに近づけるように努力はしたい。

 

 さて、俺が任意の著作について「これは古典やね」と判定するために念頭に置く基準を、ない頭を絞って考えた結果、以下の三つに絞った。①ある程度古いか②肯定的であれ否定的であれ、広く受容/評価されているか③読んだら自分が絶望しそうかということである。

1-1、どれだけ古いか

 ①については「現代にも古典あるやないか!!!落合陽一先生の本読んでないんか!!?!??」的な反論がすぐさま想定されるが、俺から言わせてもらえれば、ほとんどの「現代の古典」という言葉自体、「古典」という言葉の含み持つある種の権威性をあからさまに利用した読者のリップサービスがほとんどだろう(逆に言えば、実は「古典」という言葉は今なおそういう呪いじみた力を持っているのである。怖い……)。そもそも、現代の著作でめちゃんこ面白いのがあったとして、「もはや現代の古典である」とか「これは将来この分野における古典の地位を占めるだろう」みたいな認定をするぐらいなら「全世界のオタク今すぐ読んで!!!!尊い!!!!!!」とツイッターで叫ぶ方がいいに決まっている。今や誰もが承認欲求でできたよだれを垂らしながら自分のニッチな趣味を開陳し、これまた物好きが雑に反応してしまう時代なのだから。

 

 とはいえ、するとどれだけ古ければ「古典」認定できるかは、判断が異なることもある。何故なら、ある著述を古いかどうかを判断するのは人それぞれの時代感覚によるだからだ。極端な例でかつフィクションで恐縮だが、ドナ・タートの『黙約』(感情こじらせたオタクたちが限界まで気持ち悪くなる話で個人的には吐き気を催すほどメッチャ好きな小説だ)に、気持ち悪いオタクが主人公に古代ギリシアの誰を専攻にしているかと聞く際「まさかプラトンなんて近代をやっているのか!?」と言い添える部分がある。アッティカ方言なんか近代語じゃねえか、コイネーとか今でも公用語でしょ?と言わんばかりで、この気持ち悪いオタクの時代感覚はスネルの『精神の発見』がお似合いである。

 

 そんなわけなので、どこからが古くどこからが新しいかに確固とした基準は申し上げられない。とりあえず私見を述べておく。俺が古い、つまり時代的な意味での他者性――つまり、文章は理解できるけど、その書かれた意図をすぐには納得しがたいある種のへだたり――を感じるのは20世紀までだ。根拠は俺のお気持ちなので、他者に理解を得られるようには説明しがたい。ただ、一応合理的な説明もあって、少なくとも書かれてから20年ぐらい経てば、後述する「受容」の過程をつぶさに見て、古典判定ができるのではないかというのも挙げておきたい。とはいえ、じゃあ2001年以降に書かれた著作の全てに価値がないというわけではなく、単純にそれは「古典」とは認定できないというだけである。ある著述が「古典」であるかどうかは、その著述の「面白さ」に何ら関係しない。

1-2、どう受容され、定評があるか 

 それでは②について。①は古典の必要条件であって十分条件ではない。古いからといって古典認定していると、マキァヴェッリが友人にゲロみたいな売春婦とヤって最悪だったと報告するあの手紙は風俗ルポの古典なのか?ということになりかねない(マキァヴェッリ全集参照、古代ギリシア・ローマの典籍を読む時は正装する男なので求めるセックスのレベルも高いらしい)。ある著作が「古典」になるには、書かれるだけでなく「受容」ないし「評価」されることが重要と考える。つまり、その時代(あるいは後代)における知的文脈で著作がきちんと受け止められているか、それが「古臭い文章」が「古典」になるための条件、と俺は考えている。

 

 「受容」や「評価」といってもいろいろある。以下はこれまた適当に考えたもの。こういうものが顕著にあれば、「古典」と十分読んでいいのではないかなと。

 

 1、知識層の反応。それが反発であれ、賛同であれ。もちろん、当代の知的な文脈において侃々諤々議論されてきたもので、逆に今では読むに堪えないものもあることは否定しない。逆にその時代には忘れ去られた著述でも、いつの間にか再発見されて評価されることは往々にしてある(汎神論論争におけるスピノザなど)

 

 2、簡略化=大衆化。ウィルソン=レイノルズの『古典の継承者』やアン・ブレア『情報爆発』によると、古代でも近代でも大体いい本全部は読めないもので、摘要やレファレンス・ブックのようなアンチョコがあったという。当時の人は名著のエッセンスだけでも分かりたいと思ったのか、あるいはこのレベルの本ならエッセンスだけでも押さえときゃいいか程度の認識だったのか判然としないが……。現代ではもはやこういうつまみ食い形式の本が流行りに流行っていて、ナイジェル・ウォーバートンの本とか、「100分de名著」とか「まんがで分かる●●」みたいな感じがある。こうした過程と同時並行的に大衆化も進んでいくことは自明だろう。だが、これが著述の価値を貶めているというよりもむしろ広めているもので、悪いことばかりではない。スタンダールみたいに最初からThe Happy Fewに向けて書いているならともかくとして(あれだって半分諧謔みたいなもんだし)。

 

 3、聖別化。誰が何と言おうと俺は野原ひろし、じゃなかった聖書は聖典である……という感じ。この聖別こそ俺たちが「古典」という言葉に感じるもっともポピュラーな印象な気もする。『古典について、冷静に考えてみました』などでも言われていることだが、ナショナルな意識が出てくるに従ってギリシア・ローマのみならず己が民族の古典は何ぞと探し求めたオタクはごまんといる(その過程で『ニーベルンゲンの歌』は再発見され、『オシアン』は捏造された)。政治思想史でいうならば、ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約説をヨーロッパの近代政治原理の成立として持ち上げたのは20世紀の政治状況へのプロテストという意図があり、結果として彼らの著述がヨーロッパ・デモクラシーの古典として持ち上げられたとも考えうるわけだ(ここらへんの事情は半澤孝麿『ヨーロッパ思想史における〈政治〉の位相』序章に詳しい。このエントリの当該記述は半澤の著述以上のことを言い過ぎている気もするが、俺の力不足でさしあたってこのままとさせてください)。

 

 とまあ、これ以上あげてもきりがない。他に思いつく人いたら教えてください。あと、この中身ももう少し検討すべきだし(それこそ「聖別」なんていう概念はベニシューも読んだうえで死ぬほど検討されるべきだろう、そして俺は読んでいない)、これからも考えていきたいところ。

 

 もちろん、ホメロスに始まりドゥルーズに至るまで、大体「古典」認定されているものについてはそうした受容をちゃんと経てきているし、それについて俺たちは頑張ればいくらでも追跡できる。つまり、すごいすごいと連綿と言われまくって「古典」は生成される。もちろん、その「すごいすごい」を見ていくのは受容史研究となり、普段の俺たちはある古典を読む時にいちいちそんなことは考えないだろうが。だが、「まあ古典だからとりあえず読むかね」とページを開くその行為が、昔の人たちの受容を無造作に(あるいは意図的に)肯定し、「古典」を「古典」たらしめているというか、「すごいすごい」の列に加わっているわけだ。俺個人の話だが、どうせそういう歴史に連なるならばということで、俺は一応「古典」とされるものの評価や受容は一通り調べ、一応自分を納得させるようにしている。

 

 ※よく「時間(=歴史)が審判した中で残っているのだから古典は凄い!」というフレーズを聞くが、じゃあ三大悲劇詩人の残っていない(しかつ面白いはずの)劇作は時間のミスジャッジですか?高校野球の審判かよと言いたくなるし、額面通りには受け取れない(あるテクストの残存は書かれた時期が古ければ古いほど偶然に依拠せざるを得なくなる。もちろん残存のために人生賭けた人たちのことを忘れるべきではない。アンソニー・グラフトン『テクストの擁護者たち』を参照)。ただ繰り返すが、これまで長々と述べているのは古典の定義ではなく、俺がある著作を如何なる判断基準で「古典」だと考えているのかについてなので悪しからず。

1-3、絶望を感じられるか

 さて、③について、である。①、②ははある程度客観的なものと言えるかもしれないが、これは完全に俺の気持ちである。つまり、①・②だけでも外形的に「ああこの本は世に言う古典なんだね」と認めうるだろうが、「俺の古典」になるためには③が欠かせないというわけだ。これはだいぶユニークな条件ではないか、という自負がある。何で絶望なのか、というのは少しばかし俺のお気持ちと体験を説明させてほしい。

 

 親譲りの無性愛、じゃなかった自信過剰家なので、いろいろと物事を考えては「これは考えている人間実はいないんじゃないか?」と思うことが中学生から高校生にかけてよくあった。そういう尊大な人間のまま大学生にならなかった(と俺は思っているのだが実際のとこどうだろう)のは、やっぱり種々の古典のおかげである。高校生の頃読んでもよくわからないものが大半だったが、しかしページを目に晒すだけでもわかることがあり、それは「エッ何この人たちメチャクチャ物を知っているし、しかも思考の深度マリアナ海溝並じゃね?」ということである。

 

 読書を通じて、自分という人間の知識も思考も想像力もセンスもへたっぴだということがわかってきた。しかも一生かかっても追いつけなさそうな連中ばかりが、「俺はここまで行ったぞ」とばかりに本を残していきやがる。俺の安っぽい思考や想像、センスはとっくの昔に彼らに踏破されていて、しかも俺が到達すらできないであろう思考や想像、感性的表現すら彼らが先占していた。これに絶望しないわけがない。これからはメチャクチャ頭のいい幸福な人間たちでさえ一歩一歩踏みしめているという、その思考の速度と深度にすら追いつくことができず、遠く背後から見守っているような気分にしかなれないわけで。シェーン!カムバック!ってなる感じ。神ひとつとっても、アウグスティヌス『告白』からドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』までを読めば、(もちろん理解など先の先だが)中二病的な発想に基づく安易な無神論の愚かさを自分が抱いていたことに打ちのめされたものだ。小説家を志望してきたから、想像力はあるだろうと思っていた自分がどれだけダメだったかも、古典文学から教わった(この当時、ラノベなら勝てると思いあがっていたのだが……)。

 

 だが、この絶望感には感謝している。現代は安い絶望の時代だ。労働、人間関係、人生の行く末、その他諸々で絶望がはびこっている(これは極めて感傷的な表現だが、この種の絶望は「腐敗」に等しい)。これに対し、上記のような読書から得られる絶望は、徹底的に自己認識を改めなければと思わせる、始まりの契機を含み持つ絶望だと考える。巨人の肩の上に乗るなんてことはできないにしても、巨人の足元であがき続けることをまずよしとする。それは「ここから始めるしかない」という「希望」と裏腹なものだと信じている。人類全体の思索と想像力の進み具合からすれば周回遅れもいいところだが、凡庸な俺に許されているのはそんな矜持紛いの「俺はやる」しかあるまい。しかし、仕事についてからこういう絶望を感じたことのない人々のキラキラした目を見ているといつも不安になるし、そういう時俺は過去の著述に帰りたくなる(もちろん普段はクソ忙しいのであまり帰れない)。そういう人たちからナチュラルに繰り出される「プラトンって今読んでも面白いの?」は俺を無性に悲しくさせるし、「まあ少なくとも今この状況よりは面白いですよ」と露骨に顔に出してしまう。

 

 とまあ、長いこと「俺の古典論」をぶってしまった。書いているうちに自分はただのマゾヒストなのではないかという気がしてきた。 

2、なぜ古典を読むべきなのか――相対主義的弁明を乗り越えて 

 ところで、これまで書いてきたのは「何が古典にあたるのか」という問いに対する俺なりの答えであって、「何故今古典を読むべきなのか」という問いへの答えでもなんでもない。ここからはこれに答える努力が必要となる。完全に第二部へ続くみたいな感じになってしまい頭を抱えているが、このまま行けるところまで行って死ぬぞ。

 

 結局のところ、「何故今古典を読むべきなのか」と言われて、そのまんま規範的な解答で返すのもありうるだろうけど、これはなかなか難しい。というのも、これまでの「古典読むべき系の議論」を見ると、ある論理的な帰結として「かくかくしかじかによって古典は読むべきだ」という風に規範が導出されてきたというよりも、ある歴史的な経緯を前提として「古典」という「規範」が要請されてきたと見えるのだ。

 

 一例を示す。ひと昔前に『必読書150』というヤバい本があったが、それよりさらに昔に『読書の伴侶』というこれまたヤベェ本があったのである。高坂正顕西谷啓治など京都学派(近代超克大好きクラブ)や寿岳文章といった生粋の書誌学者らが1950~60年代の読書を巡る状況について対談し、それぞれの分野のオススメ本をピックアップするという150の元ネタみたいな構成である。その対談の冒頭を引くと、

 

久山(括弧内は引用者註:康) ……一昔前ですと、だいたい若い人々の間には、自然に作られていた読書のコースがあって、それに従って読書してゆくと、一定の教養が身につき、かなり高い識見なり人生観なりが与えられるということがあったように思います。ところが時代の移り変わりとともに転換期の激浪が一切の思想の秩序を崩壊させて、過去の教養の理念も頽れてその欠陥を明らかにし、それとともに読書のコースも失われて、あとにはただ混沌とした摸索が残っていると思います。……

猪木(正道) たしかに過去にはそういう読書のコースともいうべきものがありましたが、現在それが崩れていることは事実でしょうね。

高坂(正顕) そういうコースは大体いつ頃からできたのでしょうか。

森(信三) それは明治の時代における西洋文化の移入のあとで、大正の年代に入って或る程度文化が消化され、日本のものが読まれるようになってからではないでしょうか。たとえて言いますと、西田先生の『善の研究』が一つのエポックを作り、権威を持ってきたというように。

 

 こうした経緯をより詳らかにするのは竹内洋教養主義の没落』などだろうが、ここではこの対談が語っていることの当否を論じたいわけでなく、ある「読書のコース」が歴史的に措定されていたが崩壊してしまったとこの守旧派のお歴々が感じているという事実を指摘しておきたい。その「読書のコース」とは、デカンショに代表される哲学ないしはより広範な人文的な「古典」の読解であったと言える(もちろんマルクス主義の隆盛に伴う社会科学的古典も考慮に入れなければならないが)。既に「何が古典なのか」という問い以前に西洋文化の輸入という形で「西洋が古典とみなしているもの」という典籍一式が所与のものとしてあり、それをとにかくバシバシ読んで人格を陶冶していくという「コース」が当たり前のものとして規定された教養主義の中で、「何で古典を読むべきなのか」という問いは閑却されるか、あるいは二の次ではなかっただろうか。ところが、こうした状況が転換期に崩れ、今に至るというわけで、そうなると古典の意義がより鋭く問われるのは当然とさえいえる。もちろんこうした傾向は日本だけにとどまらないだろうが。

 

 以上に見たように、歴史的前提が崩壊すれば古典を読むべき「規範」は一気に総崩れとなってしまう。とはいえ、じゃあ「俺が読みたいんや!!!!!ドン!!!!!!」とやるとマジでこのエントリは相対主義を擁護するためだけのゴミになってしまいかねないので、何とか踏みとどまって答えを繰り出そうと思う。

2-1、古典である必要性について

 必読書150みたいに「読まなければサルだ」(これは帯の煽り文らしいが確認したわけではない)というような「規範」を偽装した「恐喝」は問題外として(とはいえそれを真に受ける人もいるわけで)、「これを読むべき」として古典を推奨するのはとても難しい所作だ。たとえば(俺の関心に引き付けて恐縮だが)現代的な政治哲学(分析的政治哲学と言い換えてもいいい)を云々する場合、プラトンマキァヴェッリホッブズを読む必要があるのか問題は常に付きまとう。普通に考えればまず手に取るのは『ここからはじめる政治理論』とかキムリッカとかじゃない?となるわけである。「何故今古典を読むべきなのか?」問題において古典を読むべきという当為を論じたいオタクに立ちはだかる難敵は「別に古典じゃなくてもよくね?」という主張である。ここから片付ける必要があるだろう。

 

 まず結論から言えば、明確な目標設定をした上での読書の場合、読むものが別に古典でなくてもいいだろう(し逆に古典じゃなければダメな場合もある)。政治学の基礎知識を得たいというならば政治学の教科書を手に取るべきだし、現代の政治学的な問題について考えたいと思った場合にも、それについて書かれた現代の政治学の論文を読めば先行研究も整理されているしお得だ。むしろ政治思想史でホッブズの研究をしますという奴が、ホッブズを読まずに二次文献だけ読んでいたら研究室でタコ殴りにされると思う。要はその目的に適う文献の集合があるわけで、そこに古典とされる書物が入るかどうかに過ぎない。先に挙げた教養主義下の読書は人格の陶冶を目的として古典とされる書物を読みまくったわけだ(その成否について、個人的にはどうかなーと思っている。そもそも人格の陶冶なるものの具体的な中身がだいぶ曖昧であるし、必読書150を読んでもどっかのカフェで「俺の女になれ」って言う人間がいるわけだし。まあ陶冶に至るレベルの深い読書をしていないのだ、という反論ができるかもしれないが)。

 

 では、「人格の陶冶」に代わる、古典とされる書物を読むべき目的を如何に措定できるかどうかである。これについて、俺個人の読む目的と、ある程度普遍妥当性のある目的を両方わけて主張することにする。

 

 俺個人の読む目的は、先ほど俺の考える古典の条件③で述べたところに関わっているが、「絶望」にある。それは古典に書かれた思考や想像力、センスの深度に触れて、自らの思い上がりを正すということ、自他の間にある距離を把握することである。こういう読書をするために、かつては①・②、つまり古くてかつ定評があるという条件に合致するものを片っ端から読んでいた。

 

 とはいえ、じゃあ何でもかんでも絶望して、「やっぱコイツ強ぇわ もうダメだ 強い」とR-指定戦の呂布カルマばりの投了をしているわけではない。一応高校生の頃よりは進歩はしていて、古典の全てを妄信しているわけではない。始めて古典に対して「くっだらねえこと書いてんなこいつ」と思ったのは、大学1年生の頃に輪読会で読んだアーレントの『人間の条件』である(もちろん下らねえと思う部分はあれど、しかし全体としては俺の知性やメンタリティでは彼女に敵うわけがなく、終生かけて読み続けたいと思っている哲学者の1人である)。ちなみに何でくだらないと思ったのかについてはいつか書くので今は許して……。先に進まないから……。

 

 もちろん古典を読む理由を「希望」とする立場もあり、俺はそれを否定しない。いつかブログで書いたが、極限状況下において文学は役に立つのかということに自分の人生かけて応えようとしたニコ・ロストの『ダッハウ収容所のゲーテ』を読むと、陋劣な環境の収容所で死と隣り合わせの人間が、限られた読書環境や自他の記憶から「精神の栄養」としての文学を摂取し、「ああここから出られたらグリルパルツァーを研究しなきゃ……カフカも……」みたいな希望を抱き、正気を保っていたことがわかる。もちろん俺は平和を安穏と謳歌してきたので、東京地検特捜部に逮捕されない限りそんな激ヤバ状況に陥ることはない。とはいえ、ロストの本からは「読書しなければならないという切実な思い」が伝わってくるし、その部分には極めて共感を覚える。

2-2、現在の専横に抗する

 次に、古典を読むことについての普遍妥当性を具備しうる主張を述べる。別にこの手の議論をずっとしている人たちからすれば目新しいものでも何でもなく、いろいろ読んだうえで「これが一番理に適っているな」と思った上での主張に過ぎない。一言で言えば「現在の専横に抗する」ためである。

 

 現在の専横とは俺が思うに「いま・ここという現在を無条件的に肯定し、歴史的連続性を無視、あるいは現在の視点から歪曲すること」を指す。ある人間の生物学的始点はその出産にあるだろうが、実際にはお父さんお母さんのセックスがあり、おじいちゃんおばあちゃんのセックスがありお父さんお母さんが生まれ……とそれはある連続の中に投げ込まれている。「今と比べて昔がよかった」とかそういう価値判断ができるのも、この連続性に依拠している(でなければ異世界の話されても困りますよとなる)。

 

 ところがこのご時世、歴史的連続性を無視して、とりあえず現状肯定的に議論が進んでいっている、という光景を俺たちはたくさん目にしていると思う。既に書かれたものを(それとは異なった)現実に沿って書き換えるという財務省の公文書改竄はその最たる例だが、ああいう暴挙が政治の現場のみならず、そこかしこで起こっているというのが俺の時代認識だ(ツイッターの種々の論争とか見てみるともろそんな感じがする)。背景には、人間が日々触れる情報量が莫大すぎることが挙げられる。スマホSNSのおかげで人々は別に知りたくもない他人の情報を浴びるように見る羽目になっている。そして140文字の文脈を度外視した見解が無限にRTされているように、もう過去のことなんか考えている暇ねえ!!!とりあえずこれ何とかせにゃならん!!!という風潮がある気がしてならない。情報の爆発的増加自体は既に近代でも経験していることだが、雑多・拙劣な情報が多くを占め、なおかつそれが猛スピードで拡散され、無条件に肯定されている様に、俺は現代特有の貧しさを感じずにはいられない。

 

 それでは古典の内容がそれを戒めてくれるのか、というとそれも少し違う。むしろ、古典を読むという営みそのものが、過剰な現在の横溢から自らの限りあるリソースを守ってくれる。つまり、そうした時間を自分に作ることがまず大事なのだ。

 

 もちろん「えっ別にそれなら家庭菜園でも耕すなり映画見るなり音楽聴くなりすればいいのでは?」と考える向きもある。それもいいだろう。自分の趣味を如何に築くことも重要だ。だが、俺があえて古典を読むことを推すのは2つ理由がある。1つは、これは「読む」ということに関わるのだが、人間が言語に依存的な生物であること。何をしようにも、その意義や実感について我々が思いを巡らせるとき、そこには必ず言葉による媒介が伴う。読書とは端的にそうした言葉を自らのうちに蓄えるのが一番簡単だからである。映画や音楽から自らが何かを感得し、それを言語的なレベルに還元するために実は多量な読書も必要であろう。

 

 2つ目は「古典」に関連する。先ほど俺は古典の条件である①古さについて、時代的なへだたりを感じることと書いた。ただ字面を追って読むだけでは分かりにくい、あるいは分からないのも古典の特徴だ。それはコンテクストの理解不足や、言葉の用法が我々とずれていることなどが挙げられる。ゆえにこの過去との対話には、現代の著述を読む以上の困難が付きまとう。分かろうとするほど分からない、分からないということが分かる――こうした経験は古典を読む人ならした覚えがあるだろう。この困難を伴う「へだたり」のある対話こそが、現在をそのまま承認しない懐疑的な自分を作り上げるための知的訓練になる、ということは言えるのではないか。なぜならば、この作業は「一見して分からないもの」を「分かる」ために解きほぐすもので、現在の「一見分かりやすい」が「よく分からないもの」が押し寄せるこの言語空間とは全く別個のものだからだ。古典を読むことは、現在への批判的視角というか、現在と対比しうる固有の砦を自分のうちに築き上げることにつながるし、それに大きく寄与するものだ。

3、あとがき

 というわけで、一応主張を整理すると、古典というのは①古くて②定評があり③俺を絶望させるものという俺ルールがあり、何で俺が古典を読むべきなのかといえばそれは現在の専横に抗するために自分用の防波堤を作るためにやっていると。いやはや、1万字以上も費やしてあまり代わり映えのない読書論をブチ上げるのはどうなのかと思ったが、結局そこに着地してしまった。自分で考えたものとしてこれは残しておくが、やはりどこか論証がまずく、かつ飛躍していると思う(書くのに疲れてまだそれを発見できていない)。とにかく、まずは自分の考えていることとして、これを記録しておこう。

 

 自分で一読した感想は、もうちょっと古典を読む意義を強調してもいいんじゃないだろうかということだ。藤本夕衣が『古典を失った大学』で整理したように、古典=グレート・ブックスにシュトラウス=ブルーム的な「時代を超越した問い」を見てもいいし、ローティのようにリベラル・ユートピアへの情熱を秘めたものとして古典の意義を認めることもできるだろう。だが、あえてそういう話をしなかったのは、個人的にそういう復権論に対してほとんど諦めに近い感情があるからかもしれない。なので、「古典の復権」というよりも、むしろおずおずと「古典ってのもあるんで読んでみませんか?」ぐらいの気弱なセールストークだと思ってほしい。もしこれを読んだ人の中で何か変わるものがあればうれしい。そして実質ただで読めるインターネットの文章なんてこんなもんなので、早いところ本を読みましょう。そうでなくても、古典を読んでいる人に対して「いやそんなことしてても意味ないっすよ」とか言うことなく、暖かく見守ってくれたらうれしい。世の中にはそういう時間の流れの違う人間がもっと必要なんだ。

 

 最後に自分がやってきた分野に関する小噺をひとつ。昨日、俺の友人がLINEで「古典読み」という言葉を言っていて興味深かった。その文脈はややこしいのであまり言わないが、多分ある程度現代的に整理された課題を(主に英米系の)分析哲学的な蓄積をもとに議論する文化と対比して、(主に大陸の)哲学史的な遡及から理解を目指す文化が「古典読み」なのだろう。英米、大陸なんて今さら持ち出すのもどうかと思うが、やはり方法論の違いは否めないところだろう(分析哲学の観点からの哲学史研究もあるけど)。どっちもできればいいだろうが、なかなかそうもいくまい。悲しいかな俺は古典を読むことばっかりやってきたので、今さらそっちと踏み出すことができないでいる。今はディルタイを読んでいる。笑いたきゃ笑ってくれ。

 

2019/2/19 追記:このちょうど上の段落に早速読者からツッコミが入った。分析哲学も古典読まなきゃ議論の前提に行けないから哲学史的な手法使うでということであった。すいませんでした。