死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20190220

 今日も相崎うたう『どうして私が美術科に!?』1巻を読み返すという最高度にレベルの高い解釈業務に従事していた。これはシモーヌ・ヴェイユの「労働」に通ずるものがある(とは実は既に加藤哲理が『講義 政治思想と文学』所有論文で詳らかにしている)。ごちうさきんモザのんのんびよりなどの一般的な日常系4コマと異なり、キャラクターの言葉のセンスにそこはかとなく批評性を感じるというか、こう言い換えると怒られるかもしれないが偏差値の高さを感じている。

 

 基本的に百合、というか百合が好きなオタクやその曖昧共同体のことをアサド政権シンパだと思っていたので、ホワイトヘルメットとして許せない気持ちがあったが、いざ百合という巨大な感情の瀑布を前にすればただひれ伏すしかない可哀想な一個人でしかなかった。実は2巻が出ているのだが、俺はおいそれと買うことが出来ない。2巻を買って読み終えてしまえば、俺は最新刊が出るまでとんでもない暗黒の感情を抱くことになるだろうし、恐らく3巻を待ちわびて首を吊るかもしれない。ここは2巻をあえて宙づりしつつ、1巻の解釈に努めるというのが、誠実で敬虔な日常系4コマ文献学者の態度というものではないか。その意味で俺はようやくあこがれのテクストの擁護者になった気がする。嘘です。これは直観ですが、『神学大全』を読んでから挑むとまた違った風景が見えるはずだ(読み過ぎて失明するという意味ではない)。

 

 今日も新規案件のためにあいさつ回りを続行。会社や出向先にいなくていいのはとても痛快だ。あそこにいると精神が腐るというか、三十年戦争の三十年部分の悲惨を毎日経験するような心持になる。そこで話した年配のおっさんたちの碌でもなさについてできることなら1万字ぐらい書きたいが、書かねばならぬことだけを書きなさいというカフカの導きに従いやめておく。上の文章はそう、書かねばならぬことである。当たり前だろうが。そしてふと、「もう仕事したくないのじぇ……」という家族のために狩りに出かけたゆっくりまりさ(父)的な感情が生まれ、部署を放棄した。

 

 そして曖昧にブラブラしながら(といっても一応やるべきことはやっていたが、会社には姿を見せなかった)、昨日から読み続けていた半澤孝麿『ヨーロッパ思想史における〈政治〉の位相』を読了した。これは『どうして私が美術科に!?』2巻に対する圧倒的な欲望と1巻にとどまれという敬虔な文献学的態度に魂が引き裂かれた俺が、とにかく気晴らしにと思い近時稀に見る集中力を発揮した結果なのだが、得られたものは気晴らし以上だったと思う。これについては稿を改めて記述したい。個人的には、こういう優れた二次文献かつ極めて面白い読み物を岩波現代文庫に入れるべきなんじゃないかと思ったし、これが品切れで古書価格で学部生にはなかなか手の出しづらい値段にとどまっているのは残念なことである。しかし頭のおかしい学部生というのが時にいるので、そういう奴は手にとってほしい本だ。主題はだいぶ異なるが、田上雅徳先生の『入門 キリスト教と政治』と一緒に読むといいと思う。