死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20190224

 今週で一番大事な日、つまり休みだった。この日をどう生きるかが来週に影響すると確信した俺は、まず午前中はぬくぬくと布団の中でくるまってYoutubeで長尺動画を見た。

 

 最近俺のオススメは「テルさんTV」というキャンプ&車中泊もので、都会の生活に疲れた人が休日に衝動的欲求に駆られて遠出し、車中泊するというもの。エクストレイルの中が意外に快適っぽさそうなのと、車内で料理とかできてスゲェなとか、どういう姿勢でやっているんだろうと興味は尽きない。そして声を入れずに、BGMと雰囲気だけで勝負しているところにも好感が持てる(もちろん声ありのキャンプ動画も嫌いではない。逆にNOBGMのヒロシのソロキャン動画も最近よく見ます)。東京に帰って、東京で仕事するようになったら、俺も自然が懐かしくなるのだろうか(いや今も別に自然に囲まれているわけではなく典型的な地方都市に在住しているのだが)。

 

 お昼ご飯を食いに外に出る。ココイチでカレーを食い、「我いつも おひるごはんを 食べ過ぎて 後悔するも 夜までもたず」というクソ短歌を錬成した。夜が季語です、季節は「滅び」……。そのまま本屋に直行し、「うわ今月も面白そうなハードカバー沢山出てるな」とか思っていた。たとえば、第一次世界大戦終結直後の難民やら内戦やらカオスが発生していることを扱った『敗北者たち』(みすず書房、税抜き5200円)。著者は『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』のロベルト・ゲルヴァルトだ。最近は白水社でもキース・ロウの『蛮行のヨーロッパ』が出たり、戦争だん!平和なう!みたいな状況では全くなかったことを伝えてくれている。このほかにも、今野元の『フランス革命神聖ローマ帝国の試煉』(岩波書店、税抜き9500円)、下田和宣『宗教史の哲学』(京大学術出版会、税抜き5200円)などなど……買いたいものがあったが、これらをいっぺんに買うと財政破綻することは目に見えていたのでやめた。代わりに買った本については後程。

 

 書店を出た俺は、温泉にでも行くかと思い車を1時間ほど飛ばして温泉をやった。最近気づいたのだが、車を運転するのは嫌いじゃないということと、スーパー銭湯にとどまらず温泉はやっぱり週1で通いたいなという気持ちである。まあ、東京に帰ったらどっちもできないのですが……。人肌並(なので多分一般からすると温い)の温度の露天風呂に浸かりながら、10年後、20年後、そして老いた自分を想像し、急に怖くなってきた。栗原心愛ちゃんが死ぬと世間はバカ騒ぎするが(それにしても本当にこの国の人間は子供が死ぬと政府から乞食まで騒ぐので、シリア内戦とかどうするんだという気持ちになる)、たとえば80代女性が側溝に落ちて死ぬと、多分世間は「あーそれは残念でしたね」となるだけだろう。安穏と生き永らえてしまったら俺の死もそういう感じで処理されるのだろうかと思っていたら、「忍は死に様で決まる」といううちはイタチの至言を踏まえて諸々考えていたら普通に辛くなってしまった。温泉入りながら辛くなる感情って何だよと思ったが、まあそういうこともあるのである。

 

 風呂から出た後は、そこそこ行きつけのビストロでご飯を抜きおかずだけを食べるというチャレンジをしていた。ところで、ご飯を抜くと必然的に単価が高くなり、またおかずをもっと食おうとなるので結果的にはあんま変わらないということが発覚した。アホだと思う。

 

 そして、生まれてくるときにマナーを産道にポイ捨てしてしまったので、飯を食いながら本屋で買った熊谷英人の『フィヒテ――「二十二世紀」の共和国』(岩波書店、税抜き5800円)を読み始めた。フィヒテが好きというわけでは全くなく(というかマジでフィヒテについてはWikipedia以上のことは知らず、大学生の時に『ドイツ国民に告ぐ』しか読んだことない)、『フランス革命という鏡』(これを読んだ時の衝撃は「White Album」を初めてプレイした時のそれに等しかった)の著者だから思わず買ったのだが、あとがきを読むとフィヒテについての論文をふくらまして400頁越えの大著にしてしまったのだという。前著を読んでも思ったのが、スゲェ知的エネルギーだなというか、よくもまあ複雑怪奇な18、19世紀ドイツ政治思想とかいうのをやれるなという感じで、しかもフィヒテってマジかよ……っていうのが第一印象である。

 

 結局まだ第1章の「思想家誕生」しか読んでいないのだが、これが滅法面白い。フィヒテの鬱屈した感情――「何物」でもない自分、未だ自らのきちんとした世界観を持てて世界と対峙していない自分、経済的逼迫、社会生活無理太郎など――が詳細に記述され、普通に簡素な青年フィヒテ伝として読ませる(この熊谷さんは文章がとても分かりやすく、かつそれでいて叙述が丁寧なので本当にすごい書き手だと思う。歴史主義に関する新書とか書かせたら最高だと思う。いや書いてくださいお願いします)。これを読者におすそ分けするとなると、フィヒテ面白エピソードとして以下が挙げられる。

 

 ①幼少期のフィヒテがめちゃんこ頭いいのでお父さんが児童書を買い与える⇒フィヒテメチャクチャハマってしまい、お父さんがやめなさいという⇒何故か児童書を川に投げ捨てる⇒お父さんブチギレて折檻する(これを熊谷は単なる面白エピソードとしてではなく、フィヒテの強烈な道徳的潔癖症と周囲の無理解のコンフリクトの早期の一例としている)

 ②優しくしてくれる女の子に弱い。(読むと分かるが、初期のフィヒテさんはマジでキモオタっぽいので、同属だと共感性羞恥でしばらく動けなくなる)

 ③葉鍵しかプレイしたことのないエロゲオタクが書いたような小説(草稿)を書き残す。内容は、騎士Aが女Bとヤるも、騎士A出張先で女Cともヤる。女B妊娠しているのが分かり、女Cは身を引く。騎士Aここで愛に苦しみ死す。時代は下り騎士DがAの亡霊の話を聞き、かわいそうやねと思って何故か巡礼を始めだし、もちろんサラセン人にとっつかまるも、そうこうしているうちに女Bの娘Eと女Cに会う。みんなで騎士Aが死んだところに行き、女C救いを得て死に、DはEと結婚しめでたしめでたし。「あのさー、君沙耶の唄とかやったことある???」ってなりそうなシナリオだ。

 

 もちろんこれだとただの奇人面白トークとかいう水曜日のダウンタウンレベルの話になってしまうので、フィヒテが屈折(哲学的な表現としては決定論と宗教の抜き差しならぬ対立である)を克服するきっかけとしてカント哲学に出会い、カント的な影響下で彼が思想家としての歩みを進めていく、というような構成になっている。フィヒテの断簡零墨(もちろん上記の気持ち悪いシナリオも含め)を拾い、屈折を裏付け、当時の感傷主義文学や「有用性」イデオロギーなど知的文脈とも絡めていく筆さばきは脱帽である。もし特定の思想家を論じるとして、その思想家の生涯を論じる必要があるのであればこうすべき、というお手本みたいな章だ。最近はグスタフ・ルネ・ホッケの異常に過剰なレトリックに辟易していたので(内容はクソ面白い)、こういう本を読めて幸せだった。

 

 とまあ、近年稀に見る休日ガチ満喫で1日を終え、ブログと向き合っている。休みに内容があると本当に書くことがあり、やはり生というのはこういうことなんではないかと思った次第である。俺みたいな限界労働者がこんな幸福な1日を過ごしていいのだろうかという気持ちさえなければ完璧な1日だった。