死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

『運び屋』と『グリーンブック』見たよ

 まずは運び屋、普通に泣いてしまった。とてもいい映画だと思う。

 

 クリント・イーストウッド大好きで、彼の映画は多分ほとんど見ているのだけど、俺の中では彼が出演・監督している作品ではトップ3に入った(あとの2つはペイルライダーとグラン・トリノです)。何だろう、話の内容をざっくり抽象的に言うと「全ての終電を逃したイーストウッドがメキシコ麻薬組織でブーストかけて最後の最後に愛という名の終着駅に家族と辿り着く」みたいな映画でした。

 

 イーストウッド演じる朝鮮戦争帰還兵でデイリリー(一日しか咲かない花で、その役柄の「その日暮らし」を表現している)を育てるアール・ストーンは、まさに「遅れた高齢白人男性」の象徴である。つまり彼はインターネットを愚弄し、人種差別的なワーディングセンスも抜けきらず、そして仕事やアフターファイブの酒場での「アメリカン・ジェントルマン」(ある種の語義矛盾があるが)な自分だけを恃みに生きてきたような人(たとえば彼は黒人に「ニグロ」、メキシコ人に「タコス野郎」と平然と言ってしまうが、悪気があるわけではない)。家族とのふれあいがほぼなく生きてきた彼(ここらへんがうちの父に似ていて結構辛かった)は、ひょんなことからメキシコの麻薬組織の運び屋を請け負っていく……とこれだけ書くとおいおいまたイーストウッドさんは銃を手にして人を殺すんですか?となるが、今回イーストウッドは人を殺さない。偉い。お金のためにおんぼろフォードのトラック(途中からピカピカのマークLT)で運び屋をエンヤコラと続ける。手に入れたそのお金は自分のためというよりも、家族のため、郷里の退役軍人のために使う(それはしかし、よく見られたいという虚栄を生きてきた彼の最大のエゴイズムである)。やがてそれがDEAにも補足され……というのがまあざっくりとしたあらすじである。

 

 個人的に感動したシーンをひとつだけ。組織から絶対時間厳守で運べよと脅されていた1200万ドルのコカインの仕事をうっちゃって、アールは死の間際にある妻メアリーを見舞う。その中でアールがこれまでのことを謝り、2人は束の間の優しい時間を過ごす。それまでメアリーは家庭のことをかえりみなかったアールが、急に孫娘の学費やフィアンセのバー開店資金を用立ててくれた(もちろんヤクを運んだ報酬で、である)ことが気になり「どうやってお金手に入れたの?」と聞く。アールはここで本当にコカインのことを話すのだが、メアリーはそれをアールの冗談だといってうけとらない。そして、一言。「そばにいるだけなら、お金は必要じゃないのよ」

 

 序盤、アールとメアリーは孫娘の結婚資金のことで喧嘩別れになっているので、おいおいお前最初にお金のこと言ってたやんけ今さらかよと一瞬俺は思った。だが、アールが運び屋稼業に足を突っ込んでまで、家族との絆を取り戻そうとしたからこそ、きっとこの言葉が生まれたのである。なので、この言葉は言ってしまえば「きれいごと」に過ぎないのだが、しかし何だろう、この「きれいごと」が夫婦生活の最終盤で生まれたことがひとつの奇跡なのではないかと思ったのだ。そこから、自分の両親のこととかを考えていたら、映画中ちょっと泣いたというのが実情である。

 

 ま、こうやって書くととてもいい話なのだが、一方で麻薬組織内の権力闘争や、DEAの人権無視太郎な捜査などが冷徹に裏書きされていく。そして、他のイーストウッド作品の例にもれず、この映画にも極めて複雑な「アメリカ」という文脈が織り込まれている。しかし、その点については俺の知識があまりにもなさすぎるので、とりあえずはそういった事実のみを指摘するにとどめる。

 

 さて、『グリーンブック』はもっと複雑である。朝日新聞の記事でこの作品が賛否両論あることは知っていた。個人的には、人種差別と階級間敵対が結合し、さらにはそこに移民国家としての歴史ものせちゃう憎しみの3種チーズ牛丼みたいなアメリカ社会の諸相について、それなりのボリュームでもって描いているようだと思う。それをコミカルな雰囲気と予定調和的なラスト、そして典型的な白人の歩み寄り(という奢り)で包むことが差別の隠蔽、あるいは差別の肯定につながりかねないという批判もあるかもしれない。少なくともアメリカ社会ではこれは価値中立的にみられるものではないだろう。それを織り込んだうえで、俺個人はこの映画にみるディープサウスの黒人差別に胸を痛めたし、それ自体は一定程度考える材料として機能しうると思う。だが、俺はこの映画にそれだけをみたわけではない。

 

 ヴィゴ・モーテンセン演じる粗野で差別を隠そうともしないイタリア系アメリカ人トニー・リップが、黒人ピアニストのドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の南部でのコンサートツアーの運転手兼トラブル解決役として南部を回っていくのが大体の筋だ。正直エピソードが多岐にわたっていて(「ケンタッキーでフライドチキンだってよ!」、「僕は黒人でゲイです」問題、クラシックかポピュラー音楽か論争など……)、そのひとつひとつを語りたいけど体力がない。しかし、酷薄な黒人差別(トイレは使えない、レストランも入れない、酒場で殴られる、警察に不当逮捕されるエトセトラエトセトラ)が提示される中で、通奏低音として響いていたのは一貫して「文化」の問題であったことは指摘しておきたい。教養や品格として黒人や白人も体得できるとシャーリーが考え顕彰する「文化」は、一方で依然として白人が黒人を搾取する装置でもあった。この指摘が的を射ているかは実際に見て確かめてほしい。

 

 とまれ、2本も「アメリカ」に関する映画を見て、久しぶりに自分の中でアメリカとはと考えるいいきっかけになった。それに、久しぶりに1日に映画2本見られた。これはとてもいい趣味ですねという感じだ。前職では諸事情によってほとんど映画は見られなかったが、これからは頑張ってみようと思います。以上。