死者の如き従順

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【映画感想】『バイス』――絶対的権力の「何が」徹底的に腐敗するのか

 アクトン卿のよく知られている格言で「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」という言葉がある。昨今の日本の政治状況を見ても「そやね」と確信できる言葉だと思うが、しかしよくよく考えてほしい。権力の腐敗、とは一体全体何を指しているのか。権力を持つ者の腐敗か、権力を行使する組織の腐敗か、あるいは「権力」概念そのものの腐敗か。そもそも、「腐敗」とはどのような状態を指すのか。

 

 『バイス』は、簡単に言ってしまうと『マネー・ショート』のプランBが再結集してこの問いかけにふざけながらもとりあえず60点の答案を出してきた作品だ。60点というのは、エッセンスは確かだが、「おふざけ」が過ぎるなと思うからであって、むしろ誉め言葉である。

 

 主人公はクリスチャン・ベールが演じるディック・チェイニーアメリカ史でも類を見ない政治権力を副大統領ながら、いや副大統領だからこそ手にした男だ。チェイニーが如何にして権力の階梯を登りあがっていったのかにフォーカスをあてていく。

 

 飲んだくれてせっかく入ったイェール大学を退学し、飲酒運転で捕まるチェイニーに愛想がつきかける恋人のリン。リンは飲んだくれた父親が母親に暴力をふるうことを念頭に「そういう結婚はいやだ。そうじゃないと証明しろ」と強く言い、チェイニーはまともになることを決意、議会インターンの仲間入りをする。ここで、スティーブ・カレル演じるラムズフェルドが壇上からインターンたちを皮肉って「精鋭(ベスト・アンド・ブライテスト)?」と皮肉るシーンがあるが、ベスト・アンド・ブライテストとはケネディ及びジョンソン政権でブレーンを務めた補佐官や閣僚を指す(そして、彼らが如何にベトナム戦争の泥沼にはまったかはハルバースタムが描き切った通りだ)。実際、ドン(ラムズフェルドの愛称)とディックは、その後共和党の「ベスト・アンド・ブライテスト」として、ニクソンとフォードに仕え、ディックは下院での経験を経てレーガン・パパブッシュに仕える(ラムズフェルドレーガンブッシュ政権では閣僚入りしていない、念のため)。そして、彼は子ブッシュ政権下で「お飾り職」とされてきた「バイス=副大統領」を射止め、権力の絶頂期に至り、対テロ戦争などの重要なプロセスで彼が主導的役割を担ったかが描かれる。

 

 こうした中で、チェイニーが培ってきた行政・立法での経験が彼が「バイス」になった時の鮮やかな権力掌握術につながる。この点については、映画を見るよりもバートン・ゲルマン『策謀家チェイニー』に詳しい(というか、これが種本だろと思うようなシーンがちらほらあった)し、正直映画よりも法律顧問のアディントンや副大統領首席補佐官だったスクーター・リビー(ブレイム事件で訴追され有罪判決だったが、最近トランプ政権下で恩赦になったらしい)のあくどさがよくわかる。とはいえ、映画でもエッセンスはきちんと描かれていると思った。ラムズフェルド、ウォルフウィッツ、リビー、アディントンらとチェイニーがホワイトハウスと省庁人事を固めるところが、個人的には映画の中で一番アガったところだ。下の下にいた人間が上の上でやらかしまくるのが好きなので。

 

 まあ、論点は多岐にわたるが、この記事で注目したいのは、映画で描かれる「権力の無目的性」だ。リンに「証明しろ!」と言われたので「はい、じゃあ証明しま~す」とばかりに権力の階段を駆け上がっていくチェイニーだが、映画では「何で偉くなりたいのか」が全く見えてこない。世の中をよくしたい!とか、偉くなりたい!とか、金ばらまきたい!とかそういうのが「目的」として描かれない。もちろん現実のチェイニーにも何かしらの理念はあったのかもしれないが、この映画はチェイニーの抱く理想像に対しては極めて禁欲的だ(本論とは外れるが、これは民主主義という理念を実現するべく軍事的手段も辞さないというネオコン=ウォルフウィッツ的な発想を指弾するリベラルしぐさとは一線を画しているというメッセージだと思った。あるいは、「アメリカはネオコンがダメにした!」的な主張のバカバカしさを再演するまでもないということだろうか。ネオコンをある政策志向を持つ外交的職能集団として定義すると、その世界観についての検討がしばし疎かになると個人的には思う)。何のために権力を握るのか、それが観客もチェイニーも全く分からないまま、全てが掌握されていく。

 

 こうして獲得された自己目的化権力は、それを規制する理念を欠いているため、いわば「なんでも入る箱」になってしまう。結果として、ありとあらゆる常軌を逸した構想が、副大統領と側近たちの密室政治で曖昧に実現されていく。印象的なのは、チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフウィッツ、アディントンがテーブルを囲むレストランで、ジョージ・テネットCIA長官が給仕役となってメニューで「レンディション(国外におけるテロリストの違法な移送)などいかが」という政策を提示し、チェイニーは大した検討を加えることなく「全部もらう」というシーン。こうして、CIAの「ぼくのかんがえたさいきょうのちょうほうかつどう」にお墨付きが与えられ、あとはティム・ワイナーが書いた通り、そのしっぺ返しで悲惨なことになる。

 

 最初の問いに戻ろう。この映画によると、権力の腐敗とはつまるところ「権力の無目的性から生じる自己目的的な権力の邁進」である。映画で描かれる大企業への利益誘導も民主主義的プロセスを度外視した密室政治も、それが目的ではなく「権力」への手段でしかない。この場合チェイニーという「権力者」個人にこの「腐敗」の責任を問うのは筋違いだろう。チェイニーは確かにこの「権力」の完成者であるが、しかしそもそも少数者による政策決定の伝統は、少なくともケネディ政権から既に用意されていたのである(もっと前からかもしれない)。映画で何度も問題になっているUnitary Executive Theoryについても、その土壌はニューディール以降の執政府への権力集中にあったとみるべきだろう(実際、副大統領が実質的な役割を持つだろうという観測はフォード政権からあったはずだ)。この「腐敗」は運命づけられているようなものであり、チェイニーはジェンガの最後の1本を抜いたに過ぎない。チェイニーは邪悪なのではなく、統治機構や議会操縦を知り抜いた上で、その権力獲得の先に何をなすべきなのかが明白でなかったことが問題なのだ。そして彼は、保守系シンクタンクの勃興を背景に、PNACネオコンの世界観にのっかった、というよりもそれさえも利用したとするのは、言い過ぎかもしれないが。

 

 チェイニーもラムズフェルドも「アメリカを守る」ということはお題目のように繰り返すが、アフガニスタンタリバンを瓦解させた後に、アルカイダと本来的にはつながりのうすいイラクに謎のぶっこみをかける時点でそんなものは嘘だとわからなくてはいけない。じゃあ結局このマッドティーパーティーは何で行われたのか? ということがよくわからない。さらに恐ろしいことに、時系列を徹底的にシャッフルして観客の時間意識をずらした上でこの映画が問いかけるのは、「パーティーは本当に終わったのか?」ということである。そして、チェイニーによって完成した権力が向かう先を誰も知らないとしたら……。ここから先は映画の話ではなく、紛うことなき現実のアメリカ政治を振り返る必要があるだろう。バカバカしく笑える映画だが、あくまで現実への手引きでしかないということだ。最後のシーンは、アダム・マッケイによる観客への「いつまで映画で消耗してるの?」という皮肉なのかもしれない。

 

 基調はおふざけだが、アメリカ政治史へのきちんとした目配りが随所にある。こういうのを見て「こんなんでイラクの人たちが死んだの? 気分悪い……」と思う向きでなければ、オススメできると思う作品だ。