死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

ライプニッツ『モナドロジー』(岩波文庫、2019)第1回読書会の記録

 【使用テクスト】ライプニッツモナドジー 他二篇』(谷川多佳子・岡部英男訳)岩波文庫、2019

 【副読本】ライプニッツ形而上学叙説・ライプニッツ=アルノー往復書簡』(橋本由美子監訳、秋保亘・大矢宗太朗訳)平凡社、2013。その他、ライプニッツ著作集(人間知性新論、弁神論、前期・後期哲学)を適宜参照。某区立図書館が貸してくれましたありがとう。

 【開催日】8/17

 【場所】新宿区の某喫茶店

 【人数】3人(俺、warmdarkさん、シネキチ三平さん)

 【所要時間】14時~17時(お腹がすいて帰った。夕焼け小焼けまた明日部なので)

 【到達箇所】45節。ちょうど半分

 【進め方】事前に全員が『モナドジー』を読んできたうえで、読書会の進行は節を内容がまとまってそうな3~4節ぐらいごとに分けた上で一通り読み、分からなかったところ、疑問に思ったところなどを確認するスタイル。レジュメは用意しなかった。

 

 以下、それなりに議論になった部分をまとめる。

 

 2節。複合体について。非物質的なモナドが集まって、何故(物体)(身体)という物質的なものと言い換え可能な複合体になるのか。訳注で指示された『理性に基づく自然と恩寵の原理』においては複合体も実体として記述されていることを確認。ライプニッツ的には複合体は実体化された現象で、これは人間にとっての記号的な認識に過ぎないということ。それでは、物質的として我々が触知する諸々の表象とは……という疑問がなくはないが、先に進む。ここで一応デカルトにおける延長/思惟の二元論的な実体観と違い、ライプニッツモナドという単一の実体観を打ち出したことも確認。

 

 5節。「単純な実体は、複合によってつくることはできない」とあるが、そもそもモナドが一挙に創造・絶滅という超自然的過程を踏まないといけないと考えると、その位置などは決まっているので、「複合」ってどういうことを指すんだろう?と俺が単純に疑問に思った。結局これは「複合」=自然的な変化(後述される生物学的な成長による変形?)なのだと勝手に納得したが、これでよかったのかは不明。今後もここは考えたい。もしくは教えて偉い人。

 

 8節。訳注の「『性質をもたないモナド』とは、数学的点のように、すべての属性・性質が分離されてしまった基体のようなもの」という記述がよくわからず、ここで少し立ち止まった。多分「点」はノートにペンでちょこっと書くと、それは「黒い」とか「インクが染みている」とかの属性を得るが、数学的な点は高度に抽象化されているのでそういう属性がないもの、という説明しか俺はできなかった。パラフレーズしながら説明していくと、自分の理解の粗さとかが再確認できるのでよい。読書会の醍醐味だ。

 

 12節。「変化するものの細部」についた訳注の「今日的な言い方をすれば、あらかじめ書き込まれたプログラムに従って進む多様な状態といったもの。これをどう説明するか。1680年代までは、自分のすべての述語を含む主語としての完全概念という言い方がされたが、アルノーはそこに運命論的な傾向を見て、自由を損ないかねないと批判した。完全概念という言い方は1690年代になるとあまり見られなくなり、代わって力、生命という見方が多用されるようになる」(p19)に首を捻りまくった。今思い返すと、恐らく「あらかじめ書き込まれたプログラム」=「モナドの内的規定」で、だけど別に整然とパターンがあるというよりは多種多様にやっていってますよということなんだろう(それがアルノーとの論争に出てくる「すべての述語」=「多様な状態」を含んだ「主語としての完全概念」=「モナド」ということなのかな)。この理解は読書会までには得られず、伝家の宝刀ライプニッツ著作集の訳注を見るという禁じ手で済ませた。

 

 14節。表象。やはり普通に考えると表象というのは「俺がドラえもんを見ている時に、俺が頭の中で知覚しているドラえもんの像」みたいなことだと思い、どうしても意識的なものと考えてしまうが、ライプニッツが意識されない表象をきちんと指摘している点が大事だった。ライプニッツの考えでは全てのモナドに表象が与えられており、そしてそのモナドの表象の判明度でランクがわかれ、①単なる有機的物体(生物、しかし恐らく石とか椅子のような通念上の無生物も該当する?)②動物③人間となっていく(63節訳注)。なのでライプニッツにおいては石やディスプレイ上の非実在美少女もモナドで構成される以上、恐らく表象があるということなのだろう(しかしメタクソに混乱している)。

 

 15節。表象と欲求について。欲求というのはさしあたり「モナドAが内に含む表象Aから表象A'に到達しようとする内的な働き」で、結果として表象Aから表象A’’に行ってしまうこともある、とパラフレーズして何とか理解にこぎつけた。この手の哲学書の読書会をしていると毎度思うが、こうして何とか理解したところでそれが通説的な理解でなかったり、見当はずれだったりしたら辛いものがあるが、みんなでこういう解釈に辿り着こうという所作が大事。

 

 20節。混乱した表象について。ライプニッツが例としてあげているのは「私たちが気絶したとき、夢一つ見ない深い眠りに陥っているときのように(中略)この状態になると魂もただのモナドと著しくは違わないことになるけれども、この状態は持続するものではなく、魂はそこから抜け出してくるので、やはり魂はただのモナド以上のものだということになる」というのは、分かりやすいようで分かりにくい。その「抜け出し方」において魂はどうなっているのかをライプニッツが記述しないからだ。warmdarkさんは「魂のランクがその時は落ちている?ただのモナドになっちゃうってこと?」と考えていたが、俺は「認識能力が一時的に低下することで、ランクが変わるわけではないのでは」と言った。この議論はその場で収まったが、後日(というかこのブログを書いている今)ライプニッツが指示する弁神論64節を見ると「魂だって混乱した表象を持つことがあるよ。だって魂がちゃんとした表象しか持たなかったらそれって神じゃん?」(大意)とか言っていて、ほへーとなった。

 

 23節。「失神状態から目覚めたときに自分の[知覚]表象を意識するのだから、私たちは目覚めるすぐ前にもそれをもっていたにちがいない。ただそれを意識しなかっただけだ。じっさい表象は、自然的には他の表象からしか出てこられない。ちょうど運動が自然的には他の運動からしか出てこられないように」という。ここも俺は引っかかった。

 たとえば俺が部屋の中で失神していたとしよう。目覚める1秒前の俺の表象はまっくらくらすけなので、そこから目覚めた瞬間いきなり俺の部屋を知覚するというのは、1秒前の暗闇と連続性があるのかね?という疑問。失神する前は部屋の中にいるので、要は表象は連続性は失神する前と目覚めた後ということになると考えればいいのかもしれないが、いやしかし、意識されない表象=混乱した表象としては1秒前のまっくらくらすけなのではないかという気もする。ここら辺もちょっとその場ではなおざりにしてしまったかもしれないので、考えていきたいところ。

 

 その後はまあとんとん拍子に進み、29節~38節の永遠の真理と偶然の真理の区別、矛盾律と充足理由律との対応関係、そして充足理由律が神の存在の必然性を要請することまでは普通に確認できた。卓越的になどスコラ的な用語は訳注がちゃんとフォローしてくれたので、ド素人の我々も何とか食らいついていくことができたと思う。

 

 さて、今回最大の難所だった43・44節について。

 

 43節「神は現実存在するものの源泉であるばかりか、本質もくしは可能性のなかにある実在的なものの源泉であるのもたしかである。ここでの本質とは、[ものがもともともつ]実在としての本質である」ライプニッツが証明したいこと。神が現実存在するものの源泉ということは38節までで明らかにしている。

 

 「本質もしくは可能性のなかにある実在的なもの」とは、それが「何かである」「何かでありうる」ために「そのものたらしめる」であることである。三角形の実在性は内角の和が180度。で、事実の真理から神の必然性を導き出したことを考えれば、これは永遠の真理に対応していると考えられる。


 だからライプニッツは「なぜなら、神の知性は、永遠真理もしくは永遠真理のもとになる観念が存する領域であり」と続けた。永遠真理とは「三角形の内角の和は180度である」などを指し、これらは神の知性のうちにあるとする(=存する)というわけだが、これが我々が???となったところだった。


 弁神論をひいてみると、「神は知性そのものであり、必然性つまり事物の必然的本性はその知性の対象となろう。しかしこの知性の対象は内的でもあり、神の知性の内に見出されるものである」(弁神論20節)。このことも含めて考えると、つまり三角形の内角の和が180度でなくなる=神がいない場合、三角形はなくなるし、想像不可ということになるだろう。


 これが43節最後の「神がなければ、諸々の可能的なものの中に実在的なものは何もなくなり、現実存在するものがなくなるばかりか、可能的なものさえなくなってしまうからだ」という結論の言い換えになる。少なくとも俺はそういう理解に達した。


 ※なお、神が恣意的に三角形の和が240度にすることもありうるというデカルト主意主義の前提を採用すればそうではないが、ライプニッツはそれが神の知性に存する限り、三角形の和は180度でなければ三角形の実在性が保てないと考える。「真理がいわば実在化する場所としての神の知性」(弁神論189節)なので。


 44節の「というのも、本質すなわち可能性、あるいは永遠真理のなかに実在性があるならば、この実在性はたしかに何か現に存在している現実的なものに基づいているにちがいないのだ」というのは、ライプニッツによる神の存在が現実的であるということを示したいとする一文。この後がまた喧々諤々の議論となった。


 「したがって、本質が現実存在を含み、現実的であるためには可能的であれば十分である、必然的な存在の現存に基づいているにちがいない」この論法それ自体はデカルト的な神の存在証明と似通っているが、デカルトが想定する「最完全者」ではなく、「必然的な存在」とする。


 本質に現実存在を含むというのはデカルトが言うところの「最も完全なもの」はその本質に「現に存在すること」を含まないといけないという議論(存在=本質)。現実的であるためには可能的であれば十分というのは「必然的」の説明で、(現存していない)可能的なものでも現実的にいずれなることを示す。


 それで45節で「神(すなわち必然的存在)だけが、可能的ならば必ず現に存在するはずだ、というこの特権をもっている。そして、限界を含まず否定を含まずしたがって矛盾を含まないものの可能性を妨げるものはないから、そのことだけで十分、神の現実存在をア・プリオリに知ることができる」と導かれるのではないだろうか。

 

 と、一応これが読書会の後に俺が考えつづけた一応の暫定的な解釈で、その場ではマジで何言ってるのかわからんという感じでお手上げだった。わからんものはいくら頑張ってもわからんのですね。

 

  【総評】

  まあ前半部分はこんな感じでした。難しかったね。

  いやでも本当に読書会やれてよかった。このために東京に帰ってきたといっても過言ではないので。

  やはりライプニッツの用語に頼らないで(あるいはきちんと噛み砕いて)一からその理路をどれだけ整然かつ無理なく他人に説明できるかがその著作の理解度や解釈の深度を表していると思う。これは一人で読んでいるとなかなかそうはいかない。武藤遊戯ならともかく、なかなか自分の読みの相対化は難しいものだ。

  どうしてもわからないところはわからないのだが、やはりわかろうと努力して議論すると、そのあと1人で考えていてもその議論をとっかかりとして解釈作業をスタートできるのも読書会の旨味だろう。この記録はもとより不完全な再構成でしかないが、何かの参考になれば幸いである。

  課題もあった。俺含めて近世哲学、ひいては哲学史の文脈についての知識が欠けていること。たとえば「実体」あるいは「実体形相」のような言葉はアリストテレスやスコラ哲学にも遡り、その上でライプニッツがそれを引き継いでいるのか何か微妙に変化させて使用しているのかを考えなければならない。岩波の訳注はそこらへんはフォローしているのでありがたいが、やはり自分たちでも少しは勉強しないといけないっぽい。その都度確認していると進行のリズムも狂うので、俺も次の勉強会までもっと頑張っておきたい。

  今回集まった3人は普段の知的関心も得意とする分野もまったく違うが、そんな3人が1冊の本の解釈をあーだこーだできるのは読書会のよさだろう。また、こういう読書会をセッティングすることでそれに向けて頑張って勉強しようという気が起きてくるものだ。思えば学生時代に3つの読書会に出てた時は毎日図書館に通うか文献を読むかしていたし、ああいう時間を少しでも取り戻せたと思うととてもうれしい。

  この読書会はライプニッツの研究者はもちろんのこと、近世哲学の研究者もいない、というかそもそもみんな社会人のど素人集団で組織されている。研究の上で重要なイシューや読解を発見する場ではない以上、やるべきなのはただ虚心坦懐にテクストと向き合うことだろう(その中に必要な知識を具備するとか別の文献と相互参照することはもちろん含まれるが、たとえばレッシャーの注解を見ないといけないとかそういうレベルはなかなか難しいと言わざるを得ない)。明後日の方向の解釈をしている可能性もあるが、しかしテクストと向き合うとはこういうことかと、自分の普段の読書態度も含めて居住まいを正すいい契機になったと思う。改めて参加者である2人に感謝したい。