死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

10月を振り返る

 本当に1か月に1回ぐらいの更新頻度で、しかもそれが振り返り記事だと流石にブログに対する向き合い方としてよくないというか、まあ諸々反省している。11月からはちょっとだけ頑張ろうと思います。目標は5本。いや3本。3本にしよう。今月は労働馴致期間だったということで許してちょ(キモ過ぎて女子が憤死する男が使う語尾4位)。

 〈苦役〉

 やあ、ついに始まりました。10月から新しい職場ですよ。まあ、職場に対する判断は3か月経ってからと思っている。それほどまでの判断を猶予できるというのは、ヤバすぎて1日で辞めるとかそういう次元の会社ではないということだ。何かそういう人もいるらしいですね、こわっ。

 ぶっちゃけて言うと、個人的にはまあまあいい会社を引き当てたなと思っている。事務仕事が主だが、割と総合職的な裁量もあるみたいで、頑張りどころも所々あるみたいだ。給料も思ってたより高かった(しかし普通に同世代と比べるとやや低いだろうが、昭和生まれのおじさん曰く事務仕事は女の仕事なので仕方ないね)。上司や先輩も優しい(と思う。壁があるのは、多分俺も黙々と仕事をしているし、向こうは向こうでこいつヤベェと思う理由があるのかもしれない。思い当たる節がないわけではない)。何より定時帰りができる。これはうれしい。前の仕事ではお天道様は天照大御神よろしく引っ込みニュクスが「やあ、そろそろ僕も寝ようかな」と言うようなクレイジーな時間帯に帰っていたので、ビルを出た途端に日の光が眩しすぎて完全にとなりの吸血鬼さんになってしまった。

 てなわけで、前職と比べればほとんどのことがマシだ。唯一不満なのは、職場で面白不謹慎ジョークを絶対に喋れないということ。前職では「Yo 俺は野蛮な白人 お前のヘッズごと殺戮 するためにぶち込むガス室 様子はさながらアウシュヴィッツ」という謎ライムをブツブツ呟いたり、クソ案件が降ってきたら普通に「ファックすぎますやんけ!」「何だこのクソ野郎マジで登記とって住所特定して車突っ込ますぞ」とか言っていたので。まあでも定時帰りできるなら、全然トレードオフ可能な不満ですけどね。

 前職でも俺は孤立していて、研修期間中はほぼ一人で昼飯を食うとかいう「汚泥まみれの孤立」をやらかしていたわけだが、見事前例を踏襲しました。コンサバお嬢様かな?今日同時期に入社した同期と昼休みたまたまトイレの前で鉢合わせして「生きてるってみんな心配してたよ~」って言われた。たよりがないのは元気な証拠っていうグランマ・ファッキン・ウィズダムをご存じない世代のようだ。ちなみに同期と話したのは13日ぶり?ぐらいです。

 まあ孤立を勝ち得た(としておこう。ハブられてるわけじゃないと信じているので)昼休みは大体読書している。これは大きな変化だが、通勤と帰り、昼休みは大体本を読んでいる。1日3時間も読書にあてている期間が1か月ぐらい続いているのは割と進歩かもしれない。うれしい変化である。加えて定時で帰っているので夜も時間があるし、スカイリムに飽きると本を読む。

 ただ、やはり行き帰りの満員電車と、慣れない職場での気疲れ(それは上述の不謹慎話ができないことが大きい)もあってか、一息つこうと思ってパソコンから離れてベッドに寝転がるとその瞬間寝落ちする。そして午前4時とか5時に起きるという独居老人プレイをかましてしまう。多分このまま両親も死に、俺も一人で死んで、布団にでっけえ消えねえシミを残して腐臭を漂わせながら、たまりにたまった朝日新聞を不審に思った近所の有象無象に「案件」として通報されるという死にざまを迎えるのだろう。バグダディの方が100倍マシやんけ。

 

 〈社交・レジャー〉

 今月はそんなに飲み会行かなかった。多分2回、ないし3回ぐらいである。うち1回は職場の歓迎会、2回はよく考えたら同じ人だわ。1人でもほとんど飲みに行ってない。飯もだいたい家で食べている。こう書くと何か一気につまらない人生になってしまったっぽいな。まあそもそもお金がないので自由度は高くないのですが……。

 たまに行くようになったのがサウナだ。ツイッターで後輩がよく行って気持ちよくなっているし、俺も地方勤務してた頃はスーパー銭湯に週1で行ってたのでどれ東京のサウナはどんなもんじゃいと思い、池袋のスパレスタや水道橋のスパラクーアに訪れるようになったが、これが割といい。レスタは水風呂がすごく、蒸されてコミンテルンみたく真っ赤っ赤になってからあのデケェ水風呂に入ると瞬間でてっぺんからつまさきが冷やされ、肉体が天国と地獄を中国人卓球のラリーの如く高速で行き来する。経済学者に必要なのは冷たい頭脳とあったかい肉体ができあがり、外気浴で落ち着いて繰り返す。最高のセットができる。ラクーアはサウナの種類が多いし、温泉も気持ちいい。あそこの温泉に行ってから痛かった腰がちょっとよくなった気がする。サウナは今後も開拓していきたいと思っている。

 〈読書〉

 上述の通り、割と読書はしたと思う。読んだ本を思い出せる限りで言うと、7冊ぐらいだろうか。

 

 ポール・カートリッジ『古代ギリシア人』(白水社)。よかった。古代ギリシア人の自己認識を、対立図式(市民と奴隷、自国民と外国人、男と女など……)の中で一方を優位付けるために他方をとことん貶める「階層的二項対立」と位置づけ、そのためにヘロドトスやトゥキュディデス、クセノポンなど主に歴史書(と若干アリストテレスプラトン)を繙き、鮮やかに紹介していく感じ。

 一般書っぽいが、史料の読み方も面白いと思った。ヘロドトスが残しているキチガイよもやま話は割と面白いが、そのヘロドトスがどういう意図でもって歴史叙述をしていたかというのを、ヴィダル=ナケ(もしかしたらアルトーグだったかも)の研究に添って〈鏡〉のメタファーとしたのはなるほどと思った。要は、異常面白話でもそれを書き留めていたのは、現実のギリシアの読者に批判的な意図を伝えるためだとかなんとか(上旬に読んだので結構忘れている)。普通にヘロドトスとかトゥキュディデス、あるいは古代ギリシアのヒストリオグラフィーに興味のある向きはオヌヌメ

 

 桑原俊介『シュライアマハーの解釈学』(お茶の水書房)。面白かった。シュライアマハーの一般解釈学を、「霊感によって作者が行けなかったところまで行くんや」とか「作者を理解できるのは同じレベルの天才だけや」と理解する「ロマン主義的解釈学」像(ディルタイ=ガダマーに由来)を退け、シュライアマハーがあくまで技術的な解釈学を構想していたことを、シュライアマハー以前の解釈学者(クラデニウスとかマイアーとかそのあたり)や同時代の研究(古典学や聖書の歴史的研究)の視野に位置づけつつ論証していく「概念史」的な本だった。概念史って言われてもようわからんよっていう人にはこの本を投げつければいいのだろうね。麻生健『解釈学』がこの分野のスタンダードだと思うが、それより先に行きたい人向けという感じか。

 

 若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』(亜紀書房)。何かたまに本とかどうでもいいわどうせ死ぬんやからねって思うことがあって、読書しない時期が続くのは大学生の頃からあったけど、この本の著者は別に無理して読まなくてええんやでということを優しく言ってくれる。確かに無理して冊数をこなすとか、難しい本に体当たりするとか、必要な時があるとは思うが、たいがいの人間は別にそんな肩ひじ張る必要はない。学術をやるサークルにいたせいか俺も変な強迫観念がこびりついているところがあって、そういう状態の人間は本書を読むといいかもしれない。

 一節の優れた文との出会いを「待つ」こととか、どうしても読めない時はむしろ「書く」べきだとか、割と示唆に富んだ指摘が随所にあると思う。読後感はヤノーホの『カフカとの対話』に近いかもしれない。そういえばカフカもヤノーホに「書くべきことだけを書け」と言ったり、ゲーテも成功にはやるエッカーマンに似たようなことを言っていた(と思う。昔は割と正確に記憶から引用できたが今は無理です。また読み直す機会を与えてもらったと神に感謝したい)。人間は年下にイキリがち、というだけではない一片の真理みたいなものがあるのかもしれない。

 

 ハインツ・ハイムゼート『近代哲学の精神』(法政大学出版)。ハイムゼートナチ野郎有名なカントの研究者で、『純粋理性批判』の超越論的弁証論注釈(4巻)とか書いた人です。ヴィンデルバント哲学史の教科書を補訂し、今もなお読み継がれるに値するものにしたことも知られている。

 そのハイムゼート戦間期(?)ぐらいに書いたのが本書で、近代哲学がどう古代や中世の伝統と連続しているか、あるいはしていないのかを問題史的、つまりテーマごと(たとえば神と世界、有限と無限、魂と外的世界、静態的な存在概念と動的な生動性ないし連続性の概念みたいな)に明らかにした本。題名を裏切り、叙述は割と古代・中世に寄っていて、ハイムゼートはその中でもエックハルトとクザーヌスの先見性みたいなのをつとに指摘している。序文でも言っているが、哲学史っつーのは古代中世といったらルネサンスで人間解放されてそれがデカルト以来の近代哲学を用意したって説明ばっかりだけど、イタ公のルネサンスよりドイツの果たした役割の方が大きいやろという哲学史お国自慢みたいな感じだ。

 そこらへんはまあ時代だねという感じではあるが、普通に基本的な概念を整理するという意味ではメチャクチャお役立ちな本だった。ライプニッツの勉強会をしている時、ライプニッツが依拠しているであろう哲学の伝統がよくわからなかったのだが、この本では個体概念や連続性について割と理路を追って説明してくれていて、その点からもよかった。ただいかんせん難しい(翻訳が悪いというより、クソデカいおにぎりを握りまくってちっちゃく込めたみたいなレベルの文章が延々続く感じ)。一読したが、普通にあと2回は読まなきゃ無理なのではという感じ。同著者の『近代の形而上学』にも挑みましたが、これは翻訳もどうなのって感じで100頁ぐらいで挫折しました。また会いましょうね。

 

 國分功一郎原子力時代における哲学』(晶文社)。2013年の講演をまとめた本。著者はもちろん反原発派。とはいえ、子どもの甲状腺がんがーとか、福島の野菜なんか死んでも食べないとか、原発村の連中は、みたいな反原発クリシェで埋まっているわけではなく、著者の反原発を支えるロジックは「普通に核のゴミとかヤバいし、絶対いらんでしょ」という感じ。ただそこでとどまるのではなく、もっとこの原子力という問題を哲学的に考えてみましょうよっていうのが本書の意図だ。

 参照項は、1950年代という圧倒的に早い時期から「核の平和利用」(著者はこの言葉を欺瞞的な用法だと絶えず主張する。俺もそれはわからないでもないが、ちょっと消化不良感がある)に警鐘を鳴らしていたハイデッガーが特権的に多くのページを割かれており(というか半分ぐらいはハイデッガー読解である)、アーレントやアンダースなどの哲学に目配せしつつ、最後は中沢新一の文明論や斉藤環精神分析お茶を濁すという感じ。

 うろ覚えだが、脱原発に向けての政治的な活動は「原発は絶対ダメ」と言うだけでいいが、それはクリシェに陥って思考を欠如させることにもなる。だからこそ哲学的に、原子力を考えなくてはいけないという問題意識そのものには共感するし、その手がかりとなっているハイデッガー解釈はまあまあ面白いと思う。

 『放下(Gelassenheit)』という単行本として出版されたテクスト(前半は音楽家のための記念講演だがハイデッガーは音楽家のための話を全くせず技術論を展開する。後半は『野の道の会話』の対話の3分の1を採録している)などを読み解き、原子力時代における「思考の欠如」を指摘し、そして必要な思考とは何かを志向する形ではなく、「待ち(期待ではない)」「受け入れる」ことでしかありえないと析出している。これについてはなるほどなと思った。ブラック・ラグーンにかぶれていたので、高校生の時にハイデッガーを読むということをしていて『放下』もその時読んだが何が何だかさっぱりだった。今回そのさっぱり感が少しだけ「はあこういうことを言おうとしてたのかね」と納得感に変わった気がする。

 ただ、正直最後の方は個人的には全く賛同できなかった。原子力発電は初めて太陽を媒介しないエネルギー(これは中沢が『日本の大転換』で言っているらしいが、火力は100歩譲って水力発電はどうなのという某友人の指摘は全くそうだなと思う。水も太陽を媒介していると考えるんですか?)で、その無媒介性が、自立自足して生きたいという原発推進派のナルシシズムの現われではないかという。謎文明論と精神分析のごった煮がいいのかは措いておくとして、原発推進派といわれる人々の言説を具体的にもっと分析するなどの「傍証」が欲しかった気がする。いきなりそんなこと言われてもなあという唐突感があった。本書は著者も出すことを迷っていたそうで、もうちょっと時間かけていろいろ論点を補強するなどがあってもよかったと思うが……。

 一応、個人的には原発なしで将来的にも電力が賄えるのであれば、原発はなくてもいいと思っている。高浜のあのヤベェフィクサー気取りジジイの報道を見て、原発なんて最初から碌なもんじゃなかったとも思うようになった(調べればわかるが、柏崎刈羽とかもその創設期はあの手の山師、森山とか籠池とか山根会長みたいな連中が跋扈している)。それに、結局のところ日本の「核の平和利用」が裏面で安全保障とつながっているのは明々白々なので、そのためにこの災害大国に原発を置いておくのも割に合わないと思う。もし仮に原発をそれでもとどめおきたいというなら、それはやはり核武装という見果てぬロマン(悪夢と呼ぶ人もいるだろう)があることは念頭に置くべきではないのか。ちなみにこのブログは海で一番自由なブログなので、原発推進派も反原発派も核武装論者も核廃絶論者も等しく同じ人間として扱っていきたい。

 

 井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学出版会)。最近ビザンツがアツい。理由は後述するが、とにかく最近はビザンツものを読んでいる。

 トインビーの文明論を改変しつつ借用して「ビザンツ文明」なるものを分析の基礎概念とし、古代ローマキリスト教との連続性、そしてビザンツの独自性(即ち非連続性)を都市・皇帝・宦官・戦争というトピックから明らかにしていこうという本。やはりビザンツ学の大ベテランが書いた本なので滅法面白いというか、史料の博捜ぶりが半端ない。久しぶりに歴史書を読んだが、ページが止まらない感覚があった。

 都市においては、アテナイ以来の民主政が階級格差の拡大や異民族の侵入など様々な要因で腐り果て、「パンとサーカス」(今で言ったらエロ絵師のシコい絵とFGOか?)を求める組織されざる大衆の個人主義が台頭する。そこに伝統主義と権威主義が重なり、都市の自治を明け渡してビザンツの皇帝専制が始まる(だから、ビザンツにとっては東方の専制などの方が近親的であった。ビザンツ年代記天地開闢から記されているが、アテナイの民主政や共和政ローマは無視されるかサラッと流され、アレクサンドロスに至るという。ウェイバー君かよ)。

 その皇帝専制は神の代理者としての権威を儀式的に演出し、かつ「パンとサーカス」を提供し続けることで人々を喜んで「皇帝の奴隷」にした。その専制を支えたのは、キリスト教の理念であり、正教の布教によってビザンツは影響力を不断に東方へと拡大していった。その専制を支えたのは高度な統治機構で、とりわけ宦官は、家族を持てないがために、その忠誠心を皇帝に向けるという意味でも重宝され、ローマ的な伝統の強い西欧では東方の因習だと憎悪されたが、一方キリスト教では宦官を広く認める余地があり、その点キリスト教的な性格を色濃く受け継いだビザンツにこそ居場所があった。戦争では、西欧はアウグスティヌス以来の「正戦」から十字軍に至る「聖戦」、イスラームも「ジハード」で強力に拡大したが、ビザンツは「厭戦」あるいは「防衛戦争」のみを是とする観念から、ゲリラ戦の展開や友好的な捕虜交換制度を促進していった。

 このようにビザンツの特徴を古代ローマキリスト教の理念と詳しく比較しているのでイメージが掴みやすく、なおかつ文章もこなれていて読みやすかった。オススメです。

 

 そして今途中まで読んでいるのがジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』(白水社)。上述の井上先生が訳の監修をされている。井上ビザンツとの違いは、叙述のジェンダーバランスに配慮がある点や、美術史にも割とページを割いているところだろうか。こちらはどちらかというとテーマ別にいろいろ書いているので井上先生の本ほどまとまりはなく、トピック的ではあるが、それでもギリシアの火や「緋色室の生まれ」などビザンツの面白い部分をそれなりに拾った上で、ビザンツの対外政策や皇統の発展というような大きな話につなげてくれるので、まあ読ませる本というところ。

 

 読書についてはこのような感じです。今、本も見ずに記憶だけで書いている(何故なら大体図書館で借りた本なので)。そのため、誤りもあると思うし、記憶が微妙なところもある。やはり記録をとらないと忘れてしまうのだけど、最近は何かそれでもいいかなと思うようになってきた。もし本当に思い出したいのであればもう一回読むかという感じ。研究者とかだとそれでは絶対ダメなんだろうけど、研究者ではないし、人生は死ぬまでの暇潰しでしかないので、それでいいのかなと。変な余裕が出てきてしまった。来月はちょっと小説とか古典も少しずつかじりたいですね。今はビザンツ熱がアツいけど。

 

 〈その他の文化活動〉

 読書が長くなり過ぎたので別項にしました。映画。実は1本しか見ることができなかった。理由は腰痛である。10月の中旬あたりから立っているのも座っているのもできなくなるという人間失格みたいなダメージが襲ってきた。経験則で、だいたい1週間か2週間我慢してりゃ何とかなるだろと思っていたが、仕事がずっと座っているためか、ひどくなるばかりだった。そこで土日は静養する、温泉に行くなどの対策をとり、今やっと多少座れるぐらいになってきたところだ。なので、映画はほとんど見られなかった。

 

 見た映画は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』。セルジオ・レオーネの名作ですね。新宿ピカデリーで見ました。ハーモニカふいてる異常者が子どもを殺すサイコ野郎を殺す話、とまとめるとマジでつまらない感じがするが、中身は真っ当な西部劇というか、「西部」そのものを描いた映画だと思う。陰影に突然光や人を登場させてビックリさせる感じとか、劇伴音楽の完璧なタイミングとか、映像そのもので語るべきところが結構あると思うが(俺にはそれをうまいこと言語化する能力がない)、個人的にはRDRとかブラッド・メリディアンが大好きな人間なので、フィクションとしての西部に決定的な影響を与えた重要な水脈だなと感じました。おっきいスクリーンで見る価値のある映画ですね。

 

 本当は他に見たい映画がたくさんあった。一応備忘的に書いておく。『ジョーカー』『ガリーボーイ』『ホテル・ムンバイ』『HELLO WORLD』。書いた順に見たかった。『ジョーカー』は来月もやってたら真剣に見たいですね。

 

 他の文化活動といえば、大学の公開講座に出た。慶應の言語文化研究所の「ビザンツの文化的伝統の形成」と題したものだ。最後の講義は腰が痛くて出られなかったが、リバニオス書簡集という古代後期の重要テクストを訳された田中創先生、『帝国と慈善』や『ヨーロッパ』で今時稀有な文明論を云々できる大月康弘先生の講義には出た。2人とも歴史学者なので、史料を面白がって読んでいる人ってこういう語り方をするんだなという率直な感動があったので、たまには本だけでなく耳学問もしてみるもんだなと思った次第。田中先生の講座はカルケドン公会議における司教座の椅子取りライアーゲームに見る初期ビザンツ社会の様相(いわゆるエヴェルジェティズムをキリスト教化と見るブラウンの解釈には慎重なようだった)が面白く伝わってきたし、大月先生のはビザンツの世界認識であったり、ビザンツを中心とした国際秩序の構造を理念的な部分まで掘り下げてお話いただいたと思う。前者がガッツリ史料の分析で、後者が若干概説的という意味でメリハリもあったのではないか。今度からもこういう興味のある講座は出てみたいと思う。

 

 〈よもやま話〉

 先月、スイッチを買ったという話をしました。あれは嘘です。じゃないです本当です。と、その存在を疑うレベルでスイッチに触れてない。何故かというと、最近またスカイリムをやり始めたからです。

 

 経緯をざっくり説明すると、「FEの主人公かっこいいなー、黒騎士っぽいなー⇒こういうキャラクターを自分で動かせたら面白いんだろうなあ⇒スカイリムでMOD入れればできるんじゃね?」と思ってスカイリムをやったらまあ沼から抜け出せなくなったよねという話。ここからはこのブログの読者に一切興味のない話を展開していくが、俺は輪入道と一緒で行けるところまで行くタイプの奇人だ。まあ、その時自分が何をどう感じたのかを書くのは大切よね。

 

 スカイリム、6月にもやってはいたのだが、原因不明(多分MODの入れすぎというか、オーバーロードの魔法を再現するみたいなMODを入れてからおかしくなった気がする)のDドライブの消失でSE版が消えてなくなり、Cドライブの方でLE版を入れていたのだが、CTDが頻発するので放置していた。多分テクスチャがcorruptしていたのだろうなと思い、fixするMODを入れたら直ったので、やるしかないと思った。しかし意外にスカイリムに黒騎士っぽいかっこいい黒アーマーMODがなく(おまんこ向けのエチエチ衣装MODはたくさんあるのに!!!)、SAOのキリトの衣装を再現するMODも何かスカイリムのごついキャラクターには合わない。仕方ないので隠者風のローブに近い衣装MODを導入し、おおこれよこれと思いながら適当に追加魔法MODとかダンジョンMODで遊んでいたら大体一か月ぶっ通しで遊ぶ羽目になった。メインクエストとかDLCのクエストは大体やったのかな。セラーナさん(となりの吸血鬼さんみたいなキャラ)を美化するMODとか入れて連れ回したり、20秒に1回は敵がランダムにエンカウントするMODを入れて無限に戦闘してたらまあ飽きることがない。今日もこのブログ書いたらやるつもりですよぼかぁ。

 

 本当はゴーストリコンワイルドランズとか、コールオブデューティーとかやりたいゲームがないわけではない。しかし、今はあまりお金がないので我慢しているという状況だ。いやそもそもファイアーエムブレムやれよって話ですが……。

 

 さて、こうやってシコシコと書きつつ己の行状を振り返っていたら、10月はまあ割と充実しているのではないかという結論に至った。やはり仕事を変えたのはデカい。東京に帰ってきたがゆえに、それなりに文化的活動にアクセス可能になったし、余暇が増えて読書する時間も得られた。実家の飯はなんだかんだうまい。そして仕事場で上司に詰められたり、先輩が後輩を怒鳴っているのを見ることもない。頭のおかしい取引先と殺し合いみたいなことをしなくてもいい。何だこれは。俺はもう死んじゃったのかな。

 

 だが、かのソロンの言うように、人生は終わりまでわからない。先に職場のことを褒めそやしたが、それはまだ俺が「お客さん」に過ぎないことの証拠だ。そこの「一員」になって初めてわかる苦労があるし、俺はそれを先輩たちから観察し、自らの運命に備えなければならない。それに、この世界を天国だと錯覚するほど愚かな行為はない。現世は堕落に満ちている。男女は未だに生殖している。来たるべき終末のために、自らの身を律していく。そして、異常労働を今なお送り続けている後輩たちに顔向けできるように、俺は少なくとも職場では異常者で居続けたい。ヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」が永遠に刺さり続ける、ガキの心を持った大人でありたい。小骨のようにとれない痛みを抱えたまま、もうすぐ26になろうとしている。