死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

11月を振り返る

 はい、やってまいりました。1か月の振り返りコーナーです。しかし寒いですね。俺も中二病みたいに真っ黒なコートで風を切って出社したら隣の席の人に「夜闇に紛れてそう……」と言われました。褒め言葉かな?

 

〈苦役〉

 まだまだ新人気分で働きたいという気持ちでいるのに割とエグい案件の担当となってしまい、普通に残業などしている。まあ遅くて8時半なので全然へいちゃらなのだが、前職と似ていて割とコミュニケーションが重視される感じがしてそれはちょっと嫌だなと感じる。あと前職以上に報連相が重要だし(言ってしまえば前職では結果さえ出せばコミュニケーションは最低限で済んだ)、共同作業に重きをおいているなと感じた。俺が1人でいろいろと仕事していたら、よく先輩から「もっと相談して!」とか「全然これみんなでやるからね!」と言われてしまう。俺は俺なりに全体最適を考えているつもりだが、しかし俺だけが突出して1人で仕事していると変に悪目立ちするのだろう。

 とはいえ、俺にも言い分がある。基本的に健常者さんの会話には全く加わる気がないので、正直あんまりみんなで作業している時の雑談が好きではないのだ。なので1人で仕事をしたい。それかみんな共同でも黙々と作業してほしい。俺たちは内に秘めたる孤独をもっと大切にしなきゃいけないんじゃないだろうか。そんなことを思い悩んでいるうちに、もう年の瀬である。年末年始のお休み以外の楽しみは特にありません。

 

〈社交〉

 11月上旬、「バグダディを偲ぶ会」を主催した。機密情報垂れ流しあーうー社会福祉法人ことガイジ……外事三課さん、私はイスラム過激派ではありません。戦闘的ジェスイットです。だから絶対に監視しないでほしい。個人情報が第三者に漏洩するので。

 ローマ教皇フランシスコが日本に来て、イワオ・ハカマーダ(アンチキリストである中世ジャップランド司法の迫害を受けて殉教するはずが、寸止めされてしまった人)含め多くの人に霊感とか少年のケツ掘りたい気持ちとかを与えたように、やはり偉大な霊的指導者の行動には感銘を覚えざるを得ないのであって、ところで領域国民国家(と書いてカルタゴと読む)は滅ぼされなければならない。

 そういう気持ちで、非ユークリッド空間でデルタフォースに囲まれてあなまろ家族と化したバグダディを偲んだら、まあ割と昔のフレンズたちと楽しく飲むことができた。バグダディを偲ぶというのは口実で、普通に昔なじみと会えたのはうれしかったですね。職場では絶対にできない不謹慎トークというか、その臨界点を探る試みがよかった。ところで俺はその場で人々に計7800円を貸しているのですが……。

 あと、久しぶりに俺の前職と同じ苦役をしている後輩に会った。辞めるらしい。自然の摂理だねえ、という感想しかなかった。まあみんなそれぞれ自分の人生をやっていこうという話に尽きる。

 前のエントリでも言及したが高校の同級生とも飲んだ。奴らは普通に気持ち悪いオタクって感じだった。顔面dアニメストアにはなりたくないものです……。ちなみに俺はそいつらから「何かどんどん体毛濃くなって顔もだらしないし性犯罪者一直線みたいな見た目してるよな」とバカにされたわけだが、俺はその見た目のおかげで満員電車で女からちょっと距離を取られるので快適に生きています。ありがとう!

 

〈読書〉

 今月は冊数は多くなかった。難しい本に挑んだので。以下の記述は例によって本を全く見ないで書いているので正確性については期待しないでください。大学のレポートに使える代物ではありません。

 

 H・G・ベック『ビザンツ世界論』(知泉書館)。大学生の時に一回だけ読んだことがあるが、例に漏れず忘れたし通読したわけではなかったので一から読み直した。俺の中のビザンツブームがこの本を手に取らせてくれたわけだが、まあムチャクチャ難しかった。恐らくビザンツレベル80ぐらいの人がようやくこれについて「あーなるほどね、つまりお前はこういうことが言いたいわけね」となる感じの本であり、ビザンツレベル30の俺には歯が立たなかったというのが正直なところだ。ビザンツの捉え方として皇帝教皇主義(つまり皇帝が正統信仰における教義決定権を持っていた)から政治的オルトドクシー(皇帝と教会はむしろ相補的な関係で支配的構造を作り上げていた)という転換の提言は面白いと思ったし、修道制や静寂主義、ボゴミル派パウロ派のような異端やビザンツ人の民間信仰を厚めに叙述して政治史や社会史にとどまらない「ビザンツ人の生きた世界、あるいは世界観」を粗描しているんだろうなとは思ったが、いかんせん一行一行に込められたインプリケーションを理解するのに骨が折れた(というかほとんど理解できなかった)。なので、またレベル上げして戻ってきたいと思います。

 

 ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』(恒文社)。言わずと知れた古典。毎朝毎夕電車に揺られながらこのクソデカ本を読んでいたのはいい思い出だ。叙述はわかりやすいが、大事な情報は細大漏らさず書いてあるという意味で、本当にビザンツ研究者になりたい人が手に取るべき珠玉の一冊という感じがある。政治史が叙述の中心なので古めかしいといえば古めかしいが、逆に言えばビザンツ帝国の全体の流れを分かりやすく理解するという意味ではいいのかもしれない(その意味でベックの叙述はテーマ別だったので、ビザンツに不慣れな俺としては混乱が生じた)。ブルガリアセルビアといった東欧との絡みに叙述が割かれているのもいい。テマ制の起源とか今では諸々どうなの?となっている論点もあるが、これが絶版で死ぬほど手に入りにくいというのは文化的喪失であると感じる。いい本です。一生に一度は読むべき。

 

 井上浩一『生き残った帝国 ビザンティン』(講談社)。これは一般書なので、最初に読むべきだったかもしれない。しかし叙述は整理されている印象。所々に「非宗教人である私は~」みたいなアッピルがあるが、人は生きている限り「生存の持続」というとんでもない迷信に囚われているんやで(ニッコロ・ニッコリ)。

 

 井上浩一『ビザンツ帝国』(岩波書店)。こちらは研究書的なスタイルだと思う。オストロゴルスキーによる「防衛のために国家が決めた」というテマの起源説を批判し、テマが国家権力を簒奪する形で生まれてそれを国家が追認したというのは説得力があるように思えた。術語に所々マルクス主義を感じる(叙述は全くそうではないが)。

 

 上野修デカルトホッブズスピノザ』(講談社)。何か文庫本だから簡単なもんなのかなーと思ってページを開いてみたら割と高度な論文がひしめいていてびっくりしちゃったの巻。しかし、たとえばホッブズの社会契約のパラドックス(自然状態を抜け出すために社会契約をするとしても、そもそもその契約の効力を担保する強い力が自然状態にはなく、この契約は無理なのでは?という奴)を、スピノザでは契約当事者である自分以外の「残りの者」(この言葉はホッブズにも出てくる)の強圧性を想像し恐れを抱くことで契約を行い、その恐れを自ら現実化していく……という解釈の示し方は鮮やかだし、ほーなるほどと思った。他にも、スピノザの聖書解釈や神学政治論を言語ゲーム的な観点から読み解いたり(ウィトゲンシュタインの逆輸入という感じだ)、『エチカ』の第一部ならびに第三部のスリリングな読解は今後の参考になる気がした。しかし、やはり難しいので、『エチカ』とか読んでから出直したいですね。はい。

 

 あと、最近興味が出てきて会社法の勉強してます。終わり。

 

〈文化活動〉

 無。マジであんまり何もできなかった。映画も見てないので。漫然と生きていますね。はい。

 

〈よもやま話〉

 新しい職場では温厚で寡黙な人間を演じている。こうやっているうちは俺もギリギリ健常者の崖っぷちに掴まっていられるのだろう。しかし、心が泣いている。今日新聞を読んだら例の新幹線殺傷の公判の記事が載っていて、殺人を「やりきった」とか未遂を「損ねた」、押収されたナイフを見て「もし出所したらまた新しいナイフを買ってやる」とか言っているのを見て正直胸がすく思いがした。やはり、俺はそちら側の人間に強い共感を覚えるし、逆にそうでない人々には興味が持続しない。高校時代の友人に乃木坂46を薦められた話は前のエントリでも触れたが、はっきり言って俺は乃木坂46よりウクライナ21の方が好きなのだ。これは一生治らない気がする。

 

 さて、今月は感情が四分五裂した。某クソッタレにガチギレしてしまって以来、俺は他人を気にしすぎるのだと反省した。もっと向き合わなければいけないのは上述したようなねじれにねじれ曲がった自分の性根なのだ。そこを忘れないようにしたい。

 

 来月で26歳になる。もう引き返せない。残りの人生をどう使うか。真剣に考えて年の瀬を過ごすこととしたい。