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【書評】古賀敬太『カール・シュミットとその時代』(みすず書房、2019)

 本書は、国法学者(公法学者)、政治思想家として著名なカール・シュミットを彼が生きたワイマール共和制やその前後、ナチ期、大戦後に区分した上で、彼が生きた時代状況に照らし合わせて彼の全体像を解明する試みである。

 

 シュミットといえば、「ナチの桂冠法学者」(これは彼と袂を分かった弟子ヴァルデマール・グリアンによる呼称である。グリアンといえばアーレントの友人であり、彼女は『暗き時代の人々』の中で彼に1章を割いている)、「魔性の政治学者」(とはいえ、このような理解は今日では少数派だろう)、さらにヨーロッパの新左翼新右翼、あるいは現代思想アガンベンシャンタル・ムフ)への不気味な参照項として知られている。日本においても、丸山真男橋川文三藤田省三らによる1960年代のシュミット受容(このあたりの消息について、みすず書房の創業者小尾俊人のノートをまとめた『小尾俊人日記』の巻末に収められた対談で、藤田の弟子筋の市村弘正が伝えている)を嚆矢として、連綿と読み継がれている。そうした受容の中でも、「政治神学」や「友敵理論」、「広域」「ヨーロッパ公法」といった特異な鍵概念、「政治的ロマン主義」や「永遠の討論としての自由主義」のような批判的分析概念ばかりが目立っている状況である。

 

 これは著者が指摘するように、「具体的な法的・政治的現実の構造変化を把握し、それを概念にまでもたらす」(p104)シュミットの「精神史的」方法論がそういう読み方を惹起しているのかもしれない。著者はそうしたシュミットの思考を『現代議会主義の精神史的状況』や『合法性と正統性』、さらに後期の『大地のノモス』にまで認めており、「全生涯を貫いている赤い糸」(p97)であるという。そうして把握された理念型をベースに議論を展開していくところがシュミットの魅力であり、読み継がれる理由であると評者は思料する。

 

 本書で著者は『政治神学』、『政治的なものの概念』などの分析のみならず大著『憲法論』や、パーペン・クーデター(プロイセン州政府のみならずワイマール体制への破壊的な攻撃として知られる)やヒトラーが主導したナチ党内の粛清「長いナイフの夜」において、パーペンやヒトラーを擁護したシュミットの法実務的な対応などにも分析を加え、国法学者としてのシュミットによりフォーカスを当てた上で、包括的な理解を目指している。

 

 シュミットにおいて有名なのは「独裁」の肯定である。ただし、こうした「独裁」は無制約の独裁ではなく、例外状態を克服するための一時的な措置としての「委任独裁」であった(こうした議論は『独裁』や「大統領の独裁」において展開される)。ワイマール憲法秩序を論ずるシュミットの言説からは憲法体制そのものの破壊は読み取れず、「委任独裁」の最たる例である大統領の緊急権行使にも議会の事後的な承認を要する点や、現行憲法秩序の変更を認めないなどして歯止めをかけるべきだと主張していた。一方で、シュミットは『現代議会主義の精神史的状況』においては、現代にも通ずるような闊達な自由主義批判を展開し、議会に対して事実上の死亡宣告を行う。

 一見矛盾とも思えるこうした言説に対して、著者はシュミットを「合法性を重んじる憲法学者として、ワイマール憲法秩序の枠内において発言していたが、彼の政治思想は反議会主義、反自由主義であり、権威主義国家を目指していたものとする」解釈(p57)に依拠しつつ整理していく。各著作への目配りは程よく適度で、シュミットの政治思想の「過激」さと、一方で国法学者としてのシュミットの「慎重」さを浮き彫りにしているように思う。

 

 シュミットの国法学者としての理論形成は、法実証主義者であるアンシュッツやトーマとの論争、自身の前任者フーゴー・プロイスの影響、そして国家、即ち「政治的なもの」を決する主体を法規範に解消しかねない「ユダヤ人」ケルゼンに対する挑戦などを素材としている。一方で彼の政治思想の源泉は、表現主義の詩人ドイブラーの「極光」やドノソ・コルテスへの傾斜に示されるようなある種の「終末論」(それは機械化時代やその時代精神たる自由主義への批判を含意する)、信仰を個人の内面に帰着させたプロテスタンティズムに対して「教会の可視性」を対置する「文化闘争」以後のカトリシズム(これは著者の前著『カール・シュミットとカトリシズム』に詳しい。苦言を呈するようで恐縮だが、本書はドイブラー論の紹介の部分など、前著からの引用を断っていないとみられる)、ドイツの戦間期知識人の多くが魅了されたキルケゴールの受容による決断主義など多岐にわたる。

 著者はこうした部分も丁寧にフォローしつつ、シュミットの日記や書簡も参照しながら彼の個人的なパーソナリティーとしての不安定な自我も浮き彫りにする。第一次世界大戦中に自殺衝動を仄めかし、戦死したユダヤ人の友人のために嘆き、ドイツの敗北さえ希う。しかし、戦争を生き残った彼はパーペンやナチに擦り寄って立身出世しようという意図もあった(彼のヴァイマル後期の著作においては、むしろ大統領の権力を強化することでナチの党勢拡大を阻止しようとしていたことを考えれば、驚くべき変節である)。こうした自我の揺れは、内面にとどまらず、著作にも表れる。彼はヴィルヘルム期において、ミュンヘンを事例として軍事的指揮官が「戒厳状態」の名において、行政権力のみならず立法権司法権を集中させている状況を、法治国思想の観点から批判した(「独裁と戒厳状態」)。だが、ナチ期においては「長いナイフの夜」で即決裁判で大量粛清を行ったヒトラーを「総統は最高の裁判官として行動し、友・敵を区別し、適切な権利を有する」と主張した(「総統は法を護持する」)。

 シュミットの中に一貫性を見出すことが難しく、彼の言説は彼自身が「政治的ロマン主義」の名の下に批判した「機会原因論」そのものの場当たり的な対応であると指摘したのはレーヴィットだが、本書はそれをさらに多角的な視点から立証しているという点でも特筆に値する。著者は「シュミットは時に『無政治的個人主義者』となり、権力と衝突して『内面世界』に没入するのであるが、他方において振り子は正反対に揺れて、『国家主義者』として登場してくることになる」(p186)と分析する。まさにシュミットについての正鵠を射た指摘であろう。

 

 本書の特徴をさらに記述するならば、シュミットの思想を出来る限り時代状況に連関させて理解するという観点から、シュミットと同時代の法学者や哲学者との言説の対質も試みていることである。アンシュッツとの緊急権を巡る論争や、トーマとの自由主義と民主主義の連関を巡る論争、さらにはナチに協力したハイデッガーやケルロイターといった御用法学者の「民族重視」に対してシュミットがあくまで「国家」を重視したこと(これが結果としてシュミットの失脚につながる)も論じている。シュミットだけを読んでいても分からない部分についてもわかるように整理されている。そして、本書はシュミットが「緊急権」論争に与えた影響を、現代のボン基本法までも射程に含めて通奏低音的に論じているのも、類書にはない魅力ではないだろうか。

 

 諸々論じたが、本書の価値はこれまでの日本語文献では分かりにくかったシュミットの全体像を明らかにすることに概ね成功している点であろう。大竹弘二の『正戦と内戦』、和仁陽の『教会・公法学・国家』、初宿正典の『カール・シュミットと五人のユダヤ人法学者』といった優れた個別研究が存在することを勘案すると、本書の叙述がこれら先行研究と比べるとやや散漫で、深く分け入った分析的な記述になっているとはいいがたい部分もある。しかし、これらの個別研究では拾い上げられなかった部分にも光を当てた上で、シュミットの全体像を眺望できる業績は、今後のシュミット研究の礎石となるのではないか。その意味で本書はシュミットについて概説的に知っている、あるいはシュミットの著作を読みかじったという入門的なレベルの学生にも、有用な手引きとして利用可能であることを付言しておきたい。

 一方、不満を述べるとすれば、著者の前著『カール・シュミットとカトリシズム』において著者が強調したシュミットの「政治的カトリシズム」や「終末論」が後景に引いており、その連関がいまいち見えてこなかったことである。しかし、本書の目的がシュミットについてのパノラマを提供するということであれば、これは望蜀かもしれない。

 

カール・シュミットとその時代

カール・シュミットとその時代