死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

自炊即人間賛歌

 諸般の事情でマッマが1か月ほどいないので、飯を自弁する必要が生じた。自弁って書くとアテナイの重装歩兵っぽいな。

 

 平日は家帰ってから何かやるのが面倒なので大体外食なのだが、ふとした思いつきで休日は自炊をやることにした。先週は豚肉のピカタだけ作って後はスーパーのカット野菜にオリーブオイルと塩かけて簡易サラダにして、白飯を食った。今週はローストビーフ、アジのなめろう、エリンギとマイタケのバター醤油炒めを3品作って酒を飲んだ。料理はほとんどやったことのないタイプの典型的薩摩隼人(生まれは東京)なので、かなり苦労したし、そこそこ失敗もあったが、個人的には味にも満足している。アジだけに、って書こうと思ったあたり俺もヤキが回っちまってる。

 

 前職時代は3年間一人暮らしだったが、フライパンを握った回数は10回未満、包丁は3回ぐらい。その前は実家暮らしなのでほとんど料理する必要がなかった。これぐらいのド素人でもローストビーフあじなめろうやキノコの炒め物みたいに工程数の少ない料理なら何とかこなせるのは、インターネット時代の集合知クックパッドや料理系のYoutube動画)のおかげだ。

 今回、スーパーのお魚コーナーで店員さんに「あの、これ、三枚におろしてください……」と言えるだけの勇気を持ち合わせていなかったので、いろんなYoutube動画を見てイメトレしてからアジを自分で三枚におろした。魚をおろすというのは強い人間の証だと思っていたので、できてよかった。まあ、ちっちゃいアジだったのでそもそも歩留まりがよくなかったが、皮を剥ごうとした時に身の部分も持って行っちゃたりとかしてかなり小さくなってしまった。恐らくあれはそのまま刺身にはできないので、なめろうになるべくしてなった魚という感じだった。

 ローストビーフでも似たような失敗があった。肉を四面焼いて後は余熱で放置するという簡単プレイで、余裕があったのでソースも作ろうと思い立ちバルサミコ酢、みりん、しょうゆ、にんにくを煮詰めたのだが、火をいれすぎて飴っぽくなってしまった。何かソースというよりもぼてーっとしたヘドロみたいなのができてしまい、あとテフロンのフライパンにメチャクチャこびりついて落とすのが大変だった。ただ、味は悪くなかったのでよしとしよう。

 こういう定番の料理なら、今やほとんどの作業過程が動画となっている。ネギのみじんぎりの仕方がわからなかったのだが、ネギに斜めに包丁を入れたあとに一気に細かく切るという所作は動画を見て初めて自分の身体に移し替えることができた。静止画と文章だけの説明だったら恐らく失敗していたと思う。また、アジを三枚におろすのも、背と腹から如何に包丁を入れるかみたいなのを詳しく解説している動画があり、それを流しながら成功にこぎつけた。

 そもそもまともに包丁を握った経験がないので、切り方とか含めて無であり、お母さんと台所に立ちながら料理のイロハを学ぶということすらしていない人間がここまでできるのは何でなのかと思ってしまう。いろいろとルーティン動画(それこそ大蛇丸一般男性とかぼっち系Youtuberとか)を日課で見ている時に、料理シーンが結構多く見ていた。それによって料理をすることにあたっての心理的障壁がかなり下がっていたのではないかと思う。この心理的障壁さえ乗り越えてしまえば、あとは手先の問題であり、そして神様が器用か不器用かをより分けてくださるということだ。

 

 既にいろいろ言われていることだが、自炊は自己肯定である。俺の好きな小説家である田中慎弥はマッマのお金で食いつないで家に引きこもって小説書いていた時期も、自炊だけはちゃんとしていたという(これは『孤独論』という本に書いてある。類書の中でも極めて優れていると個人的に思う)。「僕らは命に嫌われている」と思うぐらいの人生の虚無にあっても、飯を作って食うということは大事だと田中は繰り返し説いている。今回自炊をやってみて、自分でもそう感じた次第だ。自炊、掃除、洗濯、風呂わかし、こういった生活の細々から人間はどん底にあっても自分の生をやり直し続ける。いい話だなあ。

 

 追伸:麒麟がくる、面白そうですね。俺にとっての長谷川博己はMOZUのサイコ公安こと東のイメージが強すぎるので、何かさわやかなことやってるのを見ると凄い不安になっちゃうねえ。でも序盤の殺陣はかなり三次元的でカメラワークの立体感もよかったし、三十年戦争のカロ風とでもいうような中世の暗黒をこれでもかとばかり細部に詰め込んでいたし、そして吉田鋼太郎大塚明夫の睨み合いがヤバかった。これであと三好役で山路和弘が出てくるのヤバくないか? まあとりあえず大河はだいたい3話ぐらいまで見るので継続的に見ていきたい。