死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

中学生の時合唱コンクールで男子仲間でふざけたらコンマスの女子が泣き出して男子仲間含むクラス中から俺が悪いみたいな感じで白い目を向けられた悲しき仔羊の俺が陶片追放について語る回

 

 今日の論題はズバリ陶片追放です。最高ぢゃん!!!!(タイトルは実話です)

 

 緊急事態宣言が発出されて、勤め先の仕事がなくなってしまいステイホーム!!!しているのだが、この世の終わりみたいな毎日がエブリデイではある。しかし遊ぶ金もねえしかといってマジで暇すぎるので、全クリしたアサシンクリードオデッセイを最初からやり始めた。

 

 今はストーリーでいうと中盤ぐらいで、マッマを求めて三千里のエディコン主人公がアテナイについたぞーというところなのだが、サイドクエストのひとつに主人公が陶片追放に関わるものがある。ペリクレスに命じられて保管されている陶片を偽物にすり替え投票結果を不正操作するのだが、主人公が依頼者に「本物の陶片はどうする?」と聞くと「井戸に投げ捨てる」と答えられる。陶片追放の陶片が近年大量にアゴラの井戸で発見されたことを踏まえたものとみられ、ちょっとギリシア史を知っていると「フフッ」となる。(ちなみに、ゲームでの陶片追放の対象は有名な哲学者アナクサゴラスだが、史実では陶片追放でない可能性が高い。ここらへんはまあゲームだからね、仕方ないね)

 

 

 陶片が井戸に捨てられているということについて、俺が初めて知ったのは最近読んでいるトゥキュディデスの『戦史』の訳注である。その注には、テミストクレス陶片追放にあってアテナイにいなかったという記述につけられている。これ自体は有名な話である。先見の明でもってアテナイの海軍力を増強し、ペルシア軍が迫るポリスを捨てて一回の海戦に戦争の帰趨を賭け勝利した天才テミストクレス陶片追放の憂き目にあったことは世界史の教科書的記述でも習うところである。というか、いわゆる陶片追放の実例として知り得る数少ない人物ではないだろうか。それでは注を引用します。

 

……テミストクレース追放の陶片は、近年アテーナイのアゴラから驚くばかり多数発見され、中にはまだ使われていないものまで多数含まれている。つまり、前もってかれの政敵によって多数用意され市民の間にばらまかれていたのだろう。陶片は幾通りかのきまった筆蹟に分類されうるのである。不正投票は、民主主義と時を同じくして生れた。

                 (『戦史』(岩波文庫版)p375)

 

 これを初めて読んだ時は「流石ギリシア人!現代人にできないことを平然とやってのける!そこにシビれるあこがれるゥ!(ジョジョ読んだことなし)」と思ったが、しばらく考えているうちにある疑問が湧いてきた。今回の記事はその疑問に端を発して、俺が適当に諸々調べたり頭の中で捏ね上げたりした結果の報告です。そう、26にもなって実家の子供部屋でゲームしながら「ドラえもん見放題ch」で延々とドラえもんのアニメを垂れ流しローソンのスコーン食ってるキモデブオタクのクソみてえな漫談地獄に付き合ってもらう。

 

 まず、陶片追放とは何ぞやということをおさらいしておきましょう。プルタルコスなどが伝えるところによると、まず民会で「ぽまいらの一番嫌いな奴を追い出したいかー!?」と予備投票が行われる。予備投票が行われた後、よし陶片追放やるぞとなったら2か月後に本投票を行う。その投票で6000票を超えた1人が晴れてアテナイからsayonara sayonaraする(この6000票の解釈は諸説あり)。追放は一時的で、期間は最大10年。ただ財産も市民権もそのまま保持され、ひょこっと戻ることもできる。つまり、遊戯王で言うところの「亜空間物質転送装置」の政治バージョンである。この奇妙な制度は、アリストテレスが伝えるところでは、クレイステネスが僭主になりそうな奴を抑止するために創設したとされる。結局前5世紀後半にエイサンゲリア(弾劾裁判制度)にとってかわられ自然消滅したという(少なくとも歴史的に最後に確認しうる陶片追放者は前416年である)。

 

 歴史上、アテナイ陶片追放の憂き目にあったと確認しうるのは12人いる。テミストクレスのほかにも、僭主ペイシストラトスの息子ヒッパルコスや、マラトンの戦いの指揮官であるミルティアデスの息子キモン、ペリクレスの政敵トゥキュディデス(『戦史』の著者と何らかのつながりがあると推測されているが、実際は不明)などなど……。ところで、何で陶片追放されるんでしょうか。たとえばキモンは、メッセニア戦争(スパルタVSその奴隷たち)に重装歩兵を連れて馳せ参じたところ、「アテナイ人攻城戦得意とか言う割に大したことねえし、こいついるだけやん……。てか何?もしかしてこれ背中から俺ら刺そうとしてるんちゃうか?」というスパルタ側の疑義を受けてぶぶ漬けを出されて帰還したところアテナイで信用を失って陶片追放された、らしい。

 

 しかし、不法行為ではなく不作為が理由の追放というのは、この陶片追放が追放理由そのものは後付けであったようなものという気がする。キモンはKTS(寡頭政)48の領袖であり、民主坂46のエフィアルテスやペリクレスとは対立していたという、アテナイにおける派閥抗争の延長線上に陶片追放されたと考えるとしっくり来る(これは確認しておきたいが、民主派と寡頭派の抗争といってもフランス革命の時と違い、パンピーの支持を受けている門閥VS貴族の支持を受けている門閥という構図である)。当のキモンもその10年後には普通に戻ってきて、第一次ペロポネソス戦争で活躍している。よく陶片追放は強大な力を個人が持つことを阻止する目的で始められたと言われるが、最近では対立する貴族間抗争の激化を防ぐためとりあえず当事者を10年追い出していこうという、一種のクールダウンシステムだったと見なす向きもあるらしい。

 

 そんな陶片追放であるので、当然不正投票は想定されるべきだろう。ここで考えられる不正投票は、ゲームでやったような投票箱をすり替えるものから、『戦史』の訳者が言うような市民に大量に同じ名前の陶片をばらまいてこれ投票してくれーと呼びかけるものまである。前者は明らかに手続的な不正であるが、後者は難しい。陶片を大量に用意して「これ投票してくれねえ?」と呼びかけることはただの選挙活動と言えなくもない(これは後述するが、陶片が自書式かどうかにもよるところがある)。もちろん某広島の宇宙人夫妻よろしく金をばら撒いていたとしたら「それ公選法違反やんけ!」と言える(当ブログは推定無罪原則を支持します!)が、古代ギリシアにおいて公選法はない。投票を呼び込む手段としての賄賂が禁止されていたのかどうかもよくわからない(この件について、関連しそうな文献をちょっとだけ流し読みした。橋場弦『賄賂とアテナイ民主政』は、ペルシア戦争以後アテナイ人における賄賂認識がかなり否定的に寄っていったことを明らかにしている。だが佐藤昇『民主政アテナイの賄賂言説』では、有力者による金銭を利用した政策誘導は必ずしも強い批判を招かなかったことも示されている。難しい問題だねえ)。

 

 なので、テミストクレスと書かれた未使用かつ同じ筆跡の陶片が多数見つかったからといって、『戦史』の訳者が言うような“不正”投票の証拠とまでは言えそうにはない気がするが、陶片追放に際して組織票があったことは想像に難くない。これについても、この陶片群が恣意的な組織票による追放工作を示唆するのか、あるいは文字が読めない人が多かったアテナイ市民のために予め名前を書いておいたものが不要になって捨てられてものだという議論があるが、私見では前者ではないかと思う。古代ギリシア衛宮切嗣ことアリステイデスが陶片追放の候補になった際、文盲の農民に正義正義とみんなが騒いでてマジクソウゼェからアリステイデスと陶片に書いてくれと言われ、ちゃんと自分の名前を書いたという逸話があるが、これは陶片に名前を書くという「自書式」投票の可能性を示唆している気がする。もちろんこれは逸話でしかないのでその信憑性は全く定かではないのだが。だが、予め名前が書かれた陶片が用意されていたとして、それが非識字階層のための措置だとしても、不正投票の可能性を除外しているわけではない。現代と比べるとかなり容易いことと思われるが、選挙管理委員会みたいな連中を抱き込んでおけば、文字が読めない人が「Aさんの陶片ください」と言ったとしてBさんの陶片を渡されても分からない以上、簡単に意中の人間を追放することができるからだ。もちろんこれは想像でしかないが。

 

 いつも通りのまとまりのない記事になってしまった。漫談なので。最後に、陶片追放についてブルクハルトが述べた一節を引用しよう(彼の『ギリシア文化史』は研究的にはほぼ乗り越えられているとは思うが、博引旁証かつ示唆に富んだかの講義録から学ぶことはまだまだあると思う)。

 

ここには永遠の憎しみが現れている、だがそれは下層民の憎しみではない(というのも民衆は、人為的に煽動されることのないかぎり、むしろ大野心家に味方して考え、もしくは共感を抱くものだからである)。そうではなくて、これは、稀有にして比類のないものに対する思いあがった無能の輩の憎しみなのである。陶片追放は群小野心家の発明である。アテナイ民衆は相当に愚かであったから、こういう輩の奔走に対する責任をたっぷり背負わされる羽目になったのである。しかし、もしわれわれがこの制度を大仰に考えて、これは当事者に対する嫉みから出たのではなく、その人を真に気遣う気持から出たのだ説明するとすれば、それはこの制度にあまりにも敬意を表しすぎることになる。(中略)誰かある人物に公然と信頼の念が寄せられ始めるや否や、陶片追放が行われた。(中略)「民衆は、(マラトンの)勝利に思いあがっており、自分たちが何ものにもまして偉いと考えていたから、一般大衆の範囲を越えた名誉、名声を持った人たちには腹を立てた。陶片追放は悪事を犯したことに対する懲罰ではなかった。人々はこれを単に高慢と、あまりに重きにすぎる影響力とを引き下げ、また罰することであると呼んでいたが、体裁を繕うためにすぎない。陶片追放は嫉妬心を、思いやりを示しつつ鎮めるものであった」とプルタルコスはアリステイデス追放のことを述べるついでに言っているが、もっともなことである。(ブルクハルト『ギリシア文化史1』ちくま学芸文庫版、pp456-457)

 

 これは、ブルクハルトがエリート主義者であることを差し引いても、イカれた制度の核心を突いているように思う。陶片追放は決して嫌われ者に行使されたわけではないからだ。こうした民衆の感情を基盤としつつ、派閥間抗争のダメージコントロールとして存続したとみられる陶片追放だったが、これがアテナイの「民主政」にどれだけ寄与したのかというと、さてどうだろうか。