死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

強迫的読書批判――或る友人に捧ぐ

0、前置き(某友人、そして読書家に向けて)

 このブログでも読書や古典に関する記事を何度か書いている(ブログの最後にまとめてリンクを貼っておきます)。そのシリーズ?の続きものですが、今回は明確な名宛人が存在します。

 

 俺の友人に、読書をしなければならないと思っている人がいる。理由を要約すると、どうも「“教養”を深めたい」らしく、そのためには読書とりわけ古典の通読が必要だと思っている。友人と俺は大学で政治思想の古典の読書会などをやるサークルに入っていたのだが、在学中彼は塾講師のアルバイトの方が忙しく、あまりサークルには参加できていなかった。それで社会人になってからも異常職種についてしまったがゆえにメチャクチャ忙しくしているのだが、でも流転する万物のアレコレにぶん回されて魂が遠心分離するのが辛いので、読書を通じて確実に残るもの、言い換えると不変かつ普遍の知恵……みたいなものを頭の中に叩き込みたいらしい。向上心が凄い凄いだねえ(これは皮肉でなくマジでそう思っている。緊急事態宣言で暇人と化して毎日Huluでアイドル番組を見ている俺はバカだ。向上心がないので)。

 

 友人はアントワーン・フークア監督の『イコライザー』が好き(ついでに言うと俺も2010年代に入ってみた映画の中では5本の指に入るくらい好きだ)で、デンゼル・ワシントン演じる元CIA工作員にしてクリエイティブ殺人鬼ことジョン・マッコールの生き様に感銘を覚えたという。マッコールは自分の死を偽装して諜報活動から足を洗った後、アメリカのクソでっかいホームセンターに職を得てそれなりに充実した(ようにみえる)毎日を送りながら、眠れぬ夜(恐らく前職のせいだろう)には近所のダイナーに通う。ただそこで誰かとお話するでもなく、ダイナーの店主からお湯だけもらい、ナプキンに包んで持参したティーバッグで紅茶を錬成し、ネットの「死ぬまでに読むべき100冊」みたいなブックリスト(インターネットでは恐らくこれでは?と言われている。https://ffbsccn.wordpress.com/2015/07/28/the-equalizer-denzel-washington-reading-through-the-top-100-books-you-should-read-before-you-die/)に載っている古典的な文学を片っ端から読むというベーヤーなナイトライフを送っている。これが知力、体力、心って奴か。

 

 徒手空拳の状態から19秒でロシアンマフィアを皆殺しにする対人戦闘全振りスキルや、ホームセンターの工具で重武装の傭兵を惨殺するDIY精神ではなく、上述したマッコールの「読書家」的な側面に惹かれた友人は、あろうことか不誠実な読書家関東ブロック代表である俺にこういう古典の本を教えてくれと言ってきた。俺も経緯までは覚えていないのだが、その始まりとしてディケンズの『二都物語』を読んでみたら?と言って新潮文庫版を買ってプレゼントした。そして、読んだ感想を送ってくれるというので待っている(1年ぐらい。なお本人から言い出したことである)。実はその間何度か〆切を伸ばしており、この1週間前の日曜日をデッドラインとしているのだが、音沙汰なしである。まあ、常人の6倍ぐらいの業務量が当たり前みたいな仕事をしているので、読書できないのは致し方ない。「〆切過ぎたぞオイコラ!!!」というブチギレ記事ではないので念のため。

 

 ここがその友人に一番伝えたいことなのだが、別に読書はしなければならないものでは決してない。なので、俺に感想を送ってこないからといって別に気に病むことはない。

 

 ……ないはずなのだが、この友人のように読書を「しなくちゃならないもの」、そうまではいかなくとも「した方がいいもの(よって可能であれば実行するのが望ましい)」と捉える人が多い。恐らく「した方がいい」ということについては、多くの人間がそう思っているはずだ(そうでなければビジネス本のコーナーに似たような内容の読書術的知的生産ハウツー本がクリボーよろしく増殖するわけがない)。俺は不誠実ではあるが一応読書家を自認しているので、アニメやゲーム、Youtubeを挟みつつも一応ほぼ毎日本のページを捲っている(捲るだけ)。義務感から来るものでは決してないとは言えるが、しかし読書をしなかった日の翌日は「あー昨日本読んでねえな……しくったなあ……」とどことなくうしろめたさを感じる。なので、友人の気持ちに共感を覚えるが、それはあんまりよくないよということが本日の雑文の趣旨だ。

 

 というわけで、最近読んだいくつかの本を紹介しつつ、雑文をものしていくので、友人はこの記事を読んでから今一度読書について考えた上で所見を述べるように。そして、この記事を読んだ当該友人以外の人に何か刺さるものがあればうれしい。

 

1、自由な読書へ――勢古浩爾『それでも読書はやめられない――本読みの極意は「守・破・離」にあり』(NHK出版新書、2020)を参考に

  地元の本屋でちょっとだけ立ち読みして、俺とかなり感性が似ているっぽい著者なので買って読むことにした一冊です。

 

 著者は20代までほとんどまともに本を読んだことがなかったのだが、大学院に進学したインテリの友人から「お前には吉本隆明とかいいんじゃね?」と勧められてたまたま買った『情況』にドハマりして、吉本を通じて文芸評論から近現代の日本文学、世界文学の古典を読み進め、30から50ぐらいまでは哲学にかじりついて惨敗、そして70代の今は歴史小説や普通の読み物を読んでいるというような「下層の知識人」みたいな読書遍歴を送ってきたという。そういった経験から行き着いたのは、「別に読むべき本なんかねえし、面白いってだけで読書しちゃいかんのかい!!!」という至極まっとうな(悪く言ってしまうとありきたりな)結論である。

 

 しかし、経験から洩れ出た個々の洞察には見るべきものがある。たとえば、近代文学の名作を読まなければならないという気持ちについては「それでも何か不全感がある。基本がなっていない、定石がわかっていない、という欠落感みたいなもの。こういうふうに感じはじめたら、それは正統性への憧憬を意味しているということかもしれない」(p50)。これはまさしく上述の友人にブッ刺さるのではないか。義務感に苛まれる読書はもうやめにしよう……とぺこぱのサンプリングみたいなことを述べておいて恐縮だが、読まれるべき書物=カノンというものがあるという想念は、俺含めて多くの人が共有しているはずだ。その虚構にのっかった産物が、先ほどのブックリストであるし、『必読書150』とかいう脅迫文からハロルド・ブルームの『The Western Canon』の巻末に「補遺(Appendix)」と題して掲載された37頁にわたる文学の一覧である(この手のもので、俺が知り得る限りでは最長のブックリストである。これより多いものがあったら教えてください)。

 ともあれ、文芸評論で扱われているような文学なんか面白くねえだろうな……という不安を抱えながら、著者は総武線で幕張からお茶の水までの電車に揺られながら通勤読書中に文学の「名作」をこなしていく。たまに面白い名作に当たるのだが、「困ったことに、多くのものは期待以上のものではなかった。だいたいの『名作』は退屈であった。それでどうしたのだ、というものも少なくなかったのである。次こそは、次こそは、と期待して読みつづけ、これはおもしろい、と思ったときは、なんだか得をした気分だった」(pp54-55)という。これについては俺も共感するところがあり、高校時代に現代文の先生が薦めてくれた埴谷雄高の『死霊』を苦労して読んでチンプンカンプンだったので、その当時本気で「ソードアート・オンラインの方が2億倍おもしれえっすわ!」と吹聴して回っていた。もしかしたら今読んでも同じ感想かもしれない(『死霊』は同じく文学部に進学した高校の同級生に貸したまんまです。別に返ってこなくてもいいのですが……)。

 

 著者が正しく指摘するように、「名作」にはその「名作を褒め称える読者群」という一定数の共犯者が存在し、さらにその共犯者にのっかった大勢が迷惑な伝言ゲームを始め、こうして名作たる「世評」が定着する。そうして世評は、まだその本を読んでいない人々を「ここにはまだあなたが読んだことのない人間に関する真実がある」(p55)と強迫する。教科書に載っているから、●●さんが褒めていたから、100分de名著でやっているから……そんな理由で定着し、我々に読むことを「強いる」名作だが、一度その地位を占めたら、名作の評価、言い換えれば何故それに時間を割かなければならないのかという疑問に対する説得力ある理由は往々にして「名作だから」というトートロジーに陥っていることが多い。

 夏目漱石の『こころ』は発表当初見向きもされなかったが、亀井勝一郎が青春小説として紹介したあたりから再発見され、高校の教科書に採用されるに至ったのだという小谷野敦の説を著者は引用し、「名作」の名作たる所以が実はかなり偶然的なものであることを明らかにしている。マザファカ人間関係を煮詰めて「近代的自我の苦悩」とか嘯くクソみたいな小説のさわりを読ませるというクソオブクソな宿命を、日本の高校生の大部分に強いるぐらいには亀井の紹介文が凄かったということなのだろうか(そもそも小谷野の見解が妥当かどうかについては本記事では立ち入らない)。

 そして著者の「読まなきゃ」という強迫観念は西洋哲学にまで及ぶ。そこで独学でプラトンから読み始めるが、結局匙を投げてしまう。「結局、ほとんどの哲学本は読めなかった。二十年間、ただじたばたしただけである。自分のなかではなんの収穫もなかった。これははっきりしている。ただ自分で自分をこじらせただけである。ムダ金とムダな時間を費やして、ただ哲学者の名前と著書名を知っただけである。まったくの無意味。そんなクイズがあれば、すこしは答えられる。そんな程度の意味しかない。虚栄心にすらならない。」(p102)俺は哲学科出身だが、全く同感である。悲しいかな、俺も自分の中に西洋哲学が身に沁み込んだと感じたことはほとんどない。多少哲学的な記述に耐性ができているのかな?と思うぐらいである。

 

 ※ここで著者の読書遍歴を離れての脱線をお許しいただきたい。そもそも哲学書にバンザイアタックしたところで躓くのは明白である。ある種の即死トラップというか、一般に解釈学的循環と称する事態が生じるからだ。「含蓄まで含めたその正確な意味は、背景的な知識、単語や文章が置かれた文脈についての理解がなければわからないのです。ところが、背景的な知識を得るためには単語や文章を理解していることが前提なのです。抽象的に言うならば、部分についての理解は全体の理解を前提にするが、全体の理解は部分についての理解を必要とするのです」(小野紀明『古典を読む』岩波書店、2010:p9)。

 著者は哲学書におけるよく分からない文章の一例として竹田青嗣の『欲望論』の記述を例に挙げている。一応、引用しておく。

 

欲望論的問題構成は、ニーチェフッサールの哲学的ラディカリズムの始発点へと立ち戻って現代に残存する暗黙の本体論的前提を解体する。欲望論的遠近法は「価値自体」「存在自体」「歴史自体」「無意識自体」といった先構成の場所から「意味と価値」を導くのではなく、これを逆倒して、意味と価値の身体論的生成の場面から、これら先構成的諸観念の捏造的形成を暴露する。意味と価値の身体論的生成こそは、われわれの内的生における根本的事実であり、生の一切の「現実性」の源泉だからである。

 

 大変恐縮ながら、著者がさっぱりと言っていたこの箇所はまるっきりちんぷんかんぷんというわけではない。

 欲望論的遠近法とか、意味と価値をどうこうとか、内的生における根本的事実という、字面だけは何となくわかるが竹田がその概念にどんな意味を込めようとしているのかが見えてこない部分については他の箇所も読まないと分からないと思うが、この文章のキーポイントである「本体論的前提の解体」というのは、ニーチェフッサールがそれぞれの立場からカントの「物自体」を批判していたことを念頭に置けば「あーこれは竹田流に哲学史を辿り直してその延長線上に自分の問題意識を位置づけてるのね」という理解までは得られる。そこから「〇〇自体」という言葉の群れが、カントが認識を語るに際して「物自体」を構成したように、我々が存在や歴史、無意識を語る際にあたかも認識の向こう側にある「本体」を措定する暗黙の前提を意味しており、それをとにかくぶっ殺すんだと著者は宣言しているのである。確かにこの部分だけ取り出されるとかなりの怪文書感があるが、背景的な知識が多少頭に入っていれば分からなくはない文章だ(もちろん俺の理解が正しいとは限らないが、全く意味わかんねえといって読み進めるよりある程度あたりをつけにいった方が読書としては生産的だ)。

 著者も「哲学やる前にシュヴェーグラーぐらい読んでおけばよかったな」と後悔しているが、多分哲学事典とかを傍らに置いて読むか、あるいは西洋哲学関連の入門書を何冊かこなした後で読むと違ったのではないかな、と思った。同様のことは基本的にどの人文学・社会科学的な古典や名著について言える話だし、「古典や名著について邦訳でもいいから最初っから原典にかじりつけ」と柄谷行人が『必読書150』でのたまっているが無責任もいいところである。もちろん平易な古典や名著はたくさんあるのでそういうのは最初から読んでもいいだろうが、平易だからこそ分かりにくい問題意識やコンセプトへ目を向けるために概説書や入門書、さらには研究書といった「二次文献」を読む必要も生じるだろう。ついでに言ってしまうと、連中の「必読書」とやらの中に本居宣長の『うひ山ぶみ』ではなく『玉勝間』が入っているあたりにどうしようもない高踏主義というか、読者と自分たちを線引きするような権威主義的恐喝を感じるのである。

 

 さて、話を著者の読書遍歴に戻すと、哲学書やら精神医学の本なんかを洗いざらい古本屋に叩き売った50代以降、ようやく好きな本を好きなように読むという「楽しみ」としての読書を取り戻す。時代小説やアメリカのハードボイルド・ミステリを面白く感じ、いろいろな人のエッセイや塩野七生の歴史読み物を手に取る。「読まなきゃ」という強迫感は微塵も感じられない軽やかさをもって、著者は「それでも読書はやめられない」と宣言するのである。一応言っておくと、古典や名著をもう二度と読まないと著者は宣言したわけではない。いつでも戻れるよという気持ちは自分の中に保持しているらしい(ただ、難しいのはもうごめんだとも言っている。正直)。

 こうした遍歴を著者は千利休の和歌から道の心得みたいなものとしてよく引かれる「守・破・離」として整理する。とにかく名作をこなして既定のコースを行こうとした「守」の段階、そうして哲学を性急に飲み込まんと肥大化した自意識と義務感でやっていく「破」の段階、そして読書は「楽しみ」のためにあるんだという原点を確認しつつ自由闊達にやる「離」の段階である。もちろんこれは著者の遍歴に過ぎないが、俺が思うにこれはかなり多くの人が妥当するというか、モデルケースとまでは言わないしても多かれ少なかれ個々の経験の「点」においては身に覚えがあるのではないだろうか。その意味で読書家であれば「あーあるあるですねー」ぐらいの共感を持って読むことができると思う。

 

 ところで、著者が示した洞察の中で、確認しておきたいことがもう一点ある。「結局、名著は自分で発見するものである。自分が発見した名著だけが、自分にとってほんとうの名著である。」(p139)これはそうだ。そうなのだが、それでは我々がよく目にするあのブックリストやブックガイドとは何の意味があるのだろうか。

 ここで『イコライザー』に立ち戻る。そもそもなぜマッコールはブックリストに従って読書をするようになったのか。これは、マッコールの死んだ妻が続けていた趣味だったのである。リストの97冊目であるプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいる途中で妻は亡くなってしまう。なお、このことが明かされるのは続編の『イコライザー2』で、そこではマッコール自身も『失われた時を求めて』を最後に読む本とした(つまり、残り3冊は「死ぬまでに」もう読まないのである)。感傷的な解釈だが、妻が読んでいたリストを同じ順番で辿り直し、妻が読みかけていた小説で読書を最後とすることで、マッコールは妻と過ごすはずだった「失われた時」を取り戻そうとしていたのではないか。こうした読書は、ブックリストというお仕着せのセットをただ機械的に読んでいるわけではない。それこそマッコールにとっては「自分だけ」の経験であるし、読書をストップすることは彼なりの選択として主体的な契機を含み持つものだろう。

 ※こうしたことは現実にも生ずる。朝日新聞の有料記事だが、次を参照(かいつまんで説明すると、雪崩事故で亡くなった高校生の息子の机から出てきた74冊の本の題名が記された手書きメモに沿って本を読んでいくお母さんの話。泣けるねえ)。息子の読書リスト、1冊ずつたどる 雪崩事故1カ月:朝日新聞デジタル

 これを読むべきだ!というリストそれ自体は著者の言う通り意味がないだろう。だが、その中の本をとにかく読み進めて、1冊でも自分にとって本当に意味があると思えば、そのブックリストに自分なりの意味を与えることができる。そして、1冊読めば大体「あ、これも気になるな」となるものである(もちろん次の選択はブックリストを逸れてもいい) 。さらに、集合知的な観点から言えば、多くのブックリストの古典はだいたい被っている(ホメロスシェイクスピアジェーン・オースティンドストエフスキープラトンやカントなど)ので、そこを探して読めば自分にとっての名作のヒット率が上がるかもしれない(これは個人差もあるとは思うが)。そうしていく中で、自分にとって意味のあるリストを自分で構築できるはずで、それが「読まなきゃ」という強迫的読書から自分を守ってくれるはずだ。

 結局、自分にとっての「面白い」本を探すためにはまず何を読むかを選ぶ必要がある。そして、その際にブックリストを妄信すべきではない(ましてやリストを全部読破しようなどとは夢にも思うべきではない。マッコールさんだってできないんだぞ!)。ブックリストの本を数冊読んで「あーこれつまんねーな」となったら、もうそのブックリストは見限ってもっと面白そうな本を探す努力をした方がいい(少なくともネガティヴリストのような形で、だんだん自分の傾向を絞り込めるはずだ)。あくまで試金石としてブックリストを活用しよう。そういう形で自分の読書を形成していけば、世の権威的なカノンの強迫に屈することはないだろう。仮に「それでも自分が基本や定石を分かっていないという欠如の感覚」に襲われることがあれば、その時はまた「守」の段階に立ち戻ってもう一冊読んでみればいい。そういう心の動きに応じて、ブックリストの本がまた煌びやかに光るかもしれないからだ。次でも触れるが、読書は基本的にはトライアル&エラーの連続なので、クッソつまんねえ本を掴まされるという多少のリスクテイクを恐れない姿勢が大事なのだから。

 

2、「完璧な読書などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」――永田希『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス、2020)を参考に

積読こそが完全な読書術である

積読こそが完全な読書術である

  • 作者:永田 希
  • 発売日: 2020/04/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 お次はこちらである。これは先ほどの本よりもかなり「人文チック」な本で、参照されているのもピエール・バイヤールやショーペンハウアー、カーネマンなど割とお堅い。しかし著述そのものは分かりやすいし、すっと飲み込める内容だ。

 本書は「積読」、つまり本を読まずに手元に置いておくことを肯定してくれる。これも先ほどの本同様、「買った本は読まなければならない」という強迫感から私たちを解放してくれる。ただし、それは「本を読むより買うスピードの方が速いからね、仕方ないね」という開き直り型肯定ペンギンでは決してなく、様々な読書論を参照しながら「積読」の意義を改めて見直すことによって遂行される。内容は以下で説明するが、読書家であれば読んで損はない好著である。

 現代に生きる我々はまさに著者の言う「情報の濁流」に晒されている。「そもそもまず現代という時代が、人々が自発的に積読をする以前から勝手に積読的な環境を進展させているのです。書物に限定されない、あらゆるものが消費されることを待ち望み、消費されるべく勝手に積み重なっていく、そんな世界をわたしたちは生きているのです」(pp21-22)。たとえば俺だと「ナルコスもウィッチャーも全裸監督もいつか見なきゃなあ、ああそういえば今月の講談社学術文庫は古典の翻訳が多いから買って読みたいなあ、Mount and Bladeの新作やらなきゃ、ひぐらしのリメイク版も見なきゃ、欅坂の東京ドーム公演の円盤貰ったけどこれもなあ……」みたいな。

 こういう無限に待機するコンテンツは消費を「待ち望んでいる」ため、その期待に応えられない我々にある種の「うしろめたさ」を感じさせるわけである。さらに、我々は情報の濁流の真っ只中に投げ込まれているので、「日々積み重なっていく新しい情報を漏らすことなくきちんと把握していないと時代に乗り遅れてしまうという焦燥感にもさいなまれることになります」(p25)。著者は前者を「ミクロなうしろめたさ」、後者を「マクロなうしろめたさ」として整理する(pp198-199)。そういった状況をまんま受け止めて「まあそりゃしょうがねえよ、だったら一冊ずつ読むしかなくない?」という当たって砕けろ理論についても著者は「うしろめたさに負けて、目の前の本の期待に応えるためにとにかく読書をする、というのは情報の濁流に飲まれ、ただ流されているだけかもしれません」(p26)とつれない。

 じゃあどうすりゃいいんすかね……?となってしまう読者のために、著者は「積読」を勧めるのである。もちろん本というのは読むためにあるが、同時に「積む」ためにあるという。ただし、著者が注意を喚起するのはその積み方である。それは情報の濁流によって無際限に積まれる「コンテンツの山」ができるに任せておけというのではなく、自分のテーマを取り決めた上で手元に本を置いておくという「ビオトープ」的な積読をしろと言うのである(これについては後述する)。

 

 ここから著者は、このような「積読」を説得的なものとするために、我々の「読書」のあり方について問い直していく。

 まず、バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』に依拠して、そもそも本を「完読」するということがおよそ可能でないことを明らかにする。「ある本に書かれていることを完全に理解すること、その本の著者が書きたかったことを的確に捉えるということ、その本の「おもしろさ」を十全に味わうこと」(p76)を期待する読書は、その方法の不可能性ゆえに裏切られる。何故なら本を読んでいても読み落としがないということはほぼありえないし、読んでいても忘れるからだ。逆に、完璧な理解を追い求めて何度も読み込んでいるうちに頭の中に変な解釈が出来上がり、そこから抜け出せないという偏執的な事態を招くことも想定される。「自分は果たしてこの本をちゃんと理解したのだろうか」という読後に付きまとう不安は不可避なのであって、バイヤールはそれを受け入れろというのだ。こうすると、「読んだ本」と「読んでいない本」の境界は曖昧となり、そこに「積読」の意義があるのだと著者は喝破する。

 さらに重要なのは、「本」は読まなくてもいいし、読まなくても置いておけばそれなりの価値があるというところだ。そもそもある本には「読まれるタイミング」というのがある。そして、本からすればこの「わたし」が読者である必要さえない。それこそ南ドイツの修道院で死蔵されていたルクレティウスの写本は、修道士ではなく人文主義者ボッジョ・ブラッチョリーニをずっと待っていたかの如くである。こんな歴史上の話でなくても、多くの偉い人たちが小さい頃はお父さんの書棚にあった本を読んで読書習慣を身につけたという話は枚挙に暇がない。そのお父さんが蔵書を読んでいたかどうかは圧倒的にどうでもいい。息子が読書を始めるきっかけとしてのタイミングを掴んだこと、その時本がそこにあった=積まれていたことが重要なわけだ。

 こうした議論を展開して、著者は我々が抱いている強迫観念を完全に掘り崩す。つまり、本をちゃんと読まなきゃいけないというそれだ。それは本の中身を理解するという意味での「読まなきゃ」と、読まれるべくして作られた本が手元にある以上期待に応えるという意味での「読まなきゃ」である。だが、前者はそもそもできない相談で、後者については必然性を失う。ここで「あっそうかいじゃあ俺はもう何も読まんぞ!!!」っつって本棚に背を向けてYoutubeを開こうとしたそこのあなた、待ってほしい。本を読みたいという気持ちを無駄にしてはいけない。

 

 著者はこのような読書の条件を踏まえたうえで、下記のように述べている。

 

 何かを読みたいという気持ちがある人は、まずは読んでも意味がわからないことを覚悟したうえで、ある程度の投資をするべきなのです。読みもしないでこんなに買って積んでいいのだろうか、というくらい、本はまず手元に集めましょう。積むのです。(中略)ときには気が向いて、そのなかから一冊二冊と引き抜いて、つまみ読み、拾い読みをすることもあるでしょう。その本はいつまでも「未読」のままかもしれませんが、それでもまったく手を出さないよりは身近になるはずです。そして運がよければ、そのなかから「これは」という一冊を引き当てて、よくいる「専門家」のように例の昔語りを語る側になれるかもしれません。(中略)仮にそのような名著を引き当てる幸運に巡りあえたとしても、重要なのはそこにいたるまでに手当たり次第にリストアップし、買い集めた無数の積読のほうです。それらの投資なしに、幸運な名著との出会いはありえない、それが情報の濁流の時代環境なのです。(pp113-114)

 

  こうした読書あるいは積読の「投資」的な側面を著者は絶えず強調する。先ほども述べたように、つまんない本を掴まされるリスクをとるのが読書という営為である。一定の金と時間を費やすこのリスクテイクは「勇気をもってやってみる」(p37)ことだと著者は述べる。情報の濁流に棹差す形で自らの積読を形成するという「勇気」が、現代社会の読書家に求められているのである。

 それに、積読といっても、「よし給付金10万全ツします!!!!」とかいって本を買いまくるだけではない。たとえばAmazonで本を検索して気になったものをほしいものリストに入れておくとか、ネットで気になった論文をダウンロードしておくとか、あるいは図書館で借りるとかでもいいのである。要は、「とりあええず読みたいな」という本を意識しておくこと、気になったら手に取れるようにすることが大事なのである(この点、本書で提示される「積読」という概念は、バイヤールの影響を受けているためか、かなり可塑性があり個人的にはこうした捉え方に可能性を感じる。こうした積読では、著者も言うように書店や図書館もその延長線上に含まれるからだ)。

 その際に大事なのは、著者も言うようにテーマを決めておくことである。「テーマを決めるのは適当でいいし、適当に決めたテーマを、さらにまた適当に変化させるのもいいのですが「自分がいま何をテーマにしているのか」を見失うことだけは避けなければなりません」(p124)と著者が注意喚起するように、こうしたテーマ性を自分の中で決めておくことが、その積読を秩序付けるのである。古代ギリシアに興味を持った後にプログラミング関連の本を集めてもいい。ただ無秩序にあれもこれもと集めるのは、情報の濁流をそのまま自分の蔵書に引き込むことになりかねない。そのため、ある程度テーマを意識し、取捨選択を続けていく過程で積読環境が「ビオトープとして息づいていく」(同)と著者は述べる(ちなみにビオトープとは小学校などによくあるメダカとかがいるちっこい池みたいなアレです。小4の頃あそこに突き落とされました)自分だけの積読環境を作り上げる中で、「自分と同じような「環境」を構築している人は古今東西どこにもいない」(p210)に気づく。だからこそ積読によって「自己のための文化資本を蓄積することによって、情報の濁流にかき消されない「自己の輪郭」を作る」(p211)ことができるのだ。

 

 本書を読んで俺が思ったのは、「積め!」と著者が言うようにどうせ買うなら「積む」つもりで買うべきなのだろう。「あーあれも欲しいこれも欲しい」という感じで「読む」つもりで買った本が自然に「積まれて」いては、「読めや!」という書物の声にうしろめたさを感じてしまうだろう。かといって、何も考えずに本を積んだらゴミ屋敷の完成である。とにかくテーマに沿って本をリストアップしていくこと、ブックリストの本を機械的に全部買い集めるのではなく、自分が「アッこの参考文献よさそうだな」などといった主体的な動機でもって買ったりほしいものリストに入れたりすることで「積む」ことが大事なのだ。この本を読み終えてから再び自分の蔵書を眺めてみたが、やはり「あれもこれも」で買ってしまっているところがある。俺自身は今かなり古代ギリシアに興味関心の比重が移っているので、そのテーマの文献をもっと増やすなどの改善の余地があるなと思ったし、これからどんどん「積んで」いきたいし、「積む」余地があるな思ったら、不思議とこの蔵書が頼もしく思えた。確かに自己肯定感がチョットだけ増した気がするのだ。

 

3、「しなければならない」読書から「してもいい」読書へ

 以上、最近刊行された読書に関する本を2冊紹介しつつ、愚にもつかない読書論を述べました。偶然だと思うが、両方ともある本を引き合いに出している。「その年には見えねえよという評論家ランキング」のトップ争いで岸博幸と熾烈なデッドヒートを繰り広げていることでお馴染みの教育学者、齋藤孝の『読書力』である。しかも、両方の本とも齋藤が「読書をしなくてもいいなんていう人間には怒りを覚える」と書いたことを否定的に取り上げている。齋藤はこう言っているらしい(残念ながら当該の岩波新書を持っていないので『死んでも読書をやめられない』から孫引きしている)。

 

 私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など絶対にしなければいけないものでもない、などと言うのを聞いたときだ。こうした無責任な物言いには、腸が煮えくり返る。ましてや、本でそのような主張が述べられているのを見ると、なおさら腹が立つ。自分自身が本を書けるまでになったプロセスを全く省みないで、易きに流れそうなものに「読書はしなくてもいいんだ」という変な安心感を与える輩の欺瞞性に怒りを覚える。

 本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものだ。こう断言したい。

 

 一応その新書は俺も高校時代に地元の図書館で読んだことがあり、そして読み終えてからは「いやまったくそうだよな。俺も頑張ろう」と一念発起し、中公の『世界の名著』を端から順番に読むということをしていた(結局中断したのだが、どこで止まったのかすら覚えていない。一応人には「世界の名著? 3分の1ぐらい読んだかな^^」とか適当をこいている)。サルトルの『嘔吐』に出てくる独学者もビックリという強迫観念に一時期取り憑かれていた俺だが、そのぶつかり稽古が今どれだけ生きているのかは自分でもよく分からない。

 インターネットで軽く検索をかけたのだが、この齋藤の見解に賛同している方々の多いこと多いこと。もちろんこうした義務感を持って読書に臨める人も一定数いるのだろう。だが、それを読書家にとっての「べき」論としては語ってほしくないと思う。永田が指摘しているように、こうした義務感は情報の濁流という不可避的条件のもとでは和らぐことのない苦しみに容易に変化するだろう。

 そして、この義務感を他者に押しつけることは、柄谷一派の『必読書150』の帯である「これを読まなきゃサルだ!」という侮蔑とそう距離は遠くない。「しなければならない」読書というのは、どうしてもそういった特定の書物群と結びついてしまう。何故なら「読書しなければならない」の目的語は必ず「良書」であるからだ(悪書も含めて読め!というようなことを言う奴はあまりいない)。勢古が言うように、『読書力』で齋藤が挙げている「マイ古典」のリストが、いわゆるグレートブックスや古典的な読書リストのほぼカーボンコピーでしかないのは、齋藤が典型的な読書至上主義者にしてファナティックなカノン崇拝者であるという印象を与える。

 俺は『プルーストイカ』や『ネット・バカ』を読んでいない(いつか読むつもりだが)ので、読書が脳にどれだけいい影響を与えるか、逆にネットサーフィンがどれだけ悪影響を及ぼすかについてはよく知らないが、読書だけが至上にして唯一の知的訓練だということを言うつもりは毛頭ない。そもそも「映画を観ない奴はクズだ!」「ゲームしない奴はアホ!」とか言う奴がいないのに対して、「読書」だけはしなかったら怒られが発生するのは変な話ではないだろうか。

 

 友人に改めて言いたいのは、読書しなきゃいけないということはないので、焦らず急がず時を待ちましょう。もし本当に読みたいという気持ちが出てきてからでええんやでということである。そしてもし読書をするとなったら、俺がこういうことを言っていたというのを頭の片隅に置いておいてほしいのである。よろしくお願いします。

 

4、おまけ

 ここからは俺が読書などについて愚論を並べ立てた記事の紹介である。あわせて読んでくれると嬉しいクル~!

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 これもかなり昔に書いた読書論?みたいなものだが、今考えるとこの時はブラック企業特有の「使う暇がないからいつの間にか金が貯まってた!」という奴で、狂ったように本を買っていた。しかし、はっきり言ってこれは「ビオトープ積読環境」とはとても呼べまい。そして、記述を読むとかなり「読書」についての強迫観念に囚われている(強迫的な読書はやめにしようという記事を書いているのにも関わらず、実は今でも俺は完全にはその強迫観念を取り去れていない)。まあ本記事と対比していただければ。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 読書ノートについての簡単な覚え書き。この覚書をもう少し敷衍できないかなと思っているが、まだまだ修行が足りませぬ。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

  これはほとんどおふざけみたいなものだが、如何に人文関連で「通ぶる」かについてのハウツー記事である。今読むとかなり露悪的だなあと思うが、決して着眼点は悪くなかったなと思ってます。院に進んだサークルの後輩からは「これアカデミックスキルと似てますね」と言われたこともあるが、もしこの手法を学んだ大学院生が蔓延したら辛いよぼかあ。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 俺にとっての「古典」とは?という記事。今でもこれはブレていない。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 R.I.P 池内紀

 

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  コロナウイルス以後の読書についての、自分向け覚書みたいなもの。