死者の如き従順

全ての陰謀に関与する戦闘的ジェスイットの身辺雑記

【読書感想】白井聡『未完のレーニン』第1部・第2部――「革命の現実性」を中心に

 以前の記事白井聡への愛憎相半ばするお気持ちをブチ上げたわけですが、その時『未完のレーニン』と『物質の蜂起をめざして』を読みます!と宣言してしまいました。前者を読んだので、まあ読書感想的な雑文を草する次第。

 

 まず述べておきたいのは、マルクスレーニンについて任意の研究者がどーたらこーたら述べていることについて俺には正しく評価するだけの知識も力量も全くないということである。「そんな奴が記事書くなよ……」と思った貴方、その正しさに拘り続けること、死んでもやめんじゃねーぞ(某ANN風)。

 一応俺のレベルについて客観的なことを申し上げると、マルクスは大学1年生の時と3年生の時に集中して読む期間(前者は読書会、後者は一人で)を設けたが正直今ではほとんど忘れているし、レーニンは前も書いた通り『国家と革命』『帝国主義』『哲学ノート』しか読んだことがない。それぞれの研究書はほとんど読んだことがない。早速言い訳がましくて恐縮ですが、そのぐらいのレベルの知識しかない人間の読解に過ぎないということをまずはを頭に入れておいてほしい。

 

 既に紹介しているが、本書については岡山大学教授の太田仁樹からかなりクリティカルな批判がなされている。(マルクス主義の革命論に対して批判的な)太田自身の立場から加えられた批判でもあるが、そもそも研究書としてどうなん???という部分の指摘も含まれており、その意味で「クリティカル」なのである。そして今回8年ぶりに本書を再読したのだが、残念ながら太田の指摘にかなり首肯せざるを得ないところがあった。太田による本書の要約はまさに「簡にして要を得る」ものであり、その上で批判も徹底している。そんな「ジ・アカデミズム」の研究ノートに屋上屋を架すことに何の意味があるのだろうかと思ったが、まあ逆にマルクスレーニンも生半可な知識しか持たない人間がこの本を読んでどう思ったかを書くのもアリっちゃアリじゃね?という素朴な気持ちと、もう記事書くネタねえしなという安易な判断からこのまま筆を走らせていきます! よろしくどうぞ!

 ※以下、断りがなければ引用は『未完のレーニン』からです。

 

 本書の問題意識は鮮烈である。ソ連なき後の時代では、資本主義の徹底化が世界各地で推し進められいる中で、資本主義に覆われた世界の外部を模索することが求められている、らしい。そこで、革命を通じて外部である「ソ連」に到達しえたレーニンの思索を手掛かりとするために、著作を改めて精読し、冷酷な権力政治家でもなく革命へのユートピア主義者でもない「本当の」レーニンの思索を辿ることが必要ではないか、というものだ。この問題意識それ自体は確かにそうだなと思うところがないでもない。

 付け加えると、白井にとってはレーニンのみならず「ソ連」の存在が重要であったようで、「広大な帝国であったソヴィエト連邦がもはや存在しないいま、資本が労働者と妥協する必然性は存在しないからである」(p4)と言っている。ソ連がオワコンだったことは我々も歴史的事実として知っている(し、白井も「畸形的国家」(p14)だと断じている)が、資本主義とは異なる可能性の「象徴」としてのソ連には資本主義世界で跋扈する資本さん側も一定の配慮をせざるを得ず、そこで労働者との妥協が生まれたということなのだろうか。このあたりは労働運動史に詳しくないのでよくわかりません。

 さて、ジジェクのn番煎じ(こう言うと怒られるかもしれないが白井の筆致というか理論構成がジジェクと結構似てるなと思うのは俺だけだろうか)みたいな『グッバイ、レーニン』評や、レーニンは「精霊」だの「秘密がない」だののワンダーランドなレーニン像を披歴するという一般読者向けのサービス精神を旺盛に振りまいた後、白井が本書の方法を明らかにしていく。本書で精読されるテキストは『何をなすべきか?』(1902)と『国家と革命』(1918)である。

 このあたりのテクストの位置づけや批判については、太田研究ノートを見てもらうことにするが、俺の意見を申し述べると、「筆者の一種の主観的好み」(p23)と自分で言っちゃっているように、テクストの選択としてはかなり恣意的な印象を受けた。一応何故このニ著が選択されるのかという「客観的理由」として、左翼における解釈史(『国家と革命』は好意的に、『何をなすべきか?』は否定的にそれぞれ受け止められている)が挙げられている。つまり、『国家と革命』における「クレムリンの夢想家」としてのレーニン、『何をなすべきか』における「実務的政治家」としてのレーニンといった分裂が後代の解釈史において主流を占めてきたと白井は主張し、そうした分裂ではなく「二つの著作を等しく貫く同じ思想の躍動をとらえること」(p24)が必要だとする。そのような解釈史の補正は研究ご苦労様ですと言いたいところだが、このニ著がレーニンの本当の思索を明らかにする鍵テクストになる理由としては十分ではないと思う。とはいえこの指摘は方法論的拘泥に過ぎないと言われればそれまでだが。

 

 とはいえ、テクストの選択が恣意的であっても、研究書として読まなきゃ全然オッケーなわけでですね……。まあここら辺まで読んで勘のいい読者は気づかなければならないのだが、そもそもこれはレーニンの研究書とはおよそ呼べない代物である。というか、別に研究書たらんとしているわけでもない。レーニンの全著作を検討してその全体像を解き明かすとか、未公刊資料を用いて新たなレーニン像を提示しているとか、研究史とがっぷり四つに組んで新機軸の解釈を打ち出すとか、そういう堅実なアカデミズムの成果を期待してはいけないのだ。多分我々は本書に別個の価値を見出す必要がある。あるのかな?と思った向きはもうこんな本は投げ出して別の本を探そう。もしよければ、手際よくまとまっているレーニンに関する邦語の入門文献を教えてください。

 とすれば、やはり白井の問題意識、つまり資本主義の「外部」を模索する営みが、レーニンの「つまみ食い」を通してどれだけ説得力をもって展開されているかにこの本の成否がかかっているのではないか。そういう観点から読み進めていきましょう。

 

 白井によれば、革命とはその前史との絶対的な断絶を意味する(起源なき革命)。しかし、革命は現実にあるものから生起しなくてはならない。この断絶と連続という革命概念が含み持つ二つの矛盾するモメントの解決策として、レーニンは徹底して革命を〈リアル〉なものとして捉えることを行ったという。史的唯物論における、〈革命が必然的にやってくる〉ことが客観的に明証されるというマルクス主義の革命論の欠陥をレーニンは見抜いていた。この理論では革命の到来は担保されているが、革命の実行主体や革命の到来時期について何ら明らかにされていない。である以上、誰がいつ革命を行うかの客観的正当性をこの革命論では担保し得ないし、答えようがない。

 だからこそレーニンは革命の位相を〈必然性〉から〈現実性〉に転換することを目論む。つまり、科学的社会主義において客観的に世界を分析すると革命は必然!という結論に至るわけだが、客体化した世界に対して観察主体が革命を起こすための契機が成立しない。レーニンとしては、世界から超出して獲得した客観性を、世界に回帰してその中において捉え返すという試みを行っているのだという。ここら辺の説明で皆さんかなり「???」となりませんですか。俺はなりました。実際、ここら辺については、レーニンのテクストに基づく説明というよりは、二次文献などで提示された解釈をもとに哲学的な議論を独自に展開しているようにも読める。

 今のイミフな話をより実践的なレベルに落とし込んでみると、来たるべき革命に対して何を為すべきかという不毛な論争ではなく、この世界に内在する革命を如何にバカ盛り上げていくかが、言い換えれば世界を〈革命化〉していくかが重要になっていくということだ。白井自身はこう書いている。「現存の秩序に火花(=イスクラ)を放つことによってそれを燃え立たせ、「革命の現実性」を高めることにほかならない。そして「革命の現実性」が世界の在り様そのものと等しいとすれば、レーニンが「暴露」「煽動」によってめざしていたものは、厳密な言い方で規定するならば、世界という器のなかで「革命を起こす」ことではなく、「革命の現実性」というエネルギーを器に充満させることによって、器としての「世界そのものを革命化してしまう」という前代未聞のラディカルな試みにほかならなかったのである。」(p58)ということらしいです。「革命は何年何月何日にはじまるというような起源を持つものではなく、また主体によって起こすものでもない。現にある社会的諸情勢の運動の過程そのものが革命の過程であり、それは「革命の現実性」に貫かれている。『何をなすべきか?』に描かれた党組織とは、この「過程」を燃え上がらせ、ついには爆発させることをめざすものにほかならなかった」(p60)。ふーんってなってしまった。

 何故白井はこの迂遠な解釈いろは坂をアクセル全開で突っ走ったのだろうか。レーニン解釈は一旦置いておいて、彼自身の目的に照らして考えてみる価値はあるだろう。その少し前を読んでみると、「階級意識の外部注入論」(プロレタリアートはどうやっても科学的意識に基づく社会主義的意識を自分では作れないので、その担い手であるブルジョア・インテリゲンツィアに教えてもらわないといけないという奴)を意図的に(建前上はレーニンが)読み替えようと努力している痕跡が認められる。プロレタリアート階級だけでは「いや俺らの環境マジあたおかすぎてぴえん。革命フルチャンっしょ!」という意識に辿り着けないのであれば、社会主義革命は絵に描いた餅である。一方でカウツキーらは「まあ歴史を分析すれば革命は必然なんですけどねフォカヌポゥwww」と言うだけで革命が起こるのを神待ちしているだけだ。

 先も述べたように、そうなってくると誰が革命起こすんですか?という問題といつ革命起きるんですか?という問題が生起するが、それについて答えるのはかなり難しい。だからこそ変な物言いではあるが、「起こす」とか「起きる」とかとかそういう次元ではなく、「奇跡も、革命も、あるんだよ」と言うことでしか革命はありえないということになる。何故ならば、客観性の観点から言えば革命は起こすものでもない。しかし、ただ勝手に待っていれば起きるものでもない。そうである以上、もう既に革命はこの世界のうちにある、今はまだ全然小さい見えないくらいの灯だけど、これからバチバチに盛り上げていこうぜ!と言うことのみが求められるのだ。

 

 革命の現実性についてさらに説明する必要があると思ったのか、あえて元々の修士論文になかったフロイトレーニンの読解を本書に入れ込んだとみられる。それが本書の第二部に相当する。

 白井は随所でレーニンフロイトの叙述の相似性を強調している。が、そもそも前提が異なるものを単に「抑圧されたもの」(つまりプロレタリアートと無意識)で括って比較するというのはあまりにアクロバティック過ぎませんかという疑問を禁じ得ない。が、こまけえこたあいいんだよ!マインドで読み進めていくと、フロイトの『モーセ一神教』及び『トーテムとタブー』の読解を通じて、「われわれは、フロイトの洞察によって、レーニンイデオロギーは一種の強迫神経症として理解しうること、つまり、レーニンの言う社会主義イデオロギーの外部性とは、プロレタリア階級の意識にとって抑圧されたものにほかならないということを意味することを学んだ」(p79)そうです。学んだつもりは一切ないが、そういうことにしましょう。

 思い起こしてほしいのは、外部注入論において想定されていたプロレタリアートにおけるイデオロギーの外部性である。白井も言っているように、「革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことができない」(p95)とされる。突っ込んで言うと、資本主義社会における労働者にとって革命は「夢のまた夢」程度のもので、自分たちの闘争目的が待遇改善や賃金上昇に求められる「組合主義・経済主義」では資本主義社会を破壊するよりもそれを維持することにつながる。その意味で革命がそもそも労働者に縁遠い、「外部的」なものであることはどうしても避けられない現実としてある(だからこそベルンシュタインの修正主義は、この革命の夢を放棄せよと迫るわけだ)。

 しかし、フロイトをオーバーラップさせる理論的操作によって、白井はこんなウルトラCを提出する。

 

 レーニンが為そうとしたことは、かつて搾取・抑圧の原因をつくり出したがそのことが忘却され、無意識的領域へと追いやられた「心的外傷」(引用者註:「労働力の商品化」)を、全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということにほかならなかった。(中略)こうしてレーニンの語るイデオロギーは、労働者階級に対して「抑圧されたものの回帰」として現れる。労働者階級が、日々の搾取によってすでに病的状態(=神経症)に置かれているとすれば、それを治そうとするレーニンが語り掛ける言葉は、その原因に労働者階級がつきあたることを促すものであり、その原因の記憶が労働者階級にとって「抑圧されたもの」である以上、レーニンの言説は精神分析家のそれと同じ位相にある。ゆえに、それは外部からの言葉として現れ、別の形を取った一種の神経症的なものをもたらすのである。(pp95-96)

 

 何故これが白井にとって「ウルトラC」になるのかというのは、もうひとつ引用を示したい。

 

言うまでもなく、資本主義はある意味で破壊的である。それは農村共同体を破壊し、搾取される労働者を生み出す。だから、資本主義が発達するということは、これらの破壊的作用が昂進する。しかし、レーニンはこのことをまったく恐れず、資本主義の発展を否定的なものとは見なさなかった。その理由はもちろん、マルクスの根本的展望、すなわち資本主義の発展は既存の社会構造を破壊するのと同時に、その墓堀人を不可避的に生み出し、それによって社会主義革命が導かれる、という展望にある。(中略)資本主義の浸透がトラウマの克服を全人民的問題とするからである。(中略)このようにして、資本主義の発展によって全人民が歴史の形成に参与することによってはじめて客観的必然性を持った現実的なものとしての革命が世界の有り様(引用者註:原文ママ)を規定するようになる。すなわち、「革命の現実性」が世界に充満しはじめる。(pp113-115)

 

 読んだことがある人は分かると思うが、この引用はかなり色々なものを落としている(ナロードニキ批判や死の欲動の反転など)。しかし、白井が示す「革命の現実性」とやらを理解するにはこれで十分だろう。こうした白井の議論が、カウツキーが述べ、レーニンが賛意をもって引用した元々の外部注入論とは少し違うように見えてこないだろうか。

 カウツキーもレーニンも一致しているのは、革命的意識そのものと労働者の間には「隔絶」があることだ。カウツキーはそれが歴史的に最終的には一致するという科学的な見解にとどまり、レーニンはその「隔絶」を前衛党による革命的プロレタリアートの創出によってどうにか埋めようと模索していた(このあたりの事情は太田研究ノートに詳しいので適宜参照してください)。

 しかし、白井はフロイトを導入することで、あえてプロレタリアートに「トラウマ的な事件/抑圧されて無意識に潜んだもの」としての「労働力の商品化」を設定することによって、この「隔絶」を単なる「忘れ去られたもの」に過ぎないという意図的な読み替えを行っている。何故なら、「革命は既にここにある」という現実性を墨守する限り、ブルジョア・インテリゲンツィアの「革命的意識」を外部からブチ込むことはありえない。何故なら革命は世界に既にあるわけなので、意識を云々することは白井が批判する主意主義的な革命観に陥るからだ。元々忘れ去られていたもの、無に等しかったものを「暴露」「煽動」によって「爆発的に露呈すること」、これが白井にとって革命を現実たらしめるということだとすれば、確かにこれは外部注入論から一歩抜きん出たオリジナリティであり、そのためにレーニンのみならずフロイトが動員されたのだとすれば納得が行く。太田研究ノートでは白井のこの読み方は「フロイトに逃げている」と評されていたが、しかしこのフロイトへの逃走は白井が設定した「革命の現実性」という問題系にとっては必要不可欠であったと言える。

 しかも、マルクスレーニンが述べるように、資本主義が破壊的に進展した結果、社会主義革命が起こるという予見は、フロイトの導入によって「強迫的に――つまり、われわれの意識的な意思に関わることなく――、「快感原則の彼岸」において、覚醒させられてしまうものである。それはつまり、「死の欲動」の反転が開始する瞬間がたしかに存在するということである。」(p117)とも裏付けられるのである。まさに白井にとってこれが「社会的諸情勢の運動の過程」を「革命の過程」としうる「革命の現実性」という議論の要諦ではないだろうか。

 

 さて、長々と書いたが、まだ第三部の『国家と革命』読解を扱えていない。ただもう流石に疲れたので気が向いたら後でまとめたいと思います(多分これは気が向かない奴)。

 

 全体的に言ってしまえば、どうも議論が粗削りなところが否めない。乱暴なパラフレーズや操作がしばし行われているし、〈外部〉といった鍵概念をかなり曖昧に使っている(階級意識の外部注入と資本主義の外部は意味が違うと思う)とか、あとやはりレーニンのテクストの引用が少なすぎるとか、俺みたいなド素人でも指摘できる問題点がたくさんある。そして、白井が本書の目的として設定している資本主義の「外部」の可能性とやらが、果たして革命はあるんだと主張することや、トラウマの話をすることで、説得的に示されているかはかなり疑問である。革命の現実性についても、どうしても言葉遊び的な側面が否めない部分がある。思想書としてもそこまで成功していないというか、この本自体に措定されている目的から言えば「未完」なのではという気がしないでもない。大幅な増補や、白井自身によるさらなる説明などを期待したいが、それは『物質の蜂起を目指して』を読めばいいんでしょうかね。読むかどうかわかりませんが……。

 

 個人的なことを少々。本書を読み終えたのが1週間半前。そしてその後もう1度第1部と第2部だけ読み直した。ところがこの記事を書き始めたのは先週の金曜日から。なので、かなり忘れていますし、かなり的外れな蓋然性が高い。今後は読んだらすぐ書けを徹底していきたい。そんな状況でもエイヤと書き上げたのは、何かずっと下書きに残っていてスッキリしないし、昨日書いた欅坂の映画感想を今日読み直したら「うわきもちわりぃな俺」と思ってすぐに他の記事を書きまくって埋没させなきゃと思ったからです。これから頑張って更新します。よろしくお願いいたします。