死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240424――橋を落としたのならば

 つまり、後顧の憂いなく、自らと引き換えに、恥ずべき所業を厭わぬ人非人セクストゥスから街を守ることに喜びを覚えなければならない。

 

 もちろんマコーリーの「Horatius at the Bridge」です。たまには自分のちっぽけな記憶の中の文学が役に立ちますね。もちろん、俺は別に死ぬわけではないのですが、死ぬわけではないからこそ、少なくとも自分で退路を断つ決断をした以上はいつまで経っても思い悩んでんじゃないよと自分で気を吐いています。なお、この記事は部分的にかなり芯を食っていますが、もうバレても問題ないっすわ。

 

 職場を離れるにあたって、友誼を暖めていた数少ない人たちと飲む機会があったのだが、そのたびに君が離れるのが惜しいと言ってもらえる。もちろん色々と腹積もりがあるのかもしれないが、そういう言葉を聞くと、次の職場でうまくいくかというと不安も相俟って「ああやっぱ転職しない方がよかったのかもな」と思うようになっている。

 だが、そんな思いをきれいさっぱり忘れさせてくれるのが平時の職場だ。何が最悪なのかは書かないが、もう今日という今日だけはという気持ちになってしまった。流石に信じがたいレベルの軽侮を受けてショックがすごかった。

 なるべく波風立たせずに辞めようと思っていたが、どうやら無理っぽい。実際問題、俺だけの問題なら本当に辛いがこのままやり過ごそうと思っていた。だが何人か別に犠牲者がいるとなる以上、今後もこういうことがあるかもしれないと思った時に、この問題を戦わないままにしていいのかと思ったんですよね。先日読んだコールハースを思い返し、やはりどんなに落魄した人生であっても理不尽を許さないという気持ちを持つべきではないかと思いを新たにした。

 と、威勢よく述べてみたものの、今のうつじみた精神状態でできることは神経戦が精一杯だ。そのため、どこまでやれるかは分からないが、とにかく手を尽くしてみようと思う。どうせいなくなる職場なので、ある程度はお構いなしにやってしまえるが、それでも突然机を蹴飛ばして欠勤して懲戒を喰らうほどのボルテージには至っていないのである。

 最後の一仕事を頑張ろうと思います。今日はそれだけです。

20240421――その夢すら溝に捨てたのはおい誰なんだよもう知ってんだろ

【雑感】

 うつ状態からちょっとずつ回復してきていてはいます。ただ、毎日酒を飲んでいるせいかパフォーマンスが全般的に縮退しているっぽい。とはいえ酒を飲みうまいもんを食うのが人生の一大事という感があるので、とりあえずゆっくりやっていくかという気持ちでございます。

 それにしても職場に行くの本当にしんどい。毎日職場がミサイルで吹き飛んでほしいと本気で思っています。どうしてイランとイスラエルの真ん中に職場がないんだろう。ウクライナ東部でも可。世界中のありとあらゆる戦争暴力を俺の職場に集中してほしい。

 今の職場は退職するんですけど、やっぱりあと30年も仕事しなきゃなのきっちぃっすね。これは確かにFIREしたくなるな。でも俺はしないような気がする。俺は共産主義者でも社会主義者でもないし、どちらかというと資本主義をマシな選択肢だと思っていますが、昨今の資産運用立国みたいなムーブメントにはメチャクチャドン引きしているところがあるので、FIREという選択肢はとりたくないと思っている。

 

【読書】

 クライスト(山口裕之訳)『ミヒャエル・コールハース チリの地震 他一篇』(岩波文庫、2024)を読んだんですけどね、コールハースのおかげでちょっとだけ元気になったわ。「もしもこの出来事のすべてが、そのようにしか見えないのだが、示し合わせて行われたたくらみにすぎないとすれば、自らの力で、彼の自尊心が傷つけられたことに対する償いを手に入れるとともに、同胞に対して将来そのようなことが起こらないという保証を手に入れる義務が、自分にはこの世の中に対してあるということだった。」(p19)まさにこれなんですよね。本当に大事な気持ちだと思う。

 あらすじは以下のとおり。コールハースは売り物として大切に育ててきた馬2頭を無法な領主に取り上げられた挙句、その馬が農作業に使われてダメになってしまう。さらにその馬たちを世話するはずだった従僕もほとんど半殺しにされて領主の荘園から追い出される。この2つについて最初は正当な訴訟手続で補償(=馬を元通りにしてもらった上で返す&従僕の治療費等を負担してもらう)してもらおうと考えるが、領主がザクセン選帝侯宮廷の官職貴族と縁戚関係にあることなどから全くもって相手にされない。選帝侯への直訴を試みた妻は不届き者として警衛に胸を突かれた予後が悪く死んでしまう。それでもなお妥協的な判決がなされたことで、コールハースはついに領主を襲撃するも、領主は遁走する。この領主を追撃していく中で、最終的にはザクセン選帝侯領内で最悪の叛乱勢力にまでなる、という話(実話がもとになっているようだ。)。

 コールハースが「ある一つの徳について度を越えたふるまい」(p7)をしなければ、と冒頭にあるとおり、まさに折り合うことを知らない正義感こそが、最終的には彼を神聖ローマ帝国の処刑台にのぼらせたと言える。この正義の遂行の過程で、コールハースはいくつもの街に火を放ち、人々の生活をメチャクチャにする。さらにコールハースの部下であるナーゲルシュミットはコールハース代理人を僭称し、正義の戦いと称して殺戮・放火・略奪に勤しむ。作中のルターがいみじくも非難したとおり、コールハースの徹底ぶりは、もはや正義とは違う復讐心のようなものに取りつかれていたのだろう。しかし他方で、そのような強情さでもってしか果たせない正義というのが確かにあるということが、この小説が示した人間社会の地平という感じがしましたね。

 なお、他の収録小説である「チリの地震」「サント・ドミンゴの婚約」も面白いですね。前者は不義によって死を迎えるはずだった男女がたまたま大地震のカオスに救われるも、大地震の原因がその冒涜的な行いにあるとされて群衆の怒りを買って赤ん坊ともども殺される話、後者はハイチの独立運動の際に白人を捕らえて殺す屋敷におけるスイス人と現地の混血の少女との悲しき誤解の末の物語でした。どっちも残酷趣味というか、前者は教会の床に叩きつけられた赤ん坊が脳漿を垂れ流して死ぬとかいう何とも言えませんでしたね。

 

 読書メモを作ることを心掛けて4か月経ちましたが、精神状態もよくないので、今後は小説に限らず他の本も↑ぐらい簡素なメモだけになるかもしれません。

 アウトプットの難しさというか、俺という人間が何をやってもしょうがないという気持ちが出てまいりまして、もう少し楽にしようやと思っています。

 

緊急開催!おまえらインプットどうやってるんだ座談会 | オモコロ

 ↑この上の記事を読んで思ったんですが、人間の記憶の定着には漫然とブログに書き散らして「はぁ~お~わりっ!」ってするのではなく、もしかすると他者を必要とする「色気」のあるアウトプットが必要なんじゃないかなと思ったんすよね。誰かとたくさん語り合っているうちに覚えるというか。そう考えたら記憶の定着という観点からすればこのブログに読書メモを書く意味はないんですよね。もちろん記憶に定着させるというよりもいつか読み返した時の楽しみのために書いているような節があるのですが、ただまあそんな読み返さねえっていうのが最近の気づきです。というのも、俺は日付しかタイトルにしてないので検索性に乏しいし、あと割と稠密にまとめると読み返すのも結構しんどいっていうね。その労力があるなら多分対象の本を適当にパラパラめくってた方がよっぽどいいっぽい。

 記憶という観点では、むしろ丁寧にいろんな本を再読した方がいいんだろうなとは思っていますが、世界には本が多すぎる!!! このペースでいくと、日本語の本だって残りの人生であと2000冊読めたら結構いい方ではないかと思うと、アウトプットで変に時間を使うのもどうなんだという気持ちがなくはない。人生の終わりを考え出すと途端に自分のこの漫遊じみた読書傾向がとんだ時間の無駄遣いではないかという気がしないでもないが、そもそも俺の人生がある種の壮大な濫費に過ぎないことを思えばそれはあんまり気にしなくてもいいんでしょうね。

 

【動画】

youtube.com

 人間7年も何かやってたら上達するんだなという好例です。こんなに年月を一緒に過ごせる仲間がいるのは凄いことではないでしょうか。俺にとっては大学時代の付き合いがそれなんですけど。

 それはそれとしてやっぱロストワンの号哭すこやな。これって中高生の心の不安にドン刺さりする歌詞なんですけど、何で30の俺に効いているんですかね??? 青春の音楽をボカロと東方とサンホラに捧げたマンの進歩のなさ、このコピバンの成長と対比するとエグいものがありますわな。

 

20240417――それでも地獄は廻っている

 お久しぶりです。世に言ううつ状態になっておりました。

 

 仕事中突然何もできなくなる。頭が痛くなる。そういうことが続き、家に帰ったらベッドに寝転がって何をするでもなく天井をボーっと見つめて、気づいたら朝になっている。読書もゲームもYoutubeもほとんどできない日々。たまに飲み会がある時だけ空元気を振り絞っていくのだが、そういう頑張り時がないと何もできない。LINEへの返信もできなくなる。そういう感じでした。ちなみに、一回地元のメンタルクリニックに行ったのですが、適応障害の疑いが濃厚ということでした。とはいえ、どうせ仕事は辞めるので、辞めてよくなったらいいなと思っています。

 

 今日職場ですごく嫌なことがありこのうつ状態に追い打ちをかけてきて、もうしんどいとなったのですが、久々に大学の先輩とうまいラーメン食って酒飲んで四方山話に花を咲かせて多少元気を取り戻した次第です。ただ、この間何もしていないので中身のあることは何も書けません。

 

 今自分が自分のためにできることは、職場でのストレスを極限まで軽減することに尽きる。近々ボスと最後の面談があるので、洗いざらいぶちまけてこれこれこういう次第なので退職日まではなるべく俺に心理的負荷をかけないんでください死んでしまいますと警告しようと思う。やっぱメンクリで休職用の診断書もらってくればよかったなと思ったが致し方ない。本当に辛い時は休むしかないが。

 

 あと、改めてクソみたいな職場だったなと今日再確認した。やめて大正解ですよ。今日受けた仕打ちは多分死ぬまで忘れないと思う。俺がイランだったらクソ野郎a.k.aイスラエルに核攻撃してますよ。向こうがエスカレーションラダーを引き上げたんだからな。

 

 どうして人生こんなことになってしまったのか、今後もよくなることはあるのか、そればっかり考えてしまうがもはやなるようにしかなりません。次の職場でダメになったら退職願とかまどろっこしい手続はとらずに逐電します。今の貯金から1ヶ月の生活費を除いて親に全部渡して失踪しようかと。あとは適当な地方都市で文字通りの行旅死亡人になるだけ。

 

 書いていたらまた元気がなくなってきた。終わりだよ終わり。

 

 とりあえず元気だったころのブログを読み返して溜息をつく時間にしたいと思います。気が向いたら再開できるとうれしいね。

 

20240407――余生と落魄、あるいは救済について

 お久しぶりですね、本日は長めにやろうかと。

 

【労働】

 近々に退職することになりました。なんとなく、この職場にはずっといるもんだと思っていましたが、こんなしみったれた人生であってもまだまだ驚きと波乱に満ちていますね。ずっといたら、まあ俺がどんなに無能でも40~50ぐらいには年収600~700万の安泰な暮らしを保証されていたとは思うのですけど、致し方ない。

 こんなことになってしまった責任分担については、会社4:俺6の割合だと思う。会社4は、①破滅的なマネジメント、②他罰的な人間関係のプレッシャー、③この間の諸々に対する柔軟性のなさ、④基本的に嫌われている、で、俺6は①堪え性なさすぎワロタ、②人間関係リセット症候群発症、③仕事を“全く”面白く思えないという社会人にとって致命的な「性分」、④思慮の欠如、です。

 「ここにいてもいいの?」っていう碇シンジ君状態をずーっとやっていると人間はおかしくなる。それを学べたのは貴重な体験ですね。エヴァQでシンジ君にWILLEの面々が「もうなんもせんといてくれや」っていうの、ニアサーがあったからというのはわかるっちゃわかるけどやっぱきっちぃっすよ。俺の場合は存在が無視できないインパクト(ビジネス用語)だったってこと? 俺の母ちゃんの出生をバカにするな! という気持ちになった。そりゃ変な人に言いくるめられておしまい畑になろうとしますわね。

 前職では退職交渉をした時にかなり慰留された(実際そのせいで想定していた退職時期よりもかなり遅れた)。それは「お前みたいなクズでもいないと数合わせ上困るんや」という上長の極めて実利的な判断によるものであって、決して俺の能力が評価されてというのではなかったように思う。それでも必要であったという意味ではなにがしかの価値が俺にもあったのだろう。が、現職現ポジションではそんなのが微塵もなかったので、退職を申し述べた際も非常にあっさりと終わってしまった。所詮1~2年は遮二無二働いたとしても、組織にとっては使い捨てでしかないというだけです。まあこれはこれでありがたかった(本当にこれ以上いると精神汚染がひどいことになるので)。

 次の仕事は決まっているが、正直今の職場より好転するかどうかは見通せない。前職はガチガチの高給漆黒、現職はまあまあの薄給ゆるグレー(まあ通年では結構残業もしまくったし)という感じで、次のところはその中間かややブラック寄りになると思う(給料はちょっとだけ上がる程度)。普通に労働時間は倍増すると思うので、そこに耐えられるかどうかですね(これについては覚悟の上)。この職場も長続きしなかったらいよいよ組織に飼われるタイプの労働は諦めるしかないと思う。しかし、①人間関係ガチャ、②案件ガチャでSSRを引かないと長続きしないシステムに依存することのリスクも真剣に考えるべきなんでしょうね。だって2回も退職してんだもん! 士業とか大変そうだし、フリーターでやっていくためのバイタリティもないし、金融資本主義に対する不安が強いのでNISAやらFIREみたいな発想にもなれないし、で結局雇用労働に舞い戻っているという点はありますが、普通に一旦全部をフラットに検討し直す機会はあってもいいように思いましたね。

 

【雑感】

 退職に際して、人生を振り返ってみましょう。

 思い返すと、やりたいことを全力でやり抜くみたいな経験に乏しい人生だった。もちろん、何かをやっているうちは結構頑張っていると思うのだが、頑張りどころがまだ残っている段階で「まあここらでいいかな」と思って切り上げてしまう「手癖」が俺の人生のあらゆるところに見出せる。それが自分のどんな好きなことであっても、である。

 まず、俺は一応ゲームオタクの端くれだ。だが、俺はどんなにハマっているゲームでも「トロコン」をしたことがない。もっと言えば、いわゆるストーリーやゴールのあるタイプのゲームで全クリまで行ったことがほとんどない。このブログで何度も言及しているFallout4やSkyrimも、実は全てのクエストをクリアしたことがない。Fallout4に至っては発売から9年ぐらい経っているが、DLCの「Nuka World」は一度もプレイしたことがない。まあ、オープンワールドゲームだとこういうのってありがちだと思うが、普通のゲームでもクリアまで行かずに放置しているのがたくさんある(CoDとかグラブルリリンクとか……)。最近きちんとクリア!まで持っていったゲームはほとんどない(ゴーストオブツシマとかアサクリヴァルハラとか……)。今ここに挙げているのは分かりやすいような客観的な目標値に過ぎないが、主観的な目標として「まだまだやりどころがあるな」と自分でも思っているにしても「まあいいか」とうっちゃっておくことがあまりにも多いのだ。

 同じことは読書についても言える。俺は濫読が大好きだが、この学問を究めたい!みたいな気持ちがとんとない。言い換えると、体系的に学ぼうというパッションがない。このため、知識は歯抜けだし、都度連関を欠くので記憶にも定着しないというコスパの悪すぎる読書を行っているが、別にもうどうでもよくねと思っている節がある。また、個々の読書行為についても、分からんところは結構の頻度で飛ばしがちになっている。この前、必要に駆られてこれまで全く読んだことのない分野の本を1日かけて斜め読みしたのだが、数式は全部すっ飛ばして、数式以外で訳わからん部分も適当に読み流した後に、一応まとめを作ったら1000字もいかなかった。つまり1日かけてもその程度の理解粒度でしかなかったということだ。しかし、そういうななめ読みあるいはつまみ読みであっても、自分の頭で考えられる人であれば、ひとつのテーマを深く広く考え、たとえ雑な読書でも多量かつ広範に読むことによって抽出したデータを有機的につなぎ合わせ、思考の糧としうることもあると思う。ただ、基本的に俺は一冊の本を端から端まで読まないと気持ち悪いので、中途半端な理解度でいたずらに時間を費消するという、傍から見ても頭の悪い読書をずっと辞められないでいる。自分である程度客観視できているが、直そうという主体的な動機が生まれてこないのは、やはりどこかで「まあいいか」という気持ちになってしまっているのだろう。

 好きなゲームや読書でさえこの体たらくなので、仕事なんかはまさにそういう悪いところだけがずっと出ていたように思う。まあ、これは別によかったですけどね。仕事を100%熱心にやらないのは働き過ぎな現代社会への報復としてとらえているので。生産性は人を痛めつけても出てこないということを永劫に学び続ける罰を負わされている社会への鞭が俺です。

 さてさて、人生に通底するこの「まあいいか」メンタリティを今更変えられるのかというとビミョーなところだ。もしかして読書もゲームも「ちょっと好き」程度にとどまっていて、まだ「本当に好きなこと」に出会ってないだけかもしれないが、30年生きてきて「本当に好きなこと」に出会えないなんてある???という素朴な疑問があるし、読書もゲームも「本当に好き」だけどコンセントレーションの程度が他人よりも著しく低いだけという現実に向き合うべきな気がする。そう、30年生きてきたのに何事にも真摯に向き合わなかった結果、俺はこの現実と真摯に向き合うように『時計じかけのオレンジ』よろしく目かっぴらいた状態で拘束されている感じがある。

 とはいえ、そもそも男に生まれたからには一事を成し遂げるべき、みたいな話をしたいのではない。そんな規範からとっくに自由になった以上は、このあてもない自分探しは自由の対価として恭しく受け取る類のものだろう。一事を成し遂げられないにしても、知的な漫遊をできる限り楽しみ、死なない程度に逸楽に興じるというありふれたディレッタンティズムを然り!と肯定してもいいのである。大学を卒業して以降の廃墟じみたアディショナルタイムではあるが、結局どうやってもこうなるしかなかったんだと開き直って生きていく決意を遅まきながら固めていこうと思った。

 とはいえ、である。俺もいつかはプロセスの濁流を抜け出せるだろうか、という淡い希望ぐらいは持ち続けていたい。天から垂らされた糸をしっかり掴めるように目を凝らしていたい。だからこそ閉鎖的なコミュニティに甘んじるのではなく、もっと漫遊と逸楽のフィールドを大きく広げていく必要があるのではないかと思っている。今後の人生のテーマはそれかもな、と漫然と思っている次第です。

 

【読書】

 高山博・亀長洋子編『中世ヨーロッパの政治的結合体――統治の諸相と比較』(東京大学出版会、2022)を読了しました。A5判で600頁超、そしてお値段1万円+税という本当の「専門書」ですね。極めてハイブラウな西洋中世史の学術論文集でした。

 中世シチリア王国に関する研究などで斯界の第一人者とされる高山だが、その院ゼミの共同研究の成果とのこと。近代国家への過渡期的な存在として王権や領邦を捉えがちな「中世国家論」の視点を脱却し、王権、領邦、教会、修道院、村落、都市、(本国から離れた)居留地といった多様なアクターを「政治的なまとまりとみなされる人間集団=政治的結合体」と捉え直して、結合体の内外における統治実践や統治規範、さらに各アクター間において繰り広げられたコミュニケーション行為を比較検討するというのが本論集の目的であると理解した。高山の問題意識を総論から引くと次のとおりである。

 「ヨーロッパにおける歴史研究の基本的な枠組みは19世紀の自国史研究の中で作られたため、中世ヨーロッパを認識の対象とする場合にも、限られた特定の国や地域の研究成果に基づく議論がなされてきた。ヨーロッパ各国のどの学会を見ても、中世史研究が自国史研究の一部として行われていたため、自国を中心とする地域に関する研究の蓄積に比して、他地域との比較研究や他地域を含めた規模での研究は驚くほど少ない。商業や文化・宗教など広域を扱わざるをえないテーマを除けば、現実には、近代以降の国家の枠組みを超えるような研究はほとんど存在していないのである。私たちが求めるような、つまり、相違点と共通点を適切に説明してくれるような比較制度研究はなく、各国の研究者たちが自分の学問的伝統に基づいて集積した国ごとの情報の束が併存しているに過ぎない。」(pp6-7)

 まさに本論文集はそのような意味で「相違点」と「共通点」を浮き彫りにする作業と言える。実際に扱われている地域は北欧・西欧・南欧ビザンツと幅広く、また教会制度も対象となっている。論文集であるので、どうしても玉石混交の感は否めないし、また専門的過ぎて「???」となるものから俺のような一般読者にも多少なりとも面白いなと思えるものまで様々であったが、全体としては極めて水準の高い研究がなされていると思われました。ただ、「政治的結合体」っていう形の大きな括りが成功しているかというと、個人的には結構何でも入る箱化してね?とちょっと思ってしまいましたね。

 ここでは、俺でも面白いなと思えた論文を紹介します。取り上げなかった論文がクソとかそういうわけではなく単純に俺がよき理解者ではなかっただけです。

 第1部第2章の小澤実「収奪の場としてのイングランド――北ヨーロッパ経済、デーンゲルド、クヌートの統治政策」。ヴァイキングにとってイングランドはまさに略奪のための場でしかなく、人やら物やらを盗んだり、貢納金をもらったりする略奪経済を主としていたが、クヌートはスカンディナヴィアとイングランドを統べる王になって以降は、その海上王国が北海全般を掌握し商圏として発展させることが可能になり、政策の転換が行われた。クヌートがイングランドの王になったことで、イングランド本国内でのヴァイキングの恣意的な略奪が難しくなり、また貢納金も廃止された。そしてスカンディナヴィアの交易によって富がデンマークイングランドに集積され、ヴァイキングの経済手法が「略奪」から「交易」へとシフトしていったことが指摘される(背景にはキリスト教文化の伝播もある)。

 第2部第1章の菊地重仁「「恩恵の剥奪」――フランク諸王の統治における「威嚇」行為に関する一考察」。メロヴィングカロリング両王朝時代は、王が出す命令文書を携えて役人が命令を執行するという行政構造だったが、この命令文書の中に当の執行する役人に対してちゃんとやらねえと「王の恩恵」を剥奪するぞという威嚇条項がしばし盛り込まれていたという。この「恩恵の剥奪」が、初期中世における統治者と役人との間の命令伝達のコミュニケーション行為として把握しようとする試み。「恩恵」ってそもそも何やという話だが、「王の「恩恵」を得ること・維持することは、有形無形の利、たとえば官職・特権・土地財産の授与につながり、他方でその「恩恵」の喪失は、その剥奪につながる。」(p140)という。この「任意性」が、後で何されるか分からんということを受け手に印象づけることによって、命令不履行への脅しとなったことが挙げられる。他方で、こうした命令文書には「徐々にぽめえの忠義を頼りにしてるポヨ」みたいな忠義を確かめる文言も徐々に出てくるようになり、「カロリング期の君主の名で起草された命令書においては、恩恵概念と忠誠概念の双方が巧みに引き合いに出され、命令遂行の可能性を高めるコミュニケーション上の工夫がなされていた」(p143)と見えるのである。

 第3部「教会世界の政治的結合体」は一番面白く思えたブロックだった。要は教皇を頂点とした教会官僚制や、修道会のガバナンスなどを扱ったところ。以下やや詳しめに紹介します。

 第1章の藤崎衛「教皇使節論――代理人による教皇の教会統治」。教皇使節(legatus)について扱った章。「旧約における神の代理人としての預言者という関係に重ねられる形で、新約以降はキリストの代理としてのペトロ、ペトロの代理としての教皇、そして教皇の代理としての教皇使節」(p297)は、教皇との一体性を担保すべく、衣装などは教皇に近いものを使っていたという指摘はなるほどと思った。

 第2章の纓田宗紀「中世教皇庁の財務管理ネットワーク――北欧における聖地支援金徴収の事例から」では、十字軍のために募集された聖地支援金の資金の流れを追う論考。キリスト教文化圏では新入りの北欧に対しても、十字軍の金寄越せということで徴税人が派遣されるが、現地からの協力はなかなか得られない。それでも何とか集めたお金は、既存のイタリアの商人などの金融ネットワークを介して、教皇庁に送られる。実際この金は十字軍に使われるかというと、アンジュ―家支援のために使われている形跡もあり、まあそうだよな……という何とも言えない気持ちになりました。

 第4章の大貫俊夫「盛期中世における修道会ガバナンス――シトーとクリュニーの修道会化と巡察制度」。元から複数の修道院が集ってできたシトーと、クリュニーの一極だったのが遅れて修道会化したクリュニーを対比しつつガバナンスの対比を論じている。シトーは緩やかな分権的な構造だったが、クリュニーはあくまで中央集権的だったという大枠の対比もさることながら、それによってシトーは修道院の規律等の査察においても、査察する側とされる側のパーソナルな関係性で強制をなるたけ避けるような形式で行われていたという。そういった中で査察側は記録文書を残さなかったことなども興味深い(クリュニーでは文書を残して、それがその後の意思決定にも影響した。)。しかし、そうした口頭主義的なガバナンスは蹉跌をきたし、13世紀には文書主義的な転換がはかられたという。

 第4部第1章の阿部俊夫「「大レコンキスタ」期における教皇庁のムデハル対応」では、レコンキスタ後に現地に存在するイスラム教徒(ムデハル)への処遇が論じられる。「皆殺しやーっ!」という対応ではなく、割かし柔軟であるし、勝手にイスラム教徒に危害を加えたら破門といった宣告などもされていたという。このあたりのグラデーションは見えにくいので、こうやって論文になっているとありがたいですね。

 第5部第1章紺谷由紀「『新勅法集』と『エクロガ』にみる皇帝立法の柔軟性――六―八世紀の身体切断刑の導入過程に着目して」。これが個人的には一番面白かったです。身体切断刑はローマ法を編纂したユスティニアヌス帝時代にはなく、むしろその後のビザンツ皇帝時代に書かれた要綱的な法律書『エクロガ』によって導入されたとして「ローマ法の野蛮化」として説明されてきたが、実際のところ既に身体切断刑はユスティニアヌス帝の『新勅法集』にあることを指摘される。『新勅法集』と『エクロガ』の違いは、前者が手足だけに言及しているのに対し、後者は舌とか目とか鼻とか陰茎とかも多様化しているところが指摘される。しかし、著者は皇帝立法の趣旨全般を注意深く読む必要があるとして、『新勅法集』における身体切断刑の導入それ自体にフォーカスする。それ以前のローマ法下にあって、裁判担当者らが恣意的に刑罰として身体切断を行うことがままあったようで、「身体切断刑の詳細な規定が既存の刑罰全体に対して人道主義的な側面から修正を加え、さらに属州役人に対して詳細な刑罰の規定を提供するというより大きな目的の一部」(p526)をなしていた。同じ『新勅法集』で財産刑を緩和化していたことを考えると、むしろ一定の枠組みを刑罰に設けることで皇帝の慈悲深さを示そうとした、というなんとも逆説的な主張が展開される。これと同様の趣旨で『エクロガ』においても刑事手続のコントロール化と見なすことが可能ではないか、というのが著者の主張である。もちろん、これだけでは何で切断部位が多様化したのかの説明にはならないが、7世紀において切断刑で色々な部位の切断がなされるようになって、その「有用性」が理解されるようになって明文化された?という仮説も提示される。

 

 完全に関係ないことをひとつ。マジで本は高いけど、とにかく自分の限界(資産・収納スペース・読解力など)まで本を買っていこうと決意を新たにしました。そのためにちょっと蔵書の整理にも着手しようかなと思っています。本を買うことが、自分にとってできる唯一の社会貢献なので。

 

20240402-0403

 昨日は酒飲んですぐ寝ちまったからよ、ちょっと遅れての更新や。堪忍な。

 

【労働】

 テレワークしていると息ができるのだが、出社するとダメになるので、そういうことやな。俺もう二度とまともにホワイトカラーできないんじゃないかという不安。

 

【雑感】

 ああそういやそうだったなというのを。Xで在野研究者の荒木優太氏が言及しているのを見て思い出したので。

 

 『オッペンハイマー』の序盤で、アメリ共産党の集まりか何かでオッピーが最初の愛人ジーン・タトロックと初対面するシーンがある。そこでジーンに挑発的な言辞(これを完全に忘れたのだが「知識人が興味持ってるの?」みたいなからかいだったと思う)で挨拶されたオッピーが、「資本論全三巻読んだ」と豪語してマルクスの思想を「所有とは盗みである(Ownership is theft.)」と要約するが、ジーンは間髪容れずに「財産とは盗みである(Property is theft.)」とやり返す。間違いを指摘されたかと思ったオッピーは、ドイツ語原文で資本論を読んだ=つまりアメリ共産党(CPUSA)のメンバーの間で広く読まれている英訳で読んでいないので英訳で何というかは知らない、という如何にもイヤミな弁明をする。このやりとりを終えた後、オッピーはジーンに共産党のドグマが絶対かどうかという論点を持ち出し、自身は絶対ではなく揺れていたいんだみたいな話をすると、ジーンも私も揺れたいみたいな話をして、ソッコーで騎乗位濡れ場で両者仲良く「揺れる」わけだ(ちなみにあのセックスシーンは、サンスクリット語のシーンも含めて冗談かよというぐらいキショかった。)。

 当ブログを読むEvil fewならわかるとおり、このセックスの引き合いに過ぎないクソッタレ左翼インテリトークシーンはそもそもからして間違いである。Property is theft.というのは、プルードンの有名な警句であるが、マルクス自身の考えでは決してない(マルクスシュティルナーはそもそも「盗み」は「所有」がなければ成り立たないだろうという至極尤もな批判を加えている。)。これは単なるミスなのか、映画上の作為なのかは全く分からないが、個人的には後者ではないかと思う。

 

 まず、オッピー自身がOwnershipと言っている点についてはどうだろうか。これはあくまで推測でしかないが、Ownership=所有「権」への批判が重要であるというのは、『資本論』の論旨それ自体には適っているように思う。マルクスは商品の交換過程や、本源的蓄積過程において、近代における「所有」が古代や中世とは異なって「権利」関係を前提とするようになったことに着目している(マルクス原文の指示は困難だが、さしあたっては「シリーズ 世界の思想」の佐々木隆治『マルクス 資本論』の説明で確認しました。)。この話をしているのだとすれば、オッピーがマルクスに関して決して的外れな話をしているわけではないことになる(つまり、オッピーはプルードンマルクスを取り違えたわけではない)。もちろん、Propertyでも所有権を意味するので、OwnershipではなくPropertyが資本論の「英訳」で使われているんだなと思ったオッピーが、ドイツ語原文の弁明をした――そう考える割と整合的なシーンだ(ただ、資本論の膨大な内容を要約する表現として適切かというとかなり微妙だ。)。

 しかしこれに対してジーンがあえて「Property」と訂正したのは、資本論の「英訳」では所有を「Property」として訳していたから、ではないだろう。まさにプルードンの警句が社会主義的なサークルにおける言葉としてはより人口に膾炙していて、それをマルクスの思想だと取り違えたのだと考える方が自然だ。なぜかと言えば、歴史的な背景として、ニューディール時代のアメリカにおいては共産主義社会主義に対する「左派的な知的共感」が広く共有されていただけであって、彼らの多くが社会主義者が多用する「金科玉条」(まさに彼らはそうした「歯切れのよい言葉」たちを武器に使ってきたわけだが)は知っていても、その深い思想的内実まで理解していたわけではないと考え得るからだ。そうなると、マルクスプルードンの取り違えはきわめて自然である。実際、映画でもオッピーとジーンの会話を取り持った古株のCPUSAのメンバーであるハーコン・シュヴァリエが、オッピーが資本論を読破したと聞いて「うちの党員の誰よりも読んでるよ」と漏らしていることからもそういう雰囲気を伝えようとしていた感は見受けられる。

 大事なのは、マルクスの文脈ではオッピーの方がより適切に見えるし、共産主義運動サークルの語彙的にはジーンの方がより適切に見えることである。本作でちらと言及される量子論における矛盾の両立性であるとか、「理論」と「実験」の対比(「資本論」という「理論」から入った知識人オッピーVS「運動」から入った実践家ジーン)など、このいけすかないシーンにおいても本作のテーマをそれなりに看取できるように思われる。そうだとすれば、このシーンにもそれなりに意味があるので、制作者の作為と考えてもよいのかなと思いました。もちろん、単なる深読みに過ぎないですが。

 ただ、もうひとつ作為の解釈として思いつくのは、本当にオッピーがマルクスプルードンを取り違えているということである。つまりその場合映画で示したかったのは、CPUSAであったりそれに共感するニューディール・リベラルがやっていた左翼運動というのはホンマに実践ファーストで、マルクスなんてちいとも理解していなかったということだ。これは、映画でオッペンハイマーが結局理論の限界を踏み越えて最悪の「実験」へと雪崩れ込んでいくことを考えると、この解釈も実は興味深い気がする。どっちかはわかりません。

 余談ですが、このシーンが作為であるという前提で、そもそもこのシーンの文脈ではOwnershipであってもPropertyであっても大した違いはないように見えてしまうのはどうかなと思う。思想史的な観点からすればpropertyで訳した方がいい気がするし、博覧強記のオッペンハイマーならそこも踏まえてownershipとは言わなかったような気がする。そこら辺を理解せずに交換可能な言葉だということでこのシーンが作られているのだとすれば、それはちょっと残念かもしれませんね。まあそんなことを気にするような人間こそEvil fewだと思いますが。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅱ カリスマ・教権制』(岩波文庫、2024)を読了しました。前巻は結構つまらなかったんですが、こっちは結構面白かった。ウェーバーの洞察は今でも面白いなと思う。たまにXとかで優れた閃きとか識見を見て「ほええ」となるような感覚でした。そして、訳文は極めて読みやすかった。

 ウェーバーは支配が続く要因、つまり当該支配が「レジティメイト」される要因として、制定法に依拠した「官僚制」や家父長が支配する「家産制」にはある種の「日常性」があると指摘する。しかし、この日常性に依拠せず、非日常的な権威としての「カリスマ」が支配するケースがあると指摘する。典型的には、軍事的英雄や預言者のような存在が想定される(カリスマの顕著な特徴としてウェーバーは「経済への無頓着さ」を挙げる)。しかし、歴史上一回しか誕生し得ないカリスマ的存在者による支配は、カリスマの消滅によって終焉を迎えるはず、と思いきや様々な要因(例えば「血」や「官職」にカリスマが付与される。例:カリスマの後継者が血統を有する、あるいはカリスマが指名した官職につくなど)で「日常化」する。ここにカリスマに依拠した支配が引き続き行われ、それが家産制や官僚制へと合流することもあるという。注意すべき点は、ウェーバーはカリスマ制→家産制→官僚制みたいな発展図式を意図したわけでもなければ(実際そういう例はあるかもしれないが、これが普遍共通するだとかは言っていない)、そもそも三つの区分はそれぞれ排他的にしか成立し得ないと言っているわけでもない(それぞれに混淆したり、また経済的・政治的・文化的要因によって極端な体制が生じたりする場合もある。)。

 また、「レジティメイト」の顕著な例として、ウェーバーは「教権制」、つまり政治権力と宗教権力が並立しつつ、後者から前者への「レジティメイト」を調達する体制を論じる(政治権力と宗教権力が完全に一体になっているのは「皇帝教皇主義」として、教権制とは対立概念で捉えている。)。

 ざっくりまとめると上のような話なのだが、備忘のためにいくつか引用しますね。

 「代表者に対する「命令的」委任は、たえず変化する状況とたえず生じる事前に予測できない問題のために、純粋に技術的な観点からして、完全に実現することはできない。有権者の不信任投票による代表者の「意見」は、これまでは散発的に試みられたことがあるだけである。「レファレンダム」によって議会の決定を見直すことが意味するのは、重要な点としては、主張に固執するありとあらゆる非合理的な勢力を実質的に強化することである。なぜならレファレンダムには、利害関係者間の駆け引きや妥協を技術的に排除してしまう傾向があるからである。

 最後に、選挙を頻繁にくり返すことも、そのコストがしだいに増加するため不可能である。

 国会議員を有権者の意志に縛り付けようとする試みはすべて、実際のところ長期的にはいつも、ただ次のことを意味するだけである。その意味というのは、有権者の意志に対する、すでに増大している代表者の政党組織の力をさらに強化することである。なぜなら、彼ら政党組織だけが「国民」を動かすことができるからである。」(pp82-3)

 「一般的にいって、支配構造の三つの基本類型は単純に次から次へと一つの発展の系列に組み入れられるのでは決してなく、互いに実に多様な仕方で結びついて現れる。

 しかしもちろん、制度になった継続的な構成体がしだいに発展するについれて後退していくことが、カリスマの運命である」(pp100-1)

 「クリエイティブな力としてのカリスマは、支配が継続的な構成体に硬直化していく過程で後退する。カリスマがなおも威力を発揮するのは、選挙やそれに類する機会での、効果が予測できない、短期間の大衆感情においてのみである。それでもカリスマは、もちろん強く変容した意味ではあるが、社会構造の非常に重要な要素であり続ける。

 私たちはここで、カリスマの日常化を主として条件づけている、先に触れた経済的要因に戻らなければならない。既存の政治的、社会的、経済的秩序によって特権を与えられている層は、次のような欲求を持つ。自分たちの社会的・経済的状況が「レジティメーション」されている、つまり純粋に事実としての力関係の存続から、獲得された権利のコスモスへと転換され、聖化されていると思いたい、という欲求がそれである。カリスマの日常化をもたらす経済的な要因とは、この欲求のことである。」(pp166-7)

 (オリエントの帝国の「大宰相」なる地位について)「ペルシアでは、直近の世代になってもなお、シャーが個人として保有する長の地位のもとで、官僚制的な専門省庁を創設して、大宰相を廃止する試みがあった。しかし、この試みは失敗した。この仕組みはシャーを行政の長にする。行政の長は人民のあらゆる苦難と行政のあらゆる失敗に対する責任を個人としてすべて負わなければならない。これによってシャーだけではなく、「カリスマ的」レジティマシーへの信仰そのものが深刻な危機にさらされかねない。これが[大宰相廃止が]失敗した理由であった。大宰相はもう一度、設置されなければならなかった。大宰相が責任をかぶって、シャーとシャーのカリスマを守るためである。」(p170)

 「議会制のもとで国王は無力である。それにもかかわらず国王が保存されるのには理由がある。なによりも、国王が存在するというただそのことによって、また暴力が「国王の名において」行使されることによって、国王は自らのカリスマで、既存の社会・所有秩序のレジティマシーを保障する。そしてその利害関係者はみな、国王を排除すれば、その結果として、この秩序の「正しさ」に対する信頼が揺らぐことを恐れなければならない。国王が保存される理由はここにある。」(pp171-2)

 「したがって、どのような構造であれ、レジティメイトな政治権力には、なんらかの仕方でミニマムな神政政治的なあるいは皇帝教皇主義的要素が溶け込んでいることが多い。なぜなら、結局のところ、やはりカリスマはみな魔術的な起源の残滓を必要とし、したがって宗教的な力と親和的であり、このため政治権力にはいつもなんらかの意味での「神の恩恵」が存在しているからである。」(p190)

 (教権的でなく非政治的・無政治的なゼクテが主張すべき「良心の自由」こそが人権の起源であるとした上で、)「しかしいずれにしても、この意味での「良心の自由」は最も広い範囲に及ぶ「人権」であり、倫理的に条件づけられた行為の全体を包摂し、権力、とりわけ国家権力からの自由を保障するからである。この意味での良心の自由は、このようなあり方では、古代や中世にも、そして同じく例えば、国家による宗教の強制をともなうルソーの国家論にも、存在しない概念である。

 その他の「人権」「市民権」「基本権」は、この良心の自由の権利に付随している。とりわけ、自らの経済的利益を自由に、自分の最良で実現する権利がそうである。だれにでも平等に適用される、保障された法的ルールという抽象的なシステムの範囲内であれば、この〔経済的自由の〕権利は成り立つ。このとき最も重要な構成要素は、個人の財産の不可侵性、契約の自由、職業選択の自由である。」(p338)

 そして最後に、訳者あとがきの中でしっくりきた段落をそのまま引用します。つまり、レジティマシーは真空状態で議論されているわけではないということです(これも訳者の受け売りだが)。

 「さまざまな階層や立場の人たちが、その都度のコンステレーション(布置連関)、あるいは力関係にあって、対立したり、共闘したり、漁夫の利を得たりする。そうした連関を背景として、利害や情念が動き動かされ、その結果として、ある傾向が促進され、ある傾向が阻止される。(近代化は合理化で、その典型的な組織形態が官僚制だ)という図式で議論することは、誤りとまではいえない。しかし、この図式は無条件に、どこででも当てはまるわけではない。家産制的な主人、地方の名望家、カリスマ、修道士など、さまざまなアクターが官僚制化の傾向に対立してきた。そして、そのせめぎ合いには濃密にさまざまな利害関心が絡む。確認するまでもなく、レジティマシーの狭義の三類型がどうでもよいということではない。しかし、ある支配を成り立たせているのは、レジティマシーの観念であるとともに、あるいはそれ以上に、理念的であるとともに物質的な利害関心のコンステレーションである。たしかにウェーバーは狭義の支配と利害関心のコンステレーションを明確に区別している。しかし同時に、彼はつねに具体的なコンステレーションと関連づけながら、支配について論じている。そもそも私たちがレジティマシーを問題にするのは、観念的・物質的な対立を前にして、なんらかの秩序を模索するためである。」(pp434-5)

 

【動画】

youtu.be

 ふっくらすずめクラブに戻って本当によかった。「会社にしか友達がいない」という名前だと早晩チャンネル登録を解除したと思うので。あのカットインが出るたびに会社にも友達がいねえ俺はどうすればいいんだよという気持ちになってしまう。俺はオモコロよりかは歳の近いメンバーがいるふっくらの動画の方が親近感が沸くので、毎日投稿はメチャクチャありがたいしこれからも頑張ってほしい。

 

 

 

20240401

 エイプリルフールとかいうクソ。全てが現実やねんな。

 

【労働】

 土日が終わった途端一気に世界が真っ黒になる。今日も色のない仕事をしていました。Kanashi。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅰ 官僚制・家産制・封建制』(岩波文庫、2023)を読了しました。

 今さらウェーバーかよという感もあるが、岩波文庫になってるのを買っちゃったからね、仕方ないね。ただ、やはりウェーバーの議論を理解しておいた方が、当時のドイツの社会科学の議論とかの見通しがよくなることは確かなんですよね。

 まとめ……ようと思ったけど最近は億劫になっている。実際、200頁ぐらいの新書をパーっとまとめるのはできなくもないけど、この手の本はまとめるのがメチャクチャむずいんすわ。出版社のサイトに行けば書いてあるような短行でまとめるか、メチャクチャ文字数を費やして死ぬほどできの悪い劣化コピーを作るのかのどっちかなんですよね。こういう本とは何度も付き合っていく中で覚えていくしかないかもしれない。

 まあそれでも一応試みるとすれば、人が人を支配するということを社会学的に考察した時、「何故支配される側は支配を甘受するのか」という観点から、支配を甘受する理由=レジティマシー(正当性/正統性)がどのように与えられるのかということを考察する。合理的な「官僚制」、伝統的な「家産制」、そしてその家産制の極北である「封建制」が論じられる。こうした社会の諸制度と経済システムの相関が裏テーマである。(官僚制―資本主義、みたいな一意な対応関係ではなく、家産制や封建制においても資本主義的な要素は阻害されつつもウェーバーは否定しない)。こうやって見るとマルクス主義的な発展史観とか唯物史観なのかな、と思われるかもしれないがさにあらず。ウェーバーは家産制が分極化して発生した封建制の過程において、家産制的な現象が起こる「家産制のルネサンス」を指摘したり、単純に貨幣経済の浸透が資本主義を加速させて官僚制を出来させるというわけではないことを指摘したりしている。なお、いろいろと昔の話が大量に出てくるが、このあたりは若干眉唾で読んだ方がいいだろう。特に封建制あたりの話はかなり批判されているはずなので……。訳は読みやすく、かつ、巻末の用語解説は勉強になる。というか、この部分だけ読めば割としっかりとしたウェーバー入門になる気がする。

 以下、面白い指摘を1個だけ引用だけしますね。

 「むしろまさにここで私たちが心に刻んでおく必要があるのは、民主主義という政治的概念は、支配される側の人たちの「権利の平等」から、次の要請を引き出すということである。1だれもが官職にアクセスできるようにするために、閉鎖的な「官僚身分」が発展しないようにすること、2なしうるかぎり「世論」が影響する領域を拡大するために、官僚の支配権力をミニマム化すること、可能な限り専門的な資格と直結させないで、落選させることも可能な選挙によって、短期間だけ任命するように努めることである。

 このようにして民主主義は、名望家の支配に対抗する闘いの結果として自らが生み出した官僚制化の傾向と、不可避的に矛盾に陥る。」(p153)

 

【映画】

 「オッペンハイマー」を見ました。IMAXです。よかったっすね。とりとめもなく感想を述べていきますわよ。

 まず、原作というか基になったカイ・バードとマーティン・シャーウィンの本を読んでおいて本当によかった。それなしで凸ってたら多分テネットみたいになってたわ。実際映画館から出た後におっさんが娘?っぽい人に「最初から最後まで何もわからんへんかった」と言っていた。まあこのおっさんが白痴の可能性が3割ぐらいあるとしてもですね、それなりに難しい話ではないかと。単純にちょっと背伸びした高校生ぐらいの知識がないと「???」で終わるのは確かかもしれない。

 本作がオッペンハイマーというタイトルだとしても、ノーランがこれを単純な伝記映画にしたくないというのは節々から見て取れる。でなければ、映像の1/4ぐらいをストローズの話で埋めるなんてありえへんやろ。映画の縦軸となっているオッペンハイマーの保安委員会査問とストローズの商務長官指名聴聞会を意識的に重ねることで、両者が地続きの存在であることを暗に示している。その地続きの地平そのものを疑えというアインシュタインの示唆は、ノーランがこれまで『ダークナイト』や『インセプション』で繰り返してきたメッセージなのかなと。

 シャーウィンやバードの本が科学と政治を対立関係に設定し、後者を批判的に見る視点があり、オッペンハイマーアメリカの近視眼的な原子力政策や赤狩り暗黒時代の犠牲者になったという見方を惹起するのだが、ノーランはこの立場を採っていないように思う。本作でオッペンハイマーの妻キャシーが繰り返し示唆するようにオッペンハイマー自身の「罪」はいつまでも消えることなく、「罰」もまた不完全であり続けるという立場をとっている(冒頭エピグラフにおいて、火を盗んだプロメテウスが「永遠の拷問」を受けているというのがそれを示唆している。アメリカン・プロメテウスたるオッペンハイマーも、終生苦しみ続けたと考えるべきだろう。)。オッペンハイマーの苦悩を端的に示したのが、原爆が投下された後にロスアラモスで行ったスピーチシーンである。あれは圧巻である。

 また、「私の手は血濡れているように感じます」とオッペンハイマーが述べた際にトルーマンが憤慨して「原爆を落とされた者は作った奴ではなく落とした奴を恨むんだ」と述べるシーンがある。だが、オッペンハイマーの「罪」はまさに、「落とす奴」がいることを前提に「理論」物理学の限界を踏み越え、「殺戮」を前提とする「実験」へ一歩踏み出したことにあるのではないか。20億ドルをかけて行った壮大なプロジェクトは、実際の原爆実験である「トリニティ」だけでなく、広島や長崎への投下込みで「実験」(つまり「理論」と対比する意味で)だったのではないかという観点が随所に示される(例:オッペンハイマーがドイツ降伏後も原爆開発を続けた際の台詞、ストローズによるオッペンハイマーへの批判、保安委員会査問でのロッブ弁護士への尋問の応答など)。オッペンハイマーが「理論」だけを考えていた時、流麗な量子力学の再現映像みたいなシーンが音楽とともに流れ観客を引き込むのだが、「実験」が重視されるロスアラモス計画への参画以降はそのようなシーンは一切なくなる(爆縮か核分裂を説明する時に出てくる再現映像はおどろおどろしいものであった。)。本作はそのような形で、オッペンハイマーの罪にも向き合おうとしている。

 印象的なのは、普通の伝記的な作品であれば、民主党政権になって名誉回復がなされフェルミ賞を受賞して終わり、というのが一番きれいなのだが、ノーランはあえて冒頭既にストローズ目線の白黒で描かれたアインシュタインオッペンハイマーの会話の中身をエピローグに設定している。オッペンハイマーが救われてよかったねなんてことでは決してなく、なおかつ、核兵器は今や「昨日までの世界」をとことん破壊しつくして、我々を新しい現実へと誘ったのだという現実が、オッペンハイマーの何とも言えぬ顔のクローズアップで示唆される。

 映像面で言えば、本作は本当に顔の映画である。キリアン・マーフィーもロバート・ダウニー・Jrエミリー・ブラントも、みんな顔がいい。こんなにアップして何秒もやっても画が持つのは凄い。演技も凄い。老獪な政治家であるストローズを演じたロバート・ダウニー・Jrの「Amateurs seek the sun and get eaten. Power stays in the shadows」のシーンは痺れた。個人的には悪辣な反対尋問で相手をやり込めるロッブ弁護士を務めたジェイソン・クラークの演技にも光るものを感じた。ジェイソン・クラークといえば、俺は「ホワイトハウス・ダウン」の頭のおかしい元デルタフォースの敵役しか思い浮かばないので、こういうのもできるんだと素朴に感心した次第。

 まとめると、普通にメチャクチャいい映画でしたね。これは配信されたら3回ぐらいは見ると思う。ノーランの作品で一番好きなのが『インセプション』で次点が『ダークナイト』なのですが、その間に入るぐらいの俺好みのもの。

 

 

20240329-31

 簡単に。

 

【労働】

 ダメですね。とことんダメ。とはいえ、来週以降から本格的に退職調整をするために気力を振り絞っていこうかなと。

 

【雑感】

 3/30、久しぶりに大学のサークルの歴々と飲み会。4軒行って普通に終電を逃してタクシーで帰るなど。この歳になると、カラオケとか漫画喫茶で一夜を過ごすよりも、大金払ってタクシーで帰って家で寝た方が絶対にいいんだよな。

 色々と面白い話を聞いたのだが、歳を重ねるにつれてだんだん俺は保守的な人間になっているなという気がしてきた。どちらかというと通俗道徳側に片足を突っ込んでいるっぽい。現状を肯定しているわけではないが、ドラスティックな変更を望まない人生というかなんというか。まあ、悲しいことですね。

 ちなみに飲み過ぎたせいで翌31日はずっと胃の中に酒が残っているような感覚があり、クッソ暑い中ずっと寝転がっていた。頭痛いとか気持ち悪いとかいう典型的二日酔いではなく、端的に胃の中がまだ「成し遂げていない」感じがありすごく違和感があったという程度。酒の飲みすぎはよくありませんねえ。

 

【読書】

 リナ・ボルツォーニ(宮坂真紀訳)『すばらしい孤独 ルネサンス期における読書の技法』(白水社、2024)を読了しました。

 ルネサンスを牽引した人文主義は古典を発見し、読書することを本義としてきた。その「読書」について、人文主義者たちがどのような自己プロモーションを著述において行っていたのか、言い換えると人文主義者たちはどのような「読書」を理想として、どう後世に伝えてきたのかという問いを本書は掲げている。そこに見出されるのは、夜中に礼装して古代の著作家との対話に臨むという感動的イメージを伝えた有名なマキァヴェッリの著述に代表されるように、「死者との対話としての読書」がまさに彼らにとって理想とすべき読書のあり方だった。本書では、徹底して古典に没入し死んだ作家たちと手紙や対話を交わすようなペトラルカに、そのようなトポス(お決まりの表現)の端緒を見出し、さらにはルネサンス文人たち(ボッカッチョ、マキァヴェッリエラスムス、タッソなど)の読書観を通観し、そしてそれが時代を超えてラスキンプルーストの読書論にも反響していることを示す。読書が死者との対話、なんていうのはおそらく多少なりとも人文学をかじっていれば常識の範疇に属する話だし、紹介されている話は割と既知なことが多い(かつ、結構前提知識を要求している読み物でもあると思う)のであんま新味はなかったのだが、その「対話」のあり方や、対話をすることによってどのような変化が自身に生じるのか、さらに「鏡」や「友人」など他のメタファーとの関連などを丹念に追っているので、その点は興味深い点もあった。

 今回は、既知のことばかり書いてあったので、特にまとめません。というか毎回毎回5000字もかけて読書メモを書いてたら疲れるんです。眠いし。

 

【ゲーム】

 Rise of the Roninを買いました。パリィのタイミングがムズすぎるとだけ。面白いですけどね。