死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240417――それでも地獄は廻っている

 お久しぶりです。世に言ううつ状態になっておりました。

 

 仕事中突然何もできなくなる。頭が痛くなる。そういうことが続き、家に帰ったらベッドに寝転がって何をするでもなく天井をボーっと見つめて、気づいたら朝になっている。読書もゲームもYoutubeもほとんどできない日々。たまに飲み会がある時だけ空元気を振り絞っていくのだが、そういう頑張り時がないと何もできない。LINEへの返信もできなくなる。そういう感じでした。ちなみに、一回地元のメンタルクリニックに行ったのですが、適応障害の疑いが濃厚ということでした。とはいえ、どうせ仕事は辞めるので、辞めてよくなったらいいなと思っています。

 

 今日職場ですごく嫌なことがありこのうつ状態に追い打ちをかけてきて、もうしんどいとなったのですが、久々に大学の先輩とうまいラーメン食って酒飲んで四方山話に花を咲かせて多少元気を取り戻した次第です。ただ、この間何もしていないので中身のあることは何も書けません。

 

 今自分が自分のためにできることは、職場でのストレスを極限まで軽減することに尽きる。近々ボスと最後の面談があるので、洗いざらいぶちまけてこれこれこういう次第なので退職日まではなるべく俺に心理的負荷をかけないんでください死んでしまいますと警告しようと思う。やっぱメンクリで休職用の診断書もらってくればよかったなと思ったが致し方ない。本当に辛い時は休むしかないが。

 

 あと、改めてクソみたいな職場だったなと今日再確認した。やめて大正解ですよ。今日受けた仕打ちは多分死ぬまで忘れないと思う。俺がイランだったらクソ野郎a.k.aイスラエルに核攻撃してますよ。向こうがエスカレーションラダーを引き上げたんだからな。

 

 どうして人生こんなことになってしまったのか、今後もよくなることはあるのか、そればっかり考えてしまうがもはやなるようにしかなりません。次の職場でダメになったら退職願とかまどろっこしい手続はとらずに逐電します。今の貯金から1ヶ月の生活費を除いて親に全部渡して失踪しようかと。あとは適当な地方都市で文字通りの行旅死亡人になるだけ。

 

 書いていたらまた元気がなくなってきた。終わりだよ終わり。

 

 とりあえず元気だったころのブログを読み返して溜息をつく時間にしたいと思います。気が向いたら再開できるとうれしいね。

 

20240407――余生と落魄、あるいは救済について

 お久しぶりですね、本日は長めにやろうかと。

 

【労働】

 近々に退職することになりました。なんとなく、この職場にはずっといるもんだと思っていましたが、こんなしみったれた人生であってもまだまだ驚きと波乱に満ちていますね。ずっといたら、まあ俺がどんなに無能でも40~50ぐらいには年収600~700万の安泰な暮らしを保証されていたとは思うのですけど、致し方ない。

 こんなことになってしまった責任分担については、会社4:俺6の割合だと思う。会社4は、①破滅的なマネジメント、②他罰的な人間関係のプレッシャー、③この間の諸々に対する柔軟性のなさ、④基本的に嫌われている、で、俺6は①堪え性なさすぎワロタ、②人間関係リセット症候群発症、③仕事を“全く”面白く思えないという社会人にとって致命的な「性分」、④思慮の欠如、です。

 「ここにいてもいいの?」っていう碇シンジ君状態をずーっとやっていると人間はおかしくなる。それを学べたのは貴重な体験ですね。エヴァQでシンジ君にWILLEの面々が「もうなんもせんといてくれや」っていうの、ニアサーがあったからというのはわかるっちゃわかるけどやっぱきっちぃっすよ。俺の場合は存在が無視できないインパクト(ビジネス用語)だったってこと? 俺の母ちゃんの出生をバカにするな! という気持ちになった。そりゃ変な人に言いくるめられておしまい畑になろうとしますわね。

 前職では退職交渉をした時にかなり慰留された(実際そのせいで想定していた退職時期よりもかなり遅れた)。それは「お前みたいなクズでもいないと数合わせ上困るんや」という上長の極めて実利的な判断によるものであって、決して俺の能力が評価されてというのではなかったように思う。それでも必要であったという意味ではなにがしかの価値が俺にもあったのだろう。が、現職現ポジションではそんなのが微塵もなかったので、退職を申し述べた際も非常にあっさりと終わってしまった。所詮1~2年は遮二無二働いたとしても、組織にとっては使い捨てでしかないというだけです。まあこれはこれでありがたかった(本当にこれ以上いると精神汚染がひどいことになるので)。

 次の仕事は決まっているが、正直今の職場より好転するかどうかは見通せない。前職はガチガチの高給漆黒、現職はまあまあの薄給ゆるグレー(まあ通年では結構残業もしまくったし)という感じで、次のところはその中間かややブラック寄りになると思う(給料はちょっとだけ上がる程度)。普通に労働時間は倍増すると思うので、そこに耐えられるかどうかですね(これについては覚悟の上)。この職場も長続きしなかったらいよいよ組織に飼われるタイプの労働は諦めるしかないと思う。しかし、①人間関係ガチャ、②案件ガチャでSSRを引かないと長続きしないシステムに依存することのリスクも真剣に考えるべきなんでしょうね。だって2回も退職してんだもん! 士業とか大変そうだし、フリーターでやっていくためのバイタリティもないし、金融資本主義に対する不安が強いのでNISAやらFIREみたいな発想にもなれないし、で結局雇用労働に舞い戻っているという点はありますが、普通に一旦全部をフラットに検討し直す機会はあってもいいように思いましたね。

 

【雑感】

 退職に際して、人生を振り返ってみましょう。

 思い返すと、やりたいことを全力でやり抜くみたいな経験に乏しい人生だった。もちろん、何かをやっているうちは結構頑張っていると思うのだが、頑張りどころがまだ残っている段階で「まあここらでいいかな」と思って切り上げてしまう「手癖」が俺の人生のあらゆるところに見出せる。それが自分のどんな好きなことであっても、である。

 まず、俺は一応ゲームオタクの端くれだ。だが、俺はどんなにハマっているゲームでも「トロコン」をしたことがない。もっと言えば、いわゆるストーリーやゴールのあるタイプのゲームで全クリまで行ったことがほとんどない。このブログで何度も言及しているFallout4やSkyrimも、実は全てのクエストをクリアしたことがない。Fallout4に至っては発売から9年ぐらい経っているが、DLCの「Nuka World」は一度もプレイしたことがない。まあ、オープンワールドゲームだとこういうのってありがちだと思うが、普通のゲームでもクリアまで行かずに放置しているのがたくさんある(CoDとかグラブルリリンクとか……)。最近きちんとクリア!まで持っていったゲームはほとんどない(ゴーストオブツシマとかアサクリヴァルハラとか……)。今ここに挙げているのは分かりやすいような客観的な目標値に過ぎないが、主観的な目標として「まだまだやりどころがあるな」と自分でも思っているにしても「まあいいか」とうっちゃっておくことがあまりにも多いのだ。

 同じことは読書についても言える。俺は濫読が大好きだが、この学問を究めたい!みたいな気持ちがとんとない。言い換えると、体系的に学ぼうというパッションがない。このため、知識は歯抜けだし、都度連関を欠くので記憶にも定着しないというコスパの悪すぎる読書を行っているが、別にもうどうでもよくねと思っている節がある。また、個々の読書行為についても、分からんところは結構の頻度で飛ばしがちになっている。この前、必要に駆られてこれまで全く読んだことのない分野の本を1日かけて斜め読みしたのだが、数式は全部すっ飛ばして、数式以外で訳わからん部分も適当に読み流した後に、一応まとめを作ったら1000字もいかなかった。つまり1日かけてもその程度の理解粒度でしかなかったということだ。しかし、そういうななめ読みあるいはつまみ読みであっても、自分の頭で考えられる人であれば、ひとつのテーマを深く広く考え、たとえ雑な読書でも多量かつ広範に読むことによって抽出したデータを有機的につなぎ合わせ、思考の糧としうることもあると思う。ただ、基本的に俺は一冊の本を端から端まで読まないと気持ち悪いので、中途半端な理解度でいたずらに時間を費消するという、傍から見ても頭の悪い読書をずっと辞められないでいる。自分である程度客観視できているが、直そうという主体的な動機が生まれてこないのは、やはりどこかで「まあいいか」という気持ちになってしまっているのだろう。

 好きなゲームや読書でさえこの体たらくなので、仕事なんかはまさにそういう悪いところだけがずっと出ていたように思う。まあ、これは別によかったですけどね。仕事を100%熱心にやらないのは働き過ぎな現代社会への報復としてとらえているので。生産性は人を痛めつけても出てこないということを永劫に学び続ける罰を負わされている社会への鞭が俺です。

 さてさて、人生に通底するこの「まあいいか」メンタリティを今更変えられるのかというとビミョーなところだ。もしかして読書もゲームも「ちょっと好き」程度にとどまっていて、まだ「本当に好きなこと」に出会ってないだけかもしれないが、30年生きてきて「本当に好きなこと」に出会えないなんてある???という素朴な疑問があるし、読書もゲームも「本当に好き」だけどコンセントレーションの程度が他人よりも著しく低いだけという現実に向き合うべきな気がする。そう、30年生きてきたのに何事にも真摯に向き合わなかった結果、俺はこの現実と真摯に向き合うように『時計じかけのオレンジ』よろしく目かっぴらいた状態で拘束されている感じがある。

 とはいえ、そもそも男に生まれたからには一事を成し遂げるべき、みたいな話をしたいのではない。そんな規範からとっくに自由になった以上は、このあてもない自分探しは自由の対価として恭しく受け取る類のものだろう。一事を成し遂げられないにしても、知的な漫遊をできる限り楽しみ、死なない程度に逸楽に興じるというありふれたディレッタンティズムを然り!と肯定してもいいのである。大学を卒業して以降の廃墟じみたアディショナルタイムではあるが、結局どうやってもこうなるしかなかったんだと開き直って生きていく決意を遅まきながら固めていこうと思った。

 とはいえ、である。俺もいつかはプロセスの濁流を抜け出せるだろうか、という淡い希望ぐらいは持ち続けていたい。天から垂らされた糸をしっかり掴めるように目を凝らしていたい。だからこそ閉鎖的なコミュニティに甘んじるのではなく、もっと漫遊と逸楽のフィールドを大きく広げていく必要があるのではないかと思っている。今後の人生のテーマはそれかもな、と漫然と思っている次第です。

 

【読書】

 高山博・亀長洋子編『中世ヨーロッパの政治的結合体――統治の諸相と比較』(東京大学出版会、2022)を読了しました。A5判で600頁超、そしてお値段1万円+税という本当の「専門書」ですね。極めてハイブラウな西洋中世史の学術論文集でした。

 中世シチリア王国に関する研究などで斯界の第一人者とされる高山だが、その院ゼミの共同研究の成果とのこと。近代国家への過渡期的な存在として王権や領邦を捉えがちな「中世国家論」の視点を脱却し、王権、領邦、教会、修道院、村落、都市、(本国から離れた)居留地といった多様なアクターを「政治的なまとまりとみなされる人間集団=政治的結合体」と捉え直して、結合体の内外における統治実践や統治規範、さらに各アクター間において繰り広げられたコミュニケーション行為を比較検討するというのが本論集の目的であると理解した。高山の問題意識を総論から引くと次のとおりである。

 「ヨーロッパにおける歴史研究の基本的な枠組みは19世紀の自国史研究の中で作られたため、中世ヨーロッパを認識の対象とする場合にも、限られた特定の国や地域の研究成果に基づく議論がなされてきた。ヨーロッパ各国のどの学会を見ても、中世史研究が自国史研究の一部として行われていたため、自国を中心とする地域に関する研究の蓄積に比して、他地域との比較研究や他地域を含めた規模での研究は驚くほど少ない。商業や文化・宗教など広域を扱わざるをえないテーマを除けば、現実には、近代以降の国家の枠組みを超えるような研究はほとんど存在していないのである。私たちが求めるような、つまり、相違点と共通点を適切に説明してくれるような比較制度研究はなく、各国の研究者たちが自分の学問的伝統に基づいて集積した国ごとの情報の束が併存しているに過ぎない。」(pp6-7)

 まさに本論文集はそのような意味で「相違点」と「共通点」を浮き彫りにする作業と言える。実際に扱われている地域は北欧・西欧・南欧ビザンツと幅広く、また教会制度も対象となっている。論文集であるので、どうしても玉石混交の感は否めないし、また専門的過ぎて「???」となるものから俺のような一般読者にも多少なりとも面白いなと思えるものまで様々であったが、全体としては極めて水準の高い研究がなされていると思われました。ただ、「政治的結合体」っていう形の大きな括りが成功しているかというと、個人的には結構何でも入る箱化してね?とちょっと思ってしまいましたね。

 ここでは、俺でも面白いなと思えた論文を紹介します。取り上げなかった論文がクソとかそういうわけではなく単純に俺がよき理解者ではなかっただけです。

 第1部第2章の小澤実「収奪の場としてのイングランド――北ヨーロッパ経済、デーンゲルド、クヌートの統治政策」。ヴァイキングにとってイングランドはまさに略奪のための場でしかなく、人やら物やらを盗んだり、貢納金をもらったりする略奪経済を主としていたが、クヌートはスカンディナヴィアとイングランドを統べる王になって以降は、その海上王国が北海全般を掌握し商圏として発展させることが可能になり、政策の転換が行われた。クヌートがイングランドの王になったことで、イングランド本国内でのヴァイキングの恣意的な略奪が難しくなり、また貢納金も廃止された。そしてスカンディナヴィアの交易によって富がデンマークイングランドに集積され、ヴァイキングの経済手法が「略奪」から「交易」へとシフトしていったことが指摘される(背景にはキリスト教文化の伝播もある)。

 第2部第1章の菊地重仁「「恩恵の剥奪」――フランク諸王の統治における「威嚇」行為に関する一考察」。メロヴィングカロリング両王朝時代は、王が出す命令文書を携えて役人が命令を執行するという行政構造だったが、この命令文書の中に当の執行する役人に対してちゃんとやらねえと「王の恩恵」を剥奪するぞという威嚇条項がしばし盛り込まれていたという。この「恩恵の剥奪」が、初期中世における統治者と役人との間の命令伝達のコミュニケーション行為として把握しようとする試み。「恩恵」ってそもそも何やという話だが、「王の「恩恵」を得ること・維持することは、有形無形の利、たとえば官職・特権・土地財産の授与につながり、他方でその「恩恵」の喪失は、その剥奪につながる。」(p140)という。この「任意性」が、後で何されるか分からんということを受け手に印象づけることによって、命令不履行への脅しとなったことが挙げられる。他方で、こうした命令文書には「徐々にぽめえの忠義を頼りにしてるポヨ」みたいな忠義を確かめる文言も徐々に出てくるようになり、「カロリング期の君主の名で起草された命令書においては、恩恵概念と忠誠概念の双方が巧みに引き合いに出され、命令遂行の可能性を高めるコミュニケーション上の工夫がなされていた」(p143)と見えるのである。

 第3部「教会世界の政治的結合体」は一番面白く思えたブロックだった。要は教皇を頂点とした教会官僚制や、修道会のガバナンスなどを扱ったところ。以下やや詳しめに紹介します。

 第1章の藤崎衛「教皇使節論――代理人による教皇の教会統治」。教皇使節(legatus)について扱った章。「旧約における神の代理人としての預言者という関係に重ねられる形で、新約以降はキリストの代理としてのペトロ、ペトロの代理としての教皇、そして教皇の代理としての教皇使節」(p297)は、教皇との一体性を担保すべく、衣装などは教皇に近いものを使っていたという指摘はなるほどと思った。

 第2章の纓田宗紀「中世教皇庁の財務管理ネットワーク――北欧における聖地支援金徴収の事例から」では、十字軍のために募集された聖地支援金の資金の流れを追う論考。キリスト教文化圏では新入りの北欧に対しても、十字軍の金寄越せということで徴税人が派遣されるが、現地からの協力はなかなか得られない。それでも何とか集めたお金は、既存のイタリアの商人などの金融ネットワークを介して、教皇庁に送られる。実際この金は十字軍に使われるかというと、アンジュ―家支援のために使われている形跡もあり、まあそうだよな……という何とも言えない気持ちになりました。

 第4章の大貫俊夫「盛期中世における修道会ガバナンス――シトーとクリュニーの修道会化と巡察制度」。元から複数の修道院が集ってできたシトーと、クリュニーの一極だったのが遅れて修道会化したクリュニーを対比しつつガバナンスの対比を論じている。シトーは緩やかな分権的な構造だったが、クリュニーはあくまで中央集権的だったという大枠の対比もさることながら、それによってシトーは修道院の規律等の査察においても、査察する側とされる側のパーソナルな関係性で強制をなるたけ避けるような形式で行われていたという。そういった中で査察側は記録文書を残さなかったことなども興味深い(クリュニーでは文書を残して、それがその後の意思決定にも影響した。)。しかし、そうした口頭主義的なガバナンスは蹉跌をきたし、13世紀には文書主義的な転換がはかられたという。

 第4部第1章の阿部俊夫「「大レコンキスタ」期における教皇庁のムデハル対応」では、レコンキスタ後に現地に存在するイスラム教徒(ムデハル)への処遇が論じられる。「皆殺しやーっ!」という対応ではなく、割かし柔軟であるし、勝手にイスラム教徒に危害を加えたら破門といった宣告などもされていたという。このあたりのグラデーションは見えにくいので、こうやって論文になっているとありがたいですね。

 第5部第1章紺谷由紀「『新勅法集』と『エクロガ』にみる皇帝立法の柔軟性――六―八世紀の身体切断刑の導入過程に着目して」。これが個人的には一番面白かったです。身体切断刑はローマ法を編纂したユスティニアヌス帝時代にはなく、むしろその後のビザンツ皇帝時代に書かれた要綱的な法律書『エクロガ』によって導入されたとして「ローマ法の野蛮化」として説明されてきたが、実際のところ既に身体切断刑はユスティニアヌス帝の『新勅法集』にあることを指摘される。『新勅法集』と『エクロガ』の違いは、前者が手足だけに言及しているのに対し、後者は舌とか目とか鼻とか陰茎とかも多様化しているところが指摘される。しかし、著者は皇帝立法の趣旨全般を注意深く読む必要があるとして、『新勅法集』における身体切断刑の導入それ自体にフォーカスする。それ以前のローマ法下にあって、裁判担当者らが恣意的に刑罰として身体切断を行うことがままあったようで、「身体切断刑の詳細な規定が既存の刑罰全体に対して人道主義的な側面から修正を加え、さらに属州役人に対して詳細な刑罰の規定を提供するというより大きな目的の一部」(p526)をなしていた。同じ『新勅法集』で財産刑を緩和化していたことを考えると、むしろ一定の枠組みを刑罰に設けることで皇帝の慈悲深さを示そうとした、というなんとも逆説的な主張が展開される。これと同様の趣旨で『エクロガ』においても刑事手続のコントロール化と見なすことが可能ではないか、というのが著者の主張である。もちろん、これだけでは何で切断部位が多様化したのかの説明にはならないが、7世紀において切断刑で色々な部位の切断がなされるようになって、その「有用性」が理解されるようになって明文化された?という仮説も提示される。

 

 完全に関係ないことをひとつ。マジで本は高いけど、とにかく自分の限界(資産・収納スペース・読解力など)まで本を買っていこうと決意を新たにしました。そのためにちょっと蔵書の整理にも着手しようかなと思っています。本を買うことが、自分にとってできる唯一の社会貢献なので。

 

20240402-0403

 昨日は酒飲んですぐ寝ちまったからよ、ちょっと遅れての更新や。堪忍な。

 

【労働】

 テレワークしていると息ができるのだが、出社するとダメになるので、そういうことやな。俺もう二度とまともにホワイトカラーできないんじゃないかという不安。

 

【雑感】

 ああそういやそうだったなというのを。Xで在野研究者の荒木優太氏が言及しているのを見て思い出したので。

 

 『オッペンハイマー』の序盤で、アメリ共産党の集まりか何かでオッピーが最初の愛人ジーン・タトロックと初対面するシーンがある。そこでジーンに挑発的な言辞(これを完全に忘れたのだが「知識人が興味持ってるの?」みたいなからかいだったと思う)で挨拶されたオッピーが、「資本論全三巻読んだ」と豪語してマルクスの思想を「所有とは盗みである(Ownership is theft.)」と要約するが、ジーンは間髪容れずに「財産とは盗みである(Property is theft.)」とやり返す。間違いを指摘されたかと思ったオッピーは、ドイツ語原文で資本論を読んだ=つまりアメリ共産党(CPUSA)のメンバーの間で広く読まれている英訳で読んでいないので英訳で何というかは知らない、という如何にもイヤミな弁明をする。このやりとりを終えた後、オッピーはジーンに共産党のドグマが絶対かどうかという論点を持ち出し、自身は絶対ではなく揺れていたいんだみたいな話をすると、ジーンも私も揺れたいみたいな話をして、ソッコーで騎乗位濡れ場で両者仲良く「揺れる」わけだ(ちなみにあのセックスシーンは、サンスクリット語のシーンも含めて冗談かよというぐらいキショかった。)。

 当ブログを読むEvil fewならわかるとおり、このセックスの引き合いに過ぎないクソッタレ左翼インテリトークシーンはそもそもからして間違いである。Property is theft.というのは、プルードンの有名な警句であるが、マルクス自身の考えでは決してない(マルクスシュティルナーはそもそも「盗み」は「所有」がなければ成り立たないだろうという至極尤もな批判を加えている。)。これは単なるミスなのか、映画上の作為なのかは全く分からないが、個人的には後者ではないかと思う。

 

 まず、オッピー自身がOwnershipと言っている点についてはどうだろうか。これはあくまで推測でしかないが、Ownership=所有「権」への批判が重要であるというのは、『資本論』の論旨それ自体には適っているように思う。マルクスは商品の交換過程や、本源的蓄積過程において、近代における「所有」が古代や中世とは異なって「権利」関係を前提とするようになったことに着目している(マルクス原文の指示は困難だが、さしあたっては「シリーズ 世界の思想」の佐々木隆治『マルクス 資本論』の説明で確認しました。)。この話をしているのだとすれば、オッピーがマルクスに関して決して的外れな話をしているわけではないことになる(つまり、オッピーはプルードンマルクスを取り違えたわけではない)。もちろん、Propertyでも所有権を意味するので、OwnershipではなくPropertyが資本論の「英訳」で使われているんだなと思ったオッピーが、ドイツ語原文の弁明をした――そう考える割と整合的なシーンだ(ただ、資本論の膨大な内容を要約する表現として適切かというとかなり微妙だ。)。

 しかしこれに対してジーンがあえて「Property」と訂正したのは、資本論の「英訳」では所有を「Property」として訳していたから、ではないだろう。まさにプルードンの警句が社会主義的なサークルにおける言葉としてはより人口に膾炙していて、それをマルクスの思想だと取り違えたのだと考える方が自然だ。なぜかと言えば、歴史的な背景として、ニューディール時代のアメリカにおいては共産主義社会主義に対する「左派的な知的共感」が広く共有されていただけであって、彼らの多くが社会主義者が多用する「金科玉条」(まさに彼らはそうした「歯切れのよい言葉」たちを武器に使ってきたわけだが)は知っていても、その深い思想的内実まで理解していたわけではないと考え得るからだ。そうなると、マルクスプルードンの取り違えはきわめて自然である。実際、映画でもオッピーとジーンの会話を取り持った古株のCPUSAのメンバーであるハーコン・シュヴァリエが、オッピーが資本論を読破したと聞いて「うちの党員の誰よりも読んでるよ」と漏らしていることからもそういう雰囲気を伝えようとしていた感は見受けられる。

 大事なのは、マルクスの文脈ではオッピーの方がより適切に見えるし、共産主義運動サークルの語彙的にはジーンの方がより適切に見えることである。本作でちらと言及される量子論における矛盾の両立性であるとか、「理論」と「実験」の対比(「資本論」という「理論」から入った知識人オッピーVS「運動」から入った実践家ジーン)など、このいけすかないシーンにおいても本作のテーマをそれなりに看取できるように思われる。そうだとすれば、このシーンにもそれなりに意味があるので、制作者の作為と考えてもよいのかなと思いました。もちろん、単なる深読みに過ぎないですが。

 ただ、もうひとつ作為の解釈として思いつくのは、本当にオッピーがマルクスプルードンを取り違えているということである。つまりその場合映画で示したかったのは、CPUSAであったりそれに共感するニューディール・リベラルがやっていた左翼運動というのはホンマに実践ファーストで、マルクスなんてちいとも理解していなかったということだ。これは、映画でオッペンハイマーが結局理論の限界を踏み越えて最悪の「実験」へと雪崩れ込んでいくことを考えると、この解釈も実は興味深い気がする。どっちかはわかりません。

 余談ですが、このシーンが作為であるという前提で、そもそもこのシーンの文脈ではOwnershipであってもPropertyであっても大した違いはないように見えてしまうのはどうかなと思う。思想史的な観点からすればpropertyで訳した方がいい気がするし、博覧強記のオッペンハイマーならそこも踏まえてownershipとは言わなかったような気がする。そこら辺を理解せずに交換可能な言葉だということでこのシーンが作られているのだとすれば、それはちょっと残念かもしれませんね。まあそんなことを気にするような人間こそEvil fewだと思いますが。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅱ カリスマ・教権制』(岩波文庫、2024)を読了しました。前巻は結構つまらなかったんですが、こっちは結構面白かった。ウェーバーの洞察は今でも面白いなと思う。たまにXとかで優れた閃きとか識見を見て「ほええ」となるような感覚でした。そして、訳文は極めて読みやすかった。

 ウェーバーは支配が続く要因、つまり当該支配が「レジティメイト」される要因として、制定法に依拠した「官僚制」や家父長が支配する「家産制」にはある種の「日常性」があると指摘する。しかし、この日常性に依拠せず、非日常的な権威としての「カリスマ」が支配するケースがあると指摘する。典型的には、軍事的英雄や預言者のような存在が想定される(カリスマの顕著な特徴としてウェーバーは「経済への無頓着さ」を挙げる)。しかし、歴史上一回しか誕生し得ないカリスマ的存在者による支配は、カリスマの消滅によって終焉を迎えるはず、と思いきや様々な要因(例えば「血」や「官職」にカリスマが付与される。例:カリスマの後継者が血統を有する、あるいはカリスマが指名した官職につくなど)で「日常化」する。ここにカリスマに依拠した支配が引き続き行われ、それが家産制や官僚制へと合流することもあるという。注意すべき点は、ウェーバーはカリスマ制→家産制→官僚制みたいな発展図式を意図したわけでもなければ(実際そういう例はあるかもしれないが、これが普遍共通するだとかは言っていない)、そもそも三つの区分はそれぞれ排他的にしか成立し得ないと言っているわけでもない(それぞれに混淆したり、また経済的・政治的・文化的要因によって極端な体制が生じたりする場合もある。)。

 また、「レジティメイト」の顕著な例として、ウェーバーは「教権制」、つまり政治権力と宗教権力が並立しつつ、後者から前者への「レジティメイト」を調達する体制を論じる(政治権力と宗教権力が完全に一体になっているのは「皇帝教皇主義」として、教権制とは対立概念で捉えている。)。

 ざっくりまとめると上のような話なのだが、備忘のためにいくつか引用しますね。

 「代表者に対する「命令的」委任は、たえず変化する状況とたえず生じる事前に予測できない問題のために、純粋に技術的な観点からして、完全に実現することはできない。有権者の不信任投票による代表者の「意見」は、これまでは散発的に試みられたことがあるだけである。「レファレンダム」によって議会の決定を見直すことが意味するのは、重要な点としては、主張に固執するありとあらゆる非合理的な勢力を実質的に強化することである。なぜならレファレンダムには、利害関係者間の駆け引きや妥協を技術的に排除してしまう傾向があるからである。

 最後に、選挙を頻繁にくり返すことも、そのコストがしだいに増加するため不可能である。

 国会議員を有権者の意志に縛り付けようとする試みはすべて、実際のところ長期的にはいつも、ただ次のことを意味するだけである。その意味というのは、有権者の意志に対する、すでに増大している代表者の政党組織の力をさらに強化することである。なぜなら、彼ら政党組織だけが「国民」を動かすことができるからである。」(pp82-3)

 「一般的にいって、支配構造の三つの基本類型は単純に次から次へと一つの発展の系列に組み入れられるのでは決してなく、互いに実に多様な仕方で結びついて現れる。

 しかしもちろん、制度になった継続的な構成体がしだいに発展するについれて後退していくことが、カリスマの運命である」(pp100-1)

 「クリエイティブな力としてのカリスマは、支配が継続的な構成体に硬直化していく過程で後退する。カリスマがなおも威力を発揮するのは、選挙やそれに類する機会での、効果が予測できない、短期間の大衆感情においてのみである。それでもカリスマは、もちろん強く変容した意味ではあるが、社会構造の非常に重要な要素であり続ける。

 私たちはここで、カリスマの日常化を主として条件づけている、先に触れた経済的要因に戻らなければならない。既存の政治的、社会的、経済的秩序によって特権を与えられている層は、次のような欲求を持つ。自分たちの社会的・経済的状況が「レジティメーション」されている、つまり純粋に事実としての力関係の存続から、獲得された権利のコスモスへと転換され、聖化されていると思いたい、という欲求がそれである。カリスマの日常化をもたらす経済的な要因とは、この欲求のことである。」(pp166-7)

 (オリエントの帝国の「大宰相」なる地位について)「ペルシアでは、直近の世代になってもなお、シャーが個人として保有する長の地位のもとで、官僚制的な専門省庁を創設して、大宰相を廃止する試みがあった。しかし、この試みは失敗した。この仕組みはシャーを行政の長にする。行政の長は人民のあらゆる苦難と行政のあらゆる失敗に対する責任を個人としてすべて負わなければならない。これによってシャーだけではなく、「カリスマ的」レジティマシーへの信仰そのものが深刻な危機にさらされかねない。これが[大宰相廃止が]失敗した理由であった。大宰相はもう一度、設置されなければならなかった。大宰相が責任をかぶって、シャーとシャーのカリスマを守るためである。」(p170)

 「議会制のもとで国王は無力である。それにもかかわらず国王が保存されるのには理由がある。なによりも、国王が存在するというただそのことによって、また暴力が「国王の名において」行使されることによって、国王は自らのカリスマで、既存の社会・所有秩序のレジティマシーを保障する。そしてその利害関係者はみな、国王を排除すれば、その結果として、この秩序の「正しさ」に対する信頼が揺らぐことを恐れなければならない。国王が保存される理由はここにある。」(pp171-2)

 「したがって、どのような構造であれ、レジティメイトな政治権力には、なんらかの仕方でミニマムな神政政治的なあるいは皇帝教皇主義的要素が溶け込んでいることが多い。なぜなら、結局のところ、やはりカリスマはみな魔術的な起源の残滓を必要とし、したがって宗教的な力と親和的であり、このため政治権力にはいつもなんらかの意味での「神の恩恵」が存在しているからである。」(p190)

 (教権的でなく非政治的・無政治的なゼクテが主張すべき「良心の自由」こそが人権の起源であるとした上で、)「しかしいずれにしても、この意味での「良心の自由」は最も広い範囲に及ぶ「人権」であり、倫理的に条件づけられた行為の全体を包摂し、権力、とりわけ国家権力からの自由を保障するからである。この意味での良心の自由は、このようなあり方では、古代や中世にも、そして同じく例えば、国家による宗教の強制をともなうルソーの国家論にも、存在しない概念である。

 その他の「人権」「市民権」「基本権」は、この良心の自由の権利に付随している。とりわけ、自らの経済的利益を自由に、自分の最良で実現する権利がそうである。だれにでも平等に適用される、保障された法的ルールという抽象的なシステムの範囲内であれば、この〔経済的自由の〕権利は成り立つ。このとき最も重要な構成要素は、個人の財産の不可侵性、契約の自由、職業選択の自由である。」(p338)

 そして最後に、訳者あとがきの中でしっくりきた段落をそのまま引用します。つまり、レジティマシーは真空状態で議論されているわけではないということです(これも訳者の受け売りだが)。

 「さまざまな階層や立場の人たちが、その都度のコンステレーション(布置連関)、あるいは力関係にあって、対立したり、共闘したり、漁夫の利を得たりする。そうした連関を背景として、利害や情念が動き動かされ、その結果として、ある傾向が促進され、ある傾向が阻止される。(近代化は合理化で、その典型的な組織形態が官僚制だ)という図式で議論することは、誤りとまではいえない。しかし、この図式は無条件に、どこででも当てはまるわけではない。家産制的な主人、地方の名望家、カリスマ、修道士など、さまざまなアクターが官僚制化の傾向に対立してきた。そして、そのせめぎ合いには濃密にさまざまな利害関心が絡む。確認するまでもなく、レジティマシーの狭義の三類型がどうでもよいということではない。しかし、ある支配を成り立たせているのは、レジティマシーの観念であるとともに、あるいはそれ以上に、理念的であるとともに物質的な利害関心のコンステレーションである。たしかにウェーバーは狭義の支配と利害関心のコンステレーションを明確に区別している。しかし同時に、彼はつねに具体的なコンステレーションと関連づけながら、支配について論じている。そもそも私たちがレジティマシーを問題にするのは、観念的・物質的な対立を前にして、なんらかの秩序を模索するためである。」(pp434-5)

 

【動画】

youtu.be

 ふっくらすずめクラブに戻って本当によかった。「会社にしか友達がいない」という名前だと早晩チャンネル登録を解除したと思うので。あのカットインが出るたびに会社にも友達がいねえ俺はどうすればいいんだよという気持ちになってしまう。俺はオモコロよりかは歳の近いメンバーがいるふっくらの動画の方が親近感が沸くので、毎日投稿はメチャクチャありがたいしこれからも頑張ってほしい。

 

 

 

20240401

 エイプリルフールとかいうクソ。全てが現実やねんな。

 

【労働】

 土日が終わった途端一気に世界が真っ黒になる。今日も色のない仕事をしていました。Kanashi。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅰ 官僚制・家産制・封建制』(岩波文庫、2023)を読了しました。

 今さらウェーバーかよという感もあるが、岩波文庫になってるのを買っちゃったからね、仕方ないね。ただ、やはりウェーバーの議論を理解しておいた方が、当時のドイツの社会科学の議論とかの見通しがよくなることは確かなんですよね。

 まとめ……ようと思ったけど最近は億劫になっている。実際、200頁ぐらいの新書をパーっとまとめるのはできなくもないけど、この手の本はまとめるのがメチャクチャむずいんすわ。出版社のサイトに行けば書いてあるような短行でまとめるか、メチャクチャ文字数を費やして死ぬほどできの悪い劣化コピーを作るのかのどっちかなんですよね。こういう本とは何度も付き合っていく中で覚えていくしかないかもしれない。

 まあそれでも一応試みるとすれば、人が人を支配するということを社会学的に考察した時、「何故支配される側は支配を甘受するのか」という観点から、支配を甘受する理由=レジティマシー(正当性/正統性)がどのように与えられるのかということを考察する。合理的な「官僚制」、伝統的な「家産制」、そしてその家産制の極北である「封建制」が論じられる。こうした社会の諸制度と経済システムの相関が裏テーマである。(官僚制―資本主義、みたいな一意な対応関係ではなく、家産制や封建制においても資本主義的な要素は阻害されつつもウェーバーは否定しない)。こうやって見るとマルクス主義的な発展史観とか唯物史観なのかな、と思われるかもしれないがさにあらず。ウェーバーは家産制が分極化して発生した封建制の過程において、家産制的な現象が起こる「家産制のルネサンス」を指摘したり、単純に貨幣経済の浸透が資本主義を加速させて官僚制を出来させるというわけではないことを指摘したりしている。なお、いろいろと昔の話が大量に出てくるが、このあたりは若干眉唾で読んだ方がいいだろう。特に封建制あたりの話はかなり批判されているはずなので……。訳は読みやすく、かつ、巻末の用語解説は勉強になる。というか、この部分だけ読めば割としっかりとしたウェーバー入門になる気がする。

 以下、面白い指摘を1個だけ引用だけしますね。

 「むしろまさにここで私たちが心に刻んでおく必要があるのは、民主主義という政治的概念は、支配される側の人たちの「権利の平等」から、次の要請を引き出すということである。1だれもが官職にアクセスできるようにするために、閉鎖的な「官僚身分」が発展しないようにすること、2なしうるかぎり「世論」が影響する領域を拡大するために、官僚の支配権力をミニマム化すること、可能な限り専門的な資格と直結させないで、落選させることも可能な選挙によって、短期間だけ任命するように努めることである。

 このようにして民主主義は、名望家の支配に対抗する闘いの結果として自らが生み出した官僚制化の傾向と、不可避的に矛盾に陥る。」(p153)

 

【映画】

 「オッペンハイマー」を見ました。IMAXです。よかったっすね。とりとめもなく感想を述べていきますわよ。

 まず、原作というか基になったカイ・バードとマーティン・シャーウィンの本を読んでおいて本当によかった。それなしで凸ってたら多分テネットみたいになってたわ。実際映画館から出た後におっさんが娘?っぽい人に「最初から最後まで何もわからんへんかった」と言っていた。まあこのおっさんが白痴の可能性が3割ぐらいあるとしてもですね、それなりに難しい話ではないかと。単純にちょっと背伸びした高校生ぐらいの知識がないと「???」で終わるのは確かかもしれない。

 本作がオッペンハイマーというタイトルだとしても、ノーランがこれを単純な伝記映画にしたくないというのは節々から見て取れる。でなければ、映像の1/4ぐらいをストローズの話で埋めるなんてありえへんやろ。映画の縦軸となっているオッペンハイマーの保安委員会査問とストローズの商務長官指名聴聞会を意識的に重ねることで、両者が地続きの存在であることを暗に示している。その地続きの地平そのものを疑えというアインシュタインの示唆は、ノーランがこれまで『ダークナイト』や『インセプション』で繰り返してきたメッセージなのかなと。

 シャーウィンやバードの本が科学と政治を対立関係に設定し、後者を批判的に見る視点があり、オッペンハイマーアメリカの近視眼的な原子力政策や赤狩り暗黒時代の犠牲者になったという見方を惹起するのだが、ノーランはこの立場を採っていないように思う。本作でオッペンハイマーの妻キャシーが繰り返し示唆するようにオッペンハイマー自身の「罪」はいつまでも消えることなく、「罰」もまた不完全であり続けるという立場をとっている(冒頭エピグラフにおいて、火を盗んだプロメテウスが「永遠の拷問」を受けているというのがそれを示唆している。アメリカン・プロメテウスたるオッペンハイマーも、終生苦しみ続けたと考えるべきだろう。)。オッペンハイマーの苦悩を端的に示したのが、原爆が投下された後にロスアラモスで行ったスピーチシーンである。あれは圧巻である。

 また、「私の手は血濡れているように感じます」とオッペンハイマーが述べた際にトルーマンが憤慨して「原爆を落とされた者は作った奴ではなく落とした奴を恨むんだ」と述べるシーンがある。だが、オッペンハイマーの「罪」はまさに、「落とす奴」がいることを前提に「理論」物理学の限界を踏み越え、「殺戮」を前提とする「実験」へ一歩踏み出したことにあるのではないか。20億ドルをかけて行った壮大なプロジェクトは、実際の原爆実験である「トリニティ」だけでなく、広島や長崎への投下込みで「実験」(つまり「理論」と対比する意味で)だったのではないかという観点が随所に示される(例:オッペンハイマーがドイツ降伏後も原爆開発を続けた際の台詞、ストローズによるオッペンハイマーへの批判、保安委員会査問でのロッブ弁護士への尋問の応答など)。オッペンハイマーが「理論」だけを考えていた時、流麗な量子力学の再現映像みたいなシーンが音楽とともに流れ観客を引き込むのだが、「実験」が重視されるロスアラモス計画への参画以降はそのようなシーンは一切なくなる(爆縮か核分裂を説明する時に出てくる再現映像はおどろおどろしいものであった。)。本作はそのような形で、オッペンハイマーの罪にも向き合おうとしている。

 印象的なのは、普通の伝記的な作品であれば、民主党政権になって名誉回復がなされフェルミ賞を受賞して終わり、というのが一番きれいなのだが、ノーランはあえて冒頭既にストローズ目線の白黒で描かれたアインシュタインオッペンハイマーの会話の中身をエピローグに設定している。オッペンハイマーが救われてよかったねなんてことでは決してなく、なおかつ、核兵器は今や「昨日までの世界」をとことん破壊しつくして、我々を新しい現実へと誘ったのだという現実が、オッペンハイマーの何とも言えぬ顔のクローズアップで示唆される。

 映像面で言えば、本作は本当に顔の映画である。キリアン・マーフィーもロバート・ダウニー・Jrエミリー・ブラントも、みんな顔がいい。こんなにアップして何秒もやっても画が持つのは凄い。演技も凄い。老獪な政治家であるストローズを演じたロバート・ダウニー・Jrの「Amateurs seek the sun and get eaten. Power stays in the shadows」のシーンは痺れた。個人的には悪辣な反対尋問で相手をやり込めるロッブ弁護士を務めたジェイソン・クラークの演技にも光るものを感じた。ジェイソン・クラークといえば、俺は「ホワイトハウス・ダウン」の頭のおかしい元デルタフォースの敵役しか思い浮かばないので、こういうのもできるんだと素朴に感心した次第。

 まとめると、普通にメチャクチャいい映画でしたね。これは配信されたら3回ぐらいは見ると思う。ノーランの作品で一番好きなのが『インセプション』で次点が『ダークナイト』なのですが、その間に入るぐらいの俺好みのもの。

 

 

20240329-31

 簡単に。

 

【労働】

 ダメですね。とことんダメ。とはいえ、来週以降から本格的に退職調整をするために気力を振り絞っていこうかなと。

 

【雑感】

 3/30、久しぶりに大学のサークルの歴々と飲み会。4軒行って普通に終電を逃してタクシーで帰るなど。この歳になると、カラオケとか漫画喫茶で一夜を過ごすよりも、大金払ってタクシーで帰って家で寝た方が絶対にいいんだよな。

 色々と面白い話を聞いたのだが、歳を重ねるにつれてだんだん俺は保守的な人間になっているなという気がしてきた。どちらかというと通俗道徳側に片足を突っ込んでいるっぽい。現状を肯定しているわけではないが、ドラスティックな変更を望まない人生というかなんというか。まあ、悲しいことですね。

 ちなみに飲み過ぎたせいで翌31日はずっと胃の中に酒が残っているような感覚があり、クッソ暑い中ずっと寝転がっていた。頭痛いとか気持ち悪いとかいう典型的二日酔いではなく、端的に胃の中がまだ「成し遂げていない」感じがありすごく違和感があったという程度。酒の飲みすぎはよくありませんねえ。

 

【読書】

 リナ・ボルツォーニ(宮坂真紀訳)『すばらしい孤独 ルネサンス期における読書の技法』(白水社、2024)を読了しました。

 ルネサンスを牽引した人文主義は古典を発見し、読書することを本義としてきた。その「読書」について、人文主義者たちがどのような自己プロモーションを著述において行っていたのか、言い換えると人文主義者たちはどのような「読書」を理想として、どう後世に伝えてきたのかという問いを本書は掲げている。そこに見出されるのは、夜中に礼装して古代の著作家との対話に臨むという感動的イメージを伝えた有名なマキァヴェッリの著述に代表されるように、「死者との対話としての読書」がまさに彼らにとって理想とすべき読書のあり方だった。本書では、徹底して古典に没入し死んだ作家たちと手紙や対話を交わすようなペトラルカに、そのようなトポス(お決まりの表現)の端緒を見出し、さらにはルネサンス文人たち(ボッカッチョ、マキァヴェッリエラスムス、タッソなど)の読書観を通観し、そしてそれが時代を超えてラスキンプルーストの読書論にも反響していることを示す。読書が死者との対話、なんていうのはおそらく多少なりとも人文学をかじっていれば常識の範疇に属する話だし、紹介されている話は割と既知なことが多い(かつ、結構前提知識を要求している読み物でもあると思う)のであんま新味はなかったのだが、その「対話」のあり方や、対話をすることによってどのような変化が自身に生じるのか、さらに「鏡」や「友人」など他のメタファーとの関連などを丹念に追っているので、その点は興味深い点もあった。

 今回は、既知のことばかり書いてあったので、特にまとめません。というか毎回毎回5000字もかけて読書メモを書いてたら疲れるんです。眠いし。

 

【ゲーム】

 Rise of the Roninを買いました。パリィのタイミングがムズすぎるとだけ。面白いですけどね。

20240326

【労働】

 辛すぎワロタ。けどもう恥も外聞もかなぐり捨てて何もしなくなっている。

 

【雑感】

 労働の精神的辛さを対消滅させました。まずサウナに入って、池袋で限定出店している飛騨高山の落ち着くラーメンを食って、大学の先輩と焼き鳥食って、ジュンク堂で本買って、コメダでデザート食った。計2万ぐらいで何とか一日の正気を保つことができましたね。

 

【読書】

 島津忠夫訳注『新版 百人一首』(角川ソフィア文庫、1999年)を読了。

 このブログを多少なりとも読んでいる人ならわかるとおり、俺は西洋かぶれのクソイキリ人文ディレッタントなので、百人一首のような日本の昔の文化にはとんと縁がない。そもそも詩全般に大して興味がない人間だ。とはいえ、流石に中世ジャップランドでサバイブする人間として何も知らんままではよくないよなと思ったのと、あとたまたま古本屋で300円で売ってたので「まあこれから入門してみるか」と購入したので読んでみました。これで日本人力(ちから)を底上げしていきます。

 本書は、百人一首藤原定家が編纂したと考える立場の著者が、定家がどのような選歌意識・批評眼をもって「百人」を選んだか、またその百人それぞれが残した無数の歌からそれぞれ「一首」を割り振ったかという観点から百首それぞれに鑑賞や出典に関しての解説をものしている。なので、定家が晩年の好みを強く反映させて、当該歌人の代表作でもないものを選んだ、というような主張もあり、だいぶ偏ったアンソロジーなんだなという素朴な感想を持ってしまった。とはいえ、天智天皇から始まり後鳥羽院で締め、さらに女流歌人などを集中的に並べるなど、配列等にも技巧を凝らしていたようで、その点はアンソロジストとしての批評性を感じさせますね。また、最古の歌仙絵とともに百人の略歴も簡単に紹介されている。それぞれの歌に対して見開き2ページで解説が加えられており、歌の下の方に語義や文法解説が若干触れられている程度。恐らくですが、ビギナーズ・クラシック版の方が絶対に最初の一冊にはふさわしかったっぽいが、まあ古本ベースで物事を調べているとこういうことがたまにあるんすよね。

 巻末に、著者の解説が70頁ほどあるが、これは編纂者問題について著者なりの学説整理や主張を試みているもので、ほとんど学術論文に近く、この分野について素人の俺には「???」という感じだった。その中で、百人一首と百人秀歌(親戚のために編んだ障子に描く様の歌)との先後関係(百人一首には「秀歌」の方にはない後鳥羽院と順徳院の歌が収められていることから、承久の乱以後の定家の対幕府との微妙な関係が示唆されていてこの点はなるほどと思った)に関する著者の考えの変遷(当初著者は百人秀歌を親戚に頼まれて作る→やっぱ後鳥羽院とかも入れたいよねという気持ちになったので百人一首を編んだと考えていたのだが、研究の進展につれてむしろ百人秀歌と百人一首はほぼ同時並行で作られていたが、それぞれ基になったであろう何らかのオリジナルバージョンの存在を想定する。Q資料かよ)などはふーんと思いながら読んだ。あと、宝塚の女優名が百人一首からとられていることが多い(天津乙女有馬稲子、霧立のぼる、小夜福子)とか、昔は色々な歌集のかるた遊びがあったが元禄ごろから小倉百人一首で統一されてきたっぽいというtips的な指摘自体は勉強になりました。なお、ネットで調べていたら最近の研究では編纂者は定家ではなかったのではないか説もあるらしく、この点を詳らかにした岩波新書の本があるので気が向いた時に読む予定です。

 さて、百首についてですが、1日で読了してしまい、歌を楽しむ読み方とは到底言えないものの、ファーストインプレッションでいいねと思った歌はあわせて約40首ほどあります。全体的には、恋愛の歌が多くて、バキバキ陰キャ童貞彼女いない歴=年齢ミソジニーおじさんの俺としては「キッショ」と羂索みたいな感想しか持てないのもあったのですが、絵画のような風景を歌い上げたものとか、寂莫や孤独、老いについて歌ったものには非常に感銘を受けました。あと恋愛ものでも、普通に感情が強すぎてワロてしまったものについてはよかったと思います。ただ、一夜を過ごした後の朝になって別れる「後朝(きぬぎぬ)」系はよくないですね。風俗嬢の手書きメモでニチャァする人間と同じ精神性を感じるので。

 俺のベストは83番「世中(よのなか)よ みちこそなけれ おもひ入(い)る やまのおくにも 鹿ぞなくなる」(皇太后宮大夫俊成(藤原俊成))です。現代語訳は「世の中というものはまあ、のがれる道はないのだなあ。深く思いこんで、分け入って来たこの山の奥でも、やはり憂きことがある見えて、もの悲しく鹿が鳴いているようだ。」(p178)。「この俗世をのがれて、山の奥へのがれる遁世の身に、なお鹿の鳴く音がもの悲しく聞こえて、とてもこの世では、憂さからのがれることもできないと深く述懐する心を、「世中よみちこそなけれ」とまず二句切に言い切り、第三句以下鹿に実感をよせて余情深くよんでいるところ、王朝末の深いさびしさを巧みによみ得ている」(同)との鑑賞評に深く同感する。もちろん、鹿が「悲しいわ~」と鳴くわけではないが、その鳴き声に悲しさを読み取る人の心の持ちようであるとか、悲しみから逃れることの難しさとかいろいろなものが込められた短歌で、今の鬱ぎみの心にはとっても染み渡るものでした。この歌だけでも暗誦できるようにして、悲しみに浸った時に思い出せるようにしたいなと思いました。

 その他の歌について、ブログに転写します。現代ではコピペできるから楽だねえ。ですので、歌それ自体は本書からの直接の引用ではないことをご容赦ください。島津による現代語訳を括弧書きで並置し、歌によってはその後ろの※以下でちょこっとメモも書きます。メモは当方の最悪な感想ばかりですがお目こぼしください。

 

3、あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む    柿本人麻呂

山鳥の尾の垂れさがった、あの長い長いその尾よりも、いっそう長いこの秋の夜を、恋しい人とも離れて、たったひとりでさびしく寝ることであろうかなあ。)

 

5、 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸太夫

(奥山に、一面に散り咲いた紅葉をふみ分けてふみ分けてきて、妻をしたって鳴く鹿の声を聞く時こそ、秋は悲しいという重いが、ひとしお身にしみて感じられることよ。)

 

6、かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける    中納言(大伴)家持

(冬の夜空にこうこうと輝く天の川の、鵲が翼をつらねて渡したという橋に、あたかも霜が置いたように白く見えているのを見ると、天井の夜もすっかり更けたことだなあ。※七夕伝説ってこんな鳥出てくるんだっけ!?と思ってたら出てきました。俺天の川それ自体が固まって渡れるみたいなイメージ持ってたわ。)

 

7、天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも 安倍仲麻呂

(大空はるかに見渡すと、今しも東の空に美しい月うが出ているが、ああ、この月は、かつて眺めた故郷奈良春日の三笠の山に出た、あの月なのかな)

 

9、花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに    小野小町

(美しい桜の色は、もう空しく色あせてしまったことであるよ。春の長雨が降っていた間に。そして、私も男女の仲にかかずらわっていたずらに物思いをしていた間に。

※これはいわゆる小野小町零落伝説とも関係がある解釈なんですかね。)

 

11、わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣舟    参議(小野)篁

((遠い隠岐の配所へおもむくために)広々とした海原はるかの多くの島々に心を寄せて、いま舟を漕ぎ出したとせめて京にいるあの人だけには告げておくれ。漁夫の釣舟よ。)

 

17、ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは    在原業平朝臣

((人の世にあってはもちろんのこと、)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。

※この歌には解釈が二通りあるらしく、上の島津訳のとおりと、賀茂真淵以来の真っ赤に水面がくくり染め上げられているというものがある。『古今集』のとおりに従って読むと後者が正しいようだが、島津は定家はこう解したのだということで、上のように訳している。なお、俺はちはやふるというのは漫画とかアニメのタイトルである以上の意味を知らずに、神様とか向けの枕詞だと知って「へえ!」ってなった。非国民か? 古文の授業全部忘れたので……)

 

20、わびぬれば今はた同じなにはなるみをつくしてもあはむとぞ思ふ    元良親王

(噂が立ってわびしい嘆きに悩んでいるのですから同じことです。どうせ立ってしまったなですもの、難波の「みをつくし」という言葉のように身をほろぼしてもお会いしたいと思います。

※澪標=身を尽くし、というの面白いっすよね。)

 

23、月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど    大江千里

(秋の月を見ていると、いろいろととめどなく物ごとが悲しく感じられることだ。秋が来るのは世間一般に来るのであって、なにも格別自分ひとりのための秋ではないのだが。)

 

26、小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ    貞信公(藤原忠平)

(小倉山の峰のもみじ葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度、今度は主上行幸があるはずだから、その折までどうか散らないで、待っていてほしいものだ。)

 

28、山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば    源宗干朝臣

(山里は都とちがって、冬が格別にさびしさが増さって感じられることだ。人の尋ねて来ることもなくなり、草も枯れてしまうと思うので。

※「離(か)れ」と「枯れ」がかかっているらしい。おしゃれ!)

 

33、ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ    紀友則

(このように火の光がのどかにさしている春の日に、桜の花はおちついた心もなくはらはらと散ることよ。どうしてこうもあわただしく散るのかしら。

※「この歌は慌ただしく散る花が、のどかな春の心持を乱すのを咎めたものではあるが、さうしたぎこちない難詰の心は、ゆるやかに流れてゆく『しらべ』の波にかくされてしまって、風なきに舞ふがごとくもかつ散る花をながめながら、霞の中をただよふ陽光に包まれて、爛熟した春を味わひつつある歌人の心持がさながらに浮かび出てゐる。」(p78)という吉沢義則の鑑賞になるほどと思った。)

 

34、たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに    藤原興風

(私はだれを昔からの知りあいとしようかなあ。高砂の松のほかには、私と同じように年をとったものはないが、それも昔からの友ではないから、話し相手にならないし。

※「昔の友人がみな死んでしまって、孤独を痛切に身に感じている老人の嘆きの声」を詠んだとか。エモ……)

 

38、忘らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな    右近

(忘れられてしまう私の身のことは、何とも思いません。ただあれほど神前にお誓いになったあなたのお命が、いかがかと惜しまれてならないのです。

※怖すぎワロタ。永遠の愛を誓っても普通に離婚しまくっとるわが国ェ……。)

 

39、浅茅生の小野のしの原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき    参議(源)等

(浅茅の生えている小野の篠原――その「しの」ではないが――これまでは忍びに忍んできたけれど、今はとても忍びきれないで、どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょう。)

 

42、ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは    清原元輔

(かたく約束したことでしたね。お互いにいく度も袖をしぼりながら、あの末の松山を浪の越すことがないように、ふたりの間も決して末長く変わるまいとね。それなのにあなたは……。

※これが平安のStardustですか。怖いねえ……)

 

43、あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり    中納言(藤原)敦忠

(逢って見て後の、この恋しく切ない心にくらべると、以前のもの思いなどは、まったく無きにも等しい、なんでもないものでしたよ。

※恋してから知能が発達するタイプの白痴か???)

 

46、ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな    曾禰好忠

((潮流のはやい)由良の海峡をこぎ渡ってゆく舟人が、かいがなくなって、ゆくえも知らず途方にくれているように、思う人、たよりにする人を失ってどうしてよいかわからないことよ)

 

47、八重むぐら茂れるやどの寂しきに人こそ見えね秋は来にけり    恵慶法師

(葎のぼうぼうと茂っているこの寂しい宿に、人は誰ひとりとして訪ねては来ないが、秋だけはやっぱりやってきたことだなあ。

※みんな秋になると物思いしすぎでは???ハロウィン馬鹿騒ぎ現代人は平安人の爪の垢を煎じて飲むべき)

 

48、風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな    源重之

(あまりに風がひどいので、岩にうちあたる波が、岩は微動だにせず波だけが砕けるように、あの女は平気でいるのに、私だけが心もくだけるばかり思い悩んでいるこのごろであることよ

※これは情景描写◎)

 

49、 み垣もり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣

(みかきもりである衛士のたく火が夜は燃えて昼は消えているように、恋に悩む私も、夜は燃え昼は消え入るばかりの毎日で、もの思いに沈んでいるのです。

※「衛士のたく暗闇の中にもえる火と、心にもえる恋心との比喩は、誰しも連想を呼ぶことであったらしい。」(p110)はえー、現代の不夜城では想像もできませんね。)

 

52、明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな    藤原道信朝臣

(夜が明けると、やがて日が暮れ、日が暮れると、またあなたに逢うことができるとは知りながらも、やっぱり恨めしいものだなあ、別れて帰る明け方は。

※典型的後朝の歌。毎日セックス三昧かよ性の喜びを知りやがって!)

 

53、歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る    右大将道綱母

(嘆きながらひとり寝する夜の明けるまでの間が、どんなに長いものであるか、あなたはご存じでしょうか。門をあけるのがおそいので立ちわずらったとおっしゃいますけれど。

※「町の小路の女に通いはじめた兼家に激昂した作者が、二、三日して訪れ門をたたく兼家に対して、迎え入れることを拒んだ翌朝、ことさらに『うつろひたる菊』にさして、贈った」(p118)とのこと。上の後朝の歌と比べるとよっぽど小気味よく面白いですね。流石蜻蛉日記の作者。)

 

54、忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな    儀同三司母

(あなたが私のことはいつまでも忘れないといわれるその遠い将来のことまでは頼みにしがたいことですから、私は、そうおっしゃる今日が最後の命であってほしいものです。

※命を粗末にするなよ!!!!みんな恋愛するとそんな不安になるんか???)

 

61、いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな    伊勢大輔

(昔の奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、さらにいちだんと美しく咲き匂い、光栄にかがやいていることでございます。

※これ即興らしい。「八重」と「九重」をかけるのすごすぎる。)

 

62、夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ    清少納言

(まだ夜の明けないうちに、にせの鶏の鳴き真似をして、函谷関の番人をだましたとしても、逢坂の関はそうは参りますまい。うまいことをおっしゃっても、私は決して逢いませんよ。

※『史記孟嘗君伝中の出来事を引用して詠ったもの。逢坂の関は当然男女の出会いのメタファー。流石の機知。)

 

65、恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ    相模

(あの人のあまりにつれないのを恨み、気力もなくなって、涙にかわくひまもない袖さえ口惜しいのに、その上この恋のために朽ちてしまう私の浮き名が惜しまれることよ)

 

70、寂しさにやどを立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮    良暹法師

(あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出で、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるようなものはない。なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。

※新古今的寂寥と島津も評するように、何とも得も言われぬ感じがある。)

 

71、夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く    大納言(源)経信

(夕方になると、門前の田の稲の葉をそよそよと音をさせて、蘆ぶきのこの田舎家に、秋風がさびしく吹きおとずれてくる。)

 

72、音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ    祐子内親王紀伊

(評判に高い高師浜のいたずらに立つ波には掛かりますまい。袖が濡れましょうから。浮気で名高いあなたのお言葉は心に掛けますまい、きっと涙で袖を濡らすことになりましょうから。

※これメチャクチャうまいなと思いました。)

 

77、瀬を旱み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ    崇徳院

(川瀬の流れがはやいので、岩にせきとめられる急流が両方に分かれても、いずれ一つに落ちあうように、今は人にせかれて逢うことができなくても、ゆくゆくぜひとも逢おうと思う。)

 

85、夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり    俊恵法師

(夜どおし、つれない恋人のことを思って物思いをしているこのごろは、早く白んでくれればよいがと思うが、なかなか白んでくれない、その寝室の隙間までが、つれなく思われることよ。

※これだけ確かに何度も聞いたことあるなと思ったのですが、東方同人ボーカルサークル凋叶棕の「御阿礼幻想艶戯譚 -綴-」のサビですわ。稗田阿求のひとり夜遊びを歌うというメチャクチャエッチな曲なのですが……)

 

87、むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮    寂蓮法師

村雨がひとしきり降り過ぎて、まだその露も乾かない真木の葉のあたりに、もはや夕霧が立ち上っている。ああ秋の夕暮れとなったことよ。

※こういう情景に出会いたい、こういう情景に出会いたくない?)

 

88、なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき    皇嘉門院別当

(難波江の蘆の刈り根の一節、そんな短い旅の一夜の仮寝のために、すっかりこの身を捧げて、ひたすらに恋い続けるというのでしょうか。

※「旅宿逢恋」というテーマらしい。)

 

89、玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする    式子内親王

(私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生き永らえていると、忍ぶこともできなくなり、心が外に現れるかもしれないのだから。)

 

93、世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも    鎌倉右大臣(源実朝)

(世の中は常に変わらぬものであってほしいものだなあ。この渚を漕いでゆく漁夫の小舟の、その綱手を引くさまの、おもしろくも、またうらがなしくも感深く心が動かされることよ。

※実朝の生涯を思うと、これは無常という感じがありますね。)

 

96、花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり    入道前太政大臣(西園寺公経)

(落花を誘って散らす、嵐が吹きおろす庭の雪、その落花の雪ではなく、じつは自分の身の上のこと。ああこんなに年老いてしまったのなあ。

※「落花をみての即詠だが、落花そのものをよむのではなく、眼前の「降りゆく」落花の光景から、「古りゆく」身へと掛詞を軸と想を展開させて、老いのなげきを述懐した歌。「比類ない栄華を一身に集め、春昼春夜、連々たる豪華な遊宴の中で、ふと感ずる老いの到来。圧縮された『花さそふ嵐の庭の雪』という表現からは、絢爛たる花吹雪がイメージとして浮ぶ。一転してそれを否定し、老いを歎ずる白髪の老人がある。その悲しみ」(井上宗雄氏)の鑑賞に言いつくされている」(p204)。すごい!)

 

 

20240325

 多分だけど鬱だッピ!!!!!!!!!!! 殺してくれ!!!!!!!

 もはや酒浸りしか解決策がないので、とにかく辛くなくなるまでは酒を注入していきます。大丈夫、為替介入と一緒で準備はきちんとできている。俺の中の神田財務官が預金残高を見つつ「スタンバイしている」って言っているので、こっからは無軌道に酒を飲み続けていくぞ。今日は早速普段飲まないスプリングバレーを飲みながら家帰っちゃった。

 というわけで、ブログは若干不定期更新になることをお許しください。とはいえ、本を一冊読み終えたらそれをまとめるために更新するという感じなので、まあ多くて週2回ぐらいではないかなと思います。難しい本とかなら分割して紹介するかも。

 ちなみに、俺はせっせと本のまとめを書き溜めていますが、今までほとんど読み返していません。もしかして俺のやっていることは壮大な徒労に過ぎないのではないかという気付きが生じてきたのですが、少なくとも1年はそれを無視してやり抜く所存です。鬱が酷くなったらすいませんやめます。

 

【労働&雑感】

 厳しいわ。マジで出勤すると吐きそうになる。この歳できちんと登校拒否みたいな症状が出てくるの、育ちが遅れすぎてワロけてくるよ。

 こんな状況なので仕事を辞めざるを得ないと思います。まあこの仕事そこまで嫌いじゃなかったですけどね、この1年間で受けた仕打ちで全て帳消しですね。ありがとう!!!!さようなら!!!!ファック!!!!!

 ただ、マジで俺が社会に向いていないということがようくわかった。前職は破滅的なアホばっかりだったけど、今の職場は良識ある人間が多い。つまり、破滅的なアホも良識ある人間もどっちも俺には耐え難いということ。だからもうダメなんですわ。最悪生活保護があるのであんまり心配はしていないが、とはいえ俺以上にもっと公的扶助を必要としている人間がたくさんいると思うので、とことん人間が嫌になるまで自分の精神を追い込み続けるしかない。次仕事するにしても3年持たない気がするし、とにかく自分で飯が食えるように本格的に何かしないとヤバい気がする。ホントのこと言ったら今の職場やめた後5年は何もしたくないっすよ。

 

【ニュース】

二階氏「政界引退は地元が決める」 会見で「ばかやろう」発言も [自民]:朝日新聞デジタル

 俺は二階が嫌いなのだが、この「ばかやろう」だけは見習っていきたい。仕事辞める時はそう言おうと思う。

 

【読書】

 源河享『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』(中公新書、2022)を読了しました。

 非常にクリアでかつヴィヴィッドな論旨で読みやすく、近年の分析美学のエッセンスを理解するにはもってこいの著作ではないかと思う。中公には優れた美学の本が多いが、本書もまたそのラインナップに加わるものだと思います。この人の他の本もいろいろあるので読んでみようかなと思いました。

 本書は人が食べる時に「おいしい」「まずい」と感じること、それを言語化すること(時にはおいしい、まずい以上の分厚い言葉や比喩を使う必要がある)に関して、美学的な観点から考察を深めていく。といっても、かなり卑近な例を用いて明快に述べられていることから、非常にリーダブルだと思う。著者は「食の好みは人それぞれ」という相対主義(この言葉は著者は用いていない)や、「この目の前の一品にまつわる背景事情なんかどうでもよくてこいつの味を楽しまなきゃ!」といった純粋主義で立ち止まるのではなく、食の好みが主観主義的でありながらも客観主義的な部分も含んでいることや、単純に人は皿に盛られた料理を食べるまでに既に様々な知識・判断が介在しているため純粋な「純粋主義」は貫徹不可能であることなどを、明晰な論理展開で明らかにしていく。そうした中で、「この食べ物はおいしい/まずい」で終わる以上に、われわれの普段の食事という経験を豊かにできる可能性を示していると言っていいだろう。また、味覚に関する興味深い科学的知見もふんだんに盛り込まれており、単純にそうした点を知る読み物としても面白いと思う。

 以下、章ごとに紹介していく。

 第1章「五感で味わう」では、まず美学が扱う対象としての飲食の特徴が論じられる。従来の美学においては絵画や音楽といった「視覚・聴覚」に基づく高級なものが対象とされてきた。しかし、著者が指摘するとおり、そもそも「視覚・聴覚」と味覚を含むそれ以外の感覚の高級・低級を論じることは全く根拠がない。他方、それでは味覚だけが独立して美学における考察の対象になるかというとそういうことでもない。著者が科学的知見を踏まえて指摘しているのは、結局我々が普段ものを食べて感じている「味」には多くの感覚がマルチモーダルに関わっている。嗅覚は料理の「立ち香り」と「口中香」が基本味(甘い、しょっぱいなど)をさらに細分化していくことに寄与するし、触覚は歯触りや食材の温度などが味の判断に強い影響を及ぼしている。さらに、近年の実験から、音と見た目も味に影響を及ぼしていることが紹介される(例としては、ポテチの食感の音を変えてサクサクしないと不味く感じるというソニックチップ実験や、白ワインに赤い着色料を入れると醸造学科の生徒でさえ赤ワインに帰されるべき表現をする実験など)。結局著者が述べるように、「純粋な味」というのは基本的には日常生活では感じられず、また料理においては見た目などもそれなりに重要だというのが示される。

 第2章「食の評価と主観性」と第3章「相対的な客観性」は、本書の中でも重要な部分だと思う。ある人がおいしいと感じるものを、別の人はまずいと感じる。こんなもん、パクチーを引き合いに出さなくても多くの人が知っていることではないか。この事実から人は容易に「趣味については議論できないde gustibus non est disputandum」という帰結を引き出しがちだが、著者はこの状況についてより深く考察するよう促す。

 まず、ある料理に対する言明の分析として、著者は以下のように整理する。「おいしい」と「まずい」というのは、当該料理に対する評価であり、「甘い」とか「辛い」は当該料理の性質を記述している。「おいしい」と「まずい」は、「甘い」や「辛い」のように当該料理の性質として帰属しうるかというとそんなことはない。アメリカではルートビアが好んで飲まれているが、他の文化圏の人は美味しいとは思えない。つまり、ルートビアは「おいしい」という性質を持っているわけではなく、「おいしい」や「まずい」という評価はあくまで当該料理を評価する人の態度表明(おいしい=好き、まずい=嫌い)に過ぎないのではないかというのが、著者が整理する「主観主義」的な立場である。この立場は、上に挙げたようなルートビア等を巡る文化的相対性からも補強しうる。ここまでは、正直哲学的な分析を試みずとも直観的にはそうだと言いうるような気がする。

 しかし、本当に「おいしい」と「まずい」は単に好みの問題でしかないのだろうか。「客観主義」的な立場の擁護の仕方として、著者は「傾向性」という概念を持ち出す。毒キノコを食べるとその毒性で人は死ぬ。この「毒性」は「人が食べる」ことによって発揮される。つまり「もしX(人が食べる)という条件が満たされたらY(死)という出来事が起こる」と特徴づけられるのが「傾向性」である。これは言い換えると、ルートビアをおいしいと思う人たちが飲めば「おいしい」と思えるという傾向性を有していると考えると、ルートビアそれ自体に「おいしい」という性質はないにしても、ルートビアには不特定多数の特定文化の誰かに「おいしい」と感じさせる傾向性があり、そしてそれは文化の外にいる人たちにもわかるようなものであると考えられる。ルートビアの例で著者は以下のとおり説明する。

 「たとえば、最初はルートビアがまずいと思っていた人が、何かのきっかけでおいしいと思い、そこからいろんなルートビアを飲むようになったとしよう。最初のうちは、ルートビアであればどれもおいしいと思っていたかもしれない。だが、いろいろ飲み続けているうちに、このメーカーのルートビアはおいしいが別のメーカーのものはまずい、と区別するようになってくる。このときになると、最初の方に下していた「どのルートビアもおいしい」という評価は間違っていた、あのときはあのメーカーのルートビアもおいしいと思っていたがそれは間違いだった、と思うようになるだろう。以前に下していた評価が間違いだとわかるのである。

 文化相対的な客観主義では次のように説明される。最初はルートビアを飲む文化・習慣に慣れ親しんでいなかったので、対象がもつ「ルートビアを飲む文化の人に『おいしい』という評価を生み出す傾向性」がわからなかった。そのため、その傾向性をもつルートビアも、もたないルートビアも、違いがわからず、最初は誤った評価を下していた。しかし、ルートビアを飲み続けることでその傾向性を発見するセンスが磨かれ、正しい評価を下せるようになった。このように考えれば、文化を超えた普遍的な評価の正誤はないと認めても、文化内での評価の正誤はあると言うことができるのだ。」(pp85-6)

 また、著者は客観主義を擁護しうる戦略として、バーナード・ウィリアムズを援用して評価用語の「薄さ」と「分厚さ」に着目すべきだと述べる。といっても難しい話ではなく、「おいしい」「まずい」という薄い言葉はレンジが広いが、「こってり」「くどい」という分厚い言葉(評価と記述があわさったような言葉)が向けられる対象は絞られる、と理解すればいい。豚骨ラーメンもレモネードも「おいしい」と思えるが、レモネードに「こってり」という言葉を使うと「???」となるだろう。「こってり」というのは脂肪分の強く癖になるうまみという感じがあるためだ。逆に、それが好きでない場合は豚骨ラーメンを「くどい」と言うだろう。つまり、豚骨ラーメンの持つ脂っぽい性質が「こってり」や「くどい」という言葉を要求しているのであり、それ以外の言葉は場違いになる。適した言葉かそうでないかという判断が生じる以上は、何らかの基準は存在しうるのではないか、という指摘である。このような形で、著者は主観主義と客観主義はそれぞれ腑分けすれば両立するのではないかという指摘をしている。

 第4章「知識と楽しみ」では、料理を食べる時に「このトリュフはこれこれこうで~」とか「このワインは~」みたいなイキった知識のひけらかしより「味を楽しもうぜ!!!!ドン!!!!」みたいな主張(純粋主義)は、端的に誤りであることが論じられる。つまり、結局のところ食って味を感じる過程の中で、これまで食してきたものとの差異の判断(あの時食ったものよりこの料理はこうだなみたいな)、目の前のラーメンを「ラーメン」として認識しうる過程に既に体系化された知識(目の前にあるどんぶりの料理はラーメンで、スパゲッティやうどんとは違うことなど)が前提されている。「このラーメンはおいしい」という言明は純粋主義的には不可能である。何だか目の前にあるようわからんもんを口に運んでみたら「うまっ!」と思うのが純粋主義の飯の食い方だが、そんなことは(日常においては)恐らくできないだろう。著者は、知識がなくとも料理は楽しめるが、知識を得た状態のポジティブな側面を強調する。「知識が少ない段階では、対象の価値はそこまで楽しめない。自分の目の前にあるラーメンや絵画が他と比べてどうすごいのかまでは理解できず、違いを楽しむことはできない。それでも、その対象と関わった自分の経験を楽しむことができる。他と比べてどうかはわからないが、とにかく目の前のものはおいしい、心地よい、と感じることができるのだ。そして、そこで得られたポジティヴな経験をより増やすために、似たようなものを何度も経験し、そのうち知識が増えていく。知識が増えると、以前は気づけなかった対象の価値に気づけるようになり、それが楽しみを増やすことになるのだ。」(p129)

 余談だが、著者の以下の記述は面白かった。

 「純粋主義を支持したい気持ちになるのは、この手の不快な経験(引用者注:料理に関する知識自慢)があるためかもしれない。そうした人に対して「頭でっかちでうるさい。大事なのは自分がどう感じるかで、知識なんか関係ない」とつい思ってしまう。正確には、こうした場合で嫌悪されるべきなのは知識ではなく知識を自慢してくる人なのだが、坊主が憎ければ袈裟まで憎く、知識も嫌悪の対象となってしまうのだ(こうした知識自慢は食に限ったものではなく本当にいろいろなところにいるし、芸術に関してはとくに多いように思われる)。」(p123)

 第5章「おいしさの言語化」は、「これおいしいね!」以上の言葉をどうにかこうにか見繕ってそのおいしさをより精緻に言語化していく営みがフォーカスされる。俺も普段人と飯を食う時に「うめえ」以外の言葉を発したことがないので、これは勉強になった(何か料理についてこれはこうですねと言うと借りてきた言葉っぽくなるので。かまど、俺も舌壊人や。)。著者は、おいしさの言語化によって他人に体験を共有することができるし、さらに過去の自分が経験してきた味を言語で残しておくことによって比較が可能になる点を指摘する(ソムリエが狂ったレベルでワインについて豊富な語彙を貯め込んでいるのは、そういった比較のためらしい。)。「ある料理のおいしさが「筆舌に尽くしがたい」と言われるように、味の体験は言葉で完全に再現できるものではない。しかし、だからといって「おいしさを言葉にすべきではない」という主張が支持されるわけではない。というのも、言葉を使う目的は体験を完全に再現することではないからだ。私たちが体験を言葉にするのは他人に判断材料を与えるためであり、その目的を果たすには体験を完全に言葉にする必要はない。ある程度伝われば十分なのだ。感動した味を言葉で表現し、その言葉で他人を感動させる必要はないのである。」(p164)

 第6章「芸術としての料理」は、料理は芸術かどうかが問われる。著者は芸術はXという要素があり、料理もXという要素があるので、料理=芸術という三段論法をとるのではなく、そもそも「芸術」概念が「開かれている」ために常に揺らいでいる状況(デュシャンなどを引き合いにだすまでもなく)があることを確認した上で、むしろ「料理」が「芸術」でない理由として挙げられるものを批判的に検討し、料理が芸術でないことを説得的に示すことの難しさを提示するにとどめている。個人的には、そもそも料理を芸術だとかどうだとか言い募ること自体に意味がないと思っているので、同じように料理が芸術であると主張することにもさほど意味があるとは思えないような気がしているので、正直この章はあまりピンとこなかった。

 なお、手に取ったのが初版なので、既に重版で訂正されているとは思うが、2点指摘しておく。著者の瑕疵というよりも、本の製作過程でどうかなとは個人的に思いました。

 1点目は、52頁でルートビアが引き合いに出されている。その3行目に「ルートビア(写真)」とあるが、当該の写真がどこにも見当たらない。これは脱漏と思われる。

 2点目は、202頁で「財布ステーキ」の話が紹介されている(小沢真珠演じる妻が西村和彦演じる不倫夫へ、グレービーソースをかけた牛革財布を食卓に供するという狂ったエピソード。)。しかし、この話は本書記載の「フジテレビ系列の昼ドラ『真珠夫人』」ではなく、「フジテレビ系列の昼ドラ『牡丹と薔薇』」が正しい。『真珠夫人』でも同じような展開の話でコロッケに見せかけたたわしが供される(脚本家も一緒らしい)。実際これはよく取り違えられるのだが、よく取り違えられるからこそ、校閲や編集で気づくべきところだと思う。

 

 

【動画】

youtu.be

 こういう会社を一瞬だけいいなと思ったけど、俺みたいな社不はどう考えてもお呼びじゃなかったので動画だけで楽しみますです。俺はあらゆるコミュニティから追放されるオタク。さまよえるユダヤ人。それはそれとして、序盤のみくのしんの怒り方と「空笑いのメルセデス」で息ができなくなるぐらい笑っちゃった。今日本当の意味で「笑った」のはこれだけです。