死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240326

【労働】

 辛すぎワロタ。けどもう恥も外聞もかなぐり捨てて何もしなくなっている。

 

【雑感】

 労働の精神的辛さを対消滅させました。まずサウナに入って、池袋で限定出店している飛騨高山の落ち着くラーメンを食って、大学の先輩と焼き鳥食って、ジュンク堂で本買って、コメダでデザート食った。計2万ぐらいで何とか一日の正気を保つことができましたね。

 

【読書】

 島津忠夫訳注『新版 百人一首』(角川ソフィア文庫、1999年)を読了。

 このブログを多少なりとも読んでいる人ならわかるとおり、俺は西洋かぶれのクソイキリ人文ディレッタントなので、百人一首のような日本の昔の文化にはとんと縁がない。そもそも詩全般に大して興味がない人間だ。とはいえ、流石に中世ジャップランドでサバイブする人間として何も知らんままではよくないよなと思ったのと、あとたまたま古本屋で300円で売ってたので「まあこれから入門してみるか」と購入したので読んでみました。これで日本人力(ちから)を底上げしていきます。

 本書は、百人一首藤原定家が編纂したと考える立場の著者が、定家がどのような選歌意識・批評眼をもって「百人」を選んだか、またその百人それぞれが残した無数の歌からそれぞれ「一首」を割り振ったかという観点から百首それぞれに鑑賞や出典に関しての解説をものしている。なので、定家が晩年の好みを強く反映させて、当該歌人の代表作でもないものを選んだ、というような主張もあり、だいぶ偏ったアンソロジーなんだなという素朴な感想を持ってしまった。とはいえ、天智天皇から始まり後鳥羽院で締め、さらに女流歌人などを集中的に並べるなど、配列等にも技巧を凝らしていたようで、その点はアンソロジストとしての批評性を感じさせますね。また、最古の歌仙絵とともに百人の略歴も簡単に紹介されている。それぞれの歌に対して見開き2ページで解説が加えられており、歌の下の方に語義や文法解説が若干触れられている程度。恐らくですが、ビギナーズ・クラシック版の方が絶対に最初の一冊にはふさわしかったっぽいが、まあ古本ベースで物事を調べているとこういうことがたまにあるんすよね。

 巻末に、著者の解説が70頁ほどあるが、これは編纂者問題について著者なりの学説整理や主張を試みているもので、ほとんど学術論文に近く、この分野について素人の俺には「???」という感じだった。その中で、百人一首と百人秀歌(親戚のために編んだ障子に描く様の歌)との先後関係(百人一首には「秀歌」の方にはない後鳥羽院と順徳院の歌が収められていることから、承久の乱以後の定家の対幕府との微妙な関係が示唆されていてこの点はなるほどと思った)に関する著者の考えの変遷(当初著者は百人秀歌を親戚に頼まれて作る→やっぱ後鳥羽院とかも入れたいよねという気持ちになったので百人一首を編んだと考えていたのだが、研究の進展につれてむしろ百人秀歌と百人一首はほぼ同時並行で作られていたが、それぞれ基になったであろう何らかのオリジナルバージョンの存在を想定する。Q資料かよ)などはふーんと思いながら読んだ。あと、宝塚の女優名が百人一首からとられていることが多い(天津乙女有馬稲子、霧立のぼる、小夜福子)とか、昔は色々な歌集のかるた遊びがあったが元禄ごろから小倉百人一首で統一されてきたっぽいというtips的な指摘自体は勉強になりました。なお、ネットで調べていたら最近の研究では編纂者は定家ではなかったのではないか説もあるらしく、この点を詳らかにした岩波新書の本があるので気が向いた時に読む予定です。

 さて、百首についてですが、1日で読了してしまい、歌を楽しむ読み方とは到底言えないものの、ファーストインプレッションでいいねと思った歌はあわせて約40首ほどあります。全体的には、恋愛の歌が多くて、バキバキ陰キャ童貞彼女いない歴=年齢ミソジニーおじさんの俺としては「キッショ」と羂索みたいな感想しか持てないのもあったのですが、絵画のような風景を歌い上げたものとか、寂莫や孤独、老いについて歌ったものには非常に感銘を受けました。あと恋愛ものでも、普通に感情が強すぎてワロてしまったものについてはよかったと思います。ただ、一夜を過ごした後の朝になって別れる「後朝(きぬぎぬ)」系はよくないですね。風俗嬢の手書きメモでニチャァする人間と同じ精神性を感じるので。

 俺のベストは83番「世中(よのなか)よ みちこそなけれ おもひ入(い)る やまのおくにも 鹿ぞなくなる」(皇太后宮大夫俊成(藤原俊成))です。現代語訳は「世の中というものはまあ、のがれる道はないのだなあ。深く思いこんで、分け入って来たこの山の奥でも、やはり憂きことがある見えて、もの悲しく鹿が鳴いているようだ。」(p178)。「この俗世をのがれて、山の奥へのがれる遁世の身に、なお鹿の鳴く音がもの悲しく聞こえて、とてもこの世では、憂さからのがれることもできないと深く述懐する心を、「世中よみちこそなけれ」とまず二句切に言い切り、第三句以下鹿に実感をよせて余情深くよんでいるところ、王朝末の深いさびしさを巧みによみ得ている」(同)との鑑賞評に深く同感する。もちろん、鹿が「悲しいわ~」と鳴くわけではないが、その鳴き声に悲しさを読み取る人の心の持ちようであるとか、悲しみから逃れることの難しさとかいろいろなものが込められた短歌で、今の鬱ぎみの心にはとっても染み渡るものでした。この歌だけでも暗誦できるようにして、悲しみに浸った時に思い出せるようにしたいなと思いました。

 その他の歌について、ブログに転写します。現代ではコピペできるから楽だねえ。ですので、歌それ自体は本書からの直接の引用ではないことをご容赦ください。島津による現代語訳を括弧書きで並置し、歌によってはその後ろの※以下でちょこっとメモも書きます。メモは当方の最悪な感想ばかりですがお目こぼしください。

 

3、あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む    柿本人麻呂

山鳥の尾の垂れさがった、あの長い長いその尾よりも、いっそう長いこの秋の夜を、恋しい人とも離れて、たったひとりでさびしく寝ることであろうかなあ。)

 

5、 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 猿丸太夫

(奥山に、一面に散り咲いた紅葉をふみ分けてふみ分けてきて、妻をしたって鳴く鹿の声を聞く時こそ、秋は悲しいという重いが、ひとしお身にしみて感じられることよ。)

 

6、かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける    中納言(大伴)家持

(冬の夜空にこうこうと輝く天の川の、鵲が翼をつらねて渡したという橋に、あたかも霜が置いたように白く見えているのを見ると、天井の夜もすっかり更けたことだなあ。※七夕伝説ってこんな鳥出てくるんだっけ!?と思ってたら出てきました。俺天の川それ自体が固まって渡れるみたいなイメージ持ってたわ。)

 

7、天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも 安倍仲麻呂

(大空はるかに見渡すと、今しも東の空に美しい月うが出ているが、ああ、この月は、かつて眺めた故郷奈良春日の三笠の山に出た、あの月なのかな)

 

9、花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに    小野小町

(美しい桜の色は、もう空しく色あせてしまったことであるよ。春の長雨が降っていた間に。そして、私も男女の仲にかかずらわっていたずらに物思いをしていた間に。

※これはいわゆる小野小町零落伝説とも関係がある解釈なんですかね。)

 

11、わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣舟    参議(小野)篁

((遠い隠岐の配所へおもむくために)広々とした海原はるかの多くの島々に心を寄せて、いま舟を漕ぎ出したとせめて京にいるあの人だけには告げておくれ。漁夫の釣舟よ。)

 

17、ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは    在原業平朝臣

((人の世にあってはもちろんのこと、)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。

※この歌には解釈が二通りあるらしく、上の島津訳のとおりと、賀茂真淵以来の真っ赤に水面がくくり染め上げられているというものがある。『古今集』のとおりに従って読むと後者が正しいようだが、島津は定家はこう解したのだということで、上のように訳している。なお、俺はちはやふるというのは漫画とかアニメのタイトルである以上の意味を知らずに、神様とか向けの枕詞だと知って「へえ!」ってなった。非国民か? 古文の授業全部忘れたので……)

 

20、わびぬれば今はた同じなにはなるみをつくしてもあはむとぞ思ふ    元良親王

(噂が立ってわびしい嘆きに悩んでいるのですから同じことです。どうせ立ってしまったなですもの、難波の「みをつくし」という言葉のように身をほろぼしてもお会いしたいと思います。

※澪標=身を尽くし、というの面白いっすよね。)

 

23、月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど    大江千里

(秋の月を見ていると、いろいろととめどなく物ごとが悲しく感じられることだ。秋が来るのは世間一般に来るのであって、なにも格別自分ひとりのための秋ではないのだが。)

 

26、小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ    貞信公(藤原忠平)

(小倉山の峰のもみじ葉よ、もしお前に心があるならば、もう一度、今度は主上行幸があるはずだから、その折までどうか散らないで、待っていてほしいものだ。)

 

28、山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば    源宗干朝臣

(山里は都とちがって、冬が格別にさびしさが増さって感じられることだ。人の尋ねて来ることもなくなり、草も枯れてしまうと思うので。

※「離(か)れ」と「枯れ」がかかっているらしい。おしゃれ!)

 

33、ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ    紀友則

(このように火の光がのどかにさしている春の日に、桜の花はおちついた心もなくはらはらと散ることよ。どうしてこうもあわただしく散るのかしら。

※「この歌は慌ただしく散る花が、のどかな春の心持を乱すのを咎めたものではあるが、さうしたぎこちない難詰の心は、ゆるやかに流れてゆく『しらべ』の波にかくされてしまって、風なきに舞ふがごとくもかつ散る花をながめながら、霞の中をただよふ陽光に包まれて、爛熟した春を味わひつつある歌人の心持がさながらに浮かび出てゐる。」(p78)という吉沢義則の鑑賞になるほどと思った。)

 

34、たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに    藤原興風

(私はだれを昔からの知りあいとしようかなあ。高砂の松のほかには、私と同じように年をとったものはないが、それも昔からの友ではないから、話し相手にならないし。

※「昔の友人がみな死んでしまって、孤独を痛切に身に感じている老人の嘆きの声」を詠んだとか。エモ……)

 

38、忘らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな    右近

(忘れられてしまう私の身のことは、何とも思いません。ただあれほど神前にお誓いになったあなたのお命が、いかがかと惜しまれてならないのです。

※怖すぎワロタ。永遠の愛を誓っても普通に離婚しまくっとるわが国ェ……。)

 

39、浅茅生の小野のしの原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき    参議(源)等

(浅茅の生えている小野の篠原――その「しの」ではないが――これまでは忍びに忍んできたけれど、今はとても忍びきれないで、どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょう。)

 

42、ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは    清原元輔

(かたく約束したことでしたね。お互いにいく度も袖をしぼりながら、あの末の松山を浪の越すことがないように、ふたりの間も決して末長く変わるまいとね。それなのにあなたは……。

※これが平安のStardustですか。怖いねえ……)

 

43、あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり    中納言(藤原)敦忠

(逢って見て後の、この恋しく切ない心にくらべると、以前のもの思いなどは、まったく無きにも等しい、なんでもないものでしたよ。

※恋してから知能が発達するタイプの白痴か???)

 

46、ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ恋の道かな    曾禰好忠

((潮流のはやい)由良の海峡をこぎ渡ってゆく舟人が、かいがなくなって、ゆくえも知らず途方にくれているように、思う人、たよりにする人を失ってどうしてよいかわからないことよ)

 

47、八重むぐら茂れるやどの寂しきに人こそ見えね秋は来にけり    恵慶法師

(葎のぼうぼうと茂っているこの寂しい宿に、人は誰ひとりとして訪ねては来ないが、秋だけはやっぱりやってきたことだなあ。

※みんな秋になると物思いしすぎでは???ハロウィン馬鹿騒ぎ現代人は平安人の爪の垢を煎じて飲むべき)

 

48、風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな    源重之

(あまりに風がひどいので、岩にうちあたる波が、岩は微動だにせず波だけが砕けるように、あの女は平気でいるのに、私だけが心もくだけるばかり思い悩んでいるこのごろであることよ

※これは情景描写◎)

 

49、 み垣もり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣

(みかきもりである衛士のたく火が夜は燃えて昼は消えているように、恋に悩む私も、夜は燃え昼は消え入るばかりの毎日で、もの思いに沈んでいるのです。

※「衛士のたく暗闇の中にもえる火と、心にもえる恋心との比喩は、誰しも連想を呼ぶことであったらしい。」(p110)はえー、現代の不夜城では想像もできませんね。)

 

52、明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな    藤原道信朝臣

(夜が明けると、やがて日が暮れ、日が暮れると、またあなたに逢うことができるとは知りながらも、やっぱり恨めしいものだなあ、別れて帰る明け方は。

※典型的後朝の歌。毎日セックス三昧かよ性の喜びを知りやがって!)

 

53、歎きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る    右大将道綱母

(嘆きながらひとり寝する夜の明けるまでの間が、どんなに長いものであるか、あなたはご存じでしょうか。門をあけるのがおそいので立ちわずらったとおっしゃいますけれど。

※「町の小路の女に通いはじめた兼家に激昂した作者が、二、三日して訪れ門をたたく兼家に対して、迎え入れることを拒んだ翌朝、ことさらに『うつろひたる菊』にさして、贈った」(p118)とのこと。上の後朝の歌と比べるとよっぽど小気味よく面白いですね。流石蜻蛉日記の作者。)

 

54、忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな    儀同三司母

(あなたが私のことはいつまでも忘れないといわれるその遠い将来のことまでは頼みにしがたいことですから、私は、そうおっしゃる今日が最後の命であってほしいものです。

※命を粗末にするなよ!!!!みんな恋愛するとそんな不安になるんか???)

 

61、いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな    伊勢大輔

(昔の奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、さらにいちだんと美しく咲き匂い、光栄にかがやいていることでございます。

※これ即興らしい。「八重」と「九重」をかけるのすごすぎる。)

 

62、夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ    清少納言

(まだ夜の明けないうちに、にせの鶏の鳴き真似をして、函谷関の番人をだましたとしても、逢坂の関はそうは参りますまい。うまいことをおっしゃっても、私は決して逢いませんよ。

※『史記孟嘗君伝中の出来事を引用して詠ったもの。逢坂の関は当然男女の出会いのメタファー。流石の機知。)

 

65、恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ    相模

(あの人のあまりにつれないのを恨み、気力もなくなって、涙にかわくひまもない袖さえ口惜しいのに、その上この恋のために朽ちてしまう私の浮き名が惜しまれることよ)

 

70、寂しさにやどを立ちいでてながむればいづくも同じ秋の夕暮    良暹法師

(あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出で、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるようなものはない。なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。

※新古今的寂寥と島津も評するように、何とも得も言われぬ感じがある。)

 

71、夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹く    大納言(源)経信

(夕方になると、門前の田の稲の葉をそよそよと音をさせて、蘆ぶきのこの田舎家に、秋風がさびしく吹きおとずれてくる。)

 

72、音に聞くたかしの浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ    祐子内親王紀伊

(評判に高い高師浜のいたずらに立つ波には掛かりますまい。袖が濡れましょうから。浮気で名高いあなたのお言葉は心に掛けますまい、きっと涙で袖を濡らすことになりましょうから。

※これメチャクチャうまいなと思いました。)

 

77、瀬を旱み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ    崇徳院

(川瀬の流れがはやいので、岩にせきとめられる急流が両方に分かれても、いずれ一つに落ちあうように、今は人にせかれて逢うことができなくても、ゆくゆくぜひとも逢おうと思う。)

 

85、夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり    俊恵法師

(夜どおし、つれない恋人のことを思って物思いをしているこのごろは、早く白んでくれればよいがと思うが、なかなか白んでくれない、その寝室の隙間までが、つれなく思われることよ。

※これだけ確かに何度も聞いたことあるなと思ったのですが、東方同人ボーカルサークル凋叶棕の「御阿礼幻想艶戯譚 -綴-」のサビですわ。稗田阿求のひとり夜遊びを歌うというメチャクチャエッチな曲なのですが……)

 

87、むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮    寂蓮法師

村雨がひとしきり降り過ぎて、まだその露も乾かない真木の葉のあたりに、もはや夕霧が立ち上っている。ああ秋の夕暮れとなったことよ。

※こういう情景に出会いたい、こういう情景に出会いたくない?)

 

88、なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき    皇嘉門院別当

(難波江の蘆の刈り根の一節、そんな短い旅の一夜の仮寝のために、すっかりこの身を捧げて、ひたすらに恋い続けるというのでしょうか。

※「旅宿逢恋」というテーマらしい。)

 

89、玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする    式子内親王

(私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生き永らえていると、忍ぶこともできなくなり、心が外に現れるかもしれないのだから。)

 

93、世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも    鎌倉右大臣(源実朝)

(世の中は常に変わらぬものであってほしいものだなあ。この渚を漕いでゆく漁夫の小舟の、その綱手を引くさまの、おもしろくも、またうらがなしくも感深く心が動かされることよ。

※実朝の生涯を思うと、これは無常という感じがありますね。)

 

96、花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり    入道前太政大臣(西園寺公経)

(落花を誘って散らす、嵐が吹きおろす庭の雪、その落花の雪ではなく、じつは自分の身の上のこと。ああこんなに年老いてしまったのなあ。

※「落花をみての即詠だが、落花そのものをよむのではなく、眼前の「降りゆく」落花の光景から、「古りゆく」身へと掛詞を軸と想を展開させて、老いのなげきを述懐した歌。「比類ない栄華を一身に集め、春昼春夜、連々たる豪華な遊宴の中で、ふと感ずる老いの到来。圧縮された『花さそふ嵐の庭の雪』という表現からは、絢爛たる花吹雪がイメージとして浮ぶ。一転してそれを否定し、老いを歎ずる白髪の老人がある。その悲しみ」(井上宗雄氏)の鑑賞に言いつくされている」(p204)。すごい!)

 

 

20240325

 多分だけど鬱だッピ!!!!!!!!!!! 殺してくれ!!!!!!!

 もはや酒浸りしか解決策がないので、とにかく辛くなくなるまでは酒を注入していきます。大丈夫、為替介入と一緒で準備はきちんとできている。俺の中の神田財務官が預金残高を見つつ「スタンバイしている」って言っているので、こっからは無軌道に酒を飲み続けていくぞ。今日は早速普段飲まないスプリングバレーを飲みながら家帰っちゃった。

 というわけで、ブログは若干不定期更新になることをお許しください。とはいえ、本を一冊読み終えたらそれをまとめるために更新するという感じなので、まあ多くて週2回ぐらいではないかなと思います。難しい本とかなら分割して紹介するかも。

 ちなみに、俺はせっせと本のまとめを書き溜めていますが、今までほとんど読み返していません。もしかして俺のやっていることは壮大な徒労に過ぎないのではないかという気付きが生じてきたのですが、少なくとも1年はそれを無視してやり抜く所存です。鬱が酷くなったらすいませんやめます。

 

【労働&雑感】

 厳しいわ。マジで出勤すると吐きそうになる。この歳できちんと登校拒否みたいな症状が出てくるの、育ちが遅れすぎてワロけてくるよ。

 こんな状況なので仕事を辞めざるを得ないと思います。まあこの仕事そこまで嫌いじゃなかったですけどね、この1年間で受けた仕打ちで全て帳消しですね。ありがとう!!!!さようなら!!!!ファック!!!!!

 ただ、マジで俺が社会に向いていないということがようくわかった。前職は破滅的なアホばっかりだったけど、今の職場は良識ある人間が多い。つまり、破滅的なアホも良識ある人間もどっちも俺には耐え難いということ。だからもうダメなんですわ。最悪生活保護があるのであんまり心配はしていないが、とはいえ俺以上にもっと公的扶助を必要としている人間がたくさんいると思うので、とことん人間が嫌になるまで自分の精神を追い込み続けるしかない。次仕事するにしても3年持たない気がするし、とにかく自分で飯が食えるように本格的に何かしないとヤバい気がする。ホントのこと言ったら今の職場やめた後5年は何もしたくないっすよ。

 

【ニュース】

二階氏「政界引退は地元が決める」 会見で「ばかやろう」発言も [自民]:朝日新聞デジタル

 俺は二階が嫌いなのだが、この「ばかやろう」だけは見習っていきたい。仕事辞める時はそう言おうと思う。

 

【読書】

 源河享『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』(中公新書、2022)を読了しました。

 非常にクリアでかつヴィヴィッドな論旨で読みやすく、近年の分析美学のエッセンスを理解するにはもってこいの著作ではないかと思う。中公には優れた美学の本が多いが、本書もまたそのラインナップに加わるものだと思います。この人の他の本もいろいろあるので読んでみようかなと思いました。

 本書は人が食べる時に「おいしい」「まずい」と感じること、それを言語化すること(時にはおいしい、まずい以上の分厚い言葉や比喩を使う必要がある)に関して、美学的な観点から考察を深めていく。といっても、かなり卑近な例を用いて明快に述べられていることから、非常にリーダブルだと思う。著者は「食の好みは人それぞれ」という相対主義(この言葉は著者は用いていない)や、「この目の前の一品にまつわる背景事情なんかどうでもよくてこいつの味を楽しまなきゃ!」といった純粋主義で立ち止まるのではなく、食の好みが主観主義的でありながらも客観主義的な部分も含んでいることや、単純に人は皿に盛られた料理を食べるまでに既に様々な知識・判断が介在しているため純粋な「純粋主義」は貫徹不可能であることなどを、明晰な論理展開で明らかにしていく。そうした中で、「この食べ物はおいしい/まずい」で終わる以上に、われわれの普段の食事という経験を豊かにできる可能性を示していると言っていいだろう。また、味覚に関する興味深い科学的知見もふんだんに盛り込まれており、単純にそうした点を知る読み物としても面白いと思う。

 以下、章ごとに紹介していく。

 第1章「五感で味わう」では、まず美学が扱う対象としての飲食の特徴が論じられる。従来の美学においては絵画や音楽といった「視覚・聴覚」に基づく高級なものが対象とされてきた。しかし、著者が指摘するとおり、そもそも「視覚・聴覚」と味覚を含むそれ以外の感覚の高級・低級を論じることは全く根拠がない。他方、それでは味覚だけが独立して美学における考察の対象になるかというとそういうことでもない。著者が科学的知見を踏まえて指摘しているのは、結局我々が普段ものを食べて感じている「味」には多くの感覚がマルチモーダルに関わっている。嗅覚は料理の「立ち香り」と「口中香」が基本味(甘い、しょっぱいなど)をさらに細分化していくことに寄与するし、触覚は歯触りや食材の温度などが味の判断に強い影響を及ぼしている。さらに、近年の実験から、音と見た目も味に影響を及ぼしていることが紹介される(例としては、ポテチの食感の音を変えてサクサクしないと不味く感じるというソニックチップ実験や、白ワインに赤い着色料を入れると醸造学科の生徒でさえ赤ワインに帰されるべき表現をする実験など)。結局著者が述べるように、「純粋な味」というのは基本的には日常生活では感じられず、また料理においては見た目などもそれなりに重要だというのが示される。

 第2章「食の評価と主観性」と第3章「相対的な客観性」は、本書の中でも重要な部分だと思う。ある人がおいしいと感じるものを、別の人はまずいと感じる。こんなもん、パクチーを引き合いに出さなくても多くの人が知っていることではないか。この事実から人は容易に「趣味については議論できないde gustibus non est disputandum」という帰結を引き出しがちだが、著者はこの状況についてより深く考察するよう促す。

 まず、ある料理に対する言明の分析として、著者は以下のように整理する。「おいしい」と「まずい」というのは、当該料理に対する評価であり、「甘い」とか「辛い」は当該料理の性質を記述している。「おいしい」と「まずい」は、「甘い」や「辛い」のように当該料理の性質として帰属しうるかというとそんなことはない。アメリカではルートビアが好んで飲まれているが、他の文化圏の人は美味しいとは思えない。つまり、ルートビアは「おいしい」という性質を持っているわけではなく、「おいしい」や「まずい」という評価はあくまで当該料理を評価する人の態度表明(おいしい=好き、まずい=嫌い)に過ぎないのではないかというのが、著者が整理する「主観主義」的な立場である。この立場は、上に挙げたようなルートビア等を巡る文化的相対性からも補強しうる。ここまでは、正直哲学的な分析を試みずとも直観的にはそうだと言いうるような気がする。

 しかし、本当に「おいしい」と「まずい」は単に好みの問題でしかないのだろうか。「客観主義」的な立場の擁護の仕方として、著者は「傾向性」という概念を持ち出す。毒キノコを食べるとその毒性で人は死ぬ。この「毒性」は「人が食べる」ことによって発揮される。つまり「もしX(人が食べる)という条件が満たされたらY(死)という出来事が起こる」と特徴づけられるのが「傾向性」である。これは言い換えると、ルートビアをおいしいと思う人たちが飲めば「おいしい」と思えるという傾向性を有していると考えると、ルートビアそれ自体に「おいしい」という性質はないにしても、ルートビアには不特定多数の特定文化の誰かに「おいしい」と感じさせる傾向性があり、そしてそれは文化の外にいる人たちにもわかるようなものであると考えられる。ルートビアの例で著者は以下のとおり説明する。

 「たとえば、最初はルートビアがまずいと思っていた人が、何かのきっかけでおいしいと思い、そこからいろんなルートビアを飲むようになったとしよう。最初のうちは、ルートビアであればどれもおいしいと思っていたかもしれない。だが、いろいろ飲み続けているうちに、このメーカーのルートビアはおいしいが別のメーカーのものはまずい、と区別するようになってくる。このときになると、最初の方に下していた「どのルートビアもおいしい」という評価は間違っていた、あのときはあのメーカーのルートビアもおいしいと思っていたがそれは間違いだった、と思うようになるだろう。以前に下していた評価が間違いだとわかるのである。

 文化相対的な客観主義では次のように説明される。最初はルートビアを飲む文化・習慣に慣れ親しんでいなかったので、対象がもつ「ルートビアを飲む文化の人に『おいしい』という評価を生み出す傾向性」がわからなかった。そのため、その傾向性をもつルートビアも、もたないルートビアも、違いがわからず、最初は誤った評価を下していた。しかし、ルートビアを飲み続けることでその傾向性を発見するセンスが磨かれ、正しい評価を下せるようになった。このように考えれば、文化を超えた普遍的な評価の正誤はないと認めても、文化内での評価の正誤はあると言うことができるのだ。」(pp85-6)

 また、著者は客観主義を擁護しうる戦略として、バーナード・ウィリアムズを援用して評価用語の「薄さ」と「分厚さ」に着目すべきだと述べる。といっても難しい話ではなく、「おいしい」「まずい」という薄い言葉はレンジが広いが、「こってり」「くどい」という分厚い言葉(評価と記述があわさったような言葉)が向けられる対象は絞られる、と理解すればいい。豚骨ラーメンもレモネードも「おいしい」と思えるが、レモネードに「こってり」という言葉を使うと「???」となるだろう。「こってり」というのは脂肪分の強く癖になるうまみという感じがあるためだ。逆に、それが好きでない場合は豚骨ラーメンを「くどい」と言うだろう。つまり、豚骨ラーメンの持つ脂っぽい性質が「こってり」や「くどい」という言葉を要求しているのであり、それ以外の言葉は場違いになる。適した言葉かそうでないかという判断が生じる以上は、何らかの基準は存在しうるのではないか、という指摘である。このような形で、著者は主観主義と客観主義はそれぞれ腑分けすれば両立するのではないかという指摘をしている。

 第4章「知識と楽しみ」では、料理を食べる時に「このトリュフはこれこれこうで~」とか「このワインは~」みたいなイキった知識のひけらかしより「味を楽しもうぜ!!!!ドン!!!!」みたいな主張(純粋主義)は、端的に誤りであることが論じられる。つまり、結局のところ食って味を感じる過程の中で、これまで食してきたものとの差異の判断(あの時食ったものよりこの料理はこうだなみたいな)、目の前のラーメンを「ラーメン」として認識しうる過程に既に体系化された知識(目の前にあるどんぶりの料理はラーメンで、スパゲッティやうどんとは違うことなど)が前提されている。「このラーメンはおいしい」という言明は純粋主義的には不可能である。何だか目の前にあるようわからんもんを口に運んでみたら「うまっ!」と思うのが純粋主義の飯の食い方だが、そんなことは(日常においては)恐らくできないだろう。著者は、知識がなくとも料理は楽しめるが、知識を得た状態のポジティブな側面を強調する。「知識が少ない段階では、対象の価値はそこまで楽しめない。自分の目の前にあるラーメンや絵画が他と比べてどうすごいのかまでは理解できず、違いを楽しむことはできない。それでも、その対象と関わった自分の経験を楽しむことができる。他と比べてどうかはわからないが、とにかく目の前のものはおいしい、心地よい、と感じることができるのだ。そして、そこで得られたポジティヴな経験をより増やすために、似たようなものを何度も経験し、そのうち知識が増えていく。知識が増えると、以前は気づけなかった対象の価値に気づけるようになり、それが楽しみを増やすことになるのだ。」(p129)

 余談だが、著者の以下の記述は面白かった。

 「純粋主義を支持したい気持ちになるのは、この手の不快な経験(引用者注:料理に関する知識自慢)があるためかもしれない。そうした人に対して「頭でっかちでうるさい。大事なのは自分がどう感じるかで、知識なんか関係ない」とつい思ってしまう。正確には、こうした場合で嫌悪されるべきなのは知識ではなく知識を自慢してくる人なのだが、坊主が憎ければ袈裟まで憎く、知識も嫌悪の対象となってしまうのだ(こうした知識自慢は食に限ったものではなく本当にいろいろなところにいるし、芸術に関してはとくに多いように思われる)。」(p123)

 第5章「おいしさの言語化」は、「これおいしいね!」以上の言葉をどうにかこうにか見繕ってそのおいしさをより精緻に言語化していく営みがフォーカスされる。俺も普段人と飯を食う時に「うめえ」以外の言葉を発したことがないので、これは勉強になった(何か料理についてこれはこうですねと言うと借りてきた言葉っぽくなるので。かまど、俺も舌壊人や。)。著者は、おいしさの言語化によって他人に体験を共有することができるし、さらに過去の自分が経験してきた味を言語で残しておくことによって比較が可能になる点を指摘する(ソムリエが狂ったレベルでワインについて豊富な語彙を貯め込んでいるのは、そういった比較のためらしい。)。「ある料理のおいしさが「筆舌に尽くしがたい」と言われるように、味の体験は言葉で完全に再現できるものではない。しかし、だからといって「おいしさを言葉にすべきではない」という主張が支持されるわけではない。というのも、言葉を使う目的は体験を完全に再現することではないからだ。私たちが体験を言葉にするのは他人に判断材料を与えるためであり、その目的を果たすには体験を完全に言葉にする必要はない。ある程度伝われば十分なのだ。感動した味を言葉で表現し、その言葉で他人を感動させる必要はないのである。」(p164)

 第6章「芸術としての料理」は、料理は芸術かどうかが問われる。著者は芸術はXという要素があり、料理もXという要素があるので、料理=芸術という三段論法をとるのではなく、そもそも「芸術」概念が「開かれている」ために常に揺らいでいる状況(デュシャンなどを引き合いにだすまでもなく)があることを確認した上で、むしろ「料理」が「芸術」でない理由として挙げられるものを批判的に検討し、料理が芸術でないことを説得的に示すことの難しさを提示するにとどめている。個人的には、そもそも料理を芸術だとかどうだとか言い募ること自体に意味がないと思っているので、同じように料理が芸術であると主張することにもさほど意味があるとは思えないような気がしているので、正直この章はあまりピンとこなかった。

 なお、手に取ったのが初版なので、既に重版で訂正されているとは思うが、2点指摘しておく。著者の瑕疵というよりも、本の製作過程でどうかなとは個人的に思いました。

 1点目は、52頁でルートビアが引き合いに出されている。その3行目に「ルートビア(写真)」とあるが、当該の写真がどこにも見当たらない。これは脱漏と思われる。

 2点目は、202頁で「財布ステーキ」の話が紹介されている(小沢真珠演じる妻が西村和彦演じる不倫夫へ、グレービーソースをかけた牛革財布を食卓に供するという狂ったエピソード。)。しかし、この話は本書記載の「フジテレビ系列の昼ドラ『真珠夫人』」ではなく、「フジテレビ系列の昼ドラ『牡丹と薔薇』」が正しい。『真珠夫人』でも同じような展開の話でコロッケに見せかけたたわしが供される(脚本家も一緒らしい)。実際これはよく取り違えられるのだが、よく取り違えられるからこそ、校閲や編集で気づくべきところだと思う。

 

 

【動画】

youtu.be

 こういう会社を一瞬だけいいなと思ったけど、俺みたいな社不はどう考えてもお呼びじゃなかったので動画だけで楽しみますです。俺はあらゆるコミュニティから追放されるオタク。さまよえるユダヤ人。それはそれとして、序盤のみくのしんの怒り方と「空笑いのメルセデス」で息ができなくなるぐらい笑っちゃった。今日本当の意味で「笑った」のはこれだけです。

 

 

20240322(0319−21はメンタル不調のためなし)

【雑感】

 メンタルがね、ダメになったので、お休みをとっておりました。悲しいことです。20日と21日はひたすらYoutubeを見ておりましたのよ。

 それでも今日は頑張って仕事に行ってまいりました。普通に気持ち悪くなったのですが何とか定時まで耐えきったね。

 

【労働】

 虚無すぎる。何もかも終わりにならないかしらん。

 

【ニュース】

 今日は他人のブログをひとつ紹介します。が、リンクフリーなのかがよく分からないので、言及だけします。文化人類学者の磯野真穂氏のブログの「在野研究者として生きるということ――お金についての真面目な話」という記事です。

 内容としてはざっくり言ってしまうと、磯野氏の自身の経験から、人文系の研究というのはメチャクチャ安く買いたたかれている現状にあり、そういったものを安請け合いしていくと後に待っているのは破滅という悲しい話だった。その上で、非常勤講師を依頼する常勤の研究者や出版社等業界の人間たちというのは、人にものを頼む時はもうちょっと考えたらどうかねという問題提起がなされていた。主張としては納得できるが、あずまんがXで「そもそも人文系の知識は金にならねえから」という身もふたもないことを言っていて、それにも納得してしまった。結局のところ、この人文系の知識を金にしていくための活動が大事、というのは動かしがたいように思う。個人的には、俺ぐらいのレベルの「人文学下手の横好き」がたくさん増えたらいいと思う。実際、インターネットには普通に読書家がたくさんいるし、アマチュアながらそれなりの知見を有している人たちもそれなりにいるが、インターネットを世界のミニチュアと考える奴は救いがたいアホなので、どうにかして人文系の裾野をもっともっと広げなければいけないのだろう。そうしたツールとしての新書はまだまだ希望があるように思うのだが、恐らく今後「ゆっくり解説」に全部奪われるような気がします。

 また、別の論点になってしまうが、教授や准教授は安パイかもしれないが、編集者は果たしてどうだろうかという気持ちにもなった。多分非常勤講師の年収200万とかそういうレベルほどでないにしても、人文系の編集者だって大卒の平均に達するような年収を得ている人はあんまりいない気がする。例えば、マイナビ2025でみすず書房が新卒採用をやっている。それを見ると、新卒の基本給は20万(にちょっとした諸手当)。みすずは年収推移のモデルも公表しており、子どもがいる40歳ぐらいの編集者でも600万円に達するかどうかというところである。都内で600万程度の年収であれば、パートナーも結構頑張らないと、みすずに受かるようなレベルの子を育てられるかかなり疑問だ。そして悲しいかな、恐らくみすずは人文系では「上の中」ぐらいなのである(同系統の会社でいえば、中公・筑摩・岩波がもう少し上という気がする。)。これよりもっと年収の少ない会社はたくさんあるだろう。もちろん、正社員として一応社保完備だとは思うので、その点では非常勤講師なんかより幾分かマシとは言えるが、自分ところの社員への給料さえ覚束ないところが原稿料をどれだけ出せるかという話ですよね……。

 俺も人を助けられるほどの給料はもらっていないのだが、それでも人文系学問にずっとお世話になっているマンとしては、何とか微力ながらできることがないだろうかとは思っている。柄にもないことだが、久しぶりに何かしてあげたいという気持ちになった。多分メンタルが弱っているからかもしれない。

 

【読書】

 トマス・アクィナス稲垣良典・山本芳久編訳)『精選 神学大全 2 〔法論〕』(岩波文庫、2024)を読了しました。

 中世哲学下手の横好きっ子だった昔はこういうのを読んで面白いなって思えたかもしれないが、今読んでみると普通に苦痛の方が勝ちましたね。とはいえ、部分部分では面白い箇所もそれなりにあったし、あと多分俺の中での中世哲学ゲージが全然貯まりきっていない時に読んだせいか大事なことを読み落としている気がすごいします。とはいえ、いわゆるスコラの存在論や論理学ではないので、すいすいと読み進められたと思う。前巻の徳論は意味不明すぎて「クソが!」と言って読了後文庫を壁に向かってぶん投げましたが。何で習慣は大事やねで済む話をあんなにクソ難しくできるのか理解できなかったわ。

 本巻で、人間の善なる行為の「外的諸根源principia exteriora」である神が、いかようにして人間を善へと向かわしめるのか、というと、「われわれを法でもって教導し、恩寵でもって助ける」ということが述べられます。というわけで、「法」と「恩寵」が取り扱われます。といっても恩寵の部分はほぼさわりで、大部分が法論として展開されます。流れは次のとおり。まず法の本質、種類、効果など法全般についての考察(第90問題ー92問題)、それに続いて永遠法(第93問題)、自然法(第94問題)、人定法(第95問題ー97問題)、神法のうちの旧法(第98問題ー105問題)、神法のうちの新法(第106問題ー108問題)、そして恩寵論(第109問題)へと至るというもの。なお、本書では旧法における祭儀的規定や司法的規定を扱った第102問題ー104問題は割愛されている。

 ここに出てくるたくさんの法類型については、トマスはそれなりにクリアな整理をしている。この宇宙全般を神的摂理によって統治されているということで、その統治の理念が永遠法と呼ばれる。そういう意味では、法というよりはある種の原理に近いのかなと。この永遠法を理性的被造物としての人間がその自然本性に刻印される形で分有すること、これが自然法である。自然法の定める範疇で、より特殊な法制定が必要な場合に人定法が求められる。最後に、自然法や人定法が基本的には人々の交わりについて定めるほかに、神との交わりの関係を定めたのが神法である。神法は神がモーセに与えた十戒や律法を含む旧法と、キリストの来臨によって新たに制定された新法とに区別され、前者より後者の方が完全性が高い(とはいえ、聖書に数多く見られる律法批判にもかかわらず、旧法を簡単に揚棄せずに総合的に理解しようとするのがトマスである。)。そして人間が至福へ到達するためには、法を理解し実践するのみでは足りず、自由意思を前提としながら神によって与えられる「恩寵」によらなければならないという主張がなされる。

 多分大体言いたいことは上のような話なのですが、これらをきちんと言い通すために、トマスは矛盾する聖書の諸記述や諸権威をこの神学大全というフォーマットで調停しようと試みる。まず検討されるべき論題が提出される(⚪︎⚪︎は××か?)。それに対して、トマスが与える結論とは異なる見解が聖書や教父等権威筋から複数個提出される(「異論」)。異論に対しては、別の聖書の記述や権威筋からの「反対異論」が提出される。その後、トマスが自分なりの考え方のアウトラインを示し(「主文」)、その後に各異論に対して応答を試みる(「異論解答」)。この異論解答では異論に対して全否定するというよりかは、どちらかというと「まあその見方も一理あるよね、この観点なら」みたいな割と折衷的なところに落ち着いているのは印象的である。稲垣の訳註によると、「異論、反対異論においては聖書本文および教父的伝統にもとづいて問題の所在を提示しつつ、主文においてはアリストテレスの哲学的原理を援用して解答のための枠組みを構築している」(pp540-1、訳註(555))とのこと。当時トマスがどのような論敵と対峙していたかなども含めて読んでみると面白いのかなとは思うのですが、結論自体はまあそれなりに穏当な気がしますね。また、こうして設定された論題に答えていく中で、各法類型の輪郭が明らかになっていく感じです(というのも、各類型で領域が競合し合っているので)。ただ、普通に「永遠法はこうで、自然法はこうなんよ」みたいな話を言うために、その前提となっている矛盾する諸記述を整合的に解釈しようとしすぎて、「この概念には二通りの扱い方がある」とかその手のムカつく後退戦ばっかり読まされて嫌になると思います。トマスは火かき棒で殴られたらええ。訳は読みやすいが、旧法部分までの訳注はほとんど役に立たなかった。というのも、他の問題への参照を促す注ばかりで、神学大全全巻持っていない人間には完全に「詰み」だったからである。ところが、新法以降の訳注はメチャクチャ勉強になる指摘が多く、これ本当に同じ人間が作ったのか?と疑問に思ってしまいました。

 この本は問題別にまとめたら綺麗かなと思いつつ、そんな集中力はないので、適宜俺が気になった論点や記述を抜書きして紹介しておきたいと思います。最近歴史の新書とかノンフィクションばっかり読んでいるのでこの手の抽象的な論述を読む力が衰えていた気がしますわね。ボリューミーなので本当は細分化してレジュメ的にまとめてしまった方が面白いと思うのだけども、そんな気力はねえ。

 第90問題第4項主文でトマスは法を次のように定義する。「共同体の配慮を司る者によって制定され、公布せられたところの、理性による共通善への何らかの秩序づけ」(p46)。これがトマスの法理解のミニマムで、ここから派生して様々な議論がなされていくという印象です。この「共通善」への秩序付けというのが、特に重要な感じですね。ちなみに、それではどう見ても共通善のためではなく、立法者が私利私欲のために法を制定して人々を従わせようとした場合はどうだろう。第92問題第1項主文でトマスは「その時には法は人々を端的に善き者たらしめるのではなく、限定された意味において、すなわちそうした体制regimenとの関連において善き者たらしめるであろう。このような意味では、それ自体としては悪しきことがらにおいても善が見出されるのであって、たとえば或るものが有効に目的を遂げるような仕方で働きを為すところから、善い泥棒と呼ばれるようなものである。」(pp80-1)と嘯く。後半の喩えはよく分からんし、何かものは言いようですねとまぜっかえしたくなる気持ちに駆られる。そのすぐ後の異論解答でトマスは、市民は「支配者たちの命令に服従するという程度に有徳」(p82)であればOKと述べており、ここら辺に君主政支持者かよクソがという素朴な感想を持ってしまいました。

 また、永遠法から全ての法が派生するというロジックを貫いたためか、いわゆる「邪欲」とか邪悪な法についても「法」たる側面を認めようとする強弁も面白い。第93問題第3項の異論解答を引く。「邪欲fomesは、神の正義によって下された罰である限り、人間においては法たるの本質・側面を有している。そして、この意味では永遠法から出てくるものなることは明白である。他方しかし、前述のところからあきらかなように、それが罪へと人間を傾かしめるものたるかぎりにおいては、神の法に反するものであり、法たるの本質・側面を有しない」(p101)「人定法はそれが正しい理性ratio rectaにもとづくものであるかぎりにおいて、法たるの本質・側面を有するのであり、またその意味でそれが永遠法から出てくるものなることも明白である。これにたいして、それが理性から離反しているかぎりにおいては、邪悪なる法lex iniquaと呼ばれ、そのようなものであるかぎりでは法たるの本質よりは、むしろ或る種の暴力violentiaの性質を帯びるものとなる。しかしながら、邪悪な法においてさえ、立法者の権力秩序・権限ordo potestatisのゆえに、法との類似性が何ほどか保たれているかぎりにおいて、邪悪な法もまた永遠法から出てくるものである。」(pp101-2)。法というよりむしろ暴力であるという立論は、人定法を扱う第96問題第4項でもでてきましたね。

 第94問題第5項の自然法は改変されるかという問題について、自己保存の傾向や自然本性上の行動、または社会生活を営むというのが自然法を構成する基本要素であり、これに付加されることはあっても基本要素は不変であるという指摘はふーんと思った。

 旧法の規定等を論じた部分は、まあかなり退屈でしたね。脳がおかしくなるかと思った。別に旧法が天使から授けられたかどうかとか、モーセの時代に与えられたのが適切だったかどうか、十戒の並び順はあれでよかったのかとか、ホンマこんな問題にかかずらって一生を終えた人々の人生って何なんやと思ってしまった。これだけ真摯に神様のことを考えられた時代が心底羨ましいわ。

 第100問題第5項の異論解答で笑ってしまったので引用します。十戒では、内心の罪と行いの罪が両方禁止されている(他人のものを欲するな&盗むな、みたいな)。ところで、殺人と虚偽については行いの罪だけだから不完全では?というもはやいちゃもんみたいな異論である。これに対する異論解答は次のとおり。「姦淫の悦楽とか富の効用などは、それらが快適善あるいは有用善としての側面をもっているかぎり、それ自体のゆえに望ましいものである。そして、このゆえに、これらのことに関しては、行いのみではなく(内心の)欲情をも禁止することが必要であった。しかるに殺人とか虚偽とかはそれ自体においては嫌悪をさそうものである――なぜなら、人間は自然本性的に隣人と真理を愛するからである。したがって、殺人や虚偽はただ何らかの他のことゆえにのみ欲求される。それゆえに、殺人や偽りの証言の罪に関しては、内心の罪は禁止する必要はなく、ただ行いの罪を禁止すればよかった。」(p308)トマスの時代には快楽殺人鬼もいなければ、フェイクニュースもなかったんですかね。幸せな時代だよ全く。

 新法については、それが「キリストに対する信仰fides Chirstiを通じて与えられる精霊の恩寵」(p353)であることを把握すればいいのではないか。こうなってくるとその後に何故恩寵をあえて分けて論じる必要があるのか「???」という感じがあるのだが……。新法関連で面白かったのは第108問題第3項の以下の異論解答。異論は「飯食ったり着るものについて思い煩うのは人間にとって当たり前で自然法に属するよね。それを規制するキリストの新法は不適切!」というもの。

 「主キリストは必要不可欠な思い煩いではなく、秩序なき思い煩いを禁じ給うた。ところで、現世的なことがらに関しては、思い煩いが四つの仕方で秩序から外れることを避けなければならない。すなわち、第一に、現世的なことがらをわれわれの目的として追求したり、あるいは食物や着る物などを必要なものを手に入れるために神に奉仕することを避けなければならない。(中略、なお引用中省略箇所は全てマタイからの引用)第二に、われわれは神的扶助に絶望するような仕方で現世的なことがらについて思い煩いをしてはならない。(中略)第三に、人が神的扶助なしにも、自らの思い煩いによって生活に必要なものを確保できると確信するほどに、思い煩いが万神的praesumptuosaになってはならない。(中略)第四に、人は現時点で配慮すべきことではなく、将来において配慮すべきことがらについて、今、思い煩うことによって、思い煩いの時を先取りしてはならない。(以下略)」(pp426-7)なんだか自己啓発みたいな内容で笑ってしまった。

 恩寵については手短に以下を引用しておくことにしたい。重要な指摘である。

 「神への人間の回心conversioはたしかに自由意思によって為されるものであり、その意味で人間にたいして神へと自らを向ける(回心する)ように命じられているのである。しかし、自由意思は神がそれを御自身へと向け給うのでなければ、神へと向けられることは不可能であって、それは『エレミヤ書』第31章(第18節)において「私を帰らせ(回心させ)て下さい、そうすれば帰ります。あなたは私の神、主であるからです」と言われ、『哀歌』第5章(第21節)において「主よ私たちをあなたのもとへ帰らせて下さい、そうすれば私たちは帰ります」と言われているごとくである。」(p468、第109問題第6項異論解答)

 「習慣的恩寵の賜物は、それによってわれわれがもはや神的扶助を必要としなくなるためにわれわれに与えられたのではない。(中略)恩寵があらゆる点で完全になろうところの栄光の状態status gloriaeにおいてさえ、人は神的扶助を必要とするであろうからである。」(p486、第109問題第9項異論解答)

 

 

 

20240318

【労働】

 やることねえので毎日キーボードをカタカタしている。やることはずーっとないわけで、そんな奴に給料払うのもちゃんちゃらおかしくねえか? 俺は「いる」料を毎月もらっているけど、普通にノーワークノーペイの原則とは、となってしまうねえ。

 一体全体どうしてこんなことになっても俺は「いさせてもらえる」のかと思ったのだが、結論として多分放置されているので「いさせてもらえる」というよりも「なんかいるけどまあいいや」の立ち位置なんですよね。これで仕事をくれると思うのが間違いなので認識を改めますです。

 いずれにせよ、俺という人間はもうこの職場にはいらないっぽい。そして俺も前職の狂った現場で脳がおかしくなった後に今の職場に拾ってもらったことはありがたいと思いつつも、その恩はいろいろな形で返し終えたと思うし、今抱えている辛さは普通に前職と同じくらいなので、一旦全ての関係を清算したいという素朴な気持ちが湧いてきました。書いているうちに諸々と悲しくなってきたし、普通に休職しようかな(最悪退職します)。まあ明日は諸事情で行かなきゃいけないけど、ちょっと所々休みを入れてゆっくりしようと思う。決めました、明日を乗り切ったら職場から距離を置きます。もうとことん嫌になった。

 

【ニュース】

「小泉さんより党をぶっ壊している」派閥なき自民、権力集中の未来図:朝日新聞デジタル

 これには我々もニッコリですね。とはいえ、この間の新聞報道でも解体されたはずの派閥幹部のクレジットでずっとコメントがのっけられているわけで。所詮何やらせてもダメなんですよこいつらは。

 しかし、シンボル的意味合いとしての派閥解散すらできないのかと呆れてしまう。こんな連中に国の舵取りを預けておこうと思うの、国民も自民党のDVで頭がおかしくなっちゃったんだなと諦めるしかないっぽい。普通に我々はこんなろくでなしどもを祀り上げているのに、プーチンやネタニヤフを下ろせというのはちゃんちゃらおかしいのではないか。

 

下村・元文科相「分からない」「覚えていない」 裏金の実態解明遠く:朝日新聞デジタル

 自爆テロぐらいの価値しかない男が自爆さえできないというの、普段あんなに勇ましいことを言ってる連中がイスラム過激派未満だったのかと嘲りたくなりますね。これのコメント+についている政治部の記者のコメントが面白かった。「ちょっとでも期待した私が愚かでした。(中略)自民党が最も改革すべきは派閥のかたちではなく、派閥の実質的な弊害であるこうした無責任体制ですが、最大の矛盾は、裏金問題を検察に立件されるまでこの面々が息巻いていた自民党にそんな改革ができるのかです。」じゃあどうすんねんって話だが、暴力革命しかないんじゃないですかね。別に俺がこんなことを言わずとも、そろそろ民主主義をシャキッとさせるために暴力君がアップを始めている気がする。

 

「52ヘルツのクジラたち」トランス男性の描き方 悩み、伝えたこと:朝日新聞デジタル

 朝日新聞を褒めたくない(n回目)ですが、この記事はよかった。ポストアポカリプスものに出てくるエゴ丸出しのキチガイ集団みたいな連中が棍棒を振りかざしてアイデンティティポリティクスをインターネット散兵線で繰り広げている最中で、トランスの人たちは本当に可哀想な立場にいると思っているので。俺は何でもかんでも女子トイレの問題にする女と、トランスを詐病か何かだと言い立てる男と、そしてステータスクオとしか言いようのない主張を汚い言葉で射出する狂人が嫌いなんだ。そういう腐った連中は俺みたいな邪悪と刺し違えてナンボなんよ。

 この記事とはあんま関係ないのですが、なんかこの映画を観た車椅子の人がどうのこうのみたいな話にもなっていて、本当にこの世の人間の地獄に関してのクリエイティビティには驚嘆しますね。どうせ地獄に落ちるのに。

 

【読書】

 萬代悠『三井大坂両替店(みついおおさかりょうがえだな)』(中公新書、2024)を読みました。新書だけ読むという奇妙な縛りを課している大学の先輩から面白いと言われたので読んだのですが、確かに面白かったです。同レーベルの『サラ金の歴史』同様に、金融と歴史というのは面白さが約束された分野なんですかね。
 著者は日本近世経済史を専攻する三井文庫研究員。同文庫の研究をしていたところ、当時の三井大坂両替店の信用調査の記録という大変珍しいものを発見した(こういった文書はあまり残っていないという。)。この両替店は元々呉服屋であった三井の資金調達のために創られたものだが、後に幕府御用達の両替商の特権を利用し、「江戸時代最大級の金貸し」(p10)を行う民間金融機関として成長した。家憲でハイリターンな大名貸を原則的には禁止していた三井の飛躍の秘訣は、①法制度上の優遇措置及び②「人柄」重視の信用調査を徹底したことにあると、著者は喝破する。

 幕府の公金を大阪から江戸に為替を用いて送金する「御為替御用」を担った三井をはじめとする御為替組では、江戸幕府への納付期限が90日あったという時間差を利用した「延為替貸付」(預かった幕府の公金をそのまま貸付に回す技法)という融資方法を創出した。

 このスキームは次のとおりだ。⓪まず、江戸と大坂の間では、西国の藩が江戸の藩主に資金を送る必要があったことや、為替送金の形で江戸と大坂の商人の間での為替送金取引があることから、常に資金の流れがあるという前提がある。①幕府が金ほしー!!!ってなった時に、大坂から江戸へ送金する必要が生じる。②その送金のために、三井大坂両替所が幕府の大坂城御金蔵から資金を預かる。③もちろん金を送付するのはクソあぶねぇので直接送金はしない。別途江戸の両替店と為替の形でやりとりする。こうすると、預かっていた大坂のお金はそのまま残るので、納付期限の90日間は自由な転用が可能になる。つまり、三井大坂両替店にしてみれば、90日分無利息で大口の融資資金を得られるわけだ。

 しかも、三井は幕府の公金のみならず自分たちの資金でさえ「幕府公金」という形を擬制してまで貸し付けることを行うほどであった。その理由は、幕府公金為替を用いた貸付が不渡りになった場合は、債権の優先弁済を受けられるようになるという大坂町奉行所管内の特権的な法制を利用できた。また、奉行所も債務者に対して執拗に返済を迫った。こうした手厚い債権保護によって貸倒れリスクを低減できたのである(「江戸時代特有」の「身分制的法制度」によって、武士階級である幕府債権が優先されるという構造にあった。逆も然りで、大名などが不渡りを起こした場合は幕府でさえ差し押さえ執行ができなかった。)。ただ、こうしたリスク低減措置のおかげもあってか、三井大坂両替店では低金利かつ大口の融資を手広く実施することができた(このため、三井は幕府公金枠をもっと扱えるように、大量の江戸の不動産を担保に入れていた。)。

 しかし、貸倒れリスクをさらに低減化すべく、三井は厳しい信用調査を行なった。子どもの頃から厳しい実地修行を経て「手代」として育てられた奉公人たちは、情報の非対称性を最小限にするために、周到に借主の担保の価値を見極め、借主の周辺情報や素行を徹底的に精査した。その信用調査を経て、「人柄」にお墨付きが得られなかった顧客に対して、三井は貸付を行わなかったのである。しかし、一度信頼した借主については、よほどの悪要因がない限りは常連として引き続き融資を行なっていた。「三井大坂両替店が高い利回りを実現した要因は、法制度からの厚い債権保護だけではなかった。日頃から丹念な信用調査と常連客の確保に努めた手代たちの功績があったことを忘れてはならない。法制度と信用調査の両輪が大坂両替店の高い利回りを実現させた。」(p236)という著者のまとめは説得力がある。

 以下、各章を見ていく。

 第1章「事業概要」では、上で書いたたような延為替貸付のスキームなどが説明される。元々大坂両替店ら御為替組は幕府公金為替の取り組み額と取り組み相手を大坂町奉行所に報告する義務を負って、公金転用を制約されていたはずなのに「幕府の人事交替の混乱に乗じて、宝暦12年(1762)分以降については、御為替組が個々の取り組み額と取り組み相手を非公開にするこtに成功した。」(p31)という点は興味深い。この点は強かだったんですね。

 第2章「組織と人事」では、三井大坂両替店の組織構造等が詳述される。興味深いのは、「手代奉公」と言われる長期雇用の従業員たちは、子どもの頃から店で働き、徐々に一人前になっていくにつれて、独立志向の人たちも出てきて一定数が退職するということである。「三井は、世帯独立という奉公人の願望を前提に、その願望を実現可能とする報酬制度を組み込むことで、奉公人たちの定着と勤労を実現していた。しかし一方で、世帯独立という願望は、常に自発的な退職の可能性を生み出した。三井と奉公人は、報酬を媒介にして、定着と独立の間で絶えず綱引きをしていたといってよい。」(p78)という記述は興味深い。そういった退職を防ぐために、三井はある一定の年限を超えてから賃金カーブの傾斜を一気にきつくしたり、江戸時代ではまあまあな食事や生活費、医療費も負担したり、さらには「息抜き」で売春宿じみた茶屋も御用達のものを用意してあげたりという太っ腹さである(固定の遊女がおらず適当に読んで集めるコンパ形式みたいなのが好まれた。奉公人が特定の遊女に入れあげないため。)。今でいうしっかりとした“福利厚生”という感じがありますね(よくない評言)。あと、「天下の台所」は大正時代、『大阪市史』を編纂した幸田成友露伴の弟)の造語だということを知ってまたひとつ賢くなってしまった(p54)。

 第3章「信用調査の方法と技術」は面白い。18世紀末、三井大坂両替店は経営不振に見舞われ、今一度経営をシャキッとさせるために、聴き合わせ(信用調査)を精緻化させようとした痕跡が、「日用留」「日用帳」「聴合帳」などにみられるという(こうした資料が残存しているのは極めて稀有であるとのこと。あとがきにあるように、著者もたまたま文庫内の史料をパラパラ読んでいたら見つけたとのことで、歴史家冥利って感じの話だ。)。この貴重な資料を著者は丹念に分析している。平の手代たちが丹念に聞き取りや照会を行うなどして作成した報告書を見た役付きの手代が、最終的に融資の可否を判断する仕組みだった。信用調査の事項もある程度類型化されており、担保が不動産の場合であれば屋敷の位置、町の盛況具合、空き家・空き地の有無、築浅あるいは修繕がきちんとされているか、土蔵の状態などが調べられた。また、担保が動産の場合は、米は納屋米ではなく蔵米をとるほうが望ましい、偽装に注意するなどの指示もなされていた。これぐらいの信用情報を調べるのは結構大変なことなので、手代にはそれ相応のスキルが求められたことは想像に難くない。

 第4章「顧客たちの悲喜こもごも」は一転して、信用調査の文書から借主の事情が描写される。「信用調査の対象者は、享保17年(1732)から明治2年(1869)までの138年間で、実に3825人にも及んだ。」(p164)とのことで、広範に調査をしていたことが伺える。いろいろな事情があるようだが、例えばお家騒動のあったところは評判がよくないので貸さない、強制隠居された奴がいる家もどうだろう、みたいな感じでかなりその家の評判を調べていたことが明らかになる。ギャンブル、遊郭通い、横領、その他諸々をやっている「不誠実」な人々が列挙されるが、もちろん三井大坂両替店はほとんど貸していないようだった(貸しても連帯債務者をつけるなどして、貸し倒れしないよう心を配っていた。)。

 第5章「データで読み解く信用調査と成約数」は、この信用調査や「究書」といった帳簿類を精査して、改めて三井大坂両替店の業務を浮き彫りにする。面白いなと思ったのは、著名かつ有力な豪商については、貸し倒れリスクがないのであまり信用調査をしていなかったということである。このあたりはまあむべなるかなという感じ。また、信用調査において、人柄がよければ、家計状況があまりよくなくても貸していた実情が指摘される(p225)。こうした中で常連客をこつこつと積み上げていき、幕末の混乱期にあっても安定した利回りを実現していたようだ。

 最期に、エピローグで示唆されている社会史的な指摘(三井大坂両替店に貸してもらうために品行方正に振る舞わなければならないという意味で、「防犯カメラ」的な誘因になっているのではないか)は興味深いとは思うものの、これまでの章ではあまり触れられていない論点なのでちょっと唐突感もありましたね。実際「ええい借りちまえ!」というモラルハザード太郎もそれなりに信用調査で明らかになっているわけですから。とはいえ、こういう金融史と社会史の架橋みたいな論点は、俺がメチャクチャ面白いと思う分野なので、是非深堀りしてほしいですね。

 

20240315-0317

 金土日何か報告すべきことはなかった。土曜に大学の友人と南インドのカレーを食ったぐらいか。

 

【労働】

 毎日思い悩むことばかりであるが、そろそろ楽になりてえと思っている。まあ、もうどうにでもなってくれて構わねえという気持ち。

 

【ニュース】

「ディープステート解体」の真意は 元側近が語ったトランプ氏の構想 [アメリカ大統領選挙2024]:朝日新聞デジタル

 日本のメディア、バノン好きすぎるやろ。トランプもあんな放逐をしたのに愛してるとかよう言えるわこいつという感じ。

 「米アメリカン・エンタープライズ研究所のジョン・フォルティエ氏は、「第2次政権」の可能性を見据え、人材供給の準備も進んでいると指摘する。トランプ氏に近い連邦議会議員や州知事の政策スタッフのほか、トランプ氏やバノン氏が主導してきた「MAGA(Make America Great Again、米国を再び偉大に)」運動に賛同するトランプ政権の元幹部らだ。保守系ヘリテージ財団が発足させた「プロジェクト2025」にも100以上の保守系団体が参加し「第2次政権」で働く人材を募っている。」という記述は気になりましたね。

 

【読書】

 いやほとんどしませんでした! 土曜も働いてたし日曜は漫然と家で寝転がっていたので! 

 

【雑感】

 基本的に大学卒業後の俺の人生は大事な二択を誤り続けたという悲しみに彩られているのですが、またしても二択を迫られていて悩んでいる。とはいえ、どうやってもこの人生は落ち目なので、何を選んだところで大して変わらんよなという気もする。

 最初の就職先、辞めるタイミング、次の就職先、異動希望の出し方……いろいろとミスり倒した結果、30にしてまたしても25と同じぐらいしんどい気持ちをもって辛くなっている。きっと今回も碌なことにならねえと思いながら、こうなったら「前に逃げる」ことしか考えられない自分がいる。悲しいねえ。

 こんな惨めな気持ちになりながら社会にしがみついている理由は生きるためにお金を稼ぐことにある。社会に寄生しないで済む方法として、不労所得を得る方法について調べたが、馬鹿馬鹿しくて辞めた。本当の不労所得生活保護以外ない。

 諸々の案件があってすごく忙しかったが、少し落ち着くと思うので、来週以降からは平常運転に戻していきたいですね。そして花粉が辛すぎる。

20240314

 今日は一心不乱に読書をし、まとめていたのでそれ以外の話はなし。悪しからず。

 

【読書】

 カイ・バードとマーティン・シャーウィン『オッペンハイマー 中 原爆』(ハヤカワ文庫NF、2024)及び同『オッペンハイマー 下 贖罪』(ハヤカワ文庫NF、2024)を読了。メチャクチャ睡眠時間削って何とか読み切りました……。それほどまでに読む価値があったと自信をもって言えますね。

 

 まず、中巻から。ナチスを地上から消し去るためにナチスより先に原爆を作らなければという必死の思いで、ロスアラモスの数千人の科学者たちを独特なカリスマ的魅力で仕切ったオッペンハイマー理論物理学の直観的な天才から巨大なプロジェクトのスマートな管理者として転身した彼は、科学者が意見交換し合う自由をセキュリティクリアランスでガチガチの軍に認めさせたり、時には強引な人事差し替えをしたり等で様々な難題を乗り切った末に、ついに「道具(ガジェット)」=原爆の完成にこぎつける。

 しかしその完成が間近に見えてきた頃には主敵であるナチスの敗北は明白である中で、行き場を失った原爆は敗戦間近だった日本に落とされることになる(オッペンハイマーは知る由もなかったが、トルーマン政権が日本が降伏意志を持っていたことを把握した上での投下決断だったのは周知のとおり。)。中巻を読む限り、オッペンハイマの主たる関心は“ソ連に通告した上での原爆投下”、つまり今後の国際核管理体制創設への布石を打つことにあったようで、残念ながら恐らく落とされる日本のことにはあまり関心を払っていなかったのだろう(実際、彼は原爆投下直前に有効な爆発が起きるように落とすタイミングの高度などを空軍将校にレクチャーしている。)。

 広島・長崎に原爆が投下され、その凄絶な被害が明らかになるにつれて彼は徐々に倫理的・道義的な苦しみを覚えるようになり、核兵器軍拡競争に陥る前に事態を打開しなければならないと思うように至る。そして、もはや世界では知らぬ者のいない「原爆の父」という知名度を活かしてソ連も含めた超国家主権的な核管理体制を作ろうとワシントンへ働きかけるようになる。

 一方で、彼の人生に暗い影を落とし続けることになる当局の執拗な捜査(時には違法な盗聴も含まれる)や、軍や政治とうまく付き合いながら彼らをよい方向へ向かわせようとする努力が最後は単なる妥協に失してしまうといった、辛い側面も描かれている。

 それでは章ごとに見ていこう。

 第14章では、オッペンハイマーの後年の人生の没落を決定づけることになるある事件のことが語られる。「シュバリエ事件」と呼ばれるそれは、オッペンハイマーの友人で経歴的には「アカ」とされるハーコン・シュバリエから、ソ連への情報ルートを持つ商社マンがマンハッタン計画について関心を持っており、彼に情報をもたらしてくれないか、と持ち掛けられた一件である。このことについてオッペンハイマーは「それは反逆罪だ」として強く断ったということは一致した認識であるが、個々の説明については食い違いがある(著者は黒澤映画の「羅生門」的と喩える。)。そして、オッペンハイマー自身が後に軍や当局へ説明した際の食い違いも、致命的な帰結をもたらすという。

 第15章はロスアラモス初期の出来事にフォーカスされる。このころにファインマンがスカウトされるなど、オッペンハイマーは優秀な人材の確保に心血を注いでいた。オッペンハイマーの適切なプロマネっぷりは以下の秘書の証言が残っている。「「まず根気よく、議論に耳を傾ける。そして最後にオッペンハイマーは要点をまとめる。このようにするので、意見の相違というものがなかった。それはまるでマジックのように見えたので、だれからも尊敬を獲得した。なかには科学的業績では、彼より上の人も何人かいた」(p64)。オッペンハイマーは軍に科学者が自由に討議できるような会を設けることを認めさせ、ここでの議論はロスアラモスの新人研究者向けのマニュアルにまで整備されたり、また原爆開発上のブレークスルーに寄与したとされる。

 第16章と第17章では、機密情報保全を第一とする軍等との軋轢が描かれる。プロジェクトの総責任者であるグローブス将軍はオッペンハイマーや科学者たちの「闊達」すぎるふるまいを苦々しく思っていたが、一方でマンハッタン計画にはオッペンハイマーが不可欠なのも分かっていた。他方、オッペンハイマーは自身の左翼的バックグラウンドを警戒している軍防諜当局へお目こぼしをもらうためにはグローブスの庇護は不可欠と考えており、お互いは持ちつ持たれつの関係をキープした。オッペンハイマーへの監視は軍当局のみならず、反共対策の観点からFBIからも行われていたという。この中でオッペンハイマーはかつての恋人であり共産主義者だったジーン・タトロックと逢瀬を重ねる過ちを犯す。が、オッペンハイマーに理解のある将校のおかげで何とか計画の解雇は免れたようだ。こういう中で監視を気にし始めたオッペンハイマーは、先述のシュバリエ事件の経過を軍にあらかじめ弁明しておいたのだが、この段階でオッペンハイマーは何故かシュバリエの名前を道義的理由から明かさなかった(もちろんこれは軍当局には好ましくないだろう。)。

 第18章では、そのジーンが自殺した経過が描かれる(精神的には躁鬱的で、レズビアンの傾向もあったとかなんとか。ちなみにアメリカ政府に暗殺された説にも触れられてはいるが、著者は否定的に見ている。)。オッペンハイマーはたいそう悲しんだようだ。第19章では妻のキティが諸々の重圧に耐えられず長男を連れて家出し、オッペンハイマーには生まれたばかりの長女が残された。この長女を代わりに育てていた人にオッペンハイマーは「この子を愛せないと思うので養女に引き取ってくれ」と述べるなど、オッペンハイマー自身も過密する開発スケジュール等に追い立てられて参っていたような感がある。

 第20章。ロスアラモスにニールス・ボーアが着任したことは、オッペンハイマーにとって新たな気付きを得るきっかけとなった。ボーアは原爆が開発された後のことについて考える必要があることをロスアラモスの研究者たちに説いて回り、オッペンハイマーも賛成する。「戦後の核兵器開発競争」に前もって対応しなければならないという考えにオッペンハイマーが取りつかれるのはこのころからである。ボーアは、核兵器を国際的に管理するためには、この段階でソ連に対して戦後の原子力計画への参加を呼び掛けるしかないと考えていた。他方、原爆開発計画も大詰めを迎える。オッペンハイマーは、爆縮過程に難ありとしつつも、プルトニウム爆弾の開発を大幅な人事調整を行ってでも推し進めた。この段階でドイツの敗北は明白で、いったい何のために原爆を開発し続けるのかという疑問がロスアラモスで鎌首をもたげた時に、オッペンハイマーは原爆のプロジェクトを継続する意義を、この「ガジェット」が世界を決定的に変革するのであると説得的に訴えた。

 第22章では、原爆投下に関するスティムソン国防長官の暫定委員会について触れられている。この会議におけるオッペンハイマーの立ち位置は以下のとおりである。「オッペンハイマーは、この緊急の討議において曖昧な役割を演じた。まもなく完成する新しい兵器について、ロシアに早急に説明すべきであるというボーアの考え方を活発に押し進めた。バーンズ(引用者注:トルーマン政権の国務長官)が有効に止めなかったら、彼はマーシャル将軍まで説得したかもしれない。他方彼は、グローブス将軍がシラードのような反体制派の科学者を解雇するという意向を明白にしたので、黙秘するほうが賢明だと感じたのは明らかだった。大勢の労働者が働いており、周りを労働者の住宅が囲んでいるような軍需工場という、「軍事目標」に関するコナントの遠回しな定義に対して、オッペンハイマーは替わるものを提案しなかったし、ましてや批判などしなかった。彼はボーアの「開放性」についての考えは明らかにいくつか議論はしたが、最終的に通った意見はなく、すべてを黙認することになった。ソビエトにはマンハッタン計画を十分に知らさないこと、爆弾は日本の都市において無警告で使うことという決定である。」(pp228-9)。そしてこの決定のとおり、ポツダム会議においてトルーマンは極めてあいまいにしかスターリンに「新兵器」のことは伝えなかったわけである。そして、原爆は広島や長崎に投下された。

 第23章と第24章。ロスアラモスのトップを辞したオッペンハイマーは戦後も核管理体制について努力するも、トルーマン政権はつれなかった。だんだんとオッペンハイマーはこのプロジェクトの成果について疑念を抱くようになる。ひとつ、印象に残った記述を以下に引用する。

 「基本的な意味においてマンハッタン計画は、まさにラビ(引用者注:オッペンハイマーの親友の物理学者)が懸念したとおりのものを達成したと、オッペンハイマーは理解した。すなわち、「物理学三世紀の集大成として」、大量殺戮兵器を造ったのだ。またそうすることによって、このプロジェクトは形而上的な意味ではなく、物理学を貧困化したと彼は思った。そしてまもなく彼は、プロジェクトの科学的な業績をけなし始めるのだ。「われわれは、熟した果物のいっぱいなった木を激しく揺さぶったら、レーダーと原子爆弾が落ちてきた。既知のものを必死で、むしろ冷酷に搾取するというのが、戦争における全般的な精神であった」。オッペンハイマーは1945年末に、上院委員会でこのように演説した。「戦争は物理学に対して重要な影響を与えた。ほとんどこれをストップしてしまった」と、彼は言う。彼はまもなく次のように信じることになる。戦争中、「われわれは物理学分野における本当の意味の専門的活動を、訓練活動も含めて、多分どの国よりも全面的にストップした」のではないかというのだ。しかし戦争は科学に焦点を当てたのも事実である。ビクター・ワイスコップが後に書いている。「科学がだれにとっても最も即時的で直接的な重要性を持つものであることを、あらゆる議論の中で最も容赦のない形によって、戦争は明らかにした。これが物理学の性格を変えた」」(pp278-9)

 そうした中で彼は原子爆弾の危険性を訴えるべく、懸念を共有するロスアラモス科学者協会(ALAS)と協調しつつ、ワシントンの政策担当者たちとその名声を活かして面会をする。ところが、彼はALASの主張とはかけ離れた妥協をワシントンに対して繰り返すようになり、仲間からも懐疑の目線を注がれる。オッペンハイマーはついにトルーマンとも面会するが、トルーマンのあまりにも無理解に愕然し「わたしは手が血で汚れているように感じます」(pp299-300)とその場で述べた。この発言を受けてトルーマンは「手に血が付いたって? ちきしょう。おれの半分も付いていないくせに! ぐちばかりこぼして歩くな」と会談後激怒したという。そしてオッペンハイマーは裏で「泣き虫科学者」とディスられる始末。このような形でオッペンハイマー原子力に託した期待が徐々にしぼんでいくのを感じる。

 1945年11月2日、トルーマンはかつて所長を務めていたロスアラモスで、超国家的な管理機構である「共同原子力委員会」の組織と各国科学者の交流機構の必要性、そしてこれ以上原爆を作ってはならないことを訴える演説を行った。「この問題に取り組むとき、『何が正義かわが国は知っている。だから貴国を説得して言うことをきかすために原子爆弾を使う』というならば、われわれの立場は非常に弱くなり、成功しないでありましょう。われわれは、災害を防ぐために武力をもってしようとしている自分自身に気づくことになります」「他人の見解と思想を絶対的に否定することは、いかなる合意の基礎にもなり得ません。」(いずれもp306)。この演説は科学者たちの感動を持って受け入れられた。

 第25章。トルーマンは渋々ながら、核兵器の国際管理を検討する特別委員会に付属する諮問委員会の委員にオッペンハイマーを任じた。委員互選で議長になったオッペンハイマーは精力的に働き、国際管理についての検討は「アチソン・リリエンソール報告書」として結実する。しかしこれには政府は不服であり、結局完全に骨抜きにされてしまう。

 第26章と第27章。ここでは、原子力政策から離れてオッペンハイマーの学術や生活について語られる。オッペンハイマーにはキャシーには知られていないルース・トールマンという愛人がいたらしい。お前いい加減にしろよと言いたくなる。夫リチャードとも親友だったというので怖すぎワロタ。さて、ロスアラモス離任後、カリフォルニアに戻っていたオッペンハイマーだったが、プリンストン高等研究所所長として招かれる。高等研究所は周知のとおり、数学者や歴史家が「無用な知識の有用性」を掲げてこつこつと研究する場所だったが、オッペンハイマーはここを学際的かつ国際的な学問機関にしようと目論んだ(これは主に既存の数学者たちとの学閥的暗闘を引き起こした。)。オッペンハイマーは、湯川秀樹朝永振一郎といった日本の若手物理学者に特別研究休暇で招いたり、フォン・ノイマンの初期コンピューター研究にも尽力したり、果ては文学者のT・S・エリオットや古典学者のハロルド・チャーニス、そして中世史家エルンスト・カントーロヴィッチの招聘も行い、まさに自然科学と人文学の融合を高等研究所内で行おうとしていた(翻訳への些末な指摘だが、フランシス・ファーガソンの著作に『ある劇場の構想』という訳語があてられているが、The idea of the theaterの訳語であれば邦訳のとおり『演劇の理念』とすべきである。これは著作の内容からも明らか。)。著者が述べるように、オッペンハイマーにとっては「プリンストンはロスアラモスのアンティテーゼであり、おそらく心理的な解毒剤」(p392)だったのかもしれない。プリンストンに長年いたアインシュタインとの関係性にも触れられている。アインシュタインオッペンハイマーはもちろん学問的には相容れなかったが、平和のために尽力するという姿勢では一致していた。そのアインシュタインオッペンハイマーに投げかけた「人間というものは何か意味のあることをすることになると、それからの人生はちょっと変わったものになってしまうものです」(p397)という言葉は、オッペンハイマーの人生を暗示しているようで示唆深い。

 

 続いて下巻のまとめ。

 オッペンハイマーは引き続き国際的な核管理体制への提言を緩めず、ソ連の原爆開発成功の報に触れてもそれを上回る「スーパー」爆弾=水爆の突貫的な開発には一貫して反対していた。しかし、反共の時代にあって、徐々にオッペンハイマーに対する公的な包囲網は狭まってきた。後にマッカーシズムの舞台となる下院非米活動監視委員会(HUAC)への証人尋問を皮切りに、オッペンハイマーは政治的魔女狩りへと巻き込まれていく。

 しかし、彼を最終的にワシントンの舞台から叩き出したのは、極めて私的な敵意だった。商務長官候補まで上り詰めたルイス・ストローズは、かつてはオッペンハイマープリンストンに招聘した立場だったが、徐々に2人にはプリンストンの運営方針や原子力政策の相違のせいで隙間風が吹くようになる。決定的な対立は、ある場でオッペンハイマー原子力政策に関することで、ストローズを聴衆の前で嘲笑したことに起因する。このことを恨み深く狡猾なストローズは生涯忘れることなく、後に元々オッペンハイマーに敵意を持っていたフーバー率いるFBIや、大量殺戮に等しい「報復戦略」の観点から水爆開発を推し進めたいと考えていた空軍及び共和党の激越なタカ派議員などと結託し、オッペンハイマーを卑劣な陰謀に陥れようとしてきた。アイゼンハワーオッペンハイマーへの疑念を植え付け、公開処刑のショーマンに過ぎない稚拙なマッカーシーの生贄の祭壇には決してオッペンハイマーを渡さないよう注意深く水面下で動き続け、ついにストローズはオッペンハイマーコンサルタントとして働いていたアメリ原子力委員会(AEC)の委員長の権限で、彼の共産主義者との付き合いや水爆開発への反対の嫌疑を用いて彼が原子力政策に必要な機密保安資格を一時的に留保する。そして、AECが選任する保安委員会においてオッペンハイマーを査察にかけることに成功する。

 この保安委員会は「裁判」ではないという建前だったが、それでも民事裁判では考えられないレベルの不公平な手続(武器対等原則は根本的に崩壊しており、そして保安委員会に対してはストローズの極めて露骨な介入がなされていた)がなし崩しに行われることでオッペンハイマーは窮地に立たされた。オッペンハイマーはあやふやな記憶を、FBIの違法な盗聴などで裏付けされた検察役弁護人の執拗な追究を受けて、自身に不利な発言をしてしまった。また、オッペンハイマーに敵対的だったエドワード・テラー(水爆の開発を主導した人物)などの証言もあり、最終的に保安委員会は結局オッペンハイマーが機密保持にふさわしくないとして保安資格を取り上げることをAIC本体に勧告し、AECもそれに同意し(それはストローズがあからさまに他の委員に働きかけたからであった)、オッペンハイマーは資格を喪失する。このことは、機密なしには政策遂行などできない秘密主義の権力空間からの退場を意味し、オッペンハイマーアメリカの原子力政策の中枢から追放された(なお、この不公正な手続過程が後に取り沙汰され、ストローズは商務長官の指名を上院で承認されなかった。まあ自業自得と言える。)。

 オッペンハイマーはその後二度と公的政策にはかかわらず、大学での講演などを続けたり、カリブ海で落ち着いた暮らしをしたりしながら、民主党ジョンソン政権によるフェルミ賞の授与(授与決定はケネディ政権による決定)によって名誉回復された後、彼はガンで死ぬことになる。

 本書の裏面で書かれているテーマとして、彼の不安定な私生活にも触れられている。妻キティは苛烈な性格で、物を投げたり酒を常習的に飲んだりしていた。そのような欠陥のある妻であっても、オッペンハイマーは常に寄り添い続けることを選んだ(他方で浮気も普通にしていたわけだが。)。キティは長男ピーターに対してはきつくあたり、そしてオッペンハイマーもそういう場面では息子より妻を選んだ。また、長女トニーはキティに可愛がられたが、トニーは成長するにつれ母親と反目し合うようになる(このことはトニーの生涯に暗い影を落とした。父親の件を引き合いに出されてFBIに機密資格を有する職務に就くのを妨害されたこともあるが、トニーは過去の経験に囚われ、その後人生を立て直すことができずに自殺する。)。結局オッペンハイマーは家族に対しても愛情を注ぐように試みてはいたが、それは必ずしも成功だったとは言えないような感じではある。とはいえオッペンハイマーは周囲には常に魅力的な人物であった。

 浩瀚な本書で描かれたオッペンハイマーという複雑で多面的な物語が突きつけているのは、学と政治の関わり合いというプラトン以来の根本的なテーマであり、そして行き過ぎた秘密主義や妄想じみた敵愾心は、魔女の火刑台にいつしか法廷そのものを投げ込むことになるという厳しい教訓である。経済安全保障の旗のもと、セキュリティ・クリアランス制度を導入するわが国は、オッペンハイマーの生涯の苦悩やアメリカ政府の極めて近視眼的な愚挙から学ぶべきことが多くあるだろう。高市早苗とか甘利明とか北村滋とかお前らのこと言っとるんやぞ。

 それでは章ごとの紹介。

 第28章で、オッペンハイマーは再度のヨーロッパ旅行に出るが、そこで弟フランク(かつて共産党員だった)にアメリカで迫るレッドパージへの懸念を伝える。その魔手はフランクのみならずオッペンハイマーにも、HUACの聴聞会という形で降りかかる。この場で彼は、結果としてかつての旧友が共産党員であったことを「正直に」証言してしまう。この旧友は結局アメリカでの学者生命を絶たれることになる。この時のオッペンハイマーは精神的に追い詰められており、トルーマンの前で感傷的になったようにしばし重要な場面で不合理な行動をとるようになっていた。そして、弟フランクもHUACの犠牲になり、彼は物理学の道を閉ざされて牧場主になることを余儀なくされる。

 第29章では、上に述べたようなオッペンハイマーの必ずしも幸福とはいえない家族生活について描かれる。これは誰が悪いとも言えないというか、オッペンハイマーもキャシーもいろいろと追い詰められているのだろうなという感想しか持てなかった。

 第30章。1949年にソ連の原爆開発成功のニュースに触れたオッペンハイマーは、もはやアメリカの核戦力についてソ連に隠し立てをする必要がなくなったために、核兵器が国際管理される可能性に一縷の希望を見いだす。しかしトルーマンの取り巻きや軍幹部たちは全く逆の発想で、すぐにでも核分裂原爆よりも強力な核融合水爆を突貫で開発しなければならないと色めき立つ。オッペンハイマーは当時AECが諮問するGAC(諮問委員会)を取り仕切り、水爆開発反対の論調でまとめていた。水爆を保有することは、最強の報復による抑止ではなく、むしろ各国の核軍拡を煽り立てて終わりのない軍拡競争に陥るだけだと懸念していたのだ。ただし、この点で興味深いのは、オッペンハイマーは水爆のような「制限された軍事目標」という観念を無為に帰す巨大な破壊力を秘めた核戦力を不合理に備蓄するよりかは、限定的な戦術核を大量に保有する方がよっぽど有効だと考えていた(これについては著者が皮肉交じりに述べるように「戦術核兵器がさらに大型での核兵器でのやりとりを引き起こす核の仕掛け線となるかもしれない」(p140)ことはオッペンハイマーの考慮の埒外だった。)。オッペンハイマーはこの主張に同意する数少ないワシントンの友人として、傑出した外交官であるジョージ・ケナンの知遇を得た(後年オッペンハイマーは学者としての実績のないケナンを学内の反対を押し切ってプリンストンに迎えた。もちろんケナンはプリンストンにて外交史家としてもきちんと業績を残すのだが。)。ケナンはオッペンハイマーと共著したと思われる「覚書――原子力の国際管理」を国務省で回付したところ、強烈な反感を買う羽目になった。アチソンはオッペンハイマーたちにも圧力をかけたが、この時に結局オッペンハイマーたちはGACの委員を辞任するかどうかを検討したが、結局オッペンハイマー自身は政府のインサイダーにとどまることを選んだ。実際、本当に辞任していれば、オッペンハイマーにとってはよかったかもしれないと著者は後知恵で書きつける。確かにその後の展開は決してオッペンハイマーには幸福ではなかった。

 第31章では、上に書いたようなストローズを筆頭とするオッペンハイマーへの反感と策動が書かれている。この部分は特に興味を引かなかった。むしろオッペンハイマー国務省軍縮パネルで示した秘密主義への反対を書き留めておく。

 「ソ連と米国の「核の手詰まり」が、「奇妙な安定」に進化し、そこで両国がこの自殺的な兵器の使用を抑えるようになるかもしれないと、バンディとオッペンハイマーは認めた。しかし、もしそうだとしても、「これほど危険な世界は、平穏にはならないだろう。そして平和を維持するためには、政治家が一度だけでなく、毎回軽率な行動に反対する決断を下すことが必要である」。そして、「核軍備拡張のコンテストが何らかの形でやわらげられない限り、われわれの社会全体が、きわめて深刻な危機にますますはまっていく」と、彼らは結論した。

 そのような危険に直面して、オッペンハイマー・パネルの委員たちは、「率直さ」という理念を推進したのである。過度に秘密を守る政策は、アメリカ人を独りよがりで、核の危険を知らない国民にしている。この問題を修正するためには、新政権は「核が危険であることを国民に伝えなければならない」。驚いたことにパネリストたちは、「核兵器生産の量と影響」を国民に公表し、それによって「ある一点を超えたら、単にソ連に先行するだけでは、ソ連の脅威を防ぐことはできないという事実に注意を向けるべき」である、とまで提案した。」(pp158-9)

 後年の歴史学的な知見からみれば、結局ソ連も米国との全面衝突は避けたがっていたわけであり、どこかでこの上のような「率直さ」(これはボーア譲りの考えである)がうまくいっていれば、冷戦はもう少し非軍国主義的な軌道をたどっていたかもしれない、という著者の指摘は興味深い。

 第32章と第33章。オッペンハイマーは、ついにAEC委員長になったストローズの策動によって、その機密保有資格に関する疑いを調査する旨を通告される。オッペンハイマーはその段階でAECのコンサルタントを辞する選択肢も用意されていたが、彼は弁護士とも相談の上その嫌疑を晴らすべく戦うことを選ぶ。こうした中で、アインシュタインがさっさと彼に対して辞任してしまえ、アメリカに背を向けろと忠告したエピソードは興味深い。結局彼は「アメリカを愛していた」ので、アインシュタインの忠告には従わなかったのであるが。

 なお、オッペンハイマーの1953年のニューヨークの講演で、有名な「われわれは、瓶に閉じ込められた2匹のサソリにたとえられるかもしれない。お互いに自分自身の生命の危険を冒さずに、相手を殺すことができない」(p190)という科白を吐く。このドキッとさせる比喩は書き留めておこうと思う。

 第34章から第36章は本書の白眉である。ここから、オッペンハイマーはAECの保安委員会、通称グレイ委員会にて査問を受ける。保安委員会の委員たちはストローズの息のかかった人間であり、そしてストローズらは彼らに事前にオッペンハイマーに不利なFBIの資料を見せていた。もちろんオッペンハイマーの弁護人たちもそうした「検察」側の資料を見たいと考えていたのだが、それがAECの人事情報であることから、保安資格が必要であるとして、弁護人の閲覧は阻まれていた(そしてその保安資格は与えられなかった。)。このような形で既に形勢不利だったオッペンハイマーは、FBIによる違法盗聴の大量のドキュメントを読み込んで武装していた検察役弁護人の追求を逃れることはできず、結局シュバリエ事件の供述の矛盾を半ば認めさせられた。これはもちろん彼のアメリカへの忠誠を疑わせるような心証を委員に植え付けた。その他、ストローズが行った卑劣な行為を著者は以下のとおり簡潔にまとめた。「彼とロブ(引用者注:オッペンハイマーを追求した弁護士)はオッペンハイマー弁護団を盗聴した。保安許可を得ようとするギャリソン(引用者注:オッペンハイマー側弁護人)の試みを妨害した。秘密文書を隠して証言者に伏線を張った。グレイ委員会に先入観を植え付けようとした。」(p329)。このような不利な査問の中で、オッペンハイマーの友人たちは敵対していたテラーを除き、基本的にはオッペンハイマーの忠誠心を一切疑わないという論陣を張った。しかし結局委員会はオッペンハイマーの保安資格を取り上げるべきだという勧告をAEC本体に上げることになり、AECは結局オッペンハイマーから保安資格を剥奪するに至る。政府の秘密主義は、最終的には科学者の公開性の精神に勝利を収めた。

 著者はこの帰結を以下のとおり分析する。

 「マッカーシズムのヒステリーの頂点で、オッペンハイマーはその最も著名な犠牲者になった。「このケースは最終的に、マッカーシー自身がいないマッカーシー旋風の勝利であった」と、歴史家バートン・バーンスタインが書いている。(中略)

 ルイス・ストローズは、同じような魂胆を持った友人の助けを借りて、オッペンハイマーの「聖衣剥奪」に成功したのだ。アメリカ社会へ及ぼした影響は計り知れなかった。一人の科学者が除名されたのだ。しかし今やすべての科学者は、国家政策に疑問を呈した人々には深刻な結果が待っているという警告を受けたのである。」(pp347-8)

 「第二次世界大戦後の数年間、科学者は新しい知識階層、あるいは科学者としてだけでなく、公共の理論家としても、合法的に専門知識を提供する公共政策の聖職者の一員と考えられてきた。オッペンハイマーの聖職剥奪によって科学者たちは、将来彼らが狭い科学的な問題の専門家としてしか、国のために奉仕できなくなることを理解した。社会学者ダニエル・ベルが後年述べているように、オッペンハイマーの試練は、戦後における「科学者の救世主的な役割」が終焉したことを示した。(中略)かくしてこの裁判は、科学者と政府の関係における転換点となった。米国科学者の国に対する奉仕のビジョンとしては、最も狭いものが勝利を収めたわけだ。」(pp349-350)

 そして、最後に「オッペンハイマーの敗北は、アメリ自由主義の敗北でもあった。」(p351)と総括する。

 第37章~第39章は、オッペンハイマーのその後の生活というエピローグ的なところである。セントジョン島で毎年数か月ほど過ごすようになってから、失意のオッペンハイマーはゆっくりと精神を回復していった。オッペンハイマーの名誉回復は、上述のようにケネディ政権まで待たなければならなかった。最終的にはオッペンハイマーはゆっくりと癌に蝕まれ、そして1967年2月18日に息を引き取った。

 

20240313

【労働】

 無ですが、一個だけ本務と関係ないところでよいニュースがあった。活動が報われてよかったンゴねえ。

 

【ニュース】 

ガザ地下施設空爆 ハマス幹部死亡か イスラエル:朝日新聞デジタル

 イスラエルは即時攻撃を辞めるべきだが、多分ハマスハマスで一旦幹部が皆殺しにならないとアカン気がする。お得意の標的暗殺作戦に切り替えた方がいいのではないか。ガザ地区の人たちは自分たちをこんな目に合わせたハマスについて正直どう思ってんやろうか。

 

ギャング襲撃で4千人脱獄、首相は辞任表明 ハイチで政情不安深刻に:朝日新聞デジタル

 とりあえずGTA6を早く開発してギャングに配って破壊と殺戮はゲームだけにとどめるなどした方がよさそう。ハイチ、本当に悲惨すぎる。

 

【読書】

 カイ・バード&マーティン・シャーウィン『オッペンハイマー 上 異才』(ハヤカワ文庫NF、2024)を読了しました。オッペンハイマーというとスッゲェ天才で最高のヤベェ奴という印象しかなかったのですがこのたびクリストファー・ノーランの映画になるということで、予習も兼ねて読もうと思いました。上巻は幼少期から原爆開発への参与までが描かれておりますが、非常に良質なノンフィクションであり、中・下巻も楽しみです。

 まず、カイ・バードによる序文の一文が、本書の明白な目的を物語っているので引用したい。「オッペンハイマーの物語は、人間としてのわれわれのアイデンティティが、核に関連する文化と密接につながっていることも、改めて思い起こさせる。「われわれは1945年以来、心の中に爆弾を抱えている」と、E・L・ドクトロウは述べている。「それは最初われわれの兵器であった。それから外交になり、そして今は経済である。これほど恐ろしく強力なものが、40年たってわれわれのアイデンティティをつくり上げていないと、どうして考えられるか? 敵に対抗して造った大きな怪物は、われわれの文化、爆弾文化である。そのロジックも、進行も、そして展望も」(p32)。敷衍すると、オッペンハイマーの複雑で不安定な内面(「爆弾」のような)の産物である原爆に端を発する核時代とは、彼と同様に極めて複雑で不安定である。本書はその核時代の父とも言える男の生涯を丹念に辿ることで、我々が生きる時代を逆照射しようという試みであると言えるかもしれない。

 プロローグは、彼の葬儀から始まる。対ソ外交のプロフェッショナル、ジョージ・ケナンによる弔辞で、オッペンハイマーにまつわる印象的な記憶が紹介される。マッカーシズム時代の犠牲者に仕立て上げられた時に、ケナンが外国の研究機関に籍を置くことをオッペンハイマーに提案した際に、このように返されたという。「いまいましいけど、この国を愛しちゃったのだ。」(p42)。本書は、オッペンハイマーという、天才的理論物理学者であり、今世紀最大の開発計画を成功に導いたプロジェクトマネジメントの天才であり、そして不安定な自我に苦しみ続けた「アメリカン・プロメテウス」(本書の原題)が、如何にしてゼウス=アメリカに懲罰されたかという顛末までを描く。このプロローグのケナンに関する挿話は極めて文学的には素晴らしいものだと思う。

 第1章では、彼の少年期の時代が描かれる。成功したユダヤ系ビジネスマンであるジュリアスと、女流画家として一定の成功を収めたエラとの間に生まれたオッペンハイマーは、極めて内気な幼少生活を送ったと言える。彼の趣味は鉱物標本(大人顔負けの知識があり、12歳でニューヨーク鉱物クラブで講演した)、詩を書いたり詠んだりすること、ブロックの組み立てであった。母親の過保護な性格もあってかあまり周囲の子どもたちとは触れ合うことはなかったという。彼は理神論的で共和主義や社会主義の影響を受けたフリッツ・アドラーが主導する改革派ユダヤ人のセクト「倫理文化協会」の教育機関にて学校教育を受ける。倫理文化協会では社会問題・政治問題・人生問題など幅広い問題を討議するソクラティック・メソッドが取られており、ここでオッペンハイマーは生涯にわたって保持する倫理を育むことになる。他方、内気なオッペンハイマーには強烈な個性が潜んでいた。それは異常なまでの忍耐強さ(少年向けのキャンプでの自身への壮絶ないじめを告げ口しなかった)、危険に向かって面白半分に飛び込もうとする態度(セーリングや高地での乗馬・ハイキングなど)、そして自身のユダヤ性をひた隠しにしようとする態度があり、このうちのいくつかはその生涯に影を落とすことが暗示されている。

 第2章では、ハーバード時代の彼の生活や学問が語られる。ハーバードではどんな科目でも優をとってしまう天才でどれを専攻するか決めかねていたが、結局化学を最初は専攻した(しかしその間にもギボンの『ローマ帝国衰亡史』を読破するなど計り知れない)。詩作にも優れていた。日本語訳だが、一個感銘を受けたので引用します。

 「夜明けは、われわれの実体に欲望を植え付ける

  そして遅々たる光は、われわれ自身と物悲しさを裏切る

  天のサフランがしおれて色あせていくと、

  そして太陽が不毛となり、

  燃え盛る炎がわれらを揺り動かして目覚めさせると、

  われわれは再び自分を見つける

  それぞれが、別々の独房で

  他人との交渉の、

  準備はできているが、絶望的」(pp98−9)

 この「独房」というのが、まさにオッペンハイマーユダヤ排斥的なハーバードや、当時の大学生活に受けた印象だった。基本的にはあまり社交的ではなく、少数の友人と深く付き合ったことが描写されている。また、女性との出会いにも飢えていたようで、図書館でスピノザを読んでいる女性に声をかけないまま詩作にその恋を秘めるという気持ち悪いオタクみたいなことをしている(後年のガールフレンドとっかえひっかえと比べると何たる慎ましさか)。

 さて、オッペンハイマーは化学に物足りなくなり、物理学に専攻替えする。物理学の分野を基礎から学ぶというよりも、抽象的なテーマにいきなり食らいついて考えていくアプローチをとった。このため、数学などについて一部虫食い的な知識習得になったという。こうした中で彼は物理学をさらに学ぶために、ケンブリッジ大学で物理学を学ぼうと考える。

 第3章ではそのケンブリッジ時代のことが語られるのだが、ここでのオッペンハイマーの生涯はメチャクチャ悲惨である。常に精神的に不安定であり、友達がガールフレンドを作ったり結婚したりした時は嫉妬で狂いそうで、一時は結婚報告をした友達の首を絞めたことさえあるそうだ(というのも、友達が奪われたと感じたためである。イジョドクやん。)。乗り合わせた列車のコンパートメントでいちゃついていたカップルの男が出ていった途端に、その女とキスするという強制わいせつまがいのことを起こしている(その後メチャクチャ謝ってコンパートメントを出たのだが、プラットフォームに出た後にその女が階の下にいるのを見てスーツケースを頭に落としてやろうと思ったらしい。流石に狂気が面白過ぎる。)。見かねたお母さんがケンブリッジに昔なじみの女の子を連れてきたのだが、何とベッドで行為に及べないまま終わるという恥かきイベントが発生する。また手先があまり器用でないので実験物理学における実験の手作業に馴染めなかった。このようなよくない環境の中で、オッペンハイマーは指導教官のリンゴに毒(といっても致死性のものではなくせいぜい気分が悪くなるようなもの)を盛るという「毒リンゴ事件」を起こし、父親の大学当局へのとりなしで放校処分は免れるという顛末となる。こうした中で、オッペンハイマーは1926年のコルシカ島への旅行、プルースト失われた時を求めて』の読書(「おそらく彼女は悪というものが、これほど稀で、これほど非日常的で、人を疎遠にする状態であること、ほかの人たちと同様、彼女自身の中に自分が与える苦しみへの無関心を感ずることができたら、そこに移り住むことがこれほど心休まるものであるとは、考えたこともなかったであろう。この無関心は、どんな呼び方をしようとも、恐ろしくて永遠に続く残酷さの一つの形である。」という第一巻の一節を後年に至るまでオッペンハイマーは諳んじていた。)、などを経て徐々に精神を回復していく。そうした中で、彼はゲッティンゲンへの移籍を望むようになる。

 第4章はゲッティンゲン時代にオッペンハイマーが覚醒した経過が辿られる。当時のドイツの理論物理学は、ハイゼンベルクやパウリ、シュレディンガーなどによる量子力学の研究が盛んになっており、オッペンハイマーはその最末期に訪れたことになる。ここでオッペンハイマー量子力学のフロントランナーたちを世に送り出したマックス・ボルンらとの共同研究に明け暮れ、独創的な研究を発表するようになる。こうした中で国際的な名声を得てオッペンハイマーアメリカへ帰国することになる。

 第5章からは、オッペンハイマーが長らくカリフォルニアのバークレーで教鞭をとった時代のことが書かれる。オッペンハイマーバークレー校とカルテックの物理学科を兼任していたが、すぐには教鞭をとらずにさらに1年間奨学金を得てオランダに飛び、エーレンフェストのもとで研究した(が、あまり実りの多いものとはならなかったようだ)。天才的な語学力でオランダ語もすぐに話せるようになり、「Opje(オッピー、後年英語で「Oppie」となり、オッペンハイマーの愛称となる)」と親しまれる。1926年から1929年までに彼は16本の論文を発表するという驚異的な成果を挙げるに至る。「1925年から1926年にかけての第一次量子物理学の開花に参加するには、年齢的に若すぎたが、ウォルフガング・パウリの指導の下で彼は第二次の波を確実に捕らえた。彼は、連続体の波動関数の性質をマスターした初の物理学者であった。物理学者ロバート・サーバーの意見によると、オッペンハイマーの最もオリジナルな貢献は電界放出の理論であった。この手法によって彼は、非常に強い電界によって誘導された金属からの、電子の放出の研究ができるようになった。これら初期の時代に、彼はX線吸収係数および電子の弾性・非弾性散乱の計算に関する、突破口を開くこともできた。」(pp197-8)ということだが、さっぱりわからんね。ただ、量子力学の発展が様々な科学技術の進展をもたらしたということだけは分かりましたまる。

 第6章と第7章ではオッピーの幸福な時代が描かれる。教師オッペンハイマー、講義は難しいけど意外にみんな受講するという不思議な立ち位置だったようだ。後進の研究者を共同論文の執筆に誘ったり、学生たちを複数集めて様々な議論を交わしたりするなど、面倒見はよかったのかもしれない。理論物理の研究者としては、綿密な計算による論証を自家薬籠中の物とするディラックとは異なり、オッペンハイマーは直観力を活かして研究を突き進んでいくタイプの人間だった(このため彼の計算はひどいという評判だった)。また、ひとつの問題にこだわり続ける忍耐力にも欠けていたと言われる)。この時期のオリジナルな研究は「中性子星」の研究であるというが、むしろオッペンハイマーの真価を著者はこのように表現する。「実験物理学者が実験室でやっていることを理解した理論物理学者として、彼には異種の研究範囲からきわめて多くの情報を総合することができる、珍しい資質があった。」(p223)これが後年の原発開発につながっていくのだろう。物理学の研究に精を出す一方で、ありとあらゆる小説と詩を読みふけり、サンスクリット語を学んで短い間に「バガヴァッド・ギーター」を読んだという。凄すぎるやろ。

 第8章で、彼を政治に引き込んだ運命的な女性ジーン・タトロックとの出会いが描かれる。ジーンは高名なチョーサー学者の娘で精神分析を学んでいたが、同時に確信的な共産主義者でもあった。精神の繊細さを秘めていたこの2人は惹かれ合った。ジーンが交友していた共産主義者たちも交流を深め、オッペンハイマーは「政治的行動主義」の世界に足を踏み入れるようになる(1936年夏にドイツ語版『資本論』全三巻をニューヨーク行きの三日間の列車の中で全部読み上げたという。頭おかしすぎる。)。

 第9章以降は、その政治化した彼の政治的行動の来歴の詳細が丹念に辿られる。オッペンハイマーは弟フランクが共産党に入党したことを知って驚いた。そして、FBIが血道を上げて立証しようとしたオッペンハイマー共産党員説は、今でも謎に包まれているという。オッペンハイマー共産党の党員知識人たちとも交流があり、また教職員組合のために活動していたことが知られているが、しかし自身は共産党員ではなかったというのが彼自身の弁明だ。本書の著者は、恐らくオッペンハイマー共産党のシンパではあったが、党籍番号などを有する共産党員ではなかった可能性が高いと考えているようだ(そうとは明言していないが、オッペンハイマー共産党員説には基本的には否定的である。)。オッペンハイマー自身は、ナチを至上の敵と考えており、ナチがヨーロッパ戦線で快進撃を続けていく中で、文明の敵であるナチをどうにかして地上から消し去らねばならないと考えるように至る(これが彼を原爆開発へ関わらせる動機となる。)。

 第11章は、ジーンと破局したのちに、一生の伴侶である貴族令嬢キャシーとの出会いから始まる。キャシーはスペイン内戦で共産主義者だった夫を亡くした未亡人で、そしてその後すぐに熱のない結婚をした人妻だったのだが、オッペンハイマーはこれを略奪したようだ(鳩山由紀夫よりすごい)。

 第12章と第13章。核分裂反応の発見を共有されたオッペンハイマーはすぐさまこれを爆弾に転用可能であることに気づく。そして、原子力爆弾の開発研究はオッペンハイマーの旧友であり実験物理のオーガナイザーであるアーネスト・ローレンスが先に関わっていた。オッペンハイマー自身も、ドイツに原爆開発の先を越されるのではないかという考えが頭を占めるようになり、何とか開発計画に参与しようとする。そして、軍が敵視していた組合活動から距離を置いたことをローレンスに請け合った後、初期の開発プロジェクトである「ウラン会議」において、「急速爆発コーディネーター」という肩書を得ることに成功する。「その政治信条はさておき、彼はこの科学的なチームの新しい人材としては完璧であった。問題の理解力は深く、彼の対人能力は今やきれいに磨かれ、そして現下の問題に対する彼の熱意は影響力があった。不器用な科学的天才であったオッペンハイマーが、15年もたたないうちに、仕事と社会生活を通じて洗練されてカリスマ的な知的リーダーへと、彼自身を変貌させた。原子爆弾製造に関連する問題が速やかに解決されるとしたら、オッピーはその過程で重要な役割を演じるはずだと、一緒に働くようになった人々が確信するのに時間はかからなかった。」(pp405-6)。そんな彼の信念は「原子爆弾だけが、ヨーロッパからヒトラーを追い払うことができる」(p415)という考えに尽きていたようだ。そして計画は「マンハッタン計画」へと進展し、そのプロジェクトの責任者として、「アカ」であるという疑念を完全に晴らせないにもかかわらずその類稀なる才能を見込まれオッペンハイマーが推挙されるに至る、というところで上巻は終わる。

 

【雑感】

 今日も読書まとめに1時間半かかりました(昼休み30分+帰宅後1時間)。もっと効率化すれば30分ぐらいは削れると思うんだけどなあ。何かいい方法はありませんかね。