死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

「グッバイ、レーニン!」「ハロー、サトシ!」――白井聡の一件を受けて

 たまにはまあ真面目な記事を書こうかなと思いまして。

 

 皆さんご存じのとおり、京都精華大講師の白井聡がブッ叩かれている。安倍ちゃんの辞意表明会見を見て泣いちゃったと言ったらしいユーミンに対して「死ねばいいのに(大意)」と彼がFBで投稿したところ、多くの怒れる人々――良識を自称するリベラルから左翼の敵失を手ぐすね引いて待っていたネット右翼まで――が「お前が死ねよ」「これはひどい」などと批判と誹謗中傷をしまくったわけである。これに対して擁護する声が、「いや安倍が辞めることで泣くユーミンの方が頭がおかしい」と素朴にお気持ちに同調する人と、「白井聡なんて無名な学者の戯言を叩いているの異常すぎですよ?」みたいなどうもピントがずれているとしか思えない見解ぐらいしか見当たらなかったのは悲しいことである(この白井無名論をのたまっているのはDr.ナイフとかいう最近のツイリベラル界隈のホープらしいが、異邦人・きっこ・金子勝あたりのエピゴーネンを増やして誰が得するんですか? 右派は単純に気分が悪いし、左派は出来の悪い味方に後ろから刺される可能性があるので)。

 

 まあ普通に考えて誰かに対して「死ねばいいのに」って言って許されるというか見過ごされるのは俺みたいな無名の狂人ぐらいであって、大学に奉職して一応公共空間に向かって言論を発している人がやったらメチャクチャ怒られるのは当然である。その点については怒られて反省すればいいし、本人も一応反省しているようだ(なお俺の友人がは9/1付で投稿されたFBの嫌々書いたであろう反省文については、某大麻スノーボーダーの「チッうっせーな」を思い出すと言っていた。全く同感である)。ただ誰かが任意の他人に対して「死ね!」っつった後一斉にみんながあーだこーだ言いまくるのはまあ何というか、「ムラ」みが深い。この件に関する俺の結論は「白井聡は猛省すべきである。そして人類にSNSは早すぎた」に尽きる。皆さん、ツイッターをやめましょう。

 

 ただ、俺はユーミンに思い入れはないが、白井には多少の思い入れがある。「情況」で文章を書いていた彼が、左翼の狭い老人会みたいなコミュニティから一般の読書人階層に名を轟かせるきっかけとなった『未完のレーニン』(2007、これは白井の一橋大での修士論文を元にしている)を、高校3年生の時に読んで”””その時”””は非常に感銘を受けた。「うへえ、世の中にはめちゃんこ頭がいい人間がいるんだなあ。そういう人間がいた大学(白井の学部は早稲田の政経だった)にこれから行けるんだなあ」と思っていた純朴な青年だったわけだ。大学時代に入って一度だけ『物質の蜂起をめざして』(2010、これは目次構成などから白井が一橋大に提出した博士論文を元にしていると思われる)を読んだが、これは難しすぎて歯が立たなかったという記憶がある。

 

 白井に対する素朴な尊崇の念が消えたのは、『永続敗戦論』(2013)だった。発売直後に買って読んだのだが、ページをめくるごとに「ホントか?」「嘘だろ!」「バカじゃねえの!?」と声を上げている自分がいた。読後感としては、率直に言って、この本の提示する「永続敗戦レジーム」というのに理解も共感も全くできないし、こう言っていいのなら「お前がそう思っているだけでは???」と思ったわけだ。この本については毀誉褒貶が激しく、石橋湛山賞などを受賞しつつもアカデミズム的には「うーん……」というアンビバレントな立ち位置を占めてしまっているように思う。その後の『国体論』や、時評をまとめた『戦後の墓碑銘』、最近の『武器としての資本論』は読んでいない(嘘、最後の奴だけちょっと立ち読みして買わずに帰った)。たまに論座への寄稿や朝日新聞のインタビューなんかは斜め読みしていたが、その頃には「また何かいってらぁ」ぐらいの気持ちしか抱かなかった。俺の頭の中では、めちゃんこ頭がいい人(ではあるんだろうと今でも思うが)という当初のイメージよりかは、テンケテキテキ反アベお題目ペラペラマシーンとしてしか彼を認知できなくなっていた。

 

 ここまで書くと、尊敬から失望への落差は大きい、というただの人生あるあるなわけだが、安倍政権の終わりというある種の時代の画期に白井がにわかに沸騰しはじめたというのは、俺にとってとても興味深い現象だった。第二次安倍政権の初期(彼なりに言い換えるならば「3.11」という繰り返された敗戦の後)に書かれた『永続敗戦論』が、戦後日本を総決算するとして産声をあげた安倍政権に対して「いや彼らが続けてきた、そして続けようとしている体制こそ終わらせるべきだ」とした批判の書であり、そして安倍政権が終わりを迎える今、彼は現在論座に安倍政権の総括記事(シリーズもの)を書いている。この記事でも彼の舌鋒は鋭く、反対者を徹底的に貶めていて、残念ながら白井と見解を同じくしない俺(安倍政権に対する俺の個人的評価については後日記事を書くつもり)としては普通に読んでいて不愉快になるし、本人が目の前にいたら多分ぶん殴っていると思う。

 

  久しぶりに白井の文章の暴露的な断言スタイルと対立を悪戯に煽りまくる煽動の毒気にあてられて「ハァ~」とクソデカ溜息をついたのだが、ふと疑問に思ったのが「そもそもこの人は今何を研究しているの?」ということである。Ciniiで検索をかけても、『永続敗戦論』以後は時評的な文章ばかりが目に付くだけだ(しかしその量の多さには脱帽である。この生産性は当ブログも見習うべきところである)。本当に何でも論じている。タイトルだけ見ても、安倍政権批判はもはやお約束だが、アメリカ大統領選、生業訴訟、沖縄問題、シャルリー・エブドへのテロ、大学改革……等々。媒体はサン毎や金曜日のほか、文藝春秋新潮45、潮、atプラス、Kotoba、ユリイカ現代思想……等々。対談も多くこなしている。こりゃスゲェ忙しいだろうなというのが正直な感想だ。これで研究をしているのだとすれば本当に超人的な左翼という感じがする。

 で、論文は? と思ったが、あまりそれらしいのが見当たらなかった。シンポジウム報告要旨が倫理学研究にあり、『国体論』評への応答が大学紀要に載っている。ただ、どちらも『永続敗戦論』や『国体論』の延長線上でしかない。そこで次の疑問がやってきた。あれ、そういえばレーニンはどうしたんだ?

 てっきり俺は京都精華大レーニンでも研究して、その傍らで『永続敗戦論』や『国体論』、そして種々の時評を産出しているのかな……とずっと思っていたのだが、調べてみるとそういう痕跡はない。大学でレーニンを教えてるのかと思い、京都精華大シラバスを調べたところ、今年の「シティズンシップ・スタディーズ」ではニュースの見方を、「社会研究概論」では『資本論』を教えているらしい(それ以外は1年生用の基礎演習や卒論指導などだった)。前者の参考文献に彼のYahooニュースのリンクとFacebook、後者の購入必須テキストには『武器としての資本論』が指定されていて笑ってしまった。結局、現在の白井はレーニン研究を少なくとも対外的に見える形では行っていないようである。

 ところで、『増補新版 物質の蜂起をめざして』(2015)の増補新版まえがきで白井はこんなことを書いています。

 

一区切りをつけた自分の仕事について、付け加えてものを言うことは難しい。この本(評者注:『物質の蜂起をめざして』(2010)を指す)を出したのが五年前、その後にあの3・11原発震災があり、その衝撃から私は『永続敗戦論――戦後日本の核心』を書くことになった。(中略)同書は時事政論的な側面をかなりの程度持つものであるが、こうした時事的著作を自分が書くことになるとは、予想もつかなかったことだった。そして、『永続敗戦論』をきっかけに、各種の媒体で時事論的文章を相当の頻度で書くことにもなっている。これは、3・11以降、第二次安倍政権の成立を経て、日本の政治状況の悪化、社会的危機がますます切迫しているという事実によって、私の学究生活に生じた変化である。(p2)

 

 つまり、白井にとって時事的な文章を書くことは必ずしも自分の学究生活において想定していなかったということである。もしあの震災がなければ、白井はレーニン研究を続けていたのだろうか。それとも別の研究に進んでいたのだろうか。確かなのは、かの経験が『永続敗戦論』を嚆矢として、彼を現状の評論に駆り立て、そして彼は安倍政権の終焉が確定してもなお消えぬ嫌悪感を論座に叩きつけている。

 

 ここで白井が続けるのは、レーニン研究と時事評論の連続性である。

 

レーニンの政治思想研究と戦後日本政治論という二つのテーマは、一見つながりが薄いかもしれない。しかし私は、いま危機の時代――それは「永続敗戦」レジームと私が名づけた体制が、崩壊の危機に瀕して、自己存続を図ろうと死に物狂いの抵抗を行っていることによる危機である――のなかで、数々の時事的言論を展開するにあたって、自分がレーニンを研究したことを心からよかったと感じている。なぜなら、レーニンのテクストは、権力批判の言論をどのように構築するべきなのかについてのこの上ない見本であり、また、政治闘争において信用できる同盟者と心を許してはならない同盟者(究極的には敵である者)をどうやって見分けるのかを、これまたこの上なく明瞭に教えてくれるからである。(同)

 

 オッそうだなとしか言えない。レーニンについては『帝国主義論』をサークルの読書会で読み、ついでに『国家と革命』と『哲学ノート』を流し読みしただけの不誠実な読者なので、はたしてレーニンを読みまくれば、権力ディスの心得や写輪眼みたいなのを体得できるという白井の言説を肯定も否定もできない。

 だが、厳しいことを言ってしまうと、白井にとってのレーニン研究は、時事的言論の基礎体力を構築したトレーニングに過ぎなかったのかもしれない。

 

本書の主に第二部に収められた諸論考に明らかであろうが、私のレーニン研究は、レーニンを現代政治思想のなかに位置づけようという試みでもあった。あるいはそれは、「現代政治思想」と呼び習わされている学問ジャンルのなかでレーニンを取り扱うことは不可能であることの証明であったかもしれない。いずれにせよ私は、現代の政治理論に介入する意図を持った論考を書いたのである。それは、現代自由民主主義の前提を絶対的条件として思考することへの批判であった。無論、本書は自由民主主義のパラダイムを超えるものをまだ積極的に打ち出せてはいない。その代わりに、レーニンを現代政治思想のなかに位置づける試みは、政治思想史そのものを組み替え、語り直しを要求することを、本書でなされた考察は示唆している。その作業はおそらく、「力の思想の系譜学」とでも名付けられるものの構築として展開されねばならないだろう。(p3)

 

 白井は明示的にそう言っているわけではないが、一文一文のほとんどが過去形で締めくくられ、そして自身の研究が今後の政治思想史の語り直しを「要求」はしたが、今後の研究として「展開されねばならない」とどこか他人事だ。最初の文章で「一区切りをつけた仕事」として位置付けている以上、彼がこれ以上のレーニン研究を展開する積極性をこの文章から読み取ることはできない。

 「現代政治思想」という学問ジャンルでレーニンを扱うことの不可能性。これについてはよくわからない。ただ、この「~かもしれない」で閉じられる文章に響く挫折感については、俺としては思い当たる節がないでもない。白井の処女作『未完のレーニン』にはかなり重要な批判がなされているからだ。太田仁樹・岡山大教授の下記研究ノートである(リポジトリに公開されている)。

「研究ノート:マルクス主義理論史研究の課題(XV)-白井聡著『未完のレーニン:〈力〉の思想を読む』によせて-」

http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/1/12403/20160527192227130013/39_3_043_056.pdf

 

 白井はこの著作でレーニンの『何をなすべきか』と『国家と革命』を重要な著作として位置づけ、この2著を精読することで、資本主義の「外部」、つまり資本主義以外の世界の可能性を導き出すためにレーニンが到達した〈力〉の思想を取り出すことを目標に掲げた。しかし、研究ノートでは、そもそも『国家と革命』はただの時論に過ぎないし、『何をなすべきか』における革命的意識の「外部注入論」について、フロイトをオーバーラップさせて読み解こうとする白井の手法では意味がなく、外部注入論の本質を見誤っているという手厳しい指摘だった。一言で言えば「お前はレーニンが読めていない!」というものである(何か「お前は○○が読めていない!」という批判に、申し訳ないが左翼的古臭さを感じなくもない)。この批判は「本稿は,マルクスレーニンの議論と白井氏の議論が相違していることのゆえに,白井氏を批判しようとする意図を微塵も持たない。マルクスレーニンと異質であることはまったく悪いことではない。だが,マルクスレーニンとは異質な自分の考えをマルクスレーニンの考えと同じものだと主張するのは,自分を貶めること以外のなにものでもない。研究対象と自己を同一化しないことが思想史研究の要諦である。」とかなり手厳しい。

 今回この記事を書くにあたってツイッターの反響も調べたのだが、白井が学会の場で太田に自身のレーニン研究を批判されたという証言もある。学会ではなくても、左翼の勉強会で白井のレーニン理解が某左翼に問いただされるという嫌な現場についてのnote記事も見た。つまり、白井のレーニン読解は複数の人から疑義を提出されることがあった、と客観的に言うことはできるだろう。

 なお、太田は『未完のレーニン』についてレーニン研究書としては失格の烙印を押している(とまでは言っていないが、もうそれに等しい)が、白井自身の理論としての評価は注意深くも避けている(もっとも、白井が現状認識のために引用しているネグリ=ハートの『帝国』は妄想だとかなり手厳しいことも言っている)。ここは大事なことで、『未完のレーニン』に少なくともアカデミズムの著述として期待しうるようなレーニン研究を見出すことは難しいかもしれないが、それをもってこの本はクソ!と即断してしまうのもどうなのかなと思う(なお、レーニン研究としてはお粗末なのに、一橋大の修士論文として通ったということはまた別問題である)。白井自身、『未完のレーニン』では「本書がおこなう読解の作業は、単にアカデミックなものではない。」(p15)と端的に述べている。「単に」という表現からすると、一応アカデミックな体裁は整えているが、目標としてはそれ以上のものを設定したということなのだろうか。しかし、太田からすると思想史研究の要諦を踏まえていないという意味ではそもそもアカデミックですらない。悲しいねえ。

 先に述べたように俺は白井や太田の1000分の1もレーニンを読めていない、というか読んでいないので、白井と太田どっちに分があるかを明確に判断することはできない。ただ、『未完のレーニン』は今読み直している途中(その成果も後日ブログで表したい)なのであんまり詳しいことは言えないのだが、確かに肝心なところでレーニンのテクスト以外の補助線(フロイトはもちろんのこと、ムフ=ラクラウ、シュミット、宇野派など)が引かれまくる印象がある。

 思想史の方法論に拘るとかなり面倒くさいのだが、比較思想ということでレーニンフロイトを俎上に載せることは別に悪くないと思う。「外部」という観点をとっかかりに、フロイトの「モーセエジプト人説」や「原父殺し」を援用し、それをレーニンの「外部注入論」が実は「労働力の商品化」というトラウマ的事態の隠蔽としてどうこう……という話(だったと思う。不正確だったらごめんなさい)なのだが、俺が読んでて思った疑問は「これそもそもの問題設定があまりにフロイト寄りじゃね?」ということだった。これでは確かに太田からレーニンのテクストに向き合うことなく「フロイトに逃げている」と指弾されてもおかしくないように思う。

 この程度の印象論でしかないが、白井に対する太田批判はかなり妥当なものだとは思う。傍証でしかないが、千石好郎(https://core.ac.uk/download/pdf/230506833.pdf)は太田の白井批判を「適確な批判」として紹介している。また、神戸大の渋谷謙次郎(

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81010434.pdf)は、レーニン研究史整理で白井のレーニン研究を「思想史的探索と異なって、フロイト宇野弘蔵アントニオ・ネグリといった現代思想の潮流を摂取したうえでの、革命思想としてのレーニン主義を再評価し、よみがえらせようとする、あえてレーニンにコミットした著書である」と評価する。こちらも白井の研究を思想史という学問ジャンルの中に位置づけることを避け、「レーニンにコミットした著書」という曖昧な評価を下している。コミットってなんだよ……。

 

 ここまで書いておいて恐縮だが、俺は白井はアカデミズムじゃねえからクソ、と言いたいわけではない。大学生の時は「アカデミズムか否か」はかなり重要な判断基準だったかもしれないが、今自分がアカデミアの外に生きていることを考えると、その腑分けにこだわってもなあという思いもある(もちろん、アカデミズムの著述には敬意を払っているし、アカデミズムとジャーナリズムどっちを信頼するかと言えば心情的には前者である)。しかし、ここで先ほどの『増補改訂版 物質の蜂起をめざして』のまえがきに戻ると、白井にとってのレーニン研究を「現代政治思想」という学問ジャンルに位置づけることの不可能性、言い換えるとレーニンについて書くことを学問としてやっていくことが難しいと感じた原因が上にあげたような批判であった可能性はある。管見の限り(といっても白井がものした断簡零墨を全部読んでいるわけではないが)では、白井がこうした批判に応答しているようには思えない(応答してたらマジでごめん)。「挫折」から方向転換して『永続敗戦論』以降の仕事に向かっていったとしたら、それはそれで悲しい話かもしれない。

 ただ、白井はあくまでポジティブに、かの「まえがき」でこう語っている。引用を続けよう。

 

私のやってきたレーニン研究と『永続敗戦論』以降の仕事が連続したものであることを、いまや誰でも理解できるであろう。(中略)『永続敗戦論』の著者として、自分がレーニンについて書いたことを振り返ると、非常に僭越ではあるが、こう言いたくなる。「レーニンのように書くことは、レーニンについて書くよりも、愉快で有益である」、と。(中略)私は、「レーニンの教え」を機械的に繰り返すだけの、不愉快で無益な「レーニン主義者」には何の興味もないし、本書はこれらの人々のためのものではない。本書を通じて、語の最良の意味で「レーニンのように書く」人々が数多く現れることを、私は願ってやまない。(p4)

 

 これを読んで俺は変に納得してしまった。なるほど、安倍政権やそれを支持する人々、「敗戦」を否認し続ける日本国民、そして愚劣な知性を有する人間などに対するこれでもかという罵倒は「レーニンのように」やっていただけなのかと。これはかなりひどいあてこすりで、実際に白井はここではレーニンのように権力批判と友敵関係を分析したと言いたいわけで、左翼小児病とかそういうディスをばら撒いたということではないことは俺も重々承知している。しかし、我々は『哲学ノート』で熱心にヘーゲルの叙述を飲み込もうとパラフレーズに努力したり、『国家と革命』でマルクスエンゲルスのエッセンスを抜き出そうとする真摯な革命理論家としてのレーニンと、敵対者に対して容赦ない批判を浴びせ、時には冷徹な決断も下す(それには死も伴う)残酷なレーニンを両方知っている。白井は本意ではないかもしれないが、両方の「レーニンのように」実践しているのかもしれない。

 そうだとすれば、安倍ちゃんの辞任に涙するユーミンに対して「荒井由実のまま夭折すべきだったね」「早く死んだほうがいい」と舌砲を浴びせたことは当たり前と言えば当たり前かもしれない。白井からすれば病気の辞任はただの演出に過ぎず、そしてそれを真に受けるメディアと国民全てがバカバカしいという怒りがあったのだと思う(この白井のお気持ちについては是非論座の安倍政権総括記事を読んでください。残念ながら俺はシェアする気にはなれない)。だが結局のところ、「現代自由民主主義」の前提を信じる多くの人々にとっては「不穏当」で「行き過ぎ」た「暴言」として受容され、そして「許されざること」のように映り、彼には相応の社会的サンクションが与えられることとなった。

 今回の一件で彼に対する批判としてよく見たのが、「見解が違う人間に対して死ねと言うのはどうなのか」という議論である。しかし、白井は多分こう言いたいに違いない。「まえがき」をもう一度引こう。

 

自由民主主義の政治思想は、「対話」を好み、「法の支配」を好む。今日、このイデオロギーの信奉者は、果たして原子力ムラの住人と「誠実な対話」が可能であるのか、自己利益のためには立憲主義を公然と軽蔑する権力者に「法の支配」を説くことが可能であるのか、とっくり自問自答してみる必要があるだろう。蛇足ながら言えば、私自身は「対話」や「法の支配」を軽蔑しているわけではない。それらが実現されることを望んでいる。しかし、私が強調したいのは、それらの諸価値が実現される条件のないところで、それらを金科玉条視することは、権力批判の手段を失うこと、また敵の出方を見誤ることに必ず帰結する、ということだ。要するに、自由民主主義の諸原則をあくまで相対的な価値として取り扱わなければ、政治闘争など不可能だ、ということにほかならない。ゆえに、今日の危機の最中で、真に有効な批判を組織できるのは、リベラル・デモクラットではない。「レーニンを経験する」ことが、現在の危機に本気で対処しようとする人には皆、求められているのである。(p3)

 

 これは2015年段階の白井の見解だが、今やこの認識はさらに先鋭化されているとみて間違いはないだろう。ここで言われる「原子力ムラの住人」は、今では「安倍政権とその支持者」に言い換えることが可能だと思われる。だが、対立する相手との対話の可能性を放棄した後に訪れるのは、シュミット的な厳然たる友敵関係であり、存在論的に相手を否認することにほかならない。「早く死んだほうがいい」という表現は、不気味にもその事態を裏書きしているように思う。ユーミンは、白井の先鋭化しすぎた危機意識から開始された「政治闘争」の犠牲者である。だがこの犠牲者はユーミンだけにとどまるだろうか? そんなことはないだろう。奇しくも安倍政権の継続性を担保する菅政権の誕生は秒読みである。森友・加計問題の再調査は絶望的だし、自民党の自浄作用に期待するのは「宏池会幻想」をまともに信じている奴だけだろう。そしてそうであればこそ、この政治闘争はますます先鋭化される。『何を為すべきか』に書かれたように、白井は職業的革命家よろしく今後も人々に向けて「暴露」や「煽動」を続けるはずだ。あのしんどくなるような鋭さとマルクスレーニン主義的なレトリックでこの深まりゆく対立を煽り続けるだろう。その時、白井=レーニンと一緒になって踊るのか、一歩立ち止まって自由民主主義の前提に賭け金を投じるか――。俺はどうしようか。仕方ない、『未完のレーニン』と『物質の蜂起をめざして』を読み直すか。そう思った次第である。

 

 ……何か最後の方はアジ文っぽくなってしまった。『増補改訂版 物質の蜂起をめざして』の「まえがき」という、たった3頁のテクストで白井について云々することが無理筋なのは俺もようく分かっている。しかし、あえて白井の『未完のレーニン』のように、恣意的(というと失礼かもしれないが)にテクストを選定して、その人の主張を浮かび上がらせるというのをやってみたのである。これが意外に上手くいってビックリしている。上手くいきすぎているからこそ、そこでどれだけ疑問を持てるか、自制心を持てるかがアカデミズムなのかもなあと思ってしまいましたね、はい。

 最後に。この記事は印象批評以上の域を出ていないもので、あくまで俺のお気持ちに過ぎないことをお断りしておきます。