死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

2021年3月に関する報告

 1か月が経つのは早いもんですね。ずっと続くんだろうなという淡い幻想を保ち続けられる程度には長く感じていた4年間の大学生活よりも長く社会人を続けているが、どうも駆け足に過ごしているのは否めない気がする。1日に織り込まれる諸々が起床→通勤→労働→休憩→労働→退勤→食事→風呂→睡眠に捨象できるぐらい単純な繰り返しであれば、確かに歩くスピードは弥が上にも速くなるのだろうか(ここに「読書」だの「映画鑑賞」だの「ゲーム」だの趣味のひとつも入らないところに悲哀を読み取ってほしい)。

 

 仕事。相変わらずクソだが、多少はマシになってきた。労働時間が大幅に減少したためだ。相も変わらず周りは愚痴のひとつやふたつも顔をしかめるワーカホリックだらけ、取引先は人権剥奪週間になったら真っ先にクロスボウ(規制される前に買うぞ!)で撃ちたくなるような連中ばかり、折衝や調整という人間的営みで精神的放射能を浴びまくってメンタルがガイガーカウンターの音よろしくガリガリやられている。それでも、そんなことに従事する時間が少しでも減れば「マシ」と言えるぐらいにはなる。だからこそこの傾向を持続させること。それだけが俺の救いなのだと最近ようやく分かってきた。無駄に頑張って「俺はできる子なんだ!」とアッピルするのはせいぜい高校の文化祭までにしておきたいところだ。まあ俺は高校の文化祭はシンナーの匂いで占められていたので今ここでできる子アッピルしないと一生機会が回ってこないことだけは確かだ。

 

 労働時間が減った分、人生を豊かにできましたか?とカウンセラー気取りのバカに聞かれたらここが日本でも44口径のマグナムを探すだろう。壁にくっついたそいつの脳漿を見て初めて「これが豊かさやな」と言い返す余裕が生まれる。つまり今の状態はよくはないってことです。結局家に帰ってもゴロンとファットな肉体をベッドに預けて、スマホでネトフリやアマプラをちょっと見ていて気付いたら寝ている。なかなか机に向き合う習慣を築けない状態だ。3~4日ぐらいは何とか椅子に座りながら読書や書き物ができるが、それ以上になると「まあ1日ぐらいいいかな」と思い寝転がってしまう。そしてそのまま机に再び向き合うのに1週間はかかる。このブログを書こう!と思ったのが今週初めての机とのセッションである。このオンボロクソゲーミングPCもファンを大音量でかき鳴らしながら喜んでいるようだ。

 

 ネトフリで何を見ているかというと、アメリカン・シットコムとかガンアクション映画である。前者は一言で言ってしまえば代理経験になる。大学時代も前職も俺は他人様に狂ったジョークを喋り散らすことでクソッタレ人生を埋め合わせていた。過去の経験から女性と目を見て話すことができず、レイプものAVの竿役(俺に性欲があればまさに天職だ!)に出てきそうなぐらい毛深く不潔感丸出しで、だからこそ嫌われる前に人間(特に女性)が徹底的に嫌うという21世紀の生きづらさよくばりセットみたいな俺が唯一自分の人生を肯定できるのは、品のないテーブルトークで笑ってくれる人のおかげなのかもしれない。今そういったことができる機会はとても少なくなってしまった。シットコムはもう少し上品だが、とにかく誰かがバカなことを言うとそれを大バカなことで被せたり、あるいは上手く返すことができる。最近見ているのは『フラーハウス』(これは一番上品)、『Mr.イグレシアス』(これもウィットがある)、『The Ranch』(これは典型的アメリカも感じさせる)、『リッチー・リッチ』(Eテレ向けなのに狂っているあたり古き良き『アイ・カーリー』を感じる)など。後者もやはり代理経験だ。誰かぶっ殺したい時の。

 

 しかし、読書もまあしなかったわけではない。最近やり始めたのが、メモを取ることだ。これをやると時間がかかるし、腕が疲れるし、揺れる電車の中でやると悲惨なことになるが、しかし記憶には残らなくても記録には残る。ひょんなことがあって俺が後ろを振り返ろうと思ったら、そこに何か目印があるのは決して悪いことではない。このブログも同じことだ。何せ俺はスマートフォンを2年ごとに乗り換えるのに1度だってデータを引き継いだことがないので、もう2016年~2020年の写真はsayonara sayonaraしちゃっている。

 

 試しにメモをもとに軽く読んだ本について書いてみようと思う。全部図書館で借りた本で既に返却済み。つまり、俺には頼りげのない記憶、それと汚い殴り書きの要約と抜き書きだけで勝負する。配られたカードでやるっきゃないのだ。

 

 リチャード・バーンスタイン『暴力』(法政大学出版局、2020年)。バーンスタインプラグマティズムの流れを汲む哲学者でもありながら、哲学史の素養も深い。カントからアーレントまでの「悪」概念を丁寧に分析しつつその射程と限界を丁寧に論じた『根源悪の系譜』は記憶に新しいだろう。本書ではシュミット、ベンヤミンアーレント、ファノン、アスマンの行論を検討しながら、「暴力」とは何を指すのか、それは如何なる場合において「正当化」されるのかといった論点を考察していく。

 

 シュミットの自由主義批判には、彼の鋭い批判それ自体が諸刃の剣であることを指摘しつつ、ある種のイデオロギーが暴力を相手の絶滅にまでエスカレートさせる可能性を喝破した点に価値を認める。ベンヤミンが『暴力批判論』において残した意味深な二項対立「神的暴力」と「神話的暴力」については、彼のテクストを辿りながら、マルクーゼ、クリッチリー、バトラー、ジジェクデリダらの解釈を批判的に検討しつつ、ベンヤミンにおいては認められるべきであろう暴力とそうでない暴力を弁別することへの問いが訴求力を持っているとする。アーレントの有名な「権力」と「暴力」の区別(そして彼女が理想化したアメリカ革命においてすらそれらが結合せざるを得ないディレンマ)から、彼女が如何なる暴力においてもその「正当化」の契機には敏感であり、批判的であろうとしたこと、つまり「思考」を働かせようとしたことに読者の注意を喚起する。ファノンには、植民地支配に対する暴力的抵抗が、そもそも植民地支配そのものが暴力である以上は正当化せざるを得ないこと、一方でしかしそうした暴力の応酬をいずれは辞めないとその地が終わってしまうことを認識していたことを析出する。そして『エジプト人モーセ』などの著作で知られるアスマンについては、モーセ的区別という概念を導きの糸として、排他的な「宗教的暴力」常に「抑圧されたもの」として回帰することを説く。最後にこれまで検討してきた各論者をクロスオーバーさせつつ、暴力の性格(それが変幻自在でしばし「合法性」を伴うこと)、暴力の「正当性」については一人一人への倫理的要請ではなく、公的な中で議論するべき「政治的判断」が必要になるとして締めくくっている。

 

 各論にはそれなりの納得感があったけれども、結論自体は何かありきたりやねとなってしまった。また、個人的にはアスマンに関する検討はかなり消化不良感があったし、シュミットの読み方も片面的だなという気がしました。ただ、テクストの読み方や批判の仕方も含めて勉強になったし、読んでよかったとは思いますね。

 

 エリザベス・ヤング=ブルーエル『なぜアーレントが重要なのか』(みすず書房、2008年)。ヤング=ブルーエルはアーレントの数少ない高弟の1人で、師の浩瀚な伝記をものしたことでも知られる。そんなヤング=ブルーエルが、改めてアーレントの著作を読み解き、その現代的な可能性を照射する試みの小著。

 

 主に検討されるのは『全体主義の起原』(ヤング=ブルーエル曰く全体主義的な兆候を判断するための「実践的マニュアル」)、『人間の条件』(政治的生の「入門書」)、そして最晩年の著述で最も難解とされる『精神の生活』(哲学と政治を結合しようとした著作)である。いずれの著作にも、アーレントの思考に特徴的な「新しさ」を見極める営為が見て取れると著者は指摘する。「以前の概念(統治、自由、権威など)を調べ上げ、それが人間の経験をどう示して来たか、そして今経験がどう変わりつつあるかを示す」営みこそがまさにアーレントの得意としてきたことである。そしてヤング=ブルーエルはそれを引き継ぐ形で、アメリカの対テロ戦争に始まる一連の政策(それが如何にプロト全体主義的か)、南アフリカにおける「真実和解委員会」の取り組み(アーレントが断片的にしか取り上げなかった「許し」の可能性)など、アーレントが見ることのなかった世界のアレコレを取り上げて、アーレントが生きていたら見ていたであろう「新しさ」を剔出することを試みている。

 

 この本を読むと、確かにアーレントを読み直さなきゃという気にさせられる。その意味では非常にヴィヴィッドな小著だが、一方で訳者あとがきで矢野久美子が紹介しているダーナ・ヴィラの指摘のとおり確かに「キリスト教アーレント」が強く押し出されている感は否めない。

 

 長野晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』(風行社、2021年)。「政治神学」や「政治的なもの」といった政治思想的な概念が独り歩きしつつあるシュミットだが、ここ最近は松本彩花や古賀敬太によって、日本でもヴァイマルの時代情勢や当時の公法学の文脈に置き直されて「歴史的」に研究される契機が増えてきたと思う。本書はその中でも最も優れた業績であると言ってもいいのではないか。少なくとも日本のシュミット研究としては、和仁陽の『教会・公法学・国家』、大竹弘二の『正戦と内戦』に匹敵する出来栄えといっても過言ではない、ような気もする。

 

 シュミットにはイェリネック以来の「一般国家学」体系に関する著述を世に問う計画があった。しかし、それは結局頓挫し、彼の体系的著述は『憲法学』として結実する。何故「国家学」ではなく「憲法学」なのか。シュミットの「国家学」はどこへ行ったのか。この問いを長野は同時代の法学者・国家学者の著述を徹底的に博捜し、シュミットの著作と比較検討しながら、彼の「国家学」構想の始まりから終わりまでを浮き上がらせる。そこには、初期の著作において検討されてきた憲法制定権力や均衡概念が如何に『憲法学』の中に組み込まれたか、またスメントの動的な国家理論に対して如何にシュミットが静態的国家概念を墨守しようとしたが、結局のところ私的利害対立が主要問題となる「経済国家」において動的な国家概念を受け入れざるを得なかったことなど、内容はてんこ盛りである。

 

 錯綜する問題系を同時代の文脈に置き直しつつ綺麗にまとめていく力業には素直に「スゲェ」と思ってしまった。シュミットの日記や書簡はもちろんのこと、同時代のドイツ公法学の文献が粗方参照されており、かなり理想的な基礎作業のもとに築き上げられているなと実感した。こうした優れた研究書が世に出てくると、人間社会も捨てたもんじゃないと思いますね。俺は人間社会から捨てられましたが。

 

 ……とまあこんな感じである。カスみたいなメモ書きから構成したにしては、何とか紹介の体をなしている気がしないでもない。もちろんこれよりも詳しく紹介することは可能だが、普通に俺の体力が持たないので勘弁してほしい。今また別の本を読みながらメモをとっているので、来月こういう紹介ができたら嬉しいですね。

 

 さて、映画も観ましたよ。シン・エヴァとDAU/ナターシャですね。前者はもう一生俺の心に秘めておくつもりです。ありがとうさようならエヴァンゲリオン。それだけ。

 

 DAU/ナターシャについて。これは元々ランダウの伝記映画とってたら「ソ連再現してみいひんか?」みたいな狂った想念が人々の間を悪霊の如く駆け巡ったらしく、結果メチャクチャな人・モノ・カネ・スペース・時間をかけてソ連全体主義を地上に呼び覚ましてしまったらしい。大規模降霊実験じゃん。アホとしか言いようがない。

 そこから切り出された連作フィルムの第一作は、激ヤバ頭おかしおかし研究所(何かS.T.A.L.K.E.Rに出てきそうな三角錐モノリスに人間をいれてる)に併設された食堂で働くウェイトレスのナターシャ目線で描かれる。仕事して、飲みまくって、喧嘩して、仕事して、飲みまくって、セックスして、愛や人生を語って、仕事して、大泣きして、飲みまくって、喧嘩して、拷問されて、嘘の密告をするという話。何か冒頭で書いた俺の1日と同じくらい単調だな。単調なので映画的には何も起こらないのだが、観ていて所々不安になる。「このセックスシーン長すぎひんか?」「この馬鹿どもの飲み会いつまで見せるんだ?」「おめこずっぷうはいるのか?」等々の疑問が沸き起こってくるのだが、ある種の生々しさと言いようのない不気味な感じが全編のトーンとしてあり、それを成り立たせる重要な要因がこの不自然なカット群なのだろう。

 これがソ連全体主義再現!という前情報もなく見に行ったらなんだこのクソ映画は金返せってブチギレそうになったと思うが、前情報を入れた上で見てみると「嗚呼これが全体主義なのか」と妙に納得を得てしまった。ナターシャとオーリャの繰り返される諍いに象徴されるのは、「決められた配置」に「決まった分だけ」働かざるを得ない人間のいつ終わるとも知れぬ往還運動への抵抗である。そこに離脱の契機は用意されておらず、彼女たちには食堂の酒をくすねて乱痴気騒ぎをした挙句毎日くだらないことで喧嘩することで、この全体主義の巨大な円環にさざ波を立てている。だが結局それもMGB(いくつかの紹介でKGBと書かれているがこれは間違い)の突然の介入によって、ナターシャは完全に円環の一部となる。営業時間終了後に雑巾がけをするかどうかという冒頭と同様の理由で繰り返される諍いの中でナターシャがオーリャに向けて言い放った「これが最後だから床を拭きなさい!」というセリフをラストに持ってきたのは、彼女が完璧に体制側に組み込まれたことを暗示するのだろうなと思いました。ちなみにこのDAUプロジェクトからはあと14本ぐらい映画が出るらしい。正気か?(これはオタクがよく言うアレではなくマジで精神の正常を問うています)

 

 最後にこのブログの自己満足であるドラえもんと俺の真剣勝負をします。

 

 「やどり木で楽しく家出」。今シリア難民が欲しいひみつ道具ベスト10には必ず入ってると思いますね。着払い難民を次々強制送還する恥さらし国家日本に手あたり次第埋めまくってほしい。家の敷地にこの木を植えるとその家でおもてなしを受けられるというクソいい道具です。まああとは原作を読めというレベルの話なのですが、俺が気になったのは二点。1つは未来デパートの送り間違い。21世紀のAmazonですらこんなんしないだろとかいうレベルの間違いをしているあたりが酷い。「ドラえもん」と「ドラ太郎」の区別もつかないで物流に関わるんじゃないよという気持ちがある。もう1つは練馬区の文化教養レベルであんな家があるかい!という狂ったツッコミです。

 「のび太の流れ星」。完全にOZROSAURUS「星を願う」の再現回でしたね。ハートにgun引くかトリガー カートコバーンみたくHard Drugみたいな回だった(これはマジでそう思っている)。

 「剛田、いつ?」。悪辣なUber Eatsオマージュ回でしたね。ある程度ロボットに労働を肩代わりさせているであろう22世紀でもギグワークがあって労働者を搾取し放題なのマジで笑えない冗談でしたね。あと最後に出てくるサウジアラビアの王様の周りにいるダークスーツの連中、どう考えてもカショギ氏に関わった連中っぽくてドラえもんはいつからこんなヘビーな国際情勢ジョークをブッ込むようになったのか。

 「ぼくを、ぼくの先生に」。バカが勉強しろ。以上。

 

 いろいろなことを論じましたが、最後にひとつ。今月は悪くなかった。