死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

取りて、読んで、メモをして――読書ノート体験記

0 はじめに

 1年に1回は真面目で長々とした記事を書きます(前のエントリでしばらくブログ更新しないと言いましたが、これは書きかけだったのでとにかく完成させて提出します)。

 

 このブログで多少ともアクセスされている記事が以下の漫談でした。


perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 そんなに力を入れた記事ではないが、何故かアクセスがよいので、多分みんな似たような悩み(つまり読書する時に抜き書きを作るなり、線を引くなりした方がいいのか、それによって何か効用が得られるのか、コスパどうなのか、などなど)を抱えていて、玉石混淆電子情報大洋をdigっていたら、かつて栄えた温泉街の死にかけスナックより寂れているこのブログに辿り着いてしまったのだろうと推察します。そういう時はインターネット寒中水泳をギブアップしてさっさとあったかい布団を引っかぶろう。大事なことはいつだって夢が教えてくれる。最近は夢を見ないという俺と同じ悩みを持っている諸氏はメアリアン・ウルフとかニコラス・カーの著作を読んだらええ。あとは高名な知的ライフハカーこと読書猿氏の『独学大全』でしょうか。少しインターネットのどぶさらいをしたら、大学院生とか大学生とかその他諸々がハックを公開しているので参考にしましょう(陰キャなのでリンクは貼りません。怖いから)。

 

 ちょっと話が逸れてしまうが、適切な知的ライフハックさえあれば僕も私も複数の外国語の記事や論文が読めて多くの本を正しく理解できてあるテーマに関して建設的な意見交換ができてウハウハの知的生活が送れる……というあまりに都合がよすぎる話を人は信じやすいっぽい。まさにそうした人々の信念を、上掲の『独学大全』がバカ売れているらしいことが傍証しているように思う(個人的にはあの本はこの手のハウツー本の決定版だと思うが、その後も『〇〇大全』という形で読書猿氏以外の本が雨後の筍よろしくたくさん出ていて笑ってしまった)。『独学大全』それ自体は独学に関する様々な方法論を紹介し、それを実践のレベルにまで落とし込んで吟味した非常に優れたプラクティスの本である。である以上、実践しなければ意味がない(筋トレの本を買って読んで満足して次の日に腕の筋肉に変化があるとしたら、それはその本がよほど重かったのだろう)。

 現に俺もあれをKindleで買って全部読んだのだが、ポモドーロ・テクニックとか習慣レバレッジとか鈴木式6分割ノートとか「ほー、へー、すげー」と思ったけど、それでおしまいである。俺はかの本をプラクティスの本だと理解しつつも、結局のところ人々のやっていきに関する情報の集積として、言ってしまえばカリエールの『万国奇人博覧会』と同じノリで摂取してしまったのである。結果、今の俺は『独学大全』を読み切る前と大して変わらない生活を送っている。読書猿氏のありがたい教えを全無視して今に至るアホです。

 

 とはいえ、じゃあこのままアホのまま何もしないわけにもいかないとは思い始めた今日この頃である。というのも、このブログでも頻繁に言及しているが、俺の脳はいよいよもってアテにならなくなってきたからである。読んだ内容をすぐ忘れることはもはや日常茶飯事なのであまり気にしていなかったのだが、ついにある本を読んだことすら忘れたのである。再読ではなく二回目の初読という椿事が発生した。

 ※ちなみに、トゥキュディデスの『戦史』を読んだのに1か月経ったら内容を忘れたという話は以下のエントリでもしたが、今回の事態はそれとは全く質が異なることは付言しておく。この時は読んだ内容をほとんど忘れていたとはいえ、一応トゥキュディデスを読んだということは覚えていたからだ。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 多分もはや知的ライフハックでどうにかなる問題ではなくて、普通に脳の検査を受けなきゃいけないのかもしれないが、そんな事態を受けて危機感を覚えた俺は、今年の3月に入ってからアマゾンでちょっと高いノートとボールペンを買って何冊か本を読みながら簡単な要約というか、読書ノートを手書きで作り始めたのである。

 さて、長い長い前置きにサヨナラバイバイして、本題に入ろう。本エントリはその1か月程度の体験の中間報告である。ジュリア・ロバーツが世界を旅する感じにはならなさそうですね(タイトルを回収するスタンス)。

 

 ↓ちなみに買ったノートはこれです。何故なら黒い表紙だったから。俺たちはみづなれい、じゃなかった中二病を卒業できない。

 

 

1 読書ノートの目的について

 読書ノートを作るにあたって自分の中で明確な目的意識を持つことにした。

 陰キャなので否定から入ります。まず、正確さや内容の豊富さは求めないこととした。叙述の贅肉を削ぎ落して主張を簡便かつ的確にまとめたレジュメを作ること、あるいは将来するかどうかもわからない引用のためにページ番号付きの抜き書きの山をほいさほいさと作るのは、フルタイムの労働者がやることではない。それは人文主義者2.0に任せよう。

 それではどのような読書ノートを作るべきだろうか。まず最低限の条件として、自分が読んだ証としての記録でなくてはならない。これさえ残しておけば、上掲のような読んだことすら忘れるような激ヤバ事態は避けられるだろう。とはいえ、それだけならbookmeterを使えば事足りるので、読書ノートを作る必要はない。そこでプラスアルファの目的として、読書ノートをとる対象の本からわずかながらでも何がしかの内容を汲み取ることも加えた。これは「読んだという事実」よりも「読んだ内容」の忘却対策である。もっとも、本の全ての内容を汲み尽くせるわけもないので、この点も種々の条件とのセッションが必要になってくる。

 だらだらと書き連ねたが読書ノートをとる目的は以下のとおりである。

 1、自分が読んだ証を残すこと

 2、読んだ内容を書き取ること

2 読書ノートの方法について

 目的1はノートのどこかに著者名・タイトル・読んだ日付などの簡単な情報を書き取っておけば達成できる。多分誰しもが困るのが目的2をどうやってクリアするかということだろう。とりあえず俺は、要約もどきとわずかな引用だけを書き留める方法を選ぶことにした。

 ちなみに、読書ノートというと、本の感想や反論など自分の見解を書き込む向きもあろうが、俺はあえてそれをしないことにした。何故ならば、俺の読書ノートの余白は、如何に1冊の本から幾ばくかの知識を汲み取れるかという点に尽きるからであって、自分のクソみたいな見解を書いてもしょうがない気がしたからである。

 ※ただ、小説や詩についてはそれを読んだ自分の反応も含めて大事なものだと思うので、書き残すのはアリだと思う。読書ノートを作り始めてからまだ小説を読んでいないので、今後もしかしたら感想も含め書くことになるかもしれない。

2-1 要約もどき

 さて、要約もどきと書いたのは、要約それ自体は本文への高度な理解を要する知的作業であって、とてもじゃないが俺には務まりそうにないと思ったからだ。つまり、どのセンテンスを摘出し、どのセンテンスを枝葉末節かを判断し、そしてどれだけ簡便なパラフレーズができるかに要約はかかっているわけだが、ここには①文章間の関係性の把握=文章構造の把握②各センテンスの優先順位の措定③ある程度意味が対応している言い換えの検討、というように結構頭を使う作業がある。英語や現代文におけるパラグラフリーディングや接続詞の前後に着目するなどといった小手先が通用しない文章というのがどうしても世の中にあるためである。

 そして、これは「地頭」とやらがよければできるような問題ではない。読んでいる本が扱っているテーマに関してどれだけ知識があるか、一文の息が長く修飾だらけのけばったい文章に耐性があるか、高度な抽象概念(そしてそういうワードに限って多義的に使われがち)が飛び交う文章の意味把握が適切にできるかなどといった読者の知的習熟度が要約にそのまま出てしまうわけだ。で、俺みたいなバカに残されている手段は本文を写経するか、要約もどきで満足するかである。前者は求道的だが、後者は怠惰と妥協の産物である。

 俺もちゃんとした要約に近づけるよう努力はしているつもりだが、如何せん漫然といろいろなテーマの本を読み散らかす濫読の悪癖があるので、いろいろなテーマについてそこそこの知識があるけれど、特定のテーマにバチボコ詳しくないという頭を作り上げてしまった。結果、ホンマに難しい本を要約するのがかなり厳しいというのが正直なところだ。

 先も引用した読書猿氏は『独学大全』にて「要約が難しかったらキーワードとか書いとけばいいよ!それで後からまたやり直せばいいんだよ!」とありがたいTipsを授けてくれた。これは確かにそうだなと思ったが、多分想定される問題としては、キーワードだけ羅列して要約に再チャレンジ場合が挙げられると思う。俺の経験上、ペンディングされたものは大体永遠にペンディングされるので、やり直すことがないと思う。この場合、キーワードの残骸だけが残った読書ノートだけでは、読んだ内容を完全に忘れてノートだけ見た時に内容そのもの復元できない可能性が高い。怠け者に独学の道は遠いねえ。

2-2 引用

 これまた難しい問題である。ただ読んで文章を書き写すだけなら、中世の修道士から小学校低学年までやっていることだと思うが、俺たち読み手に引用の取捨選択権が与えられるとなると一気に難しくなる。文章における「本筋」と「枝葉末節」を見切ることはもちろん、それを読書ノートに引用するかどうかの価値判断も必要になってくるからだ。たとえば「本筋」でも「あーこれはもう俺既知ですわ既知」と思って引用しない場合もあるだろうし、「枝葉末節」でも「いいこと言ってんなあこれ」と思って引用したくなることもあるだろう。この世にある大体の読書ノートが、繋げると綺麗な一冊分の要約になるような本筋の丁寧な抜き書きか、トリヴィアルな記述のコレクションかという両極端の間のグラデーションを右往左往しているのではないか。そのグラデーションはまさにその読者の知的ミリューによって決まるわけだ。

 また、俺のように手書きで読書ノートを作っていると引用すべき文章が長いと書くのも大変ということだ(当たり前)。俺が引用したくなるような文章は大体長いので、手が腱鞘炎になりそうなぐらい小さい文字でビシビシに書いている。その意味で引用は要約よりも難易度の高い技芸だと個人的には思っている。

3 読書ノートを作る際のルール

 さて、目的と方法も決めたことだし、あとはそれを実践に移すための自分ルールを定めた。

 

 ①一冊の読書ノートは事前に決めておいたページに収める(新書なら見開き1ページ、300頁強の概説書は見開き3ページなど)。

 ②自分が感銘を受けたセンテンス以外は基本的には要約もどきで済ませる。

 ③ある程度のまとまりを読み切った後に見返しつつノートに書く。

 ④ノートの全体の2割ぐらいの余白を線で区切って、本筋でない部分に関する抜き書き用にとっておく。

 ⑤要約できないぐらい難しい文章に出会った場合、または要約もどきでは明らかに不足であり引用するのも大変といった部分についてはページ数のみ記録する。後程その部分の写真を撮ってAdobe ScanでPDF化し「抜粋集」という形で保存する。

 

 まず①について。何故あえて読書ノートのページ上限を定めたかというと、俺の性格上、無際限に要約もどきを作ったり引用したりすることで時間をかけてしまうことが容易に想像できるからである。貧乏性なのが影響していると思うのだが、図書館で借りた本なんかはもう一回借りるのも何だし……と思ってどんどん引用してしまいそうになる。だが、そうなると「本を読む時間」よりも「読書ノートを作る時間」の方が多くなり、最終的にどっちもめんどくさくなって止めてしまうという虚無が発生しかねない。このため、予めページ上限を決めておくことで、メリハリをつけて要約もどきや引用ができるようになるのではと考えた次第だ。

 

 次に②ですね。これは方法間の優先順位に関するルールです。何故そうしたかというと、このブログで紹介するといったアウトプットのことも含めて考えたためだ。つまり、本当にメチャクチャいい文章だったら、俺の拙い要約よりかはむしろ著者そのものに語らせた方がいいだろうと思ったのだ。アウトプットというのはブログで紹介するという意味では俺以外の他者へ向けたものになるのはもちろんだが、同時に読んだことを忘れるであろう未来の俺に対してのアウトプットでもある。よく読書ノートはインプットのための手段と目されているが、自分の頭の中にインプットしたものを他の媒体に書き出すわけだから根本的にはアウトプットなのではないかと思う次第です。

 

 さて③について。これは割と大事だ。たとえば段落ごとに読んで読書ノートをとっていると、懇切丁寧な本だと最終段落とかで全体のまとめを書いてくれているものもあって「じゃあこれをちょっとまとめて書けばよかったじゃん!」となることもある。なので、たとえば章ごと・節ごとに読んでからまとめていく作業の方が最終的には効率もいいし、全体の流れでどの段落が重要で、どれがそうでないかの判別もつくというメリットもある。

 

 ④も大事だと思う。視覚的に「本筋」と「枝葉末節」を判断できるからだ。さっきから当たり前のことしか言わないおじさんになっているが、この手のライフハックは当たり前のことができない人向けのものなので仕方がない。

 

 最後に⑤。これはもう読書ノートの役割放棄だが、しかし要約もどきも引用も結局俺の理解力や知的レベルに依存するのだから、俺の手の届かなかった部分は読書ノートを読み返しても理解できるわけがない。それではあまりにもったいない気がして、このような救済策を想定してみた次第です(後述するがこれは結構大変なので最終手段だと個人的に思う)。

 

4 実践編

 はい、長々と書きましたが、ここからは実際に俺がとったノートを恥も外聞もかなぐり捨てて公開した上で、上述の能書きと実践が果たして一致していたのかを明らかにしていきたいと思います。

 公開する読書ノートは、以下のエントリで紹介した本のうち1冊+4月のブログで紹介しようと思ったけど更新する気が失せたのでここで読書ノートごと公開しちまおうと画策した2冊の計3冊を対象にしたものです。全部ではなく一部のみです。メチャクチャ字が汚いので判読性については期待しないでください。読めるのは俺だけでいいので。また、再三申し上げているが俺はバカなので、ここに書いてある読書ノートの記述を真に受けないでほしい。明らかな誤りがあったら指摘していただけると、俺も間違いを正せるし、貴方も優越感が得られてwin-winだと思います。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

4-1 リチャード・バーンスタイン『暴力』

 詳しくは上掲エントリの紹介を読んでほしいのですが、この紹介を書く元となった読書ノートは以下の画像です。

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 まず、シュミットについては大学時代からそこそこ勉強していたので、割と前提となる知識は頭に入っていた。なのでこの章は割と読みやすかったように思う。バーンスタインの主張(要はシュミットの批判は鋭利だが、その批判自体がシュミットにも向けられる諸刃の剣なのをシュミットが自覚しきれていないことが彼の行論の限界点ですよねというもの)もそれなりにクリアだったので、ここは要約に近い要約もどきを作れたのではないかと思っている。

 引用は3回行っている。1つは、バーンスタインが思想家の重要性について語る一般論的な部分であり、これはシュミットについて論じるこの章では明らかに枝葉末節なのだが、俺も(exactly!)とジョジョのキャラみたいな感想を残しているとおり共感したので書いて残したものと思われる(ちなみにこの後のベンヤミンの章でのバーンスタインジジェクdisにも同じくexactlyと感想も付して引用していた)。あとの2つはバーンスタインによるシュミット批判の重要な点と思われる部分を抜き書きした。どっちも枝葉末節の部分に引用してしまっているが、そうですスペースが足りないので仕方がなかったんだ。早速自分ルールをブチ破っていますね。

 また、本筋と枝葉末節のほかに下に空白を作っているが、これはルール⑤のページ番号を残しておくためというか、読書ノートを作るための作業枠のような部分でした。おさらいとかも書いてますが、これはこの時だけです。後のノートではこの下の余白はなくなり、「本筋」枠と「枝葉末節」枠に統合されました。

 

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 こちらはヤン・アスマンに関する章の読書ノート。シュミットと違いほぼ初見です。見てもらえればわかるとおり、シュミットのようには整理することはできなかった。モーセ的区別や暴力のカテゴリーといったアスマン独自の用語や、一神教関連の記述が初見すぎてその意味を追うことに終始しており、肝心のバーンスタインの主張(ノートでは「バの丸囲み」で示している)をあまり書けなかったと思う。ノートの下部に、「モーセ的区別」は廃棄できないが、否定的なものもつきまとう→バ(丸囲み)「アンビバレンス」と書かれているが、何のことやらさっぱりである。多分だが一神教の前提であるモーセ的区別を今さらどうこう言って何とかできない一方で、そのモーセ的区別に起因するような抑圧されたものとしての宗教的熱情が暴力になって噴き出すことはあるのでは?というような内容だった気がするのだが、図書館で借りた本なので答え合わせが今すぐできない。とまあこのように、これは読書ノートとしては微妙である。

 俺自身バーンスタインのこの本の内容についてはすっかり忘れているが、読書ノートを頼りにすることで多少はおぼろげながら内容を復元することができた。精度はともかくとして、目的は多少なりとも果たせたのではないかと思います。ちなみにこの本は7ページにまとめました(1章につき1ページ)。多いと見るか少ないと見るかはあなた次第ですが、個人的にはちょっと多かったかもしれない。

4-2 シュミット=コーペンヘイヴァー『ルネサンス哲学』

 いわずとしれたルネサンス哲学の概説書の最高峰ですね。ちなみに俺は哲学科でしたが、この分野はほぼノータッチでした。プラトンアリストテレスにはそれなりに親しんできたつもりではあるが、ポンポナッツィとかパトリッツィとか言われても「誰?」としかならないレベルの知識しか持ち合わせておりません。

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 まずは第一章のノート。ルネサンス哲学の歴史的背景について語られている。要は中世との連続性がどれだけあったかという点と、一方で人文主義者による古典の発見などといったような中世にはなかった独自の部分などについて概説がなされている。

 ノートの出来としてはあまりよくないと個人的に思う。列挙されている事例に振り回されていて、肝心の本筋が終えていないような気がする。俺の記憶の限りでは、中世とルネサンスの連続性を強調するような趣旨の記述が多かったと思うが、ノートでは個別具体のキーワードや歴史的情報だけを羅列しているような形だ。これでは何を書いていたのか、という内容の再現性に乏しいと思う。1年後読み返した時に多分「うーん結局何が言いたかったんだ?」と思うこと間違いなしだ。

 この章では古代の著述がどのような経緯で中世に読まれていたかなんていう経緯とかも割と詳しく書いてあって、それを要約するのは困難なので「枝葉末節」のコーナーにページ範囲だけ書いておきました。これはあとで当該ページの写真をパシャっと撮って、PDF化してまとめました。知らないことだらけだとPDF化をする範囲がメチャクチャ増えるのであとで苦労します(この本はそうした情報のオンパレードだったのでなおさらである)。抜粋集、そもそも作るのが結構めんどくさいし、個人的には最終手段だと思っている(普通のハードカバーはそこそこうまくできるが、文庫や新書だと必ずスキャンしたページが歪むのもネックだ。俺のやり方が悪いのかもしれないが)。

 また、歴史的事実とかも含めて自分が知らなかったことをバンバン書いている(実際このノートでも明らかなように、アルベルティーノ・ムッサートとか謎の人名とか普通に書いてしまっている)と、俺のような無知無教養猿太郎はあっという間に読書ノートを埋め尽くしてしまいかねないし、その分読書ノートを作る時間が増えていく。

 あくまで主は読むことであり、ノートをとるのは従である。ただ、それでもこれぐらいのノートをとっていると、読むこととの時間の比率はどうしても1:1にならざるを得ない。これが少しでもノートを取る方に傾きだしたら、マジで何もやりたくなくなるのは明白なので、読書ノートでカバーできる範囲は限られているのだと割り切ることにしている。

 あと、後半部分が明らかにだれてきてノートが適当になっていますね。これは反省です。基本的にその本や章が終盤に差し掛かってくると、とにかく終わらせたい一心で適当なクオリティにしてしまうのは本当に俺の悪い癖だと反省しております。

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 その次の章はアリストテレス主義。ルネサンスといえば「プラトン最高!アリストテレスはゴミ」みたいな風潮があるが、実際に大学の教壇を支配していたのは依然としてアリストテレスだったということで、アリストテレス主義という切り口からルネサンスの哲学者・思想家を概観していく章でした。

 これもノートとしての出来がいいとは思えない。章の核心とでもいうべきまとめ方は明らかにミスったなと思う。というのも、要約もどきを放棄してページごと写真で撮ってしまったからだ。「枝葉末節」欄にpp74-75☆☆☆と書いて下に「アリストテレス主義のまとめ」と書いてあります。長文ですが以下に引用します。

 プロテスタントカトリックの両陣営がアリストテレス主義の伝統を称賛したのは、その規模と整合性が、真理が単一であり自分たちだけに属するという双方の確信を満足させたからだった。しかし、ルネサンス期のアリストテレス主義の折衷的実態は、教理上の確信へと至る唯一の排他的経路を手に入れたいと言う望みを妨げた。近代初期の哲学に適用した場合、「逍遥学派」と「アリストテレス主義」という二つの呼称は、教条の一致に対して犯された無数の罪を覆い隠しているのである。もしアリストテレス主義者が始祖の教えをあらゆる点で受け入れている人間のことだとすれば、ルネサンス期には、アリストテレス主義者は一人もいなかった――このことは中世についても同じになるが。アリストテレスの最も熱烈な信奉者でさえ、いくつかの論点では異議を唱えていた。それほど忠実ではない人々が、他の――古代であれ同時代であれ――哲学者、または個人的経験、または理性の示すところから説得力ある反駁をアリストテレスの見解が受けたときに、よりいっそう自由に振舞ったことは言うまでもない。古代の哲学的見解の全領域がより容易に手に入るようになったという事実が近代初期ヨーロッパに与えた巨大な衝撃を考慮に入れるなら、アリストテレスを古代から新たに掘り起こされた他の哲学的遺産と融合しようとするさまざまな試みは、とりわけ注目に値する。ルネサンス期の思想家がアリストテレスの学説をこうした別の材料と混ぜ合わせたとき、そこから生み出された合金の種類は、古代の廃墟に霊感や原料や方法を掘りあてるために新しい人文主義の道具を身につけた哲学者の数と同じくらい多種多様だったのである。彼らがつくりだしたのは、広い振幅にわたる、さまざまな折衷的アリストテレス主義だった。アリストテレスを称賛する幾人かのルネサンス期の哲学者は、彼らの千年前にピロポノスがしたように、肝要な論点でプラトン主義やストア主義の見解も採用した。そして、他の哲学者もこのような折衷主義をごく正常なものと見做したのである。多くの問題についてアリストテレスは最良の導き手と思われたが、その他の問題については、プラトンキケロ、アルベルトぅス、アクィナス、スコトゥスアヴェロエスのうちによりすぐれた答えが見いだされるかもしれない。魔術や占星術のように現代人の芽には怪しげに映る信念でさえ、こうした思想が「アリストテレス文書」に占める文献的基盤は薄弱であるにもかかわらず、ニーフォ、アキッリーニ、ポンポナッツィといった、基本的にアリストテレス主義の道を歩んだルネサンス期の哲学者を惹きつけたのである。十五・十六世紀は、そのうちの何人かは最もゆるやかな意味でのアリストテレス主義者と呼ぶことのできる非正統的思想家に満ちあふれていた。トマスやスコトゥスほど影響力のある思想家はそこにはおらず、デカルトやベイコンほど大胆な思想家も、マキァヴェッリモンテーニュほど才能のある思想家もいないが、彼らのうちある人々は、より慎ましい規模で、ルネサンス期の支配的主題のいくつかを反映し、十七世紀のいっそう大胆な革新を先取りする、新しい思想を付け加えたのである。(下線は引用者)

 ……さて皆さん、これを手書きでノートに書き移したいですか? 僕は嫌だ!!!!

 カメラに収めておいたページを見ながらタイピングするだけで10分以上かかったのに、手書きでこれをやっていたら30分以上は間違いなくかかっただろう。引用は求道者以外無理だとすれば、ここで使える方法は要約もどきしかない。この段落の中から重要な文章を抜き出して咀嚼する作業が必要なわけだ。

 まず、この章全体の構造としては、ルネサンス期におけるアリストテレス主義の概説(総論)→ブルーニなどのルネサンス期のアリストテレス主義者8人を取り上げる(各論)へと移行するため、全体のまとめになりそうなブロックがあるとすれば総論部分である。そして、その総論部分の最後の段落について「おっこいつまとめにかかってんな」と気づいたところまではよかったが、一段落の異常な長さに気圧されて普通に写真を撮ることで済ませてしまった。

 これはその時の時間的制約とか読書ノートのページの限界なども考慮した結果だが、結果として読書ノートに肝心要の部分を落とし込めなかったので、いちいちiPhoneでPDF化したページの写真を見ないといけない。

 しかし、改めて読み返してみると、エッセンスを見抜くのはそこまで難しくはなかったと思う。下線を引いた部分を中心にパラフレーズしていくと、①アリストテレス主義が広範に行き渡った理由はその規模と整合性であること、②しかしアリストテレス主義と言っても単なるアリストテレスの教条的な信奉者ではなく学説に批判的な人間も多かったこと、③さらにプラトン主義や他の古代の伝統とアリストテレス主義を接合しようとする試みも多種多様だったこと、④アリストテレス主義に属する思想家は後代よりも独創的な思想家が多かったわけではないが、先進的なルネサンス哲学の担い手ではあった、というようなところである。そしてこれに続く各論であるアリストテレス主義者8人衆は、この主張の例証にほかならない。であれば、この章で著者が主張したかった肝はまさにここだったのであり、ここを読書ノートに落とし込めていないのは痛恨のミスと言わざるを得ない。

 各論部分のアリストテレス主義者8人衆のまとめ方も今読み返してみると微妙ですね。ブルーニやビトリアは多少政治思想で触れているので土地勘があったのだけども、トラペズンティウスやメイア、デタープルらアリストテレス論理学の批判的継承者(メイアはスコラ論理学者だが)は、アリストテレス論理学自体が個人的にはかなりの苦手分野なので、ここらへんの理解は本当に覚束なかったことだけは覚えている(賛辞とか久しぶりに聞いたなと思ったぐらいである)。あと、ザバレッラやジョン・ケイスについてはホントごめんという感じだ。読書の内容を復元するという目的を達成するのは難しそうですが、こういった不完全な要約もどきにも意味があるとすれば、自分の到達点を可視化できるということに尽きるのではないか。もし『ルネサンス哲学』をもう一度読み直す機会があれば、ゼロからスタートというわけではなく、セーブデータがあるというのは心強い……かもしれない。

 

 いろいろ悔やんでも仕方がないので、総評に入りたい。本の中身としては、思想家を論じる抽象的な内容もそれなりにあったし、一方で歴史的な記述も多くなされており、正直情報量が多すぎてどれが本筋でどれが枝葉末節かの判断にかなり苦しんだ。多すぎる情報量を選り分けるために、ある程度の事前の知識がないと要約もどきでさえ作るのにはかなり苦労するので、必然的に引用に頼ってしまうのだが、その引用ですら判断を誤ってしまい、トリヴィアルな断片をかき集めた読書ノートの出来損ないと、大量のPDF抜粋集が完成したというわけである(ちなみにノート6ページ分にまとめました、抜粋集は100頁ぐらいありました)。

 一方で、これはそもそも高度な学術書というよりは概説的な教科書を想定しているわけで、この本がそもそもルネサンス哲学を理解するにあたっての前提となる。その意味で、実は書いてあることが全部大事みたいな本については、読書ノートをとらずに思い切って買ってしまって後生大事にしておくというのがいいのかもしれない。ただこの本、今Amazonで買おうとすると25000円以上するので無理なのですが(だからこそ俺もわざわざ住んでいる区とは別の区の図書館に借りに行ったのである)。平凡社さん、ライブラリーに入れてくれたら泣いて喜ぶよ。

4-3 山本圭『現代民主主義』

 前の2つがそこそこ難しかったので、新書に取り組んでみた。今の自分には新書ぐらいのレベルが身の丈に合ってんなと思った次第です。

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  見開き1ページにまとめることができたが、まあそこまで悪くないような気がしている。各章の主要な論点を抑えつつ、面白いなと思った部分は引用もできている。枝葉末節欄は毎度よろしくはみ出しまくっているがご愛敬。著者の専門でもある現代思想の民主主義論はちょっと手間取った(特にラクラウの部分)が、この読書ノートを見れば最低限のことは分かるようになっていると思う。最後は駆け足になってしまっているが、まあよしとしましょう。

 この本は著者が非常に分かりやすく論点をまとめてくださっているので、要約もどきを作るのはだいぶ楽だった。あと、一応大学で政治学とか政治思想にそれなりに親しんできたというのもあるとは思う。こういう本ばかりだとありがたいが、悲しいかなこういう本ばかり世にあるわけではない。それに、難易度の高い文献にトライしないと技術も上達しないので難しいところだ。

5 総括 

 俺の読書ノート作成は始まったばかりなので、今後もトライ&エラーを繰り返しながらやっていくつもりである。

 1か月ぐらいやってみた感想としては、

 ①なかなか理想通りにはいかない。

 ②どうしてもめんどくさくなりがち。

 ③費用対効果は正直微妙ではないか。

 ④もっといい方法があったら乗り換えたい。

 ⑤それでも記録することの安心感はある。

 というのがざっと挙げられる気がする。

 とにかくこれは面倒だし、「読書ノートを作っている暇があったらその時間どんどん本を読めばよくない?」という主張が一定の説得力を持つのも分かる気がする。そして、結局読書ノートを作ったとしても、それが上にあげたような失敗作だったら、半年か1年後に読み返しても「何のこっちゃ」と思ってしまうことも想像に難くない。ただ、これは修行期間と捉えれば、きっと続けていくことで精度の向上は期待できるかもしれないわけだが。

 また、ページ数を予め決めてしまったのは少しやり過ぎたかもと思っている。もう少し柔軟性があった方が読書ノートとして有用だろう。上に述べたようにとにかく面倒なので、できる限り作成時間を多く費やしたくはないという意味では、ページ数を抑えめに設定することは効果的だと思うが。

 読書ノートを作っている過程で、これもっと効率を追求できるのではと思わずにいなかった日はない。こう言ってしまうと身も蓋もないが、もしその本をずっと持っているという重い覚悟があるならば、線を引くのが一番手っ取り早い気がする。それに抵抗感があるなら、たとえば気になったページを写真で撮ってiPadの任意のノートアプリに貼り付けてそこにApple Pencilで線を引いて保存しておくでも立派な記録ではないだろうか(それも結構大変だと思うが)。個人的にはそろそろiPad Air 4とApple Pencilを買おうかなと思っているくらいだ。

 正直な話、こんな感じでかなりの労苦が伴うフローなので、読書をしようという動機を阻害している気がしないでもない。本を読もうにも「あーでも書かないとな……」と憂鬱な気分になるのだ。実際、ここ数日はそんな思いが去来してページを捲ることすらためらったことがある。

 そんなメソッドなら捨てちゃえば?というのは全くもって正当な疑問だと思います。ただ、いいことがなかったわけではない。

 まず、ささやかな効用から。要約や引用をしようと思ってやる読書は漫然とページの上に目線を滑らせていくよりも、文章構造とか、著者が述べていることのレベル(具体か抽象か、例証か反論か、など)をより注意して読むようになったなと思う。読書行為がよい方向に変容した、と言えるかもしれない。また、章や節を読み切った後に読書ノートを作るので、要約もどきをこさえる必要上もう一度その部分を簡単に読み返す。そうしていると確かに理解度が増すというか、最初の読みでは気づけなかった部分、誤解していた部分があるという点では、読みの精度を微修正できるのもメリットと言えるかもしれない。

 そして、最大のメリットとしては記録することの安心感はデカいことは強調しておきたい。たとえ読んだ時の記憶が無くなって頭タブララサになっても、その本を読んだこと及びその本に何が書いてあったかを断片的に記してあるもののおかげで、忘れることの安心材料ができる。言い換えれば、何でもかんでも覚えておこうという気持ちから解放されるのである。そういった完全性への気持ちを裏切り続けてきたような不完全な記憶能力しか持ち合わせていないのだから、気持ちの方からどうにか折り合いをつけるしかない。俺にとって読書ノートは、知的な蓄積や知的遍歴のログ以前に、そういう折り合いのための免罪符なのだと気づけたのが、最大の収穫なのかもしれない。

 というわけなので、正直やるのは大変だが、読書ノートを作ることの心理的効用が苦労に勝るので、まだまだ続けていきたいと思う。ただ、やり方はもっと模索する必要があると思う。いい方法が見つかったら別のエントリで紹介したい。というか携帯もiPhoneに変えたのでiPad買おうかなと真剣に検討している今日この頃である。

 

補論 ポケットモンスター 図書館で借りる派/本を買う派

 ここではおまけで扱うにはややクソデカい気もするテーマを、読書ノートをとるという観点から補論的に扱う。

 いつかのエントリで述べた気がするが、俺は自分で本を買うよりも圧倒的に図書館利用の方が多い。当たり前だが本をバカバカ買ってたら金はなくなるし、そしてどちらかというとケチな人間なので本当に必要な本以外は基本図書館で借りる形で済ませたいと思ってしまうのだ。実際今回紹介した読書ノートの本では、『現代民主主義』以外は借り物である。

 ただ、今回の体験を経て思ったのは、2週間(ないし貸出延長も考慮して3週間)で読書ノートを完成させるのは結構大変だということだ。もちろん、1日に読書を2時間し、ほぼ同じ時間を読書ノート作成に使えるというような人間であれば容易にクリアできるだろう。しかし俺は根が怠惰な人間なので、読書を2時間できるとしても、手を動かして小さい文字でびっしりとノートを埋める作業に2時間もとれるかというとかなり怪しい(これは小学校の頃からそうで、字が下手なのも手伝って俺はとにかく鉛筆やペンで何かを書くのが嫌だった)。多分嫌になってYoutubeとか見ちゃうんだよな。

 実際、『ルネサンス哲学』も貸出期限ギリギリになってもまだ最終章の読書ノートが出来ておらず、仕方なく30頁ぐらいをコンビニで印刷して、本を返してからその部分の要約をしたという経緯がある。

 また、俺の場合に特有の事情だと思うが、読書ノートを「ノート」の形で取り始めたのも厄介だ。というのも、一回つけ始めた読書ノートは、ルーズリーフや電子データなんかと違って中断すると何だかとても気持ち悪いことになる。要は「〇〇第三章まとめ」の次のページが「××第一章まとめ」になって、3ページぐらい飛んで「〇〇第四章まとめ」になる……ということなのだが、これはやっぱり個人的には気になってしまう。実は読書ノートをつける時にあえて冊子のノートにしたのには「1冊の本を終わらせなきゃという心理的圧力がかかって読み通せるのでは?」と思った経緯がある。実際、普段だったら「まあ次の機会かな……」と思って途中で読むのを放り投げていたような本でも、読書ノートをひとたび作り始めたら途中で終わらせるのが気持ち悪くて何とか読み切れた。その意味では俺の考えは効果覿面だった。

 ところが、これはとんでもない副作用を引き起こした。心理的プレッシャーが裏目に出て、図書館で借りた本で「あ、これまとめるのムズイな」と思った本の読書ノートをあえてとらずに、そのまま途中まで読んで返却するムーブを繰り返したのである。本末転倒ですね。ただ、図書館で借りる本に付きまとう絶対的制約は、いつか返さなきゃならない、それまでに読了しなければならないというプレッシャーとの闘いなわけだが、俺の場合さらに読書ノートも作らなきゃいけないというおまけを課してしまったわけで、そりゃ辛い辛いだねえとなるわけである。

 (まあ、先ほど挙げた問題点については、当該の本にノートの何ページ分を使うかは予め決めておいてはいるので、念のため余分にプラス1ページも含めてページを空けておき、そこから別の本の読書ノートを取るなりすればいいのではと書きながら気づきました。今度からはそうすることとしたい。あと、別の区で本を借りると返しに行く時にめんどくさくなるので、時間はかかるが出来る限り自分の住んでいる区から相互貸借で取り寄せるのが一番精神的に楽っぽい。)

 これに対して、本を買った場合だと、あまり時間を気にせずのんびりノートを作りながらできるのが強みだ。本を所有する強みの第一はそうした自由を手にすることではないだろうか(もちろん、バカスカ本を買って逆に「不自由」になる事例もある。我々はシルヴェストル・ボナールから学び続けなければならない)。身銭を切ったからちゃんと覚えられるみたいな立花隆渡部昇一が言っていることだが、俺が読んだことすら忘れたのは自分で買った本である。いやんなっちゃうわ。

 とはいえ、俺が出せる本代は今の給料だと月に2万円(本当に無理して3万円)が精いっぱいだ。この予算枠の中で、文庫や新書もそこそこ買うので、5000円ぐらいする学術書でも月2冊が限界だろう(そして俺が読みたいような学術書は大体5000円以上する)。買える本も必然的に限られてくるので、それであれば図書館を利用しない手はない。知的生活において「あれか、これか」の理念的二者択一を真に受けてどっちかに全振りすると金銭か精神が即死するので、いい塩梅のアマルガムスタイルを作っていくしかない。で、結局俺の場合は金銭的な限界があるので、2万円で買えなけりゃ図書館にそそくさと出かけるというのがベターなプラクティスということになろう。

 一方で普通の人が図書館で手に入れるのが困難という本もある。大学図書館にしか所蔵されていないレベルのマジの研究書とか、洋書とかが挙げられる。国会図書館に通い詰めて一日中ノートをとるようなマルクスみたいな生活を送れるはずもないので、そういう時は貧弱財政出動を行うしかないわけだ。とはいえ先の『ルネサンス哲学』みたいにメチャクチャ高騰している本もあるわけで、どうしたって読めない本はある以上諦めも肝心である。そういう時は新書みたいな安価で知的好奇心に応えてくれる本を探すか、古典の文庫を再読するなどしていつかバカみたいに安くなる時を待ちましょう。そんな時は来ないかもしれませんが、人生でその本に縁がなかったと思うしかない。そもそも出会える本の数などたかが知れている以上、手の届かない本よりも出会えた本の方がよっぽど大事ではないだろうか。