死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20210615

 昨日はずっと2017年のブログ記事を読んでいました。懐かしくなっちゃったねえ。

 

 思い返すと、このブログは『三酔人経綸問答』の気持ち悪いパロディをインターネットに海洋投棄し、いつの日か死海文書ばりにどこかのアホが発掘してくれるかなと思って作ったのであった。

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 つまり、その意味でこのブログは上掲エントリのための巨大な陵墓であり、ぶっちゃけて言えばこれ以降の記事は全部兵馬俑みたいなもんである。それがいつの間にかユダヤ教徒がありとあらゆる紙を保存しておくゲニザのようなお気持ち墓場になってしまったわけだ。怖いねえ。

 

 だが、墓場派気取りが耽った詩情紛いの自慰にも少しばかり役に立つことがあるというのが分かってきた。2021年の俺からすると、2017年の俺の記述は脳の奥深くにしまわれた記憶を引き出すためのフックになるようだ。朝飯の記載が「バナナ ボルタレン」とあるだけで、「そういや何でボルタレン飲んでたんだっけ……アッ親知らずが痛かったんだ。まだ抜いてねえけど……」みたいなアハ体験ができる。

 

 そう考えると、今の俺がせっせとブログに記事を残すことで、2025年の俺のために贈り物ができるかもしれない。そういう自己満足のために、ブログの更新頻度をこれから上げていくことにしました。まあインターネットもしない、LINEで旧友と雑談もしないとなれば、他にすることもないですしね。

 

 先述したように、朝飯の一行記載だけでも割とフックになるので、日々必ずやっている習慣をある程度カテゴリー化したうえで簡潔に記載することとしたい。あと、毎日続けるつもりもないし、頑張って字数を稼ぐこともしない。人々に供する読み物では全くなく、本当に簡潔な日誌を心掛けていきたい。ただ、一応その日に感じたことはできるだけ書くことにしようかなと思う。仕事で疲れた日は更新しません。短くても15分、長くても1時間で書き終わるようなレベルのものをやっていきます。

 

 長い前置きは終わったので、早速本日を振り返っていこう。

 

 起床は6時半。いつもどおり朝の通勤時間中と、会社の最寄り駅のカフェでコーヒーを飲みながら読書。昼休みは散策と読書をし、午後の気だるい仕事を終えて、定時に帰った。神様ありがとう(定時に帰った日は必ず神への感謝を欠かさない人)。

 今日読んだのは沼野充義が編んだ『東欧怪談集』です。半分ぐらい読みました。新装版の表紙の絵がメチャクチャオタクに刺さるんですね。油彩でノスタルジックな少女絵画を描くことに定評のある松本潮里さん……覚えましたし……(死語尾)。

 個人的な意見を言わせてもらうならば、メチャクチャ怖い気分を味わいたければ、洒落怖を読む。この手の文学作品で言うところの「怪談」にはどうも恐怖を感じない。神秘とか幻想とかその手の連想が先に出てきてしまうからだ。実際この怪談集の中でもチャペックの『足あと』なんかは怪談というよりはチャペックらしい社会風刺を感じるし、ムロージェックの『笑うでぶ』はどう読んでも怪談ではない。個人的にほっほうと思ったのは、ミランドラの『不思議通り』とネルダの『吸血鬼』。前者は怪談というよりは人生追い詰められた時に人間が「その先」へ跳躍できるのか、それでも人間は人生に踏みとどまるのかという興味深い問いかけがあった。後者は結末が意外でタイトルと冒頭の「青白い」という表現でミスリードされたなと思いました(吸血鬼という言葉がそういう意味でも使われるのかとオモタヨ)。

 

 昨日も言及しましたが、Apple Pencilを落としたので中華製のタッチペンを買いました。結論から言うと書き味もいいし、普通にいいなと思った。保護シートの上が線の跡だらけになってしまうが、これはApple Pencilもそうだったような気がしないでもない。あ、言い忘れましたがiPad Air 4を買っております。最近はそれを使って本をスキャンした上で線を引きながら読書しています。普通の紙の本に書き込みするの俺は死ぬほど躊躇するんですが、PDFにすれば無限に書き込めるのでアドです。

 

【ご飯】(実家暮らしなので朝夕が豪勢)

朝:バナナ パン ゆで卵 ソーセージ2本 オニオンスープ サラダ

昼:チョコバー 会社にあったマドレーヌ1個

夕:ささみの中華風の味付け(あんまりおいしくなかったのでマキシムをぶっかけた) 白身魚が入ったポトフっぽい何か 豆腐 サラダ さといも

 

【新聞】

東芝経産省マター。人間は愚かという感じでしかない。第三者委員会の第三者委員会を作り出すべきでは。

 

【読書】

・上述のとおり『東欧怪談集』を205pまで。

・暇潰しにシュヴェーグラー『西洋哲学史』を再読している。74pのアナクサゴラスまで。クセノパネスをエレア学派に帰すなど今日的には疑問とされる記述も多いが、イオニア学派ピタゴラス学派→エレア学派の流れを根源物質の抽象化(水、空気などの質→数という量への注目→質も量も取っ払った純粋な「ある」)のグラデーションという形で一括し、エレア学派(存在の前景化)とヘラクレイトス(生成の肯定)の対立関係から発展した思考としてエンペドクレスとアトム論者――根源物質とそれが変化するための力を区別する機械論的説明――を整理し、最後にアナクサゴラスがプレソクラテッィク的な実在論の集大成であり、彼の「ヌース」がその後の観念論への架け橋となる……という整理の鮮やかさには感動してしまう。自身はヘーゲル中央派であるシュヴェーグラー自身はヘーゲル哲学史から距離を置いているが、この把握の鮮やかさはむしろヘーゲルに近い気がしないでもない。