死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

人間は有線から解放されるべきだと信じてやまない素朴進歩大好きおじさんへの道を転がり落ちる28歳童貞実家住み年収400万円男性の随想と読書記録20220228-0306

 多分10年はPCゲーム用に使ってきたXbox360コントローラーのスティックやUSBの線がボロボロになったのでこのほどXboxコントローラーに買い換えました(なお俺はキーマウ勢とは一生分かり合えないです殺し合いならいつでも受けて立ちます)。ついでに純正じゃないバッテリーも買って、Bluetooth接続でFallout4をやっているのですが、線がないっていいですね。人間に線は不要ってはっきりわかんだね。世界各国の技術者におかれましては、集団ストーカーとか電磁波犯罪に精を出すのではなく、早いところ人間を線から解放する方向で努力してほしいかしこ。

 

 ロシアによるウクライナへの侵攻、どんどん悪い方向に行っているなと思いますね。そのうち民間人もどんどん死んで、ロシアは永久に憎まれて、ウクライナには何も残らない……みたいなことになったら果たしてこの戦いの勝者は誰になるのか。その前にNATOがやる気を出して第三次世界大戦という史上最大の拡大自殺に突入するのか(この点は欧米の近々の動きを見るにまだプーチンよりかは理性的に振る舞っているように見えるが)。この戦争の帰趨はまだ誰にも分からないところだが、しかしコロナ同様に世界を根本から変える可能性を持っているイベントである以上注視せざるを得ないのではないかなと素朴に思う。

 個人的に気になっているのは、今回の戦争で準軍事的な勢力も逐次投入されているという真偽定かでない情報だ。たとえばチェチェンの私兵集団カディロフツィ、PMCの「ワグネル」(って書くたびに慶応の某オーケストラサークルへの熱い風評被害な気がしないでもない)などである(これらはゼレンスキー大統領の暗殺作戦に投入されたらしい)。また、「高度に発達した国家暴力は戦争犯罪と区別がつかない」で知られるシリアのアサド政権も国内で暴慢極まりないムーブを重ねてきた愚連隊「シャッビーハ」や精鋭部隊「タイガーフォース」を投入するのでは?という話もあるようで、地上のろくでなしのオールスター感謝祭になっていくのはちいかわでなくても「ワ、ワァ……」とため息が出てしまうところだ。こういうろくでなしたちをウクライナ軍が鴨撃ちのごとくどんどこ始末すれば地球の善の割合が相対的に向上するのだろうが、こういうろくでなしは悲しいかなたくさんいるしロシア軍の損耗を避けるには持ってこいであり、そしてウクライナの人々にとっては(最低限の規律はある)ロシア軍以上に嫌な存在であることは間違いないだろう。

 さらに言えばウクライナ側にも外国人義勇兵を募る動きがあり、ここには欧米の特殊部隊が身分を隠して入ることもありそうなところである一方、「よく分からないけどもう何もかんもどうでもよくて俺たちはとりあえず戦争がしてえんだ!」という強い気持ちを持った人々も一定数いそうな気がして、突然ポップしたバトルフィールド(リアル)に「今生きている現実というオープンワールドゲームがクソゲーだから参戦したったwwww」みたいなマインドの人間が今地球上で一番ヤベェ鉄火場で一体全体何をするのかというのも気になるところである。英雄なき時代の戦争とはもはやFPSのキルレガチ勢やホメロス的栄光とは程遠く、普通にメタクソ辛く苦しい労働と命がけのヒヤリハットの連続だと思うので、そんなことするぐらいならインドに行って価値観変えた方がいいのではという気がしなくもないが、人類の終末を希うマン(ただし自分がその引き金を引く勇気がないという意味では単なるフェイク野郎)としては彼らの人生に幸あれと祈りを捧げるしかない。

 

 さて久々に読書しますた。英語の論文を訓練で読んでいました(ジャコバイトがよう言っていた「王の絶対(absolute)かつ一般(ordinary)の権力」という表現の起源を中世の神学的・法学的・政治的な議論に探した上で、「絶対」と「一般」の2領域の交差を探求したフランシス・オークリーの名論文ですね)が、その他にも1冊読みました。

 

 何ともまあ、時宜を得た出版ではないかと思いました。ロシアしかりオープンレターしかり、「抽象概念の祭壇に生きた人を捧げよう」としがちな人々は拳拳服膺とすべきところが多いのではないでしょうか。狂信的な「世界のあるべき方向ってのは1つしかねえし、それに向かってやっていくしかないわね」っていうファシズム共産主義(そしてそういう思い上がりについては、人類の幸福のための進歩を希うフランス啓蒙なども共有していた)に対して、多元主義バーリンが西洋政治思想の知的蓄積を華麗に咀嚼しながらペッて吐き出して提示した4つの論文で構成されております。「ペッて吐き出して」と書いたのは、まあ政治思想史の研究論文として読むとどうなのかなっていう意味です(とはいえ川出氏が解説で指摘しているようにマキァヴェッリ論はスキナーにおいても古典的解釈の1つとして挙げている)。

 個人的には出来のよさで言えば「マキァヴェッリの独創性」がやはり群を抜いていて、次点で「モンテスキュー」だろう。マキァヴェッリが示した「統治者において両立不可能な徳があるという事実」や、モンテスキューがその政治思想において示した「穏やかさ」というのは、そのままバーリン多元主義の表明に近いと思った。一方ヴィーコを扱った「自然科学と人文学の分裂」は、バーリンの他のヴィーコ論と比べるとちょっと性急な感が否めない。「理想の追求」は厳密には思想史論文ではないが、非常に分かりやすいバーリン多元主義的なステートメントであり、彼が信じるそれがいわゆる「価値相対主義」とは異なる点を明白に描き出している点で重要な論考だと思われる。

 なお、この後岩波文庫から近刊として「二つの自由概念」を含んだ論集と、ゲルツェン論を含んだ「ロシア・インテリゲンツィアの誕生」を含んだ論集が出るとのことです。二つの自由概念は恐らく新訳だろうか(この岩波文庫の元になっているバーリン選集には入っていなかったと思われるので)。バーリンについては、アーレントと共に不断の読み直しが(他の20世紀の思想家と比べると)一段上の必要性をもって求められる思想家ではないかな、と思っております。