死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

限りある人生の意義について

 人生は、という曖昧タームから文章を始めていいのはそれなりに歳食った物書きか、才気と若気の分別がつかない霊感豊かな若者ぐらいだろう。

 

 俺がそのどちらでもないことは明らかで、日々労働にあくせくしながらもどうにも職場や社会の雰囲気に乗り切れないもやもや感を場末のブログにドリッピングする28歳年収400万ブサメン童貞であるところの俺が皆様に語るに値する人生の意味なぞ一片たりとも掴むことはできないし今後も無理っぽい。それもそのはずで、俺は人様と同じような人生を歩むことがないのが分かりきっているからだ。このブログでも再三述べているが俺は生涯独身のつもりだし、何があっても子育てなる人生の高難度ステージには関わらないつもりでいる(現実的にはありえないが、親戚から子どもを見てくれと言われたら全力で拒否する)。結婚や子育てを努力もなしに断念するということは、子どもを一人前にする=社会の構成員にするための「家族」という供犠の祭壇すら形成できないことである。そういうことができない個人はずば抜けた能力や特性がない限り、「異常者」としての位置価すら認められずに漂白されてしまうのがオチだ(そういう能力や特性が俺にはないことはこのブログが何よりも明白に証明してしまっている)。

 そんな個別具体のレベルで語るに値しない人生から一体何か役立つ教訓や原則を抽出できるのか。ただ人生の失敗や不幸は人それぞれであるというトルストイ的なありふれた人生訓は、飲み屋で勢いがついた時に言う分にはいいが、素面で言っても一笑に付しておしまいだろう。

 

 それでも、自分にとって意味ある人生を送るかどうかということになると話は別だ。俺の選好や趣味につては俺固有のもので、それがある程度普遍化可能だとしても俺個人の来歴や特質に由来する以上、俺にとって意味ある人生をどう生きるかということのステートメントには俺なりの価値を認めてもいいのだろうと思う。そういう前提で少しこれまでと今後について考えてみたいと思った次第だ。チラ裏乙wとかサウナで適当に考えてくれやwって思う向きもあろうが、目まぐるしい労働は洪水のように内省や熟考の成果を容易に押し流してしまうので、文字にしておくのは大事なのですわ。

 

 さて、わが人生において主要な時間を占めるのは紛れもない労働である。しかも人に使われ続けることは確定している。

 というのも、今の職場で到達できるてっぺんというのは、せいぜい誰かの小間使いだからだ。今の俺はその小間使いの小間使いの小間使いの小間使いぐらいの感じなので、まあどうしたって誰かの使役の下でおまんまを食わなくてはならない。

 そういう奴隷根性はうっちゃって、FIREするなり起業したり、フリーランスで食べていったりとか考えないの? と創意工夫溢れるクリエイティブ人材の皆さんは思うかもしれないが、ぶっちゃけた話ーーない。FIREするだけの金融知識もなけりゃ、起業するだけの度胸もないし、フリーランスで仕事をとってくるような能力もコミュ力もない。結局俺のような人間については、中世ジャップランドの終身雇用制が守ってくれるのでそれに越したことはないのだ。

 宝くじでも当たらない限りはもう仕事をし続けることは確定している。結局金持ちに生まれなかった時点でどんなに労働に向いてなくても働かなきゃいけないので、それを嘆くだけ時間の無駄である。いや嘆くのだが。有限な人生を嘆きで満たすのはもったないが、人生を嘆かずにはやってられないという悲しみと辛みのサンバを踊り続けねばなるまい。

 今の仕事も前の仕事に負けず劣らず嫌いだし、というか何度も繰り返して述べているようにそもそも労働が嫌いなので、ある日「ウァァァァッ!!!!」ってなったら多分辞めるかもしれないが、一方でまだそこまでの嫌悪感を持っていないのも事実である。結局この労働については不発弾みたいなもんなので、とりあえずは抱えて生きていくしかないのである。

 労働に対してはこんな悲しみの気持ちしか持ち合わせていない以上、これを他の多くの人間のように男子の本懐とすることはできない。ところで、仕事のために生きてますみたいな奴いるけど心底尊敬する。前までは軽蔑していたが、あれはあれで生き方であり、それを貫徹することは素朴に凄いことなのだと思うようになった。社会人7年目の成長ですね。

 

 それでは、次に労働以外の人生の諸々について検討しよう。つまり、俺の趣味である。

 今28歳になってみてこれまでそれなりに趣味と言えるようなことについて急速に遠ざかりつつあるっぽい。たとえば映画だが、わざわざ仕事終わりに見に行くようなこともなければ、さりとて休日に近所のショッピングモールのシネコンとか行くか〜ともならない。なのでここ最近話題のシン・ウルトラマンはもちろん観ていない。今絶対に観に行きたいなと思っているのはワンピースぐらいである。一応昔は単観上映とかも観に行ったがとんとご無沙汰である。何か観に行ってもいいかなと思うものはあるのだが、休日に1時間かけて池袋や新宿、渋谷に出るのがマジで億劫になってしまった。何か友達と遊びに行くでもない限りは休日に電車に乗るということの選択肢すらなくなってしまったのだ。

 次にゲームだが、最近ちゃんとやり切ったのはこのブログでも書いたゴーストオブツシマのみである。いややりきってねえわDLC積み残してるもん。後はスカイリムとfallout4を延々と交互に繰り返しているのだが、これも大体MODをてんこ盛りにしてちょっとその動作を確認して「ほえー最近のMODは進んでるンゴねえー」と1週間ぐらい遊んだら飽きるを繰り返している。このMOD環境を構築するのにも1週間ぐらいかかるので壮大な時間の無駄であることに気づき、ついにこの前再構築してやり始めたスカイリムは3日でやらなくなった。それでいて他のゲームについては買いはするものの積んでいるので無限に金を無駄遣いしている。休日に死ぬ気でゲームをやるということはあろうけど、ゲームでキチョイチ(貴重なお一日)を使い切ってしまっていいのかという疑念が鎌首をもたげてくるとうーんとなってしまい結局やらない。

 そして残るのがYouTubeであり、目下俺の人生における最もヤベェ時間どろぼうである。俺が小学校の学芸会でエンデのモモの時間どろぼう17の役をやったのは有名な話だが……というクソみたいな閑話は措いておき、マジでYouTubeには抗し難い何かがある。まあ簡単に言えば、あーあ疲れた。何かやるか→やることねえなあ……→スマホ見る→YouTube見っか……という一連の流れがもはや準生理現象と言ってもいいくらいに自然な流れになっている。個々の動画は10分超えないのでまあそれぐらいならと思っていると、気づいたらキチョイチが終わっているという典型的な無である。本当ならその時間で映画も見られるしゲームだってできるし読書もできるのだが後の祭りである。

 とはいえ、これはもはや現代人の普遍的な宿痾なので今更俺がそれに付け加えることはないが、これが如何なる意味でも人生において意義のある行いではないし、いやむしろ有害な行いであると言ったほうがいいかもしれない。YouTubeのコンテンツが読者や映画、ゲームに著しく劣っていると言いたいわけではない。しかしその受容形態が著しく他のコンテンツと比べて受動的で、かつ手軽なのは明らかだ。この消費形態はYouTubeというプラットフォームだけでは成り立たず、高速に動画をダウンロードできて、かつ掌に収まるスマホで楽しめるという2010年以降の通信環境やデバイスが揃って初めて完成したことである。それは「とりあえず」の時間を潰す逃げ道を容易に満たしてくれるし、実際面白いので、それ以外の趣味をだんだんとやりにくくなるという点で有害であるということだ。そして近年のありとあらゆるファスト◯◯化はこのお手軽コンテンツと相補しており、我々にコンテンツの受容のために要する我慢強さや気力をどんどん奪っていくことになるだろう。そうなった時に我々の趣味の会話の大部分は「はい覚醒からのはい痙攣からのはい昇天からのはい賢者からの顔面圧縮キャンタマフェイス」か「日垣ー、今日シフト入れる?」か、はたまた「アトム法律事務所」で占められる可能性がある。それが人類補完計画ってことならそれでいいのかもしれないが(いやよくないが)。

 

 とまあ、こんな感じでかつての趣味に億劫になり、激ヤバ時間泥棒に対しては危機感を抱きつつもすきま時間や休日をそれで塗りつぶしてしまうわけであるが、そんな俺にとって唯一趣味、と言えるものが1つある。読書である。22-25歳に暗黒の労働に従事していた時を例外とすれば、基本的にこの趣味が一番長く続いている。何だかんだで結局これが一番面白いのかもしれない。研究者になる気もないし、読書家を自負するつもりもない。ただ漫然と人類の残してきた足跡を活字で適当に読むのが結局一番俺におあつらえ向きだったという話だ。もちろんこれはこれでそれなりに頭を使うのだが、しかし労働以外に頭を使う機会は大変貴重なのだ。

 しかし何故こんなに読書が続くんだろうなと考えると不思議なものである。昔と比べると、何かを知りたいという欲求がそこまであるわけでもない。端的に言うと「勉強」したいという気持ちがとんと薄れている。勉強しなきゃいけないんだろうなっていうことは漠然と思っているのだけど、その一方残された人生で勉強しなきゃいけない量が多すぎて尻込みしている自分がいる。結局どこまでやっても巨視的には個々人の勉強量の差など誤差でしかないので、その誤差を大げさに言い張って人間は学歴だの教養だのを言っているけど結局どいつもこいつも概ね似たような人生を送っているようにしか思えない。ひとにぎりの金持ちと、大多数の惨めな人たちに挟まれた「それなりに幸福な人々」の間でケチをつけ合ったりマウントを取り合ったりすることにどれだけ意味があるのか。そんなシニカルな気持ちになってしまい、ここのところ勉強しよう!という情熱を持つことができなくなっているのは事実だ。

 それでは一体全体俺を読書にドライブしているのは何なんだろうか。これは言ってしまうとほとんど惰性みたいなもので、朝の通勤時間や喫茶店にいる時間を使って漫然と何かを読み解いているだけに過ぎない。それではいけないなと心のどこかで思うのだが、かといってじゃあどれだけの人生が自分に残されているのかということを考えると、何かもうあれこれ考えても仕方がないような気もしてきている。気が向いたら頑張ろうぐらいの気持ちがちょうどええんや。

 そんな感じで自分にとって一番の趣味ですらこのぐらいのテキトーさしか持ち合わせていない俺にとって、人生というのは本当にもったいない授かりもんだと思う。こんな碌でもない人間の明日ならいくらでもウクライナの人々にあげたいと思うし、その人たちが必死こいて掴み取りたかったキチョイチを漫然と消費している自分にほとほと呆れ果てているのも事実だ。実際ここまで書いて上から読み直したのだがマジでクソデカ溜息が出てしまった。

 

 ここまでが現状分析で、さてさて限りある生をどうやって意義あるものにしていくのかという展望を語る必要があるのだが……全くわかりません! でも、いろいろなことで自分を縛るのを辞めようと思ったので、わからないが正しいのではないかと思う。

 そう思ったきっかけは、今日まで2週間ぐらいある洋書をえっちらおっちら読み進めていたのだが、残り3分の1に差し掛かったところで急速にその本の主題に対する興味が失せてきた。でもせっかく買ったし、何よりも英語を頑張って読めるようになるという目標のためにも読み通そうかなと思ったのだが、内容に興味が持てない以上本当に辛く(日本語なら勢いで何とかなったが英語は本当にキツいので)結局投げ出すことに決めた。気が向いたらまた読むことにして、それ以上先に進むのは断念したのだ。

 取り立てて言うほどのことでもないかもしれないが、俺は極度のワンガリマータイさんなのでこれまで人生であまり本を投げ出すことはなくて、途中で読むのを辞めるのは何だかもったいないと思っていた父子がある(もし仮に途中で辞めているのがあっても多分必要な個所だけを読んで終わりにしていたか、完全に意味不明で挫折したかのどっちかだと思う。前者は種々の論文集、後者はドゥルーズ=ガタリなど)。しかしこの決断をした後に朝いつもの喫茶店でボーっとしていたら、今後の人生はこれにかかっているのでは???と思えてきたのである。

 つまり、いろんなしがらみや思い込みで自分を縛り続けてきたきらいがあったが、そういうのは全部取っ払って一旦好きなようにやるのが一番いいのではないか、ということだ。ただし、やるのであればそれは精一杯やる、という条件をつけて。本も適当に読み流していいし、何なら完読しなくてもいい。完読したってどうせ忘れるし、大体人に本のことを語る時も割と適当な記憶で喋っていることの方が多い。こういうことを前提に、ちゃんと読み通せる本に出会ったら、その時はしっかりとそこから学べばええやんかという話である。同じことは今俺がご無沙汰している他の趣味にも言える。せっかく見るなら全部見なきゃ、やらなきゃ!みたいな精神で臨むから「うーんでも時間がかかるからな……せや、Youtube見よう!」となってしまうのであり、そういうことはもうやめにすればええ。つまんなかったら即切りして次のコンテンツに切り替えていけばいいのだ。

 とはいえ、人生は有限なので出来る限り誠実にコンテンツに向き合っていこうというのもひとつの立派な見識といえる。しかし俺は多分それに向いていない。というのもそれだけの優れた能力や忍耐力もないくせに完璧主義的な思い込みを持ってしまうので、結局0か100かしか選択肢がない。その結果常に0をやってきたので、こんな単純なことに気づくためだけに相当の時間をロスしてしまったなあと思う。もう少し自分のパッションに忠実になった方がええということが今日得たばっかの教訓だ。

 そういう無際限のトライ&トライの果てに何が得られるのかは全く見通せないが、しかしそもそもこんな人生を送ると10年前には全く予想していなかった。10年後の俺も今の予想を裏切ってバリバリの仕事人間になっているかもしれない。別にそうなったらそうなったでしょうがねえと思うし、今の非社交的社交性渦巻く交友関係全部切ってイジョコドクマンになるだけだ。それまでは有限な人生のうちの有限な可処分時間を適当にのらりくらり生きていくしかない。そう考えて気持ちが楽になった――ような気がします。いつも以上にとりとめのない記述が続きましたが今日は終わりです。