死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

暴力の時代

 安倍晋三が死んだ。しかも暗殺である。何とも言えない気持ちだ。

 

 俺の安倍政権に対する総括はこのエントリでまとめてある。総論としてはネガティブな評価で、今も大して変わらない。とはいえ、個人的にはそこまで嫌いな政治家ではなかったので、普通に悲しいと言えば悲しい。説明責任を果たさずにあの世に逃げやがってチクショウ!みたいな捻くれたリベラル系大学教員の唾棄すべき精神性については、反動マンとして心の底から嫌悪する。別にそれはそうなんだけどまずはこのとんでもねえ時代について何か言うべきなんではねえかと素朴に思っちゃったからだ。

 

 政治家への人傷沙汰ということでは、思い返してみるとまあ直近でもいろいろあるし、浅沼だとか2.26とか5.15とか懐かしいアレも出てくるだろう。なので取り立てて今回の事件が何かの時代を画しているのかというとそんなことはないと思う。むしろ、とっくの昔にこの世界は昔から続いているある時代に投げ込まれているのである。そう、暴力の時代だ。

 

 別にその時代の始点をいつから定めるか、なんて問いには大した意味はない。ある人は20世紀にそれを探し求めるかもしれないし、ある人は「俺の答えはこれや」と言って火炎瓶を投げたおっさんに遡るかもしれない。というか、暴力について、エポックと言うまでもなく、人類が抱える慢性的な病の名でしかないのでは、という指摘も尤もだと思う。ただ、いつかそれを抜け出せるのかもしれない、という淡い希望を込めてあえてここでエポックという一過性の名づけをしてみただけである。

 

 社会が抱える不安や問題に憤って敢然と拳を掲げ、対象は定まっていないがとにかくどこかに振り下ろそうとするような時代のことを「暴力の時代」と言っている。こういう抜き差しならぬ緊張感溢れるシーンは普通に人類の全過程のそこかしこにある。まずこの前提から始めないと話にならない。民主主義だとか何だとか言って暴力があたかもそれとは相容れぬものであるかように謳い上げ、その遍在に目を瞑るのはちゃんちゃらおかしな話である。そもそも、民主主義はそんな暴力で勝ち取ったものではなかったか? 自分の起源を直視しないと、こうやって何回も誰かが殺されるたんびにお題目を唱え続けることになる。今が多分そうなっているはず。民主主義のためにも暴力を許してはならないだとか、言論の自由のために暴力に屈してはならないとか、わざわざ暴力を向こう側に対置する仕草は、自分たちがその暴力と昵懇の仲であることを忘れさせてくれるケミカルではあるのだが、結局忘却とリフレインのサイクルを繰り返し続けるだけにはならないか。

 

 じゃあこのままでいいのかと言えば、そうではない。散発的な暴力の先に行くためには2通りの解があると思われてきた。リヴァイアサンか、全体主義か。前者は最強の暴力を独占し、少なくとも国内における暴力を無化する。後者は国家暴力が遍く存在し、DV国家指導者と共依存国民のみだけが暴力を振るうもの/振るわれるものの関係に立ち、この関係に立てなければ死ぬだけだ(これのリベラル的変種が「いい人たちだけで国を作りてえ」であるのは論を俟たない)。前者が暴力たりうる力を一者へ局限することで、後者は暴力行使の役割を局限することだ。しかしどれも碌な結果にならないし、今の日本にそうなってほしいとも思わない(もちろん、暴力を抑え込むために、どんなに民主的で開明的な国家でもこういう要素は取り入れざるを得ないわけだが)。

 それでは、あたかも天変地異のように、散発的暴力を時たま起こるからねということで納得するべきだろうか。まあそういう我慢強さも日本人らしいといえばらしいかもしれないが、問題の解決にはなるまい。直下型地震は避けられないけど、無敵の人とやらの社会に対するカミカゼも同じように扱っていいのだろうか。

 

 問いだけぶん投げたが、答えは特に用意していない。別にこのエントリで福祉を拡充すべきだとかそういう話をしたかったわけでもない。ただ、未だに暴力から抜け出せてませんね私たちは……どうしていきましょうか……という程度の再確認の意味しか持たない。とはいえ、安倍晋三の死を無駄にしないためにも、この再確認が多くの人に共有されることを願ってやまないという緊急漫談でした。