死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

読書会について――向井和美『読書会という幸福』及び山口尚『難しい本を読むためには』を参照軸として

 今年の俺の夏休みも終わろうとしている。『ONE PIECE FILM RED』を観に行ったり(ウタ最高!Ado最高!シャンクスありがとう!でもネグレクトやめろ!以外の感想はありません)、国立西洋美術館の「自然と人のダイアローグ」を鑑賞したり(マックス・エルンストしか勝たん)、上野で適当に飲み歩いたり、終戦記念日靖国神社遊就館の中にある招魂の儀の部屋で「アッ心霊写真だ!」と無神経発言をして周りをドン引きさせたり、オモコロチャンネルの動画とワンピースのアニメを無限に交互に観るなどそれなりに忙しい夏休みだった。当初はせっかく長い夏休みをとったので旅行に行こうと思っていたのだが、雨が降ったり金がなかったりなど様々な理由で結局行かなかったが今メッチャ後悔している……わけでもない。このクソアチアチ国で、西に向かって旅行したらそのまま極楽浄土に行っていたとかいう仏教説話ムーブをかます可能性があったことを考えると、普通にエアコンの利いた部屋で寝っ転がりながらアニメ見てた方がよかったに決まってんだ。

 

 多分見る人が見れば「28年も生きてきてお前その夏休みはおしまいでは?」と思われると思うのだが、まあ待ってほしい。別に人の夏休みなのでおしまいだろうがどうだろうが勝手だと思うのだが、一応有意義なことをしなかったわけではない。ちゃんと色んな本を読んで見聞を深めたこともそのひとつに挙げられる。その中に表題の本2点がある。いずれも面白くthought-provokingな内容だったので、俺の読書会に関する思い出も含めて徒然なるままに書き散らしてみようと思う。

 

 まず、簡単に本の紹介から入っていきたい。

 

 著者は学校で司書を務めつつ、翻訳家としても活動している人。翻訳家の東江一紀ジョン・ウィリアムズの名作『ストーナー』を訳した人)の弟子筋で、それまで一人で読書を続けてきた彼女は東江に誘われて『チボー家の人々』を扱う読書会に参加して以来、30年以上読書会で主に西洋文学の古典などを読んでいるという(巻末のこれまで読んできたという文献リストはちょっと壮観ものだ)。本書は彼女の読書会の体験を主軸としつつ、刑務所における読書会(彼女は『プリズン・ブック・クラブ』の訳者)や彼女の学校で企画した生徒たちとの読書会、彼女自身が体験潜入した別の読書会(有名な猫町倶楽部など)などにも触れながら、読書会の意義や楽しさを、時折彼女自身の人生の機微を織り交ぜながら述べた本だと言える。タイトルにある「幸福」は、まさに彼女が長年続けてきた読書会に対する極私的な感情の吐露ではあるが、きっとそれが多くの人に共感を持ってもらえるように、という意図も込められていると思われる。実際読書会をやってきた俺は共感できた。

 一方こちらは今をときめく哲学研究者の著述。難しい本をどうやって読み解いていけばいいのかということをテーマに中高生向けにやさしく書いている。読み方の正攻法としていわゆる「解釈学的循環」を看板に掲げ、キーセンテンスを発見すること、結論や前提を抑えること、話の流れを踏まえること、抽象的な記述について具体例(抽象概念を当てはめられるモデル)を思いつくこと、といった個々の読み方について、主に日本人の哲学者による著述を対象に実践していく。テクスト全体の主張の含意を仮にでも抑えつつ、部分の文章中における役割を判断し必要に応じて理解できるよう努め、また全体の主張の含意の理解をアップデートしていく……という解釈学的循環のエッセンスが平易な文章で書かれているだけでも本書は実に有益である(これと似たような本に政治思想史研究の大家である小野紀明の『古典を読む』があるが、あちらよりも断然簡単に読める)。さて、本書の終盤で、読書会の利点というものと、こう進んだらええなという架空の読書会を提示してくれている。これは著者の読書会の経験に基づくものであり、「わかりみが深い」と唸ってしまった……(架空の読書会の描写は読む人が読むと胸がキュッとするかもしれない)。この本は多分哲学書などの読書会をやる前にみんな読むとかなり効果を発揮するだろう。こういう本が俺の大学時代にあったらよかったのにな~と素朴に思った次第である。

 

 この2つの本(以下では『読書会という幸福』を向井本、『難しい本を読むためには』を山口本という)が取り上げている読書会はその対象もやり方も大きく異なるものである。向井本の想定する読書会が小説やノンフィクションなどであるのに対し、山口本は哲学書(山口が難しい本の読み方ということで著述の射程を必ずしも哲学書に限っているわけではないことは付言しておく)である。前者では対象の文学作品に仮託して自身の「お気持ち」、いわばテクストにとっては外在的なことを述べてもいい(しかしあくまでテクストに関連していることが大事)とされているが、後者はあくまでもテクストに内在的な議論をしなければならないという禁欲的なスタイルを堅持している。

 これは扱うテクストの性質にもよるのかなと思っている。小説などに書かれているセンテンスそれ自体は意味の理解がそれほど難しいものではない(これは小説の記述は簡単と言っているわけでは決してない。ただ後述の哲学書と比べて、という相対的な評価に過ぎない)。また、登場人物の行動や心情などが現実世界に生きる我々の心に訴えかけるものがあるのも事実なので、何故それが自分にとって訴求力を持つかというのもそのテクストと向き合うにあたっては重要なことである。それについて語るために単なる理解を超えたお気持ちについて言及する必要性はむしろあると言えるだろう。これに対して、哲学書なんかは抽象度の高い内容がてんこ盛りなので、都度自分たちの理解にそぐうパラフレーズや具体例の提示(言い換えれば適切な言語化)をしながらなんとか自分たちに理解ができるレベルまで著者の思考をおろしてこないといけない。そういう中で「この著述はビビッと来たね」とお気持ちを言ったところで大して(少なくとも読書会に参加する他の人の)理解の役には立たないと思われる。

 とはいえ、この2つの本が扱う読書会に共通している点がないわけではない。「ひとりでは読むのにハードルがあるものをこなせる」というところだ。向井本では端的に自分だけでは読まないもの(これは文章量が膨大であることに加え、自分の関心の領域には入っていなかったものも指す)を読書会を契機に読み進められるということを明確な効用として挙げている。山口本はやはり理解が困難な本(山口は哲学の古典を例に挙げている)に常人が1人で突っ込むのには限界があるので、みんなで読んで自分たちの理解を持ち寄っていくことで何とかうまいこといくんじゃねえかということを言っている。

 これを俺なりに敷衍すると、読書会というのは、どんな本であれそれを読み進めるための推進力をつけてくれるような契機だと理解できる。『失われた時を求めて』だろうが『存在と時間』だろうが、とにかく読書会があるのでその期日までには決められたページ数までは読んでこないといけない。さらにそれを読んだ上での内容の的確な要約・理解の提示などある程度の言語化を要する。それが読書会を成り立たせる必要条件ではあるので、そこに向かって邁進するための明確な目標として読書会があるわけだ。

 その意味では、読書会に向いている本とそうでない本があるという見解もあると思うが、上述の効用を重視するのであれば実際大概の本が読書会で扱えると思う。というのも人間は弱い生き物なので自分でほいほい読書を進められるごくわずかな人々を除けば、読書会のような契機がないとなかなか読み進められない人がいる。しかしそういう人でも他の人から白眼視されないように頑張る……という俗物的な理由であってもどうにかこうにか本を読めるのだから、読書会は得るところ大だ。

 これは俺の経験からも言えるところだ。俺は大学時代政治思想史や哲学の古典を読むサークルに所属していた。ザ・一次文献であるところのルソーの『社会契約論』やアーレントの『人間の条件』などを読んでいて、その時はここの部分はこうだとかああだとかを先輩方が言っていたのを「なるほどね……」と聞いていた記憶がある。一方で、政治思想史の基本的な知識を抑えるということで、福田歓一の『政治学史』を読んだり、また政治思想史研究の古典(という意味では厳密には二次文献に属する)スキナーの『近代政治思想の基礎』を扱うこともあった。ルソーやアーレントの抽象的な思想の叙述と比べると、福田やスキナーは政治思想史の「史」を書いているので文章内容の意味がとりにくい、ということはあまりなかったと思われる(もっとも、スキナーについては政治思想史のマイナーな人々を扱うことが多いのでその都度調べ学習が発生したという意味では大変だったが)。

 多分だが、『社会契約論』はともかく『人間の条件』は1人で読み進められたかというと心許ない。毎度毎度「何を言っているんですかねこいつは」と思いながら毎週毎週20頁~40頁はとりあえず読んでおき、担当者のレジュメを眺めて自分の理解と答え合わせをするようなことがあったからこそ、何とか通読できたと思う(ちなみに読書会では『人間の条件』は全章を扱えなかった)。ただ、この経験があったので俺はアーレントの『過去と未来の間』、『革命について』を何とか一人で読み進められるだけの自信がついたし、ちょっと前から『精神の生活』をえっちらおっちら読み直すようなことをしている(これはハチャメチャに難しいと今でも思う)。古典を読むとそれに触発されて生まれたさらなる古典やその古典を追求しているので読書のアクセシビリティが拡大するし、何よりも俺は読んだんだという自信が出てくるので、読書会はその取っ掛かりを作るためにも有益である。

 一方で、テクスト内在的な理解以外を目的とする読書会もあるだろう。実際のところ、当該テクストが依拠するコンテクストが分からないことには何が何だかさっぱりという著述もよくあるはずで、それについては理解のための補助線としてテクスト外の知識を必要とすることがある。向井本でも、『ハックルベリー・フィンの冒険』に出てくる子どもが子どもとして扱われていないという文脈で、アリエスの『子どもの誕生』に依拠した説明を行ったり(アリエスが展開した子ども概念に関する議論をハックの生きる19世紀アメリカ南部にそのまま当てはめてよいのかは疑問なしとはしない)、テクスト内在的な読みの読書会を志向する山口本でも古典に立ち向かう前に、まずその古典の著者についての一般的な知識が書いてある新書レベルの本を2冊ぐらい読んどけと御丁寧にアドバイスしてくれている。逆に、理解するだけなら簡単すぎて、ある程度追加情報を盛り込まないと勉強にならないという本もあるだろう。代表的なのは教科書で、当該分野に全く明るくない面々が読めば「ほうほう勉強になるな」と思うかもしれないが、それなりに知っている人がメンバーに複数人いると入ると自分の持っている知識の再確認にしかならないということが生じる。そうなってくると面白くないので、教科書の情報にプラスして何か付け加えて説明するということも当然出てくるだろう。

 恐らく山口本の趣旨からするとそういうのは本当の読書会ではないと言えるかもしれない(テクストに外在的なことをいたずらに持ち込むことを山口本では「空中戦」と表現してなるたけ避けようと書いてある。外在的なことへの言及についてはおおらかな向井本でも雑談はできるだけ最小限にと述べている。余談だが、どちらもその際に重視しているのが読書会における司会進行役(ファシリテーター)の役割だ)。とはいえ、一冊の本をたたき台的に活用し、当該テーマへの理解を深められるような追加情報を出せるのであれば、それはそれで参加者全員に益するサーベイになるかもしれない。俺の経験から言うとそれはそれで自分の勉強になったなと思っている。

 これも同じく大学のサークルでの話だが、安全保障に関する勉強会をやった時に取り上げた本が『アクセス安全保障論』という教科書チックな本だった。俺は高校時代から芯のあるネトウヨで安全保障問題についてはかなり関心があり、インターネットでのレスバトル以外にもそこそこ文献を読むなどしていたので、正直『アクセス安全保障論』の書いてある内容については割と知っているようなところがあった。自分の担当箇所のレジュメもすいすいっと完成させてしまい余力があったので、他の関連する文献なども読んだ上で「この記述ではこう書いてあるけど最近ではこうらしいっすね」みたいな付加情報をたくさん盛り込んでみることがあった。これはまさに山口本で言うところの空中戦開始のムーブなので自制すべきところだったし、今考えてみると俺の読書会ムーブは結構そういうのが多かったなと恥ずかしい思いをしているのだが、まあよかれと思ってやったことなので許してほしい。ただ自分にしてみれば、知識の再確認以上にそれをきっかけに色々と新しい知識を知ることができたし、自分なりに研究動向をある程度整理できたという意味では御利益があったことは否めない。

 向井本も山口本も読書会は最高!絶対やったらええ!という感じのスタンスで書かれているが、俺の経験では読書会にまつわるほろ苦い思い出もなくはない。大学1年生の頃、マルクスの初期著作を読むぞという会があった。『経済学・哲学草稿』や『ユダヤ人問題について』を読んでいて、どうしても分からん!という箇所が結構出てきた。そこの理解をゆるがせにしたままだとアカンということで、延々と考えてみたり、図書館で関連しそうな文献を調べてみたり、ドイツ語原文や英訳なども突き合わせてみたり……としていたら昼から始めた読書会が夜になってしまったことがあった。これはこれで古き良き読書会みたいな感じかもしれないが、『経済学・哲学草稿』についてはそこにこだわった挙句通読できずそのまま終わってしまったのである。結局その後自分で一から読み直してみると、一度通しで読んだあとに当該箇所の著述に戻ってみた時に「ああ!そういうことか!」と理解できたことがあった(その理解が合っているかどうかは今も定かではないが)。山口本でも指摘されているように、とりあえず全体を読み解いた上で部分における主張内容がどのようなものか、そしてそれが全体における主張の含意にどれだけ重要な役割を果たしているか、といった点の検討なしに部分に拘泥すると間違いなく難しい本は挫折する。読書会はそういう部分については差し当たってはこういう解釈でどうですかねと作業仮説を提示するか、とりあえず先行きますかというようなファシリテートが重要な意味を持つ。このことを理解していればもう少しよい結果が生まれたのではないか……と今でも思うことはある。

 とはいえ、読書会をやったらええ、という両著作の結論には全く賛成である。何はともあれ読んだ内容について他人にも理解できるように言語化する、というのは自分の中の曖昧な理解や分からない部分をそのままにすることができない一種の緊張感を含み持つ。この緊張感がないと、「うーんよくわかんねけえどまいっか」と流し読み程度に済ませてしまうことが、少なくとも俺には往々にしてある。こうなってくるといくら読んでも自分の中に無を生成するだけだ。俺の経験に照らしても、読書会で読んだ本の方がよく理解できたな、と思うことはしばしばある。なので、読書会ができる人はやった方がいいのではないでしょうか。

 

 と、ここまで長々とノスタルジーに浸りながら読書会についての随想を雑然と鏤めてみたが、最近はとんとご無沙汰である。社会人になってから一応そのサークルの友人や後輩としてみたことがあったのだが、完走できたのはライプニッツの『モナドジー』と藤田省三の『精神史的考察』のみだ。他は種々の事情で途中までとなっているものもある。やはり皆忙しく、読書する時間も満足に取れないことがある。とはいえ、そういう場合は1ヶ月に1回にするなどやりようはいくらでもある(とはいえこれぐらいの間隔だと自然消滅する危険性も十分にあるが)ので、本質的な理由ではないかもしれない。思うに、みんなの関心がてんでバラバラなので、なかなか読書会をしようと思っても最大公約数的な書籍を選ぶのが難しくなっている事情もあるかなと思ってはいる。

 そういう意味で既存のコミュニティの延長線上の読書会については無期限休業状態なので、俺も漫然と色んな本を適当に読み散らかしている日々である。しかしたまには腰を据えて哲学書を読みてえなと思うことはあり、実際今はアーレントの『精神の生活』を読み直しているので、こういうので読書会出来たらええなと思うことはある。

 こういう時ツイッターなんかで募集することもできるが俺はインターネットでも陰キャなのでそんなことはできない。結局金を払ってカルチャーセンター的なところに参加して本を読むのが手っ取り早いような気もしているが、本読むのに金払うのか……というけちんぼな自分がいることも否定できないのである。そんなこんなで在りし日の読書会を思い返しながら、今日も漫然とひとりの読書に勤しんでおります……。