死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20171026

 8時起床。見た夢はラップバトルで会社の上席を倒し続け、社長とのバトルで社長のライムが凄すぎてMICを取り落としそうになったところ、後輩がナイフを渡してきたので一気に社長を刺し貫いた。言葉と暴力を臨機応変に使い分けてこそのフリースタイルだ。あと法に縛られないこと。

 

 出社し、細々とした仕事をこなしつつ、ちょっとした時間を盗みニコ・ロストの『ダッハウ収容所のゲーテ』を少し読んだ。アンナ・ゼーガースが序文で言っている通り、「わたしたちがほんとうに厳しい状況におかれ、生と死の境にあるとき、わたしたちが誇りにしてきた詩人や思想家は、なおもわたしたちに語りかけるものを持っているだろうか? 知識の蓄積、同時代の、また過去の作家に関する議論、そういったものは、まだほんとうに意味をもっているだろうか? ゲーテダッハウにおいてどんな意味をもっているだろうか?」という問いかけの書であり、同時に著者が答えようとした苦闘の痕でもある。

 

 要は強制収容所でも文学やら哲学の話で盛り上がっていこうぜという感じで、実際読み進めると著者が収容所のどっかからゲーテだのルソーだのを引っ張り出して読んでいる。収容所、意外に本読めるんだな(大杉栄佐藤優もみんなみんな閉じ込められたら勉強するので、ラーゲリ文学と勉強の密接な関係とはこれ如何に)。だがそこは収容所、読めない本もたくさんある。ではどうするかといえば、これまでの著者が読み続けてきた数多の文学を記憶の書庫から引っ張り出すことによって、彼はまた「読んで」いる。彼は読むことで、ナチズムに抵抗する精神の塹壕を築き上げた。50ページぐらいまで読んでそんな感想を抱いた。いろいろ挟まれているエピソードも面白い(爆撃を「素晴らしい音楽だ」と言ったおっさんにキレる著者には残念ながら賛同できない。地獄の黙示録見た方がいいと思うよ)

 

 自由を奪われた状態で、知識人たちがその記憶だけを頼りに己が無聊を慰めることはファリア神父、あるいはアルベルト・マングェルが『読書の歴史』の中で言及した古典学者(ザクセンハウゼン強制収容所で暗記したホメロスを朗唱し、囚人たちを楽しませたが殺された)など枚挙に事欠かない。自分は記憶に自信がないので、もしどこかにぶち込まれても「えー、ムーサよ、怒りを歌え……あとはわかんねえ」と周りをホメロスで癒すことはできない。刑務所のお世話になる前に、「覚える」努力をしようと思う。

 

 午後は本を読む合間に仕事をした。本当はダメなことなのだが、仕事となるとどうにも本気になれない人種だ。ただ本を読むことを仕事とした場合、自分はその合間に肉体労働でもしかねない。固定砲台のように立場をしっかり定位することが昔から苦手だった。「夜店」を何個も開いたが、「本店」の方は常に開店休業状態。いや、営業許可届を出していないという説さえある。

 

 今日は何事もなく仕事を終え22時半に帰宅した。ヤフオクでブルクハルト『ギリシア文化史』全8巻(ちくま学芸文庫版)を7500円で落札。いい買い物をした。クレジットカードの利用残高などは見ないことにしている。いや、本当はまだ大丈夫だとどこかで安心している。その安心は、だが残高を一度見たら崩れ去るに違いない。イザナミイザナギオルフェウスとエウリュディケ……見ないことで保たれる美しさがあると、我々は古代から学んできた。そういうものだろう。

 

 この後は風呂に入り、3時ぐらいまでロストの続きを読むとする。

 

ごはん

朝:バナナ、ボルタレン

昼:丸亀製麺でうどん

夜:近所のご飯屋さんで刺身定食