死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240402-0403

 昨日は酒飲んですぐ寝ちまったからよ、ちょっと遅れての更新や。堪忍な。

 

【労働】

 テレワークしていると息ができるのだが、出社するとダメになるので、そういうことやな。俺もう二度とまともにホワイトカラーできないんじゃないかという不安。

 

【雑感】

 ああそういやそうだったなというのを。Xで在野研究者の荒木優太氏が言及しているのを見て思い出したので。

 

 『オッペンハイマー』の序盤で、アメリ共産党の集まりか何かでオッピーが最初の愛人ジーン・タトロックと初対面するシーンがある。そこでジーンに挑発的な言辞(これを完全に忘れたのだが「知識人が興味持ってるの?」みたいなからかいだったと思う)で挨拶されたオッピーが、「資本論全三巻読んだ」と豪語してマルクスの思想を「所有とは盗みである(Ownership is theft.)」と要約するが、ジーンは間髪容れずに「財産とは盗みである(Property is theft.)」とやり返す。間違いを指摘されたかと思ったオッピーは、ドイツ語原文で資本論を読んだ=つまりアメリ共産党(CPUSA)のメンバーの間で広く読まれている英訳で読んでいないので英訳で何というかは知らない、という如何にもイヤミな弁明をする。このやりとりを終えた後、オッピーはジーンに共産党のドグマが絶対かどうかという論点を持ち出し、自身は絶対ではなく揺れていたいんだみたいな話をすると、ジーンも私も揺れたいみたいな話をして、ソッコーで騎乗位濡れ場で両者仲良く「揺れる」わけだ(ちなみにあのセックスシーンは、サンスクリット語のシーンも含めて冗談かよというぐらいキショかった。)。

 当ブログを読むEvil fewならわかるとおり、このセックスの引き合いに過ぎないクソッタレ左翼インテリトークシーンはそもそもからして間違いである。Property is theft.というのは、プルードンの有名な警句であるが、マルクス自身の考えでは決してない(マルクスシュティルナーはそもそも「盗み」は「所有」がなければ成り立たないだろうという至極尤もな批判を加えている。)。これは単なるミスなのか、映画上の作為なのかは全く分からないが、個人的には後者ではないかと思う。

 

 まず、オッピー自身がOwnershipと言っている点についてはどうだろうか。これはあくまで推測でしかないが、Ownership=所有「権」への批判が重要であるというのは、『資本論』の論旨それ自体には適っているように思う。マルクスは商品の交換過程や、本源的蓄積過程において、近代における「所有」が古代や中世とは異なって「権利」関係を前提とするようになったことに着目している(マルクス原文の指示は困難だが、さしあたっては「シリーズ 世界の思想」の佐々木隆治『マルクス 資本論』の説明で確認しました。)。この話をしているのだとすれば、オッピーがマルクスに関して決して的外れな話をしているわけではないことになる(つまり、オッピーはプルードンマルクスを取り違えたわけではない)。もちろん、Propertyでも所有権を意味するので、OwnershipではなくPropertyが資本論の「英訳」で使われているんだなと思ったオッピーが、ドイツ語原文の弁明をした――そう考える割と整合的なシーンだ(ただ、資本論の膨大な内容を要約する表現として適切かというとかなり微妙だ。)。

 しかしこれに対してジーンがあえて「Property」と訂正したのは、資本論の「英訳」では所有を「Property」として訳していたから、ではないだろう。まさにプルードンの警句が社会主義的なサークルにおける言葉としてはより人口に膾炙していて、それをマルクスの思想だと取り違えたのだと考える方が自然だ。なぜかと言えば、歴史的な背景として、ニューディール時代のアメリカにおいては共産主義社会主義に対する「左派的な知的共感」が広く共有されていただけであって、彼らの多くが社会主義者が多用する「金科玉条」(まさに彼らはそうした「歯切れのよい言葉」たちを武器に使ってきたわけだが)は知っていても、その深い思想的内実まで理解していたわけではないと考え得るからだ。そうなると、マルクスプルードンの取り違えはきわめて自然である。実際、映画でもオッピーとジーンの会話を取り持った古株のCPUSAのメンバーであるハーコン・シュヴァリエが、オッピーが資本論を読破したと聞いて「うちの党員の誰よりも読んでるよ」と漏らしていることからもそういう雰囲気を伝えようとしていた感は見受けられる。

 大事なのは、マルクスの文脈ではオッピーの方がより適切に見えるし、共産主義運動サークルの語彙的にはジーンの方がより適切に見えることである。本作でちらと言及される量子論における矛盾の両立性であるとか、「理論」と「実験」の対比(「資本論」という「理論」から入った知識人オッピーVS「運動」から入った実践家ジーン)など、このいけすかないシーンにおいても本作のテーマをそれなりに看取できるように思われる。そうだとすれば、このシーンにもそれなりに意味があるので、制作者の作為と考えてもよいのかなと思いました。もちろん、単なる深読みに過ぎないですが。

 ただ、もうひとつ作為の解釈として思いつくのは、本当にオッピーがマルクスプルードンを取り違えているということである。つまりその場合映画で示したかったのは、CPUSAであったりそれに共感するニューディール・リベラルがやっていた左翼運動というのはホンマに実践ファーストで、マルクスなんてちいとも理解していなかったということだ。これは、映画でオッペンハイマーが結局理論の限界を踏み越えて最悪の「実験」へと雪崩れ込んでいくことを考えると、この解釈も実は興味深い気がする。どっちかはわかりません。

 余談ですが、このシーンが作為であるという前提で、そもそもこのシーンの文脈ではOwnershipであってもPropertyであっても大した違いはないように見えてしまうのはどうかなと思う。思想史的な観点からすればpropertyで訳した方がいい気がするし、博覧強記のオッペンハイマーならそこも踏まえてownershipとは言わなかったような気がする。そこら辺を理解せずに交換可能な言葉だということでこのシーンが作られているのだとすれば、それはちょっと残念かもしれませんね。まあそんなことを気にするような人間こそEvil fewだと思いますが。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅱ カリスマ・教権制』(岩波文庫、2024)を読了しました。前巻は結構つまらなかったんですが、こっちは結構面白かった。ウェーバーの洞察は今でも面白いなと思う。たまにXとかで優れた閃きとか識見を見て「ほええ」となるような感覚でした。そして、訳文は極めて読みやすかった。

 ウェーバーは支配が続く要因、つまり当該支配が「レジティメイト」される要因として、制定法に依拠した「官僚制」や家父長が支配する「家産制」にはある種の「日常性」があると指摘する。しかし、この日常性に依拠せず、非日常的な権威としての「カリスマ」が支配するケースがあると指摘する。典型的には、軍事的英雄や預言者のような存在が想定される(カリスマの顕著な特徴としてウェーバーは「経済への無頓着さ」を挙げる)。しかし、歴史上一回しか誕生し得ないカリスマ的存在者による支配は、カリスマの消滅によって終焉を迎えるはず、と思いきや様々な要因(例えば「血」や「官職」にカリスマが付与される。例:カリスマの後継者が血統を有する、あるいはカリスマが指名した官職につくなど)で「日常化」する。ここにカリスマに依拠した支配が引き続き行われ、それが家産制や官僚制へと合流することもあるという。注意すべき点は、ウェーバーはカリスマ制→家産制→官僚制みたいな発展図式を意図したわけでもなければ(実際そういう例はあるかもしれないが、これが普遍共通するだとかは言っていない)、そもそも三つの区分はそれぞれ排他的にしか成立し得ないと言っているわけでもない(それぞれに混淆したり、また経済的・政治的・文化的要因によって極端な体制が生じたりする場合もある。)。

 また、「レジティメイト」の顕著な例として、ウェーバーは「教権制」、つまり政治権力と宗教権力が並立しつつ、後者から前者への「レジティメイト」を調達する体制を論じる(政治権力と宗教権力が完全に一体になっているのは「皇帝教皇主義」として、教権制とは対立概念で捉えている。)。

 ざっくりまとめると上のような話なのだが、備忘のためにいくつか引用しますね。

 「代表者に対する「命令的」委任は、たえず変化する状況とたえず生じる事前に予測できない問題のために、純粋に技術的な観点からして、完全に実現することはできない。有権者の不信任投票による代表者の「意見」は、これまでは散発的に試みられたことがあるだけである。「レファレンダム」によって議会の決定を見直すことが意味するのは、重要な点としては、主張に固執するありとあらゆる非合理的な勢力を実質的に強化することである。なぜならレファレンダムには、利害関係者間の駆け引きや妥協を技術的に排除してしまう傾向があるからである。

 最後に、選挙を頻繁にくり返すことも、そのコストがしだいに増加するため不可能である。

 国会議員を有権者の意志に縛り付けようとする試みはすべて、実際のところ長期的にはいつも、ただ次のことを意味するだけである。その意味というのは、有権者の意志に対する、すでに増大している代表者の政党組織の力をさらに強化することである。なぜなら、彼ら政党組織だけが「国民」を動かすことができるからである。」(pp82-3)

 「一般的にいって、支配構造の三つの基本類型は単純に次から次へと一つの発展の系列に組み入れられるのでは決してなく、互いに実に多様な仕方で結びついて現れる。

 しかしもちろん、制度になった継続的な構成体がしだいに発展するについれて後退していくことが、カリスマの運命である」(pp100-1)

 「クリエイティブな力としてのカリスマは、支配が継続的な構成体に硬直化していく過程で後退する。カリスマがなおも威力を発揮するのは、選挙やそれに類する機会での、効果が予測できない、短期間の大衆感情においてのみである。それでもカリスマは、もちろん強く変容した意味ではあるが、社会構造の非常に重要な要素であり続ける。

 私たちはここで、カリスマの日常化を主として条件づけている、先に触れた経済的要因に戻らなければならない。既存の政治的、社会的、経済的秩序によって特権を与えられている層は、次のような欲求を持つ。自分たちの社会的・経済的状況が「レジティメーション」されている、つまり純粋に事実としての力関係の存続から、獲得された権利のコスモスへと転換され、聖化されていると思いたい、という欲求がそれである。カリスマの日常化をもたらす経済的な要因とは、この欲求のことである。」(pp166-7)

 (オリエントの帝国の「大宰相」なる地位について)「ペルシアでは、直近の世代になってもなお、シャーが個人として保有する長の地位のもとで、官僚制的な専門省庁を創設して、大宰相を廃止する試みがあった。しかし、この試みは失敗した。この仕組みはシャーを行政の長にする。行政の長は人民のあらゆる苦難と行政のあらゆる失敗に対する責任を個人としてすべて負わなければならない。これによってシャーだけではなく、「カリスマ的」レジティマシーへの信仰そのものが深刻な危機にさらされかねない。これが[大宰相廃止が]失敗した理由であった。大宰相はもう一度、設置されなければならなかった。大宰相が責任をかぶって、シャーとシャーのカリスマを守るためである。」(p170)

 「議会制のもとで国王は無力である。それにもかかわらず国王が保存されるのには理由がある。なによりも、国王が存在するというただそのことによって、また暴力が「国王の名において」行使されることによって、国王は自らのカリスマで、既存の社会・所有秩序のレジティマシーを保障する。そしてその利害関係者はみな、国王を排除すれば、その結果として、この秩序の「正しさ」に対する信頼が揺らぐことを恐れなければならない。国王が保存される理由はここにある。」(pp171-2)

 「したがって、どのような構造であれ、レジティメイトな政治権力には、なんらかの仕方でミニマムな神政政治的なあるいは皇帝教皇主義的要素が溶け込んでいることが多い。なぜなら、結局のところ、やはりカリスマはみな魔術的な起源の残滓を必要とし、したがって宗教的な力と親和的であり、このため政治権力にはいつもなんらかの意味での「神の恩恵」が存在しているからである。」(p190)

 (教権的でなく非政治的・無政治的なゼクテが主張すべき「良心の自由」こそが人権の起源であるとした上で、)「しかしいずれにしても、この意味での「良心の自由」は最も広い範囲に及ぶ「人権」であり、倫理的に条件づけられた行為の全体を包摂し、権力、とりわけ国家権力からの自由を保障するからである。この意味での良心の自由は、このようなあり方では、古代や中世にも、そして同じく例えば、国家による宗教の強制をともなうルソーの国家論にも、存在しない概念である。

 その他の「人権」「市民権」「基本権」は、この良心の自由の権利に付随している。とりわけ、自らの経済的利益を自由に、自分の最良で実現する権利がそうである。だれにでも平等に適用される、保障された法的ルールという抽象的なシステムの範囲内であれば、この〔経済的自由の〕権利は成り立つ。このとき最も重要な構成要素は、個人の財産の不可侵性、契約の自由、職業選択の自由である。」(p338)

 そして最後に、訳者あとがきの中でしっくりきた段落をそのまま引用します。つまり、レジティマシーは真空状態で議論されているわけではないということです(これも訳者の受け売りだが)。

 「さまざまな階層や立場の人たちが、その都度のコンステレーション(布置連関)、あるいは力関係にあって、対立したり、共闘したり、漁夫の利を得たりする。そうした連関を背景として、利害や情念が動き動かされ、その結果として、ある傾向が促進され、ある傾向が阻止される。(近代化は合理化で、その典型的な組織形態が官僚制だ)という図式で議論することは、誤りとまではいえない。しかし、この図式は無条件に、どこででも当てはまるわけではない。家産制的な主人、地方の名望家、カリスマ、修道士など、さまざまなアクターが官僚制化の傾向に対立してきた。そして、そのせめぎ合いには濃密にさまざまな利害関心が絡む。確認するまでもなく、レジティマシーの狭義の三類型がどうでもよいということではない。しかし、ある支配を成り立たせているのは、レジティマシーの観念であるとともに、あるいはそれ以上に、理念的であるとともに物質的な利害関心のコンステレーションである。たしかにウェーバーは狭義の支配と利害関心のコンステレーションを明確に区別している。しかし同時に、彼はつねに具体的なコンステレーションと関連づけながら、支配について論じている。そもそも私たちがレジティマシーを問題にするのは、観念的・物質的な対立を前にして、なんらかの秩序を模索するためである。」(pp434-5)

 

【動画】

youtu.be

 ふっくらすずめクラブに戻って本当によかった。「会社にしか友達がいない」という名前だと早晩チャンネル登録を解除したと思うので。あのカットインが出るたびに会社にも友達がいねえ俺はどうすればいいんだよという気持ちになってしまう。俺はオモコロよりかは歳の近いメンバーがいるふっくらの動画の方が親近感が沸くので、毎日投稿はメチャクチャありがたいしこれからも頑張ってほしい。