死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240421――その夢すら溝に捨てたのはおい誰なんだよもう知ってんだろ

【雑感】

 うつ状態からちょっとずつ回復してきていてはいます。ただ、毎日酒を飲んでいるせいかパフォーマンスが全般的に縮退しているっぽい。とはいえ酒を飲みうまいもんを食うのが人生の一大事という感があるので、とりあえずゆっくりやっていくかという気持ちでございます。

 それにしても職場に行くの本当にしんどい。毎日職場がミサイルで吹き飛んでほしいと本気で思っています。どうしてイランとイスラエルの真ん中に職場がないんだろう。ウクライナ東部でも可。世界中のありとあらゆる戦争暴力を俺の職場に集中してほしい。

 今の職場は退職するんですけど、やっぱりあと30年も仕事しなきゃなのきっちぃっすね。これは確かにFIREしたくなるな。でも俺はしないような気がする。俺は共産主義者でも社会主義者でもないし、どちらかというと資本主義をマシな選択肢だと思っていますが、昨今の資産運用立国みたいなムーブメントにはメチャクチャドン引きしているところがあるので、FIREという選択肢はとりたくないと思っている。

 

【読書】

 クライスト(山口裕之訳)『ミヒャエル・コールハース チリの地震 他一篇』(岩波文庫、2024)を読んだんですけどね、コールハースのおかげでちょっとだけ元気になったわ。「もしもこの出来事のすべてが、そのようにしか見えないのだが、示し合わせて行われたたくらみにすぎないとすれば、自らの力で、彼の自尊心が傷つけられたことに対する償いを手に入れるとともに、同胞に対して将来そのようなことが起こらないという保証を手に入れる義務が、自分にはこの世の中に対してあるということだった。」(p19)まさにこれなんですよね。本当に大事な気持ちだと思う。

 あらすじは以下のとおり。コールハースは売り物として大切に育ててきた馬2頭を無法な領主に取り上げられた挙句、その馬が農作業に使われてダメになってしまう。さらにその馬たちを世話するはずだった従僕もほとんど半殺しにされて領主の荘園から追い出される。この2つについて最初は正当な訴訟手続で補償(=馬を元通りにしてもらった上で返す&従僕の治療費等を負担してもらう)してもらおうと考えるが、領主がザクセン選帝侯宮廷の官職貴族と縁戚関係にあることなどから全くもって相手にされない。選帝侯への直訴を試みた妻は不届き者として警衛に胸を突かれた予後が悪く死んでしまう。それでもなお妥協的な判決がなされたことで、コールハースはついに領主を襲撃するも、領主は遁走する。この領主を追撃していく中で、最終的にはザクセン選帝侯領内で最悪の叛乱勢力にまでなる、という話(実話がもとになっているようだ。)。

 コールハースが「ある一つの徳について度を越えたふるまい」(p7)をしなければ、と冒頭にあるとおり、まさに折り合うことを知らない正義感こそが、最終的には彼を神聖ローマ帝国の処刑台にのぼらせたと言える。この正義の遂行の過程で、コールハースはいくつもの街に火を放ち、人々の生活をメチャクチャにする。さらにコールハースの部下であるナーゲルシュミットはコールハース代理人を僭称し、正義の戦いと称して殺戮・放火・略奪に勤しむ。作中のルターがいみじくも非難したとおり、コールハースの徹底ぶりは、もはや正義とは違う復讐心のようなものに取りつかれていたのだろう。しかし他方で、そのような強情さでもってしか果たせない正義というのが確かにあるということが、この小説が示した人間社会の地平という感じがしましたね。

 なお、他の収録小説である「チリの地震」「サント・ドミンゴの婚約」も面白いですね。前者は不義によって死を迎えるはずだった男女がたまたま大地震のカオスに救われるも、大地震の原因がその冒涜的な行いにあるとされて群衆の怒りを買って赤ん坊ともども殺される話、後者はハイチの独立運動の際に白人を捕らえて殺す屋敷におけるスイス人と現地の混血の少女との悲しき誤解の末の物語でした。どっちも残酷趣味というか、前者は教会の床に叩きつけられた赤ん坊が脳漿を垂れ流して死ぬとかいう何とも言えませんでしたね。

 

 読書メモを作ることを心掛けて4か月経ちましたが、精神状態もよくないので、今後は小説に限らず他の本も↑ぐらい簡素なメモだけになるかもしれません。

 アウトプットの難しさというか、俺という人間が何をやってもしょうがないという気持ちが出てまいりまして、もう少し楽にしようやと思っています。

 

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 ↑この上の記事を読んで思ったんですが、人間の記憶の定着には漫然とブログに書き散らして「はぁ~お~わりっ!」ってするのではなく、もしかすると他者を必要とする「色気」のあるアウトプットが必要なんじゃないかなと思ったんすよね。誰かとたくさん語り合っているうちに覚えるというか。そう考えたら記憶の定着という観点からすればこのブログに読書メモを書く意味はないんですよね。もちろん記憶に定着させるというよりもいつか読み返した時の楽しみのために書いているような節があるのですが、ただまあそんな読み返さねえっていうのが最近の気づきです。というのも、俺は日付しかタイトルにしてないので検索性に乏しいし、あと割と稠密にまとめると読み返すのも結構しんどいっていうね。その労力があるなら多分対象の本を適当にパラパラめくってた方がよっぽどいいっぽい。

 記憶という観点では、むしろ丁寧にいろんな本を再読した方がいいんだろうなとは思っていますが、世界には本が多すぎる!!! このペースでいくと、日本語の本だって残りの人生であと2000冊読めたら結構いい方ではないかと思うと、アウトプットで変に時間を使うのもどうなんだという気持ちがなくはない。人生の終わりを考え出すと途端に自分のこの漫遊じみた読書傾向がとんだ時間の無駄遣いではないかという気がしないでもないが、そもそも俺の人生がある種の壮大な濫費に過ぎないことを思えばそれはあんまり気にしなくてもいいんでしょうね。

 

【動画】

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 人間7年も何かやってたら上達するんだなという好例です。こんなに年月を一緒に過ごせる仲間がいるのは凄いことではないでしょうか。俺にとっては大学時代の付き合いがそれなんですけど。

 それはそれとしてやっぱロストワンの号哭すこやな。これって中高生の心の不安にドン刺さりする歌詞なんですけど、何で30の俺に効いているんですかね??? 青春の音楽をボカロと東方とサンホラに捧げたマンの進歩のなさ、このコピバンの成長と対比するとエグいものがありますわな。