死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20190219

 今日の仕事はまあ、7時に出勤して20時半に脱走した(仕事を終えて会社を出たという意味の「退社」と区別した表現)割には、暇だったような気もする。新規案件のためにあいさつ回りとヒアリングをし、職場で欠勤者のリカバリーや会議をしていただけだった。昼過ぎには相崎うたう『どうして私が美術科に!?』1巻の存在を唐突に思い出して、仕事で使う資料を作りながらKindleで読んでいたらクソヤバくてニヤけまくってしまうぐらいの余裕があった。その後、向かいの女の先輩から「彼女とLINEしてるの」とか言われてまあ完全に冷えたんですが。竹内黄奈子の酒井桃音に対して向けているほぼ条件反射的な感情と浦上紫苑の自意識以外に興味がない。

 

 そして信じられないことに、報ステが家で見られるんじゃないかという時間に帰れそうな目算が立ったので(繰り返すがこれは仕事が完了したわけでは決してない。それについてはだいぶエポケってる)米軍に解放されたダッハウ収容所のユダヤ人みたいな気持ちで荷物をまとめていたら「飲みに行こうぜ」的な話が発生し、何も聞こえなかったふりして脱走した次第である。

 

 そんなこんなでコメダ珈琲でずっと本を読んでいた。半澤孝麿『ヨーロッパ思想史における〈政治〉の位相』(岩波書店)第1章「『自由』の倫理的力(moral force)に関する歴史的一考察」を実に5年ぶりに再読した。最初に読んだ時は、思想史とは何ぞ……みたいなことを考えていた時期に読んだので、その時は内容よりもどういう論理構成、テクストの取捨選択、そして採用した「物語」の妥当性をどう肉付けするのか、みたいな視角で読んでいたので恐らく著者の論旨を半分も理解していなかったように思う。ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』の手法を手掛かりとしつつ、ラヴジョイが等閑視した「自由」概念に取り組むという、遠坂凛のアゾット剣みたいな感じだった。比喩を永遠に間違え続ける人生。

 

 そこに出てくる〈状態としての自由〉と〈能力としての自由〉の区別が最初読んだときはよく分からなかったが(実際読み進めていくと混沌としてくる)、社会人になって「ああそういうことか」と得心がいったのは、今の状況がもろ〈状態としての自由〉オンリーの人生だからかもしれない。

 

 ともあれ、キリスト教的目的論として措定されていた〈能力としての自由〉と〈状態としての自由〉が分かちがたく結びついていた非政治的な自由意志論をアウグスティヌスに認め、それがトマスやエラスムスの時までは何とかなったが、やがて政治的自由の維持としての〈状態としての自由〉を語る社会契約論が論じられる中で、ロック=スアレスの頃は面影もあったけどホッブズスピノザになったら徐々に〈能力としての自由〉にキリスト教的な目的論が剥ぎ落され、ヒュームやミルの中に伏線としてはあったけど、ロールズノージックの時代になったらもう……みたいな政治思想史(著者はあくまで「政治思想史」というよりも思想史の中の政治/非政治を析出することを試みているのだろうが)の大胆な読み替えを試みている、と俺は読んだ(この理解で間違ってたら申し訳ない。多分若干違うところがあり、再読しなければならないが、今の俺は先に進みたい。今年のテーマは行けるところまで行って死ぬなので)。

 

 そう簡単に政治と非政治って分けられるのかなとか、バーリンの部分がだいぶ分かりにくい(当のバーリンが分かりにくいからかもしれない)など、いろいろ思うところはあれど、結論からするとすごく面白い論文だ。70頁ぐらいしかないが、そこで提示される自由意志を巡る相克の物語を認めることができるという主張は、著者の言う通り「一つの仮説―検証体系の評価を決定する基準として、その説明力の射程、および一次・二次資料解読の正確さの要求を維持」(序章「主題と方法」より。この序章も凄い)していると思う。そして思想史というか人文学全般で面白い論文というのは、そこで論じられている著作を読んだ上でまた読みたくなるというか、何度も読んで(もちろん機械的な反復ではなくこっちも相応に準備してから再読するのだが)螺旋的に理解を発展させる見込みがあるようなものだと俺は思う。それが最終的に「この論者の言っていることは違うな?」と思えればそこから先は自分が面白くする番だ。とはいえ、どう考えてもこの人並に読むのは一生かかっても難しそうですが……。あと個人的に興味深かったのが、註。まあ死ぬほど勉強になる註だなと思っていたら、ルソーの註で何故かルソーの作曲にダメ出ししまくってて笑った。流石戦後一時期バイオリンか何かで稼いでいた人だ(『思想』2017年5月号所収の「回想の『ケンブリッジ学派』――政治学徒の同時代的思想史物語――」参照)。そういえば丸山真男とも音楽の話で盛り上がったと書いてあったな。

 

 ともあれ、残り3つの章はまだ読んでいないので、これからが楽しみだ。いい本は続けて読む楽しみができるし、読み終えるのが惜しかったりする。昔TKda黒ぶちがNEWS RAP JAPANで「ラーメンのスープを飲み干さないという感覚が次のラーメンにつながるんだ」という感動的なパンチラインをフリースタイルで吐いていて死ぬほど共感したが、それは読書でも同じことが言える気がする。頼む明日も早く仕事が終わってくれ……。

 

 最後に投壜通信じみた文章を書く。昔からの友人の何人かがブログをやっているので1日に1回は覗くのだが、みんな更新頻度が低い。強い風俗ルポ、うまい食べたものの記録、美しい文章のお気持ち、俺はみんな好きなので頑張ってほしい。

 

 と、ここまで書いて思ったのだが、人間20時ぐらいに帰ると精神的にものすごい余裕が生まれるっぽい。何か文章に逼迫感がないですよね。すごい。発見だ。やっぱり俺がおかしいんじゃなくて働き方がおかしかったんだなあ。