死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

δὶς ἐς τὸν αὐτὸν ποταμὸν οὐκ ἂν ἐμβαίης

 行きつけの店を訪れた。ガラッとメニューが変わっていた。あまり言及するとアレなのでぼかしながら書くが、以前は大食いの俺でも満足できるボリュームで品目も多彩だったが、盛り付けだけはいっちょまえだがボリュームはなく、品目もだいぶオミットされていた。盛り付けが如何にも「インスタ映え」するのか、周りの女性客はこぞってスマホを取り出していた。レモン塩のようなおしゃれな調味料もあった。しかし、品目は貧弱なものになり、また味も若干レベルが下がっていた(これは店長が変わったことによるかもしれない)。普段ならそれなりの量を食べる俺だが、今日は半分程度に抑えて早々に会計した。昔からいた店員さんが俺に申し訳なさそうな顔をしていた。もしかしたら、この変更には何か事情があったのかもしれない。

 

 店を出た後、やりきれない思いがあり、コンビニでストロングゼロを1本買った。大学のサークルでストロングゼロが異常に流行ったことを思い出した。昔から別にうまかったわけではないが、すぐ酔っぱらえるという点で他のまどろっこしい酒に勝っていた。自転車を漕ぎながら飲んでいると「ああ、これこれ、この味やな……やっぱりまずい(笑)」と思いながら、不思議と涙が出てきた。飲んだストロングゼロかなと思ってペロッと舐めたらしっかりしょっぱかった。そう、ストロングゼロですら体内に入れば水とアルコールとその他諸々に変わっていく。何もかもが変わる。変わるということ自体が、変わってしまう前のもの全てへのエレジーであるのだから。

 

 変わらないものがある、なんてのは数千年前から繰り返されてきた嘘である。繰り返され過ぎて、容易に飛びつきたくなる「阿片」とさえ言える。イデア論キリスト教自然法……思えばヨーロッパは「変わらない」何かを追い求めていた。それは青春を駆け足で走り去った誰かが、唐突に過去に復讐され囚われてしまう様に似ている。本当はみんな知っていたんだと思う。変わらないものなんてないということを。知っていたからこそ、そこから逃れるためにあがいたのだ。そのあがきの中で自分たちが変わっていったことにどれだけ気づけていたのだろうか?(もちろん、不変にして普遍などなく、一切の変化と一回的な個別性をポジティブに受け入れようと言い続けてきた人々もいた。かつてそれを「歴史主義」と呼びならわした)

 

 もちろん、俺だって知っている。パンタレイ(万物は流転する)とヘラクレイトスをセットで教わる高校世界史の前に、Sound Horizonの「エルの絵本【魔女とラフレンツェ】」でばっちり予習済みだ。「流転こそ万物の基本 流れる以上時もまた然り」というAramaryの語りは、当時中2だった俺にバッチリ刺さったままだ。だが、その鈍い痛みを避けるために俺も白人同様、阿片をオーバードーズしてしまった。

 

 何も変わらないと思っていた。大学を卒業してからも、友人は友人のままでそうした彼らとの関係は続くし、その気になれば勉強はできると思っていた。だが、そこからして間違いだった。そんな思い込みを持たなければ今頃どんなに楽だったか。

 

 とにかく、労働は一切を変化させた。それは一息に人生の土台となり、その他の全てを規定した。それは一日の大半の時間を支配する。残りわずかな時間すらも疲労が重くのしかかり、労働再生産のために休息に充当した。それは職場が人間関係の中心となることを要請する。円滑なコミュニケーションや、労働外の付き合いが回り回って労働そのものを効率化していくからだ。いきおい、かつての友人は遠くなる(俺の場合は転勤で物理的に遠いわけだが)。それは「給与」を俺たちの最大の関心事として提供する。実家が太いならば話は別だが、自分の稼ぎで生きていく必要がある場合、正社員にとって「給与」は死活問題となって思考に躍り出る。給与の多寡、労働と比べて正当な対価であるか、社会保険料などの控除に対する不満……これに思いを巡らせたことがないとしたら、その人は何て幸せなのだろうか。

 

 この変化はほぼ避けようがない。だからこそ、変化を受け入れることが恐らく生活上もっともすぐれた知恵である。おばあちゃんも口をすっぱくして言うだろう。だが俺はバカであり、おばあちゃん子ではない。

 

 俺だけは変わらないぞといつもツイッターで吠えていた。多くの友人たちは変化への不満は口にすれど、波に何とか乗っているようだった。俺はデブなので波にうまく乗れないし、そもそも海が似合わない男だ。だからそういうのが許せなかった。会社の人間との飲み会が楽しいだなんて言ったツイートを目にした後、露骨に当てこすった。正直それは今でも許せない。俺と同業の人間は会社を辞めると何度かツイートしていたが、しかし最終的には仕事を続けると決心したようだ。俺はその決心こそ応援するが、もちろん複雑な感情がある。とにかく、変わっていくことを受け入れていった一抹の寂しさを感じた。もちろんそれが俺たちの交友関係に直接の影響を与えるわけではない。俺だってそこまで心の狭い人間ではないし、向こうもそうだと思う(いや、何事も変わるので確証はできない)。とにかく、俺は、俺だけは変わらないという思いを込めて、常に会社に叛逆するような物言いを呟いてきた。

 

 だが、ここには2つの欺瞞が隠れている。1つは、それはただの紋切型と化すのだ。はっきり言って俺自身飽きている。会社や仕事に対する不満は尽きないし、いつだって新しいことに怒っている。だが、そればかりでいいのかと自分でも思う。本当はそこまでではないのに、条件反射的に怒っているのではないかという不安にさいなまれる。きっと見ている人々も「またいつものことか」というように、お情けついでのふぁぼをつけて流してしまっているだろう。変わらないということが骨董品のような怒りを毎日持ち出し続けることだとしたら、それは何とも空しいではないか。最近ツイッターの更新を意図的に止めたのはそれが理由だ。

 

 もう1つは、本当に俺は変わっていないのかということである。これは俺自身明確な答えがある。変わっている。俺だっ会社にそれなりの貢献をしている。口ではいくらでも勇ましいことは言えるし、それが言葉のいいところだと思っているが、実態はいつだってかけ離れている。この前上司に言われたが、俺の勤務態度はまじめな方に属するらしい。しかも、あんなに会社を憎んでいるのに、完全な無能を演じきって会社に迷惑をかけることさえできていない。この前社内の賞をもらってしまった。そう、俺は着々と仕事が出来つつある。成長しているのである。今の職場でも1個上の先輩と一緒で中核的な戦力として期待されている。自らが憎むものに対して率先して貢献しているグロテスクさには流石に自分でも呆れている。その意味では、既に俺は受け入れているのかもしれない。いや、その仮説だけは採用しないでおこう、俺の精神のためにも。

 

 というわけで、いくら「俺は変わらねえ!」と叫んでいても、それは空虚でしかない。きっとみんな気づいていて、俺だけ幸せに馬鹿をやっていたのかもしれない。だが、俺も気づいてしまった。気づいてしまった以上、どうすればいいのか。わからない、この期に及んで俺は変わらないということにすがっている。どうしても受け入れられない。なぜこんなつらい思いをして働かなければいけないのか、なぜみんなして社会をやすやすと許してしまうのか、なぜ俺は変わらなければならないのか……こういう問いかけを放って甘える肥大した自我を自嘲することしかできない。それは自らを客観視できているという錯視に基づいた自己愛でしかないことは俺だってよく分かっているが、もはや自嘲以外に何が残されているのか?

 

 ストロングゼロはもう3本目だ。このまとまりのないエントリもそろそろ終わりにすべきだろう。これはもはや人に見せるような代物ではない。溢れてきた感情を記号化して放流しているだけだ。まあ、もうこの辺にして、明日も仕事なので風呂に入ろうと思う。あと、もうあの店には二度と行かないだろう。