死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20190128

 土日もへいこらと仕事をしていたのだが、ある時感情がどうしようもなくダメになって、非常にムカつく電話をしながら空中を裂く蹴りを随所に放っていた。するとそれが会社の加湿器に当たり、まあ壊れたのでそのままにしていて、月曜日、誰も気づいていないので流石に笑った。自己・他者・加湿器――近代日本文学における三大〈不在〉である。

 

 全ての人間が生きづらい社会が訪れてほしいと本当に思っている。というか、もう「俺は生きづらい」「あたしだって辛い」「いや女が一番やべえ」「ユダヤ人では?」みたいなつらたんマウンティングバトルはこりごりで、早いところ全世界で生きづらい社会を生きづらいまま過ごし、そうして愚か者どもは大体あの世で報われるみたいな展開になってほしい。

 

 みんなで生きやすいというのは無理で、たとえば俺はある種の人間が生きやすいと必然俺の中で「うわマジかよ」となり、生きづらい気持ちが生じる。具体的に言うと、港区でギャラ飲みとパパ活で高収入男性の手から零れ落ちた金を啜っているヒル(アバ)ズ(レ)賊である。中学時代痴漢に間違われるというありえない経験をしてから女性に対するラディカルなレベルの嫌悪感とどう折り合いをつけていくか、というのを人生のテーマに背負ってきた。最近はまあ普通に「とりあえず俺ら同じ人間だし、殺し合いをしなくていいならそれでよくね?」みたいな感じになっているが、しかし件の連中とは21世紀の本当の戦争がしたくてしょうがない、個人的なことは政治的なことなので。イエメンで暗殺任務をしていたという民間軍事企業スピアー・オペレーションズ・グループの担当者さんはこのブログを見ていたらすぐ俺に連絡してきてください。

 

 そういう中、最近読み始めたキース・ロウの『蛮行のヨーロッパ』には勇気づけられた。第二次世界大戦直後、「法もねえ 倫理もねえ 連合軍それほど仕切ってねえ 家もねえ 飯もねえ ガキが毎日死ーぬ死ぬ」みたいな感じのヨーロッパの碌でもなさがこれでもかと書きつけられていて、久しぶりに2章ぐらい読んでぶっ飛ぶ体験をした。白水社はこの手の近現代史ヤバデカ本を集中的に訳しているが、ありがとうありがとうという気持ちである。ベッティーナ・シュタングネトの『イェルサレム以前のアイヒマン』も心待ちにしています。

 

 で、こっからは愚痴である。俺は疲れているんだろう。そんなことは言われなくても分かっている。なので、「モルダー、あなた疲れているのよ」みたいな感じで言われると本当に「じゃあ今の俺はアレですか、無ですか。発言権もないですか」と言いたくなる。疲れているのは自分が一番よく分かっている。だけど俺は行けるところまで行って死ぬつもりだ。皆さん、手を差し延べるんでなく、手をつないでくれ。それでいいんだ。落ちぶれている俺を見てほくそ笑むならいっそのこと殺してくれないか。なあ。なあ。

 

 それなりに人生をうまくやっていっている人々から見ると、俺はどうしようもなく破滅的で、非合理で、そしてそれは全部労働のヤバさからきていると思われているらしい。いや、そんなことはない。労働をやめたところで俺の頭は元には戻らねえ。失われたものを取り戻さなければならない、という喪失と回収のサイクルに俺は生きていないし生きられない。だけどやりてえことがある。だから仕事をやめるし次に進む。それだけなんだよ。だからこそ、破滅的で非合理と思われるたびに、傷ついているのは今の俺なんです。助けてくれ。終わり。