死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

8月を振り返る

 ちと早いのですが、明日明後日は諸事情で更新できないので、8月を振り返らせていただきます。

 

 とはいえ、お脳が死に絶えて久しく、また記憶があやふやなのでツイッターを見返しながら思い出している最中です。

 

 〈就職活動〉

 8月の割と早い時期にXから内定をいただき、そこに就職することにしました。ツイッターでもざっくり振り返っています。社会に再入場するので、よろしくお願いします。まあ前職よりは残業時間も少なければ残業代も出るし、悪くはないんじゃないかなと思っていますが3か月やってみないとわからんですからねこういうのは。とにかくやっていきましょう。

 

 〈社交〉

 就職が決まったため、まあ色んな人と会う機会が生まれました。よかったですね。久しぶりに会った大学時代の後輩が人間関係にもみくちゃにされていたり(ちょっと楽しそうだなと思ったのは俺の意地が悪いだけかもしれない)、これまた久しぶりに会った前職の同期が覚悟を決めて仕事を頑張っていました。みんな偉いですね。

 

 まあ後は大体いつもの面子とラーメン食ったり昼間から酒飲んだりしました。まあ先月まで頑張っていたし今月は堕落してもええのや。靖国千鳥ヶ淵もいったよという話はブログで書きましたね。

 

 あと、S県に旅行しました。裏S区って本当にあるんですね。

 

 〈文化〉

 ブログでも言及しましたが、ライプニッツモナドジー』を素人で読む読書会を始めました。久しぶりだったのでスゲェ頭が痛くなちゃたねえ……。モナドジーを常にバッグに入れて読み返し、二次文献も含めて読んではいます。正直月の前半何を読んでいたか忘れましたが……。

 お役立ち知識ですが、ツイッターでも話題になったライプニッツソーカル事件錬金術の適当なことふかしてたら錬金術協会の会長さんに気に入られて実験器具使えるとかいう奴)、あれエイトンのライプニッツの伝記によると錬金術を嫌ったライプニッツが自己弁護的にふかした可能性があるということです。まあ確かにソースがライプニッツの口伝しかないのであれば、本当かどうかというのはわかりませんが、人は適当なことに騙されるので、俺は本当にやっててほしいなと思いました。

 

 映画。ONE PIECE STAMPEDEと存在のない子供たちを見た。後者については感想をツイッターで書いていたので一応備忘的に転載。

 

 『存在のない子どもたち』観ました。行政の機能不全(そんな中何故か発揮される抑圧的な治安機構と生殺与奪を握る文書主義)、親が子を平然と「手段」とする家族という共同体の最小単位すら溶解したレバノン社会において、あえて共同体の規範に敵対することで共同体に帰属する権利を得る少年の物語。

 政治的な示唆は冒頭のビル群のモザイク状の屋根(いわゆるレバノンの宗派主義、これは終盤でも刑務所内のシーンで示される)、瓦礫の中を市街戦ごっこする子どもたちで暗示される。内戦や外圧の歴史を経てきたレバノン国家の疲弊を物語の前提として、ホッブズ的自然状態にも似た社会が描かれる。

 主人公ゼインの一家は国籍がない。行政に把握こそされているが、福祉や教育、医療すら受けられない「国家」に計数されざる人々。国家の保障がないがゆえに、最下層社会の極めて抑圧的な人間関係の網の目を「打算」でもって生き抜くことを余儀なくされる。それは家族間とて例外ではない。

 序盤の山場であるゼインの妹サハルが一家が住むボロ家を持つ男に結婚のために身売りされるシーンから、どんどん不条理な展開がゼインを襲う。巡りあったエチオピア人女性とその小さな息子との擬似家族は、今度は「国家」によって引き裂かれることになる。

 主人公ゼインは家族という紐帯を守るために当たり前に生きていこうとするのに、それを守ろうとすればするほど大人の打算(しばし生存のためと正当化される)によって彼の生活が追い込まれる。彼が「裁判」によって救済されるきっかけが、やむにやまれず「弟」を手放すことだったことは注目に値する。

 彼も生きるための「打算」に走らなければならなかったが、その帰結を目の当たりにした彼の犯罪はまさしく矛盾が最高点に到達した社会へのプロテストだった。世話できないなら生むなという主張は、共同体の破壊ではなく、これ以上「打算」をしなくて済むような彼なりの共同体維持の提案とも受け取れる。

 両親(特に神を持ち出して出生を肯定する母親)との絶対的な決別の後、母と子の再会を写したのは、映画が必ずしも絶望的な反出生を主張したいわけではないのだろう。「国民」として保障される機会を得たラストシーンのニヒルにも見える笑顔は、肯定ではなく問いかけのそれだと俺は受け取った。

 まだ乳離れしてないのにビスケットやサンドイッチもバリバリ食う子ども、シリア難民ながらたくましく生きようとする女の子、そしてゼインも生きることを諦めようとはしない子どもの生命力の強さを感じさせるこの点なまけたり人を騙そうとする大人を描く陰鬱なタッチとは対比的で、これもまた見れる要因

 個人的にはとてもオススメな映画なのだが、見る前にレバノンの歴史とか政治的をいろいろ調べていった方がいいと思う。あとスゲェ気になったのはレバノンの公的機関もメチャクチャ噛んでいる映画なんだなと。国防省とかどのへんで協力したんだろと。

 

 アニメ。テジセンのキーセンのことしか考えられない(嘘です私はAセクです)。あと旅行先で何故かよりもいを見る機会があった。めぐっちゃんの気持ちは本当によくわかるものがあり、刺さってしまったンゴね。

 

 〈社会〉

 GSOMIAのこと忘れないし、何なら安倍ちゃんが文在寅に後ろから抱きついて「絶交無効っ♡」っていうの見たくないですか?それはそれとして、日本と韓国互いにとって隣国がこんな国というのはつくづく不幸である。アメリカがベトナム戦争のはずみでアジアを焦土にしなかったのが悪い。

 

 〈その他〉

 鉄心ルート衛宮士郎の話以外したくない。

【映画感想】ONE PIECE STAMPEDE――「戦争」より「冒険」を、「答え」より「過程」を選んだ「自由」なルフィ

 今でこそクソデブキモ陰キャだが、ワンピースとナルトは俺にとっての特別なジャンプ作品なので、映画はだいたい欠かさず見ている。

 

 まず、総論的な評価を。歴代のワンピースの映画では1,2を争う出来の快作ではないだろうか。シナリオの妙味、キャラクターがはっきりした敵役、この映画限りの一時的な共闘を最大限魅せつつ「仲間」の良さを最大限に引き立てる細やかな演出、思い出を喚起する最高の劇伴音楽(ここらへんは正直天気の子越えだと思った)、アタマからケツまでブチ上がれるファンサービス、スクリーンのデカさに負けない濃密で臨場感あふれる戦闘シーンなど見るべきものがてんこ盛りだ。90分間全く退屈しなかった。

 

 ただ、個人的には作品の総合的な完成度は「FILM Z」の方が上だとは思う。FILM Zのゼファーのような本編以上の名敵役を登場させ、海軍の「正義」と海賊の「自由」を根本的にぶつけ合わせたかの作品は、本筋に直接かかわらないとはいえ、ワンピースユニバースの中でも重要な作品に位置づけられている。その意味では、今回のSTAMPEDEもそのような一角を占める作品だと思う。ゼファーと比べるとどうしても敵役であるバレットやフェスタの掘り下げがイマイチだったことは否めない(それだけゼファーは魅力的なのだ)。だが、ワンピースの根本的なテーマである「冒険」を今一度肯定的に突きつけてきたという点に鑑みると、この巨大なメディアミックス作品の全体を考えるにあたって今作は重要な参照点としての位置価を得たのではないかなと思う。

 

 逆に、ワンピースに今はそれほど思い入れがなくても、一度でも心を動かされたことのある人間なら見に行って損はないし、できれば迫力満点のバトルシーンとファンが涎垂らすツボを心得たファンサービスをスクリーンで楽しむべきだと思う。

 

 以下はネタバレ全開で。

 

 まず、ワンピースの新作映画では最も重要なファクターと言っていい敵役について。映画だけ(パンフレットなどは見ていない)でわかるプロフィールを説明すると、まずバレットは元々軍事国家ガルツバーグの少年兵だったが、国に裏切られたことでその国を亡ぼす。その後、ロジャーに敗北したことで、いつか彼を乗り越えるべくロジャー海賊団に入団。全ての無機物と合体できる「ガタガタの実」の覚醒能力者で、それで作った巨大なロボットみたいな体全体に武装色の覇気を纏わせるなど、当時のレイリーと同等の実力を持つという折り紙つきの化け物。ロジャーの死後その最強を目指す拳が行き場を失い暴れ狂っていたところを海軍のバスターコールに敗北し、インペルダウンレベル6に幽閉されていたわけだが、黒ひげ海賊団によるインペルダウン強襲の際に脱走した。

 一方、フェスタもまたロジャーの時代に活躍した海賊で、常に人々を熱狂に巻き込む「祭り」を仕掛けるプロモーターだったが、ロジャーの死に際の一言による「大海賊時代」の幕開けが祭り人としてロジャーに敗北したと感じる。その「大海賊時代」をひっくり返すレベルの新たな熱狂を生み出すべく、海賊万博を開き各地の大物海賊を集め、なおかつ海軍に通謀することで巨大な艦隊を差し向けさせたうえで、バレットと組み、海賊と海軍全てを滅ぼす「戦争」を仕掛ける。加えてバレットの目的は、自らが敗北したバスターコールに打ち勝つことで、名実ともに世界最強たらんとしたことである。

 

 この両者に共通しているのはロジャーに対する常軌を逸した「お気持ち」だ。何がなんでもロジャーを超えたいという「妄執」が、ロジャー亡き後の世界そのものに対する絶滅的な宣戦布告を彼らにさせたのだ。

 ちなみに先に述べたこの敵役の掘り下げが不徹底というのは、こうした「お気持ち」を掘り下げるシーンがバレットについては少し、フェスタに至ってはほとんどなかったことを指している。FILM GOLDの頃からの傾向だと思うが、作中では回想シーンなどはギリギリまで削り、限定漫画とかパンフレットとかでキャラクター設定を掘り下げる感じがみられると思う。それはそれでひとつの見識なのだが、個人的にはあまり好きではない。

 

 このバレットとフェスタが仕掛けた「戦争」と、ルフィたちが背負って立つ「冒険」の対立というのが今作の裏テーマだと俺は考えた。世界全体を“最初”から巻き込む意図で、海賊と海軍その全てに宣戦布告したというのは、ワンピース史上でそうないことだ。作中でそれに匹敵するであろうマリンフォード頂上戦争はその規模のデカさにおいては「戦争」級だが、あくまで白ひげ海賊団と海軍本部(と王下七武海)がエースを巡って争うという「私戦」の範疇であったことは思い起こすべきであろう(その帰結が世界的な影響を与えたとはいえ)。

 フェスタが劇中でロジャーが引き金を引いた大海賊時代を「宝探し」と揶揄し、バレットという最強クラスの戦力をもってして「戦争」を仕掛けたというのは、まさしくワンピースが貫いてきた「冒険」に対する強力なアンチテーゼにほかならない。バレットは作中で何度も「この海は戦場だ」と繰り返し、自分以外の全てを敵として殲滅せんとし、炎とバスターコールの砲撃で赤い海を現出させたわけだが、ルフィや他の海賊の冒険の舞台であった青い海との対比なのだろう。サカズキがボルサリーノにバスターコールを命じたのは、まさしく海軍も「戦争」をやる気だったということだ。

 しかし、海賊ルフィが貫き通したのは冒険、ひいては冒険をする自由である。簡単に敵味方を分けず、曖昧な立ち位置のまま共闘し、最後はバレットに勝利する(ちなみに共闘については、スモーカー、ハンコック、バギー、サボ、ロー、クロコダイルで驚きはなかった。どうせならイッショウやボルサリーノ、海賊なら黒ひげぐらい出てもよかったと思ったが、ここらへんはパワーバランス上の問題があるとみた)。そして、バレットを倒してもなお続くバスターコールを抜け出していく。バスターコールという「戦争」級の戦力に対峙するために自らが単独で戦争級の戦力になって「戦争」をぶつけたバレットが結局は敗れ、そんな勝負を真っ向から受け取らない「自由」なルフィが生き残るという構図。コントラストが見事だったがゆえに、このテーマを裏打ちする映像体験が可能だったと思う。

 

 そして、もうひとつテーマとなった対立軸が「答え」と「過程」である。これはワンピースでは何度も扱われているが、重要と思われるので言及する。物語の最後でラフテル(綴りはlaugh taleらしい。これはまた考察厨が捗りそうな……)のエターナルポースをバレットから奪還したルフィだが、CP0のロブ・ルッチとクロコダイルがそれを奪わんとした瞬間、そのエターナルポースを破壊する。

 ラフテルこそ冒険の終極であり、ワンピースとは何なのかの答えが見つかる場所である。その「答え」よりも仲間との冒険による「過程」を選ぶのはルフィらしいといえばルフィらしい。

 やはりこれを見た時、シャボンディ諸島でウソップがレイリーにワンピースのことを聞いた際にルフィが血相変えてウソップを止めた回が思い出される。今回のラストでは、エターナルポースを破壊したことにウソップは「ルフィらしい」と笑う。実は今作はウソップの成長を描いた物語でもあったと思う。

 

 そのウソップを止めた同じ回でルフィがレイリーに「支配なんかしねぇよ。この海で一番自由な奴が海賊王だ!!」と答えた。今作を一言で表すならば、その言葉を証明したもの、と言えるのではないだろうか。

 

 以上、まとまりのない感想となってしまった。しかしとても面白かったので、ぜひ見てほしいですね。

ライプニッツ『モナドロジー』(岩波文庫、2019)第1回読書会の記録

 【使用テクスト】ライプニッツモナドジー 他二篇』(谷川多佳子・岡部英男訳)岩波文庫、2019

 【副読本】ライプニッツ形而上学叙説・ライプニッツ=アルノー往復書簡』(橋本由美子監訳、秋保亘・大矢宗太朗訳)平凡社、2013。その他、ライプニッツ著作集(人間知性新論、弁神論、前期・後期哲学)を適宜参照。某区立図書館が貸してくれましたありがとう。

 【開催日】8/17

 【場所】新宿区の某喫茶店

 【人数】3人(俺、warmdarkさん、シネキチ三平さん)

 【所要時間】14時~17時(お腹がすいて帰った。夕焼け小焼けまた明日部なので)

 【到達箇所】45節。ちょうど半分

 【進め方】事前に全員が『モナドジー』を読んできたうえで、読書会の進行は節を内容がまとまってそうな3~4節ぐらいごとに分けた上で一通り読み、分からなかったところ、疑問に思ったところなどを確認するスタイル。レジュメは用意しなかった。

 

 以下、それなりに議論になった部分をまとめる。

 

 2節。複合体について。非物質的なモナドが集まって、何故(物体)(身体)という物質的なものと言い換え可能な複合体になるのか。訳注で指示された『理性に基づく自然と恩寵の原理』においては複合体も実体として記述されていることを確認。ライプニッツ的には複合体は実体化された現象で、これは人間にとっての記号的な認識に過ぎないということ。それでは、物質的として我々が触知する諸々の表象とは……という疑問がなくはないが、先に進む。ここで一応デカルトにおける延長/思惟の二元論的な実体観と違い、ライプニッツモナドという単一の実体観を打ち出したことも確認。

 

 5節。「単純な実体は、複合によってつくることはできない」とあるが、そもそもモナドが一挙に創造・絶滅という超自然的過程を踏まないといけないと考えると、その位置などは決まっているので、「複合」ってどういうことを指すんだろう?と俺が単純に疑問に思った。結局これは「複合」=自然的な変化(後述される生物学的な成長による変形?)なのだと勝手に納得したが、これでよかったのかは不明。今後もここは考えたい。もしくは教えて偉い人。

 

 8節。訳注の「『性質をもたないモナド』とは、数学的点のように、すべての属性・性質が分離されてしまった基体のようなもの」という記述がよくわからず、ここで少し立ち止まった。多分「点」はノートにペンでちょこっと書くと、それは「黒い」とか「インクが染みている」とかの属性を得るが、数学的な点は高度に抽象化されているのでそういう属性がないもの、という説明しか俺はできなかった。パラフレーズしながら説明していくと、自分の理解の粗さとかが再確認できるのでよい。読書会の醍醐味だ。

 

 12節。「変化するものの細部」についた訳注の「今日的な言い方をすれば、あらかじめ書き込まれたプログラムに従って進む多様な状態といったもの。これをどう説明するか。1680年代までは、自分のすべての述語を含む主語としての完全概念という言い方がされたが、アルノーはそこに運命論的な傾向を見て、自由を損ないかねないと批判した。完全概念という言い方は1690年代になるとあまり見られなくなり、代わって力、生命という見方が多用されるようになる」(p19)に首を捻りまくった。今思い返すと、恐らく「あらかじめ書き込まれたプログラム」=「モナドの内的規定」で、だけど別に整然とパターンがあるというよりは多種多様にやっていってますよということなんだろう(それがアルノーとの論争に出てくる「すべての述語」=「多様な状態」を含んだ「主語としての完全概念」=「モナド」ということなのかな)。この理解は読書会までには得られず、伝家の宝刀ライプニッツ著作集の訳注を見るという禁じ手で済ませた。

 

 14節。表象。やはり普通に考えると表象というのは「俺がドラえもんを見ている時に、俺が頭の中で知覚しているドラえもんの像」みたいなことだと思い、どうしても意識的なものと考えてしまうが、ライプニッツが意識されない表象をきちんと指摘している点が大事だった。ライプニッツの考えでは全てのモナドに表象が与えられており、そしてそのモナドの表象の判明度でランクがわかれ、①単なる有機的物体(生物、しかし恐らく石とか椅子のような通念上の無生物も該当する?)②動物③人間となっていく(63節訳注)。なのでライプニッツにおいては石やディスプレイ上の非実在美少女もモナドで構成される以上、恐らく表象があるということなのだろう(しかしメタクソに混乱している)。

 

 15節。表象と欲求について。欲求というのはさしあたり「モナドAが内に含む表象Aから表象A'に到達しようとする内的な働き」で、結果として表象Aから表象A’’に行ってしまうこともある、とパラフレーズして何とか理解にこぎつけた。この手の哲学書の読書会をしていると毎度思うが、こうして何とか理解したところでそれが通説的な理解でなかったり、見当はずれだったりしたら辛いものがあるが、みんなでこういう解釈に辿り着こうという所作が大事。

 

 20節。混乱した表象について。ライプニッツが例としてあげているのは「私たちが気絶したとき、夢一つ見ない深い眠りに陥っているときのように(中略)この状態になると魂もただのモナドと著しくは違わないことになるけれども、この状態は持続するものではなく、魂はそこから抜け出してくるので、やはり魂はただのモナド以上のものだということになる」というのは、分かりやすいようで分かりにくい。その「抜け出し方」において魂はどうなっているのかをライプニッツが記述しないからだ。warmdarkさんは「魂のランクがその時は落ちている?ただのモナドになっちゃうってこと?」と考えていたが、俺は「認識能力が一時的に低下することで、ランクが変わるわけではないのでは」と言った。この議論はその場で収まったが、後日(というかこのブログを書いている今)ライプニッツが指示する弁神論64節を見ると「魂だって混乱した表象を持つことがあるよ。だって魂がちゃんとした表象しか持たなかったらそれって神じゃん?」(大意)とか言っていて、ほへーとなった。

 

 23節。「失神状態から目覚めたときに自分の[知覚]表象を意識するのだから、私たちは目覚めるすぐ前にもそれをもっていたにちがいない。ただそれを意識しなかっただけだ。じっさい表象は、自然的には他の表象からしか出てこられない。ちょうど運動が自然的には他の運動からしか出てこられないように」という。ここも俺は引っかかった。

 たとえば俺が部屋の中で失神していたとしよう。目覚める1秒前の俺の表象はまっくらくらすけなので、そこから目覚めた瞬間いきなり俺の部屋を知覚するというのは、1秒前の暗闇と連続性があるのかね?という疑問。失神する前は部屋の中にいるので、要は表象は連続性は失神する前と目覚めた後ということになると考えればいいのかもしれないが、いやしかし、意識されない表象=混乱した表象としては1秒前のまっくらくらすけなのではないかという気もする。ここら辺もちょっとその場ではなおざりにしてしまったかもしれないので、考えていきたいところ。

 

 その後はまあとんとん拍子に進み、29節~38節の永遠の真理と偶然の真理の区別、矛盾律と充足理由律との対応関係、そして充足理由律が神の存在の必然性を要請することまでは普通に確認できた。卓越的になどスコラ的な用語は訳注がちゃんとフォローしてくれたので、ド素人の我々も何とか食らいついていくことができたと思う。

 

 さて、今回最大の難所だった43・44節について。

 

 43節「神は現実存在するものの源泉であるばかりか、本質もくしは可能性のなかにある実在的なものの源泉であるのもたしかである。ここでの本質とは、[ものがもともともつ]実在としての本質である」ライプニッツが証明したいこと。神が現実存在するものの源泉ということは38節までで明らかにしている。

 

 「本質もしくは可能性のなかにある実在的なもの」とは、それが「何かである」「何かでありうる」ために「そのものたらしめる」であることである。三角形の実在性は内角の和が180度。で、事実の真理から神の必然性を導き出したことを考えれば、これは永遠の真理に対応していると考えられる。


 だからライプニッツは「なぜなら、神の知性は、永遠真理もしくは永遠真理のもとになる観念が存する領域であり」と続けた。永遠真理とは「三角形の内角の和は180度である」などを指し、これらは神の知性のうちにあるとする(=存する)というわけだが、これが我々が???となったところだった。


 弁神論をひいてみると、「神は知性そのものであり、必然性つまり事物の必然的本性はその知性の対象となろう。しかしこの知性の対象は内的でもあり、神の知性の内に見出されるものである」(弁神論20節)。このことも含めて考えると、つまり三角形の内角の和が180度でなくなる=神がいない場合、三角形はなくなるし、想像不可ということになるだろう。


 これが43節最後の「神がなければ、諸々の可能的なものの中に実在的なものは何もなくなり、現実存在するものがなくなるばかりか、可能的なものさえなくなってしまうからだ」という結論の言い換えになる。少なくとも俺はそういう理解に達した。


 ※なお、神が恣意的に三角形の和が240度にすることもありうるというデカルト主意主義の前提を採用すればそうではないが、ライプニッツはそれが神の知性に存する限り、三角形の和は180度でなければ三角形の実在性が保てないと考える。「真理がいわば実在化する場所としての神の知性」(弁神論189節)なので。


 44節の「というのも、本質すなわち可能性、あるいは永遠真理のなかに実在性があるならば、この実在性はたしかに何か現に存在している現実的なものに基づいているにちがいないのだ」というのは、ライプニッツによる神の存在が現実的であるということを示したいとする一文。この後がまた喧々諤々の議論となった。


 「したがって、本質が現実存在を含み、現実的であるためには可能的であれば十分である、必然的な存在の現存に基づいているにちがいない」この論法それ自体はデカルト的な神の存在証明と似通っているが、デカルトが想定する「最完全者」ではなく、「必然的な存在」とする。


 本質に現実存在を含むというのはデカルトが言うところの「最も完全なもの」はその本質に「現に存在すること」を含まないといけないという議論(存在=本質)。現実的であるためには可能的であれば十分というのは「必然的」の説明で、(現存していない)可能的なものでも現実的にいずれなることを示す。


 それで45節で「神(すなわち必然的存在)だけが、可能的ならば必ず現に存在するはずだ、というこの特権をもっている。そして、限界を含まず否定を含まずしたがって矛盾を含まないものの可能性を妨げるものはないから、そのことだけで十分、神の現実存在をア・プリオリに知ることができる」と導かれるのではないだろうか。

 

 と、一応これが読書会の後に俺が考えつづけた一応の暫定的な解釈で、その場ではマジで何言ってるのかわからんという感じでお手上げだった。わからんものはいくら頑張ってもわからんのですね。

 

  【総評】

  まあ前半部分はこんな感じでした。難しかったね。

  いやでも本当に読書会やれてよかった。このために東京に帰ってきたといっても過言ではないので。

  やはりライプニッツの用語に頼らないで(あるいはきちんと噛み砕いて)一からその理路をどれだけ整然かつ無理なく他人に説明できるかがその著作の理解度や解釈の深度を表していると思う。これは一人で読んでいるとなかなかそうはいかない。武藤遊戯ならともかく、なかなか自分の読みの相対化は難しいものだ。

  どうしてもわからないところはわからないのだが、やはりわかろうと努力して議論すると、そのあと1人で考えていてもその議論をとっかかりとして解釈作業をスタートできるのも読書会の旨味だろう。この記録はもとより不完全な再構成でしかないが、何かの参考になれば幸いである。

  課題もあった。俺含めて近世哲学、ひいては哲学史の文脈についての知識が欠けていること。たとえば「実体」あるいは「実体形相」のような言葉はアリストテレスやスコラ哲学にも遡り、その上でライプニッツがそれを引き継いでいるのか何か微妙に変化させて使用しているのかを考えなければならない。岩波の訳注はそこらへんはフォローしているのでありがたいが、やはり自分たちでも少しは勉強しないといけないっぽい。その都度確認していると進行のリズムも狂うので、俺も次の勉強会までもっと頑張っておきたい。

  今回集まった3人は普段の知的関心も得意とする分野もまったく違うが、そんな3人が1冊の本の解釈をあーだこーだできるのは読書会のよさだろう。また、こういう読書会をセッティングすることでそれに向けて頑張って勉強しようという気が起きてくるものだ。思えば学生時代に3つの読書会に出てた時は毎日図書館に通うか文献を読むかしていたし、ああいう時間を少しでも取り戻せたと思うととてもうれしい。

  この読書会はライプニッツの研究者はもちろんのこと、近世哲学の研究者もいない、というかそもそもみんな社会人のど素人集団で組織されている。研究の上で重要なイシューや読解を発見する場ではない以上、やるべきなのはただ虚心坦懐にテクストと向き合うことだろう(その中に必要な知識を具備するとか別の文献と相互参照することはもちろん含まれるが、たとえばレッシャーの注解を見ないといけないとかそういうレベルはなかなか難しいと言わざるを得ない)。明後日の方向の解釈をしている可能性もあるが、しかしテクストと向き合うとはこういうことかと、自分の普段の読書態度も含めて居住まいを正すいい契機になったと思う。改めて参加者である2人に感謝したい。

  

  

 

 

早稲田大学文学部文学科自意識コース卒業記念

 1か月も前のものだが、ふとこんなツイートを思い出した。

 

早稲田の文学部、異常に自意識がデカい人間を男女問わず輩出しまくっているという偏見がある 学生特有のクソデカ自意識というアレでは説明しきれないレベルの             ――――つぶやきびとしらず

 

 別にそのツイートに対する賛否や適切・不適切かどうかは二次的な問題で、このツイートは当の「早稲田文学部」(あるいは文化構想学部)の人々にそこそこRTやふぁぼされたらしい。恐らく、皆どこかに思い当たる節があるのだろう。

 

 まあ、補足してあげると「その人自身の能力がそれほど伴っていないのに、自分は他とは違うという無駄にデカい自意識だけを引っ提げて、根拠ねえ自信だけで世界や他者についてウエメセの判断と裁断を繰り返したり、クソほどイタイ連中が早稲田文学部には多い」ということなのだと思う。文学部生は人が言ってないところを勝手に妄想するのがうまいので。

 

 そう、何を隠そう俺自身が早稲田大学文学部を卒業した。じゃあ君も「異常に自意識がデカい人間」なんだね?と言われたら、自分自身はそうではなかったはずだ、と思っているのだけど、俺の記憶は都合よく改竄されることがしばしあるので何とも言えない。今回論じたいことについて立ち入る前に、俺の話をしないですますのはフェイクだと思うので、包み隠さずやっていきたい。

 

 一応アカデミックサークルの幹事長をやっていた関係で普通の大学生よりは勉強は真面目にやっていたという自負はあったし、正直勉強をしない大学生という種族をメチャクチャバカにしていたし、するべきだと思っていた(当時は)。思い出すと顔がぽっと赤くなっちゃうが、ツイッターではアカデミシャンや有名人の雑な放言やナイーブな見解について「フフッ」とするような人間だったことは否定できない(流石にそれを嘲弄するようなリプや引用RTなどはほとんどしなかった)。そういう意味では、確かに俺はやることをやっているのだから、世界や他者を正しく俯瞰して的確に切り取って何かを述べる――それも冷笑的に――資格があると思っていたのは動かしようのない事実だ。資格、というのは別に何かを言うのはみんな自由なのだが、俺は資格持ちだからこそ重んじられるべきだという発想です。弁護士ですね(違う)。

 

 じゃあ当の俺自身の能力はそんな自意識と釣り合っていたのか。得意分野(人よりは多少明るい程度という意味だが)においては、俺もかつて記事にした人文スノッブしぐさのように参考文献をバーッとあげてみたり研究史に言及したりということをやっていたが、たとえば勉強会でやるテクストの読み筋についてはそんなにパッとしなかったと思う(これは最近哲学書を読んでいるのだが、わからない部分がどうしても多く理解に躓きがちということからの遡及的な推論である)。哲学、というか文学部における学問の基礎となる語学もまあやるだけはやっていたが、今はかろうじて英語が多少とドイツ語の単語がわかるよ、古典語はもうダメだね、という感じなので、学生時代の研鑽が足らなかったのは言うまでもない。俺がツイッター上で自分よりメチャクチャ勉強できるし頭もいいなと思う全然知り合いでない文学部生が数人いたので、客観的に見ても俺は平均よりも若干高い程度の文学部生に過ぎなかったのではないか、と結論している。と、ここまで記述を書き進めた結果、自分で自分の罪に対する論告を書いているような気になってきた。判決は――いや自分で書くのは怖くなったので皆さんに任せる。

 

 しかし、俺というサンプルだけでは巨自オをたくさん輩出しているという傾向を説明する根拠づけにはならない。果たしてそんなもんだっただろうかと大学時代を思い返してはみたものの、そもそも文学部にほとんど友人がおらず(いつかブログでも書いたがドイツ語クラスでいつもドイツ人の先生と会話練習してたほどだ)、無意味だった。所属していたサークルの関係上他学部の友人や知り合いが多かったので。でも、そのわずかな友人においても「異常に自意識がデカい人間」というのとあまり出会わなかったような気がするのだが、しかし先のツイートの指摘には思い当たる節がないもでない感じがする。これはどういうことなのだろうか。

 

 これは推測だが、先のツイートのような非文学部生の持つ文学部生へのイメージがかかわっているような気がする。

 

 法学部や政治経済学部商学部のようにやっていることの“シンプル”な説明ができないのが文学部の特徴、というのには異論は少ないだろう。もちろん文学部生に「へぇ文学やってるんだ」って言うような人は論外だが、逆に言うと「文学部」と初めて聞いて何をやっているのかわからない感じが出てしまっていることは否めない。そういう何でも入る箱に入っていると、何やっているのかがパッと一目で見えてこないというのが、こうした偏見のトリガーではないだろうか(ちなみに早稲田で言うなら社会科学部や人間科学部なんかも似たような事情があるとは思うが、今回はあくまで文学部オンリーで考えていく)。

 

 言い換えるならば、このイメージ格差が、文学部生に対する否定的な見方を導いているのではないだろうか。つまり、文学部生は自身の専門について、法や政経、商などの学部生に比べると人々の認識のハンディキャップがあり、積極的な説明を要するということだ。そうであるからこそ、そこに配慮することなく様々な問題について論じている文学部生が、イッチョカミをやっているとみられてしまっているのではないか。そして、そのイッチョカミを偉そうにできる彼らの根拠は何なんだ?と人々が邪推した結果が「クソデカ自意識」ということなのではないだろうか。

 もちろん、そうした「邪推」には文学部生にありがちなふるまい(たとえば語義の曖昧なジャーゴンをぶん回すとか、とにかく悦に入った文字列だけ並べて解釈コストをメタクソに増大させた挙句言いっぱなしにする人文廃棄物を生み出すとか、人文学の批判的なスキルセットを用いて社会問題に斬り込んでも別の側面から見ると明後日の方向に行きがちとか、何故か相手が「知らない」と思い込んでご教示してくれるマンスプレイニング的なしぐさとか……)だとかが背景にあるのかもしれない。が、クソデカ自意識が何故クソデカいかというと能力が伴ってないように見えるからであって、その認識は必ずしも当該の文学部生の能力だけが問題ではないように思う。その意味では、やはり文学部生に対するこうした偏見みたいなものは、思い当たる節がないわけではないが、外部から見た構成的なものがかなり含まれているような気がしてならない。

 

 以上の考え方はあくまでも推測ではあるが、俺の実感が薄弱ながら根拠としてはある。まあ、こういうことであれば、人類の不幸な認識インシデントということで処理可能かもしれない。俺が問題としたいのはむしろ、この悪辣なイメージに当の文学部生がのっかってしまっているような状況である。

 上掲のツイートは文学部生がそこそこRTしていたようだが、不思議なことに否定的なコメントはあまりなかった(少なくとも当時俺が見た限りでは)。これは根拠の乏しい推測でしかないが、彼らのRTの意図は、きっと自分の自虐込みで、他の文学部生に対する牽制的な意味合いもあるのではないか。というか、こういう自虐的なRTによって自分は他よりかは置かれている状況(そうした”””偏見”””があまり否定できないということ)がよくわかっている分だけマシでしょというアピールだとしたら、申し訳ないがなんとまあクソデカい自意識ですこと。あまり好きな物言いではないが、そういうところだぞ、となってしまう。

 

 とはいえ、別に自意識がクソデカいからといって、他人にマウンティングして不快な思いをさせたり、自分の全能感を理解しない他者を愚弄したり、あるいは自分より優れている人に対するやっかみで何かしたりとか「実害」がない限りはいいんじゃないのと思っている。まあそれも青春のひとつの形ですよね。ただ、かつての自意識デカ盛り丼の助としてひとつだけ言い残しておきたいのは、今のうちにちゃんと勉強しておかないと果てはこんなしょうもないエントリを書くようになるぞということである。これは別に自虐ではなく、事実である。

終戦、してますか?

 終戦記念日ですね。

 

 生まれて初めて終戦記念日靖国神社に行き、本殿には参拝せずに池の鯉に餌をやって遊就館をぐるっと見て回り、その後千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて献花した。

 

 これだけ見るとザ・ノンポリティカルな終戦記念日しぐさなわけだが、靖国はやはりすごかった。どう見ても反社みたいなおっさんたちが名刺を切ってたり、「先生方待たしてますからね!」と案内役のおっさんに急き立てられた政治団体?の連中が遊就館の真ん前で写真撮ってたり、見るからに竹槍で1000人の鬼畜米英を殺して連合軍から「ブラッディスピアカトウ」と恐れられたみたいな風体のおっさんがザ・リバティ特別号配ってる若い女の子に「2.26事件って知ってる?」という高校日本史レベルのマンスプレイニングをかましたり、親と一緒に歩いていた中学生の女の子と小学生の男の子が境内から出る時ヒトラーユーゲントばりにくるっと180度回転して本殿に向かって一礼したり……。家に帰ってからあの「一日限りの総力戦紛い」を楽しんでいる右翼集団たちのことを振り返ってみると、あれはやはり見ておくべきものだったなと思ったのである。

 

 リベラルはこういう年季の入った心情右翼のお気持ちをバカにしがちだ(それは排外主義的、ともすれば差別主義的な前提を持っているので当然ではある。撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけなので)。しかし軍服やら何やら昔の服を着ているおじいさん連中と若い男女が一体となって何か昔の歌を大声で歌っているのを見て、俺は「ヤベェ~~~」以外の感情が沸き上がったのも事実だ。

 

 川崎のチャラ箱どころか日本中をタテノリで揺らしたことで有名なかの玉音放送から74年経った今、ああした光景を目の当たりにすると、セピア色の記録映画をずっと見ているような気持ちになったのだ。いや、記録映画というよりも、むしろファンタズマゴリアに近い。戦争を語る世代、戦争体験を聞いてきた世代、「戦争」を議論する世代、幾多の世代がゆっくりとしかし確実に交代しているはずなのに、彼らは何らかの自らが体験しなかったであろう過去を「創出」していた(もちろん、まだ戦争を経験した人々は存命のはずだが、しかしもはや彼ら彼女らはあの現場の「大勢」を占めていないことは異論はないはず)。

 

 終戦記念日にわざわざ靖国に集まることは、戦火に散った御霊にどうこうというよりも、体験したことのないはずの得体の知れぬ「過去の原像」を皆で生み出し、体感することにあるのかもしれない。つまるところ、戦争が凝集した「ナショナル」なものを今一度分かち合いたいということになるだろう。彼らは戦争の悲劇的帰結を無視しているというよりも、戦争の生み出したポジティブな紐帯に先祖返りしたいという感情が先に出てしまっているのだろう。忠良な「臣民」として、隣にいる人も同じ仲間として、そう思いたいという素朴な気持ちが、あの人々の合唱に現れていたように思う。それは、リベラルが彼らの本性だとして捉えている反動的な言動を吐く醜悪な側面よりも先行している、彼らの純粋なお気持ちのように思えてならない。

 

 しかし、自覚のない臣民ほど始末に負えないものはないというのは、日本でもドイツでも明らかになったことだ。終戦記念日靖国は、今でも戦争と地続きになっている問題の所在地として、「英霊」の安寧など期待すべくもないところであるという意味で、見る価値があると思った次第である。

 

 終戦記念日のついでに報告。内定をもらったので、俺の〈戦争〉も終戦しました。以上。

インターネットバトルで死なないためにぼくたちができること

 消える飛行機雲を見送りがちな皆さん。インターネットバトル、してますか?

 

 インターネット草創期から、匿名非匿名を問わず人々は意見を戦わせてきた、と思う(と書いたのは草創期のことをよく知らないので)。ツイッターでも、まあ「論客」、と言っていいのかはともかく、人々がバトっているのはよく見る。アカデミシャンや弁護士、事情通のジャーナリストや有名人が毎日のように社会イッチョカミストに絡まれて報復攻撃をかますと思えば、大学生や院生が専攻そっちのけで引用RTをしながら政治や男女論、マイノリティについて論争し、オタクは雑な放言でリベラルにブッ叩かれ、アニメ制作者がローマ法王に「ちょっと黙っといて」と言う時代に我々は生きている。このことに異論はあまりないはずだ。

 

 こういう中で、ある日ひょんなことからバトルに巻き込まれてしまったり、好奇心で「いやそれは違う」とリプ送ったり引用RTしてしまうことがあるかもしれない。しかも、それは飛行機が落ちる確率の1億倍、アメリカでサタデーナイトスペシャルを隠し持った強盗に出会う確率の100倍以上であるとされる(当ブログ調べ)。この記事は、そういう時にどうしたらいいのかを考えるためのものだ。皆さん考えましょう。

 

 前提としては、インターネットと言っても俺が基本的に想定しているのはツイッターであること。とはいえ、別に5chのレスバでも応用がきくと思う。それと、タイトルの通り「死なない」ための方策を考えることとする。勝ちたい奴はこんな記事を読んでいる暇があったらAbemaでフリースタイルダンジョンを見て即興性を磨け、常に相手の出方をシカマルよろしく100通りぐらい予測しろ、相手を大量の参考文献や資料で殴れるくらい勉強しろ、論点先取の誤謬とか権威に訴える論証とか指摘する論理寝技(ロゴス・グラウンドファイティング)を使ってもいいが調子乗って技を打ち間違えないようにしろ、永遠の万華鏡写輪眼を開眼しろ。以上。

 

0、バトルをしない、させない、巻き込まれない

 

 おい、そりゃないだろと人々のキレた顔が目に浮かぶ。しかし、そうなのだ。100%死なないための要諦とは畢竟そもそもバトルをしない、させない、巻き込まれないである。非核三原則みたいだが、他策ナカリシヲ信ゼムト欲シテイルノデ。 

 

 この3つをやっていくために必要なことを考える。

 

 まず、バトルをしないために求められるのは忍耐だ。どんなにゴミみてえな議論を吹っかけられても「まあいいや、俺は家で生ハム原木とよろしくやっている」とか「間桐桜の『――先輩』を100回を聞けば大概のことは許せる」ぐらいの気持ちを持ってインターネットを遊泳すべきである。こちらから攻撃を仕掛けるのはもってのほかである。

 特にツイッターは何故か分からないが人々の怒りを増幅させがちである。普段道端で誰かと肩をぶつかって喧嘩することはそうないが(ある人は脳を母胎に返納しましょう)、インターネットではちょっとの言葉のやり取りが端緒となって相手をゼッテェ殺すという激ヤバ交通戦争が往々にして起こり得る。こういう時、相手に期待するだけ損なのでまずは己が忍耐するべきだろう。忍者とは忍び耐える者だが、忍者でない我々もその姿勢から学ぶことは多い。

 心構えについては上の通りだが、行動について。異常な奴に議論を吹っかけられ場合、議論で叩きのめしたいという気持ちをぐっとこらえ、ブロックしまくることが大事だ。ブロックは逃げではない。自分をバカやアホや精神病棟帰りや集団ストーカーや思考盗聴から守るための手段なのである。

 

 バトルをさせない、ということはつまり相手にバトルのきっかけを与えないことにある。これは妥協のスキルが問われる。あるテーマAについて互いにBとCの相反する意見を持っていた。もしかすると相手が「君の意見は違うのでは?だってさあ」と言い始めそうな感じだったとする。ここでバトルをしないためにとれる選択肢は①一方が他方に歩み寄る②お互いの落としどころDを見つける③互いの意見が違うことを確認して終わるの3通りがある。

 この中で一番リスクが少ないのは①である。何故なら一方の意志で事が終わるし、多少なりとも理性が備わっている相手なら流石に恭順してきた人間を攻撃することは考えにくいからだ(仮に攻撃してきた場合、そんな奴はまともじゃないかナチの手先なので、例外ではあるが人類の敵と見定めてバトルすべきである。「意見を認めたのにどうしてそんな追い打ちかけてくるんですか!?」という逆ギレムーブをメインに、二度とインターネットができなくなるまで叩き潰そう)。

 とはいえ、相手に譲歩したら「死なない」までも、「負けた」ことになるのでは?という疑問が当然あると思う。しかし、である。相反する意見からそれぞれ敷衍して種々の論点のどちらかが説得的かを競わせるのが「バトル」だとしたら、最初に認めてしまうのは「バトル」ではない。戦っていない以上、あんたは無事である。精神的には負けた気になるかもしれないが、五体満足であることを喜ぼう。「勝ちたい」と言う人も、あるいは「勝ちたくはない」が「負けたくもない」つまりイーブンにするというやり方を知りたい人も、見るべき記事は多分これではない。

 ②と③は、別に負けにはならないと思うが、その性質上どうしても相手側の意志に何らかの期待をかけなければならない。もし仮に相手が理性がアカポス持ち引用RT見せしめを得意とする「猛禽類」型のバトラーだとすると、連中は1000人以上の軽率なイッチョカミトルーパーを屠ってきた残忍な戦闘狂なので②と③を受け入れるつもりは毛頭ないとみていい。何故なら向こうは自分の主張の正当性を確信しており、そしてそれなりの理論武装をしているからだ。回避不可バトルで強制敗北からの屈辱イベントシーンというRPGのお決まりが予想される。

 ネトウヨ諸君、愛国者の血肉を喰らう理性が半分腐りかけた反日左翼グールにボコボコに論破されるぐらいなら、あえて相手の靴を舐めてもいいと思います(何故なら諸々のテーマでネトウヨは分が悪いので)。何があっても己の心の「日の丸」を信じていれば大丈夫だから。

 

 バトルに巻き込まれないためには、我を抑えることが肝要だ。多少頭のある人間だと、やはり何かについて言及したいという原初的な欲求を抑えることは難しいだろう。何故なら、だいたいそういう連中は文字情報への依存度が高く、そういう中で「何がしかを取り上げて言及すること」は自分の頭のよさを証明するのに最も手っ取り早い手段だからだ。

 たとえば天気の子はギャルゲーだったとかがいろいろ流行っていて「朝っぱらから汚ねえオタクの自意識見せられて気分悪い。あー心底くだらねえ何で生まれてきたのかねこんな低能ドクズが」と言いたくなる気持ちがむくむくと生じてきたとしよう。しかしそんなことを何も考えずに投稿すればたちまち集中砲火を喰らう蓋然性が高い。オタクの団結力を舐めない方がいい。

 自分がどのような帰結を引き受けるかを想像し、適切に比較衡量できればバトルに巻き込まれることはまずないだろう(とはいえ、これについては裏技もある。聡い人ならもう使いまくっている技術だろうが、引用RTでなくツイスクショで晒す、鍵垢で引用RTして腐すなどがある。とにかく大事なのは常に安全圏にいるということだ。安全圏で心穏やかな気持ちを保つか、空爆を仕掛けるかは皆さんの勝手です。スクショ相手にフォロワーがチクるなどしてバレる可能性もあるので注意しよう)。

 

1、まずは相手の力量を見積もれ

 ここまではインターネットバトルで絶対に負けない方法を述べてきた。しかし、である。これが守れている人々ばかりだったら今ごろインターネットは30回ぐらいノーベル平和賞を受賞していることだろう。「魔が差す」ことは人間の宿命だ。ここからは、「差してしまった」場合の対処法について論を展開しよう。

 

 分かりやすくするために架空のケースを用いる。

 

 今話題の「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由・その後展」について、俺が「表現の自由は原則として守られるべきだけど、慰安婦像は正直気持ち悪いよね。俺は好きじゃないし、あれが芸術というのは受け入れられないわ」とつぶやいたとする。すると従軍慰安婦問題に長年取り組んでいる女性准教授のアカウントから「戦時中の大日本帝国による性暴力に向き合っていればこんなことは言えないはずだ。このように慰安婦像を悪しざまに言うことで、像があらわす性被害から目を背けたがるような人間が、現代においても詩織さんの件のような性被害を追認するのだろう」というような呟きと共に引用RTでお仲間に俺のツイートを晒したとする。

 ここで俺がバトルを回避するためには①無視して鍵をかける②「はい、先生のおっしゃる通りです。申し訳ありませんでした。真摯に反省し、ツイートは削除させていただきます」と謝るか、「そうですか。あなたの思い込みに対しては異論がありますが、このアカウントでは議論するつもりはないのでブロックさせていただきます」とやるかであろう。普通ならば。

 しかし、ここで俺は愚かにも「何故慰安婦像についての美的評価を否定的に述べることが、性暴力と向き合ってないばかりか、現代の性被害を追認することにつながるんですか。明らかに飛躍してんでしょ。叩きたいだけで何か言うのはご苦労なことですね」と皮肉り、インターネットバトルの戦端を開いた、というケースだ。

 

 さて、まず俺は相手のプロフィールに飛ぶ。「〇〇大准教授……分が悪いな」とディスプレイを前に舌打ちする。

 

 ここで一旦ケースの進行を止め、インターネットで喧嘩を売るべきでない職種について解説する。

 

 ①研究者、弁護士

 会ったらすぐ逃げろ。彼ら/彼女らは専門分野もそうでない分野でもそれなりの知識を持ち、かつ論理的に整然と隙なく言語表現するのが得意な連中だ。

 研究者はその知識の深さ・幅広さだけではなく独特のセンスから「ある分野において何がスタンダード、あるいは最新の知識とされているのか」をキャッチアップするのがメチャクチャ上手い(ので、専門分野じゃなさそうだから殺せると思うと痛い目を見る)。知識がある相手に「その知識間違ってますよ」と言われるだけでゲームセット、無条件敗北である。

 さらに、先行研究を批判するのを生業としているためか、相手の隙を突くのがとてもうまい。弁護士もほとんど同様だが、研究者よりも後者のスキルが高めだし、即興性もある。

 もし彼らと戦わなければならないとなったら、それなりの覚悟をしておくべきだろう。特に強い奴は賛同者、というか付和雷同勢も多いため、引用RTなど使われたら1対1ではなく1対多になり炎上する可能性も高い。まず何をもってしても折れない心と、きちんとした知識や理論で武装することだ。それでも負ける確率は高いので、やはり先の三原則「バトルをしない、させない、巻き込まれない」をしっかり守りたい相手だ。

 ②アルファ

 アルファはそのフォロワー数という暴力が強みだ。そして、やはり言語表現に優れている。とはいえ論理的にはムラがあり、また知識も適当ということはある。それでも、舐めてかかると引用RTで血祭りにされ、垢消しに追い込まれることもある(民度が低いフォロワーばかり引き連れているアルファだと、住所特定などインターネットバトルにとどまらないガチリスクがあることにも留意すべきだ)。事実誤認をしているとか、どう考えてもこいつの議論の立て方には無理があるとか、徹底的にそこだけ攻めれば何とかいけそう、という感じでない限りは避けるべきだろう。

 

 ※ほかにもいろいろといるだろうが、特に気をつけた方がいいという層について述べた。

 

 さて、それではケースを進める。俺はまずい相手と遭遇したなと思いつつも、一縷の望みをかけてその准教授のタイムラインを片っ端から見てみる。どうやらいろんなアカウントを引用RTで晒し、自分の意見を述べているらしい。納得できるかというと微妙な意見の方が多い。このような時、とにかく相手のツイートをつぶさに見ておくことが重要だ。理由は後述する。

 

2、相手の主張を好意的に見た上で、自分の主張と対照しろ

 

 おさらいしておくと、こちらは相手の初撃に対して「慰安婦像の美的評価が性被害の追認につながるのか」という疑問提示と、「叩きたいから何か言ってるだけ」という攻撃をしている。

 

 バトルにおける攻撃と防御について。攻撃はとにかく相手を批判すること、防御はとにかく相手の批判をかわすか、遅らせる、あるいはずらすことだ(防御については後述する)。この場合、批判は論理的でなく、感情的でもいい。合理的だと評価されるよりも、共感を得られる形でキレた方がインターネットでは加速しやすい。このケースの場合、「叩きたいから何か言っているだけ」というのは疑問提示からの推測的な攻撃、いわばジャブであり、事実誤認や論理の誤謬を指摘するような一発勝ちを決められるパワーアタックとは程遠い。これを繰り出して相手が「ぐぬぬ」となったら勝ちなのだが、今回は負けないためのバトルなので……。

 

 相手の出方を待っていると、女性准教授は俺の反論をさらに引用RTして「気持ち悪いと感情的に反発し否認することは、像が象徴する性暴力を見ようともせず、その意義を否定するものだと言っています。そのような態度は性暴力一般に対するそれと地続きだということがわからないのであれば、もう少し勉強なさった方がいいと思いますよ」と述べたとする。ここですかさず「何でお前に指図されなきゃいけねえんだよバーカ死ね」と言う前に、考えるのが「負けない」ためのステップだ。

 

 少し考えるとわかるのだが、実は俺の最初の反撃はまあまあ分が悪い。というのも、それはこう反論される可能性が高いからだ。「気持ち悪い」という美的評価は、言葉としては非常に悪く、否定的な意図を強く含み持つ。一般的に気持ち悪いものを好き好んで見ようという態度がありえるだろうか。その意味では、俺の「気持ち悪い」という発言は、たとえ意図してないとしても、慰安婦像の意義そのものを否認する効果を持っていると言われてしまうと「ぐぬぬ」となる。そのような人間が過去の性暴力に向き合うことには当然疑問符がつく。

 さらに、過去の性暴力に向き合えない人間が何故現在の性暴力に向き合えるのか、という問いかけは説得力が高い。別に「AでなければBでない」というわけではないので、従軍慰安婦問題を否定する人が恋人の性被害を断固許さないとすることもありうるが、しかし逆に「どうして恋人を強姦した人を憎むのに、半ば強制的に連れてこられて性的サービスに従事せざるを得なかった女性については戦争中で仕方がなかったと言えるんですか?」というと相手の一貫性に相当程度の疑問を付すことができる。

 

 この思考は、相手の攻撃の妥当性を最大限こちらで引き出してみるという営みだ。相手に反論するのであればこんなの不必要だろ、と思う向きもあるかもしれないが、議論で大事なのは、常に相手が最大限効果的な批判をしてくる最強の敵であると想定することだ。相手の言論を常に善意的に解釈した上で、こちらの主張がどれだけまともにやり合えるかという強度を確認することが肝要なのだ。

 ここで、上述したように相手の他のツイートをつぶさに見ておくことが活きてくる。相手の議論の立て方、展開の仕方も含めパターンを見つけることで、こういう主張をしてくるだろうという予測(それもできるだけ整合性の高いように)しておくことが、この営みの成功率を高める。

 さて、考えてみると相手の攻撃は割と正確に俺を貫いていることがわかる。しかし女性准教授の議論の立て方はまだそこまでいっていない。しかし、ぐだぐだ言ってたら押し切られそうだ。

 

3、早いところ見切りをつけ、防御に全力集中せよ

 さて、ここまで来て俺は女性准教授とさらに議論を継続すべきだろうか。答えはノーである。世の中には引き際が大事である。これ以上議論を泥沼化し、奴のフォロワーまでもが引用RTして「レイシスト」などのレッテル貼りをしてくると、インターネットライフに支障が出る。ここはとりあえず議論を適当に打ち切り、かつそこまで俺の主張は曲げないというような着地点を探そう。

 

 ここで俺がとれる選択肢は攻撃よりも防御である。先に言ったように「慰安婦像への否定的な美的評価と性暴力の追認のつながり」という論点は、どれだけ戦線を拡張しても分が悪い。「両者には全くの接点がない。よってテメェの思い込みで何かクソな言いがかりしてきたけど謝れやボケ」とするだけの論証が必要となるからだが、それは結構難しかったりする(もしこういう有効なやり方があるという人は教えてほしい。俺の頭でも一応反論の仕方はいくつか思いついたが、決定打ではないような感じがした)。それに、余計なことをポロっといって藪蛇を出すと面倒だ。俺は間髪入れずに防御に打って出ると決めた。

 

 この場合、防御にはいくつかの手法がある。有効な防御について。

 ①「気持ち悪いという表現は確かにあまりに否定的であり撤回します。慰安婦像を貶めるような意図は当方にはありません。もちろん、性暴力を過去・現在いずれにおいても容認する気も毛頭ありません。とはいえ、私自身は像の意義をやはりあの像について美的な評価はしづらいかなと感じます」

 これは主張の特定の部分を撤回することで、相手の批判の根拠を潰す「焦土作戦」的な防御だ。後退ではあるが、相手もこう言ってしまえば「そうですか」とならざるを得ない。多分この手の議論においてはこれが割と使える防御で、「特定の部分」さえ撤回できればどうにでもなるバトルはむしろこれ一択と言える。つまり、今回のケースのような議論では最適解という気がする。

 ②「慰安婦像への否定的な評価が性暴力の追認となるというのはやはり納得ができません。とはいえ、勉強しろとのことですから、もしよければ何かに参考になる文献などご教授いただければ幸いです」

 これは相手が勉強しろと言うこと(こういうことを言う奴は存外多い)をそのまま受け取って、相手に文献を指示させる責任を負わせるカウンターだ。向こうが文献を教えようが教えまいがどうでもいい。教えてもらえば「じゃあ読みます」と言って議論を打ち切ってしまえばいい(インターネットバトルなど1日で忘れ去られるので)し、教えてもらえなければそれは向こうもバトルを継続する気がないということだろう。

 ③「言い方を変えますと、慰安婦像の審美的な側面について否定的な評価を下すことが、慰安婦像の象徴する性被害に向き合わないこととどうしてつながるのか。審美的な評価と、道徳的なメッセージの感受性の有無にどのような連関があるのか。この部分をもう少しはっきりとさせていただき、改めて議論したいです」

 これはさらに議論を細分化、あるいは「ずらす」ことを意図とする防御で、相手の攻撃を遅延できる。「気持ち悪い」という表現は後景に退いているが、審美的な評価と道徳的なメッセージの感受性の有無の連関を問い直すことで、さらに議論を長引かせることができる。多くの場合、大体の相手が根負けして「もういいです。ブロック」となったりする。そうなればしめたものだ。別にどっちも折れていないので勝ち負けの判断をする段階でもないが、インターネットではブロックしてきた相手が「負けた」と印象づけるのはたやすいことだ。とはいえ、今回のように早いところ議論を打ち切りたいケースではこれは逆効果なので、むしろ戦いを長引かせ、争点を複数化し、曖昧な地獄をやっていって相手を疲れさせる遅滞戦的な場面で使うといい。

 

 一方で、こういう場面であえて人格攻撃をしたり、別の権威を召喚したり、あるいは別のツイートを取り上げて「こんなツイートをしてるような人間に言われたくはない」として印象操作をするというやり口は、部分的には有効な場面もあるとは思うが、個人的にはオススメしない。それは議論を泥沼化させる恐れがあるからだ。そうなると、こちらが切れる手札がどんどん少なくなり、最終的には白旗を上げざるを得なくなるかもしれない。

 

 上述の防御で、うまいこと相手との議論を打ち切りにできたら最高だが、相手が細かいところに固執してくるケースもある。しかし、そこでも防御を繰り返すことで、やがて相手に攻撃の理由が失う。そうなると今度は過剰な反応ということで相手も反感を買う可能性がある。そこで攻撃に転じるのでなく、先の「非バトル三原則」を思い起こし、ここは落ち着いてツイッターを閉じ、アニメでも見たらええ。

 

 今回想定したケースは一例に過ぎない。そのため、全てのテクニックを網羅的には説明できていないと思う。そこらへんはまた今度の機会とさせていただければ(書くのに飽きたわけではない。嘘です飽きました)

 

4、まとめ

 大事なのは、最初に挙げたように、バトルをしない・させない・巻き込まれないことだ。そもそも多くの人々はインターネットでバトルをしたところで得るものは少ない。疲れるだけなので。

 もちろん、インターネット上でレイシストを100人駆逐することはそれなりに意味がある。何故ならそれだけインターネットがきれいになるからだ。そもそも、レイシストレイシズムに走っているというだけで21世紀における普遍妥当的な規範から非難されるべき正当な事由があり、バトルにすらならないだろう(そもそも人種差別はダメなのか?なんてのを本気でバトルしなければならない時代にはできればしたくないものである)。だが、インターネット上で駆逐しても、現実世界においてレイシストが減少したかは定かではない。こういうのも、疲れる一因だろう。

 もし仮にバトルをしてしまったり、相手のバトルに応じたり、あるいは巻き込まれた場合に、できる限りダメージを最小限にコントロールするための方法について考えてみるというのが今回の目的だ。バトルをする前にちょっとでも思い出していただければ幸いである。

 最後に、俺は鍵垢にしたのでもうバトルはしません。もし気に食わないことがあったら鍵垢でグチグチ仲間に言うことにします。これが賢いやり方や。陰険ですが。

バイザー『啓蒙・革命・ロマン主義』(2010、法政大学出版局)を読みました

 たまには人のためになる読書メモをば(もっと有益な栩木憲一郎氏の書評もシェアしますhttps://core.ac.uk/download/pdf/96989543.pdf)。

 

 一言で言うならば1790年から1800年の10年間を中心としたドイツ政治思想史の研究書。「啓蒙の理念」(理性の公共的使用とか、現状権威への批判)がフランス革命を駆動し、かの自由・平等・友愛という「革命の理念」が今まさに実現するのか……と思ったらそーれー見たことかーと言わんばかりにテロルに堕落し、対仏大同盟も結成されるしどうなっちゃうのー!?とプリキュアピンチ回を見るかの如くハラハラドキドキしていたお隣ドイツの言説状況を分析する試みだ。

 

 この時代のドイツはスタール夫人が言うように決して政治的に無関心ではなく、むしろ政治こそが彼らのインテレクチュアルな議論を駆動していたことを証明するのが本書の意図だ。バイザーによれば、啓蒙の理念大事やし理性メインでドイツでもやっていこうやという「自由主義者」と、でも意志も大事やし結局は中世の団体的な国家が一番個人のためにはよかったよねという「ロマン主義者」、そしていやそもそも何でもかんでも理性一辺倒ではなくない?経験も大事やんかという「保守主義者」に大別されていた。ある者は自由主義的側面を持ちながらもロマン主義的、ある者はロマン主義的ながらも保守主義的、というようなグラデーションがあるにせよ、この枠組みをもとにバイザーは、カント、フィヒテ、シラー、フンボルトヤコービ、フォルスターを自由主義者、ヘルダーや初期ロマン派のシュレーゲル(弟)とノヴァーリスロマン主義者、メーザーやレーベルクらハノーファー学派(イギリス大好きオタクたち)、ガルヴェらベルリン啓蒙主義者(フリードリヒ2世ペロペロオタクたち)、さらにはゲンツ(フランス革命こじらせオタク)や当代最悪の反動媒体「オイデモニア」とヴィーラントを保守主義者と括って三部構成で叙述を進める。

 

 印象的だったのは、根っからの貴族制嫌いのフィヒテフランス革命政府に協力したフォルスターは別として、大体の人たちが「下からの革命」について否定的だったことだ。多くの場合、啓蒙絶対君主による改革の期待か、立憲君主制などの混合政体で何か変わるんじゃないだろうかと期待していたのだ(この辺は18世紀ドイツにおけるモンテスキューの影響を示した『伝統社会と近代国家』所収のフィーアハウス論文に詳しい)。それが「多数者の専制」をもたらすということならまだ分かるが、保守主義者たちなんかは「奴らが啓蒙で知恵をつけると宗教とかに疑念を抱くから連中の心の安寧がパーンしちゃうよね」という体で啓蒙する対象を制限しようとしているあたり、ろくでもねえなこいつらと読んでて思った。フランス革命の帰結が彼らを民衆嫌いにしたわけではなく、最初からそんな感じなのもうーんという感じだ。

 

 もう一つ。当時ドイツにおける反動勢力あちゅまれ~~~という形で発刊された『オイデモニア』の顛末について。タイトルは幸福や公共の安寧を意味するεὐδαιμονίαのドイツ語読みだ。「幸福主義者」たる彼らはとにかく反啓蒙・反イルミナーテンの陰謀論などをまき散らし、「実際、哲学というよりも宣伝である」とバイザーが評するほど。今でいうところの右派系雑誌だろうか。これは「すでに反動的な感情を持っている人びとをよりいっそう煽動」し、フランス革命を「単に少数の不満を抱く思想家たちの間でなされた陰謀の所産であったとすれば、それが強調する社会的、政治的、経済的理由を(中略)都合よく無視していいことになる」ことを目論んだ。

 

 しかし、検閲や警察権力の強化さえ訴えた『オイデモニア』の帰結は、皮肉にもオーストリアの検閲長官レッツァーをイルミナーテンだとこき下ろしたことで販売禁止の帝国令を受け、さらにはマインツのフランス占領政府による脅しでフランクフルトからも発売を禁止されたことにより、支援者を失い廃刊した。だが、ここからのバイザーの指摘は多くの現代人が拳々服膺とすべきだろう。

 

 つまるところ、『オイデモニア』が成し遂げたことはいったい何だったのだろうか。一見したところではたいしたものはなさそうである。その廃刊は保守主義者たちからは悲しまれなかったし、自由主義者や急進派からは祝われた。背後に置き去りにされたように見えたものすべては、憎悪と陰謀と敵意の不快な跡であった。フランス革命の哲学にとって代わりうるような、あるいは競えるような首尾一貫した政治哲学はなかった。改革のための建設的提案はまったくなく、現状維持のための具体的示唆さえなく、あるのはただうんざりするような検閲強化の訴えだけであった。幸福主義者たちは、君主の無知、無関心、無能力が、現在直面しているあらゆる危険の原因であると主張し、最も保守的な君主たちさえも感情を害した。しかしながら、もっと掴みどころのないレベルでは、『オイデモニア』は、有害なものでしなかったにせよ、公衆の意識にある種の効果をもたらした。『オイデモニア』はかなりの急進派や自由主義者を防御的な立場に追いやることに成功した。彼らは、いまや自分たち自身を晒け出すことにずっと用心深くなっていたし、共和制にはほとんど自信を失っていた。しかしもっと悪いことには、幸福主義者たちは、保守的かつ反動的な同盟者たちの多くと同様に、しつこく、極めつけの一手ともいえるカードを切った。それは祖国愛というカードだった。祖国愛に満ちたドイツ人ならば、フランス革命の理念を受け入れることはしないだろうと繰り返し論文の中であてこすった。真にドイツ的なものはフランス的ではなく、フランス的なものは自由、平等、友愛の理念であった。こうして祖国愛は自由主義運動とよりはむしろ保守主義運動のほうと結びつくことになった。こうした結合はドイツ史に悲劇的な帰結をもたらしてきた。その影響はなお今日にまで及んでいる。

    『啓蒙・革命・ロマン主義』pp641-642(強調・下線は引用者)

 

 歴史は繰り返す、という奴だろうか。どれだけトンデモで論じるに値しないと知識人たちが思っていても、それらは国民の意識の部分では浸透し続けている。ホロコースト南京大虐殺従軍慰安婦の否定論など、「祖国愛」を前提としたリヴィジョナリズムはその最たる例だろう。

 

 本当なら各思想家の個別具体的なところまで紹介すべきなのだろうが、体力がないので無理です。本自体は700頁以上あり、決して読みやすくはないが(翻訳が悪いという意味ではない、ただカントとフィヒテの章はその哲学的著作にも踏み込んでいるためか死ぬほど難しかった)、それでもこの時代のドイツ政治思想史の通史的な文献は日本語ではあまりないので(最近はフィヒテについての熊谷英人さんの仕事もあり、またカントの政治哲学への研究など各論的には進んでいる印象。正直その意味でバイザーの記述は古いのかもしれない)、貴重な本だと思う。図書館でリクエスト申請して借りてきたのだが、折に触れて読み返すために購入を前向きに検討している。

 

 ところで、この本を読むのに正味1週間かかったため、最初に読んだカントの章などはほとんど忘れたといってもいい。こういうのを忘れないようにするというか、一応読んだ果実を得るためには、やはり一定のページ数で一度読み進めるのを中断して、読書ノートを作成した方がいいのだろう。時間はかかるが、その方が確実な気がする。