死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

早稲田大学文学部文学科自意識コース卒業記念

 1か月も前のものだが、ふとこんなツイートを思い出した。

 

早稲田の文学部、異常に自意識がデカい人間を男女問わず輩出しまくっているという偏見がある 学生特有のクソデカ自意識というアレでは説明しきれないレベルの             ――――つぶやきびとしらず

 

 別にそのツイートに対する賛否や適切・不適切かどうかは二次的な問題で、このツイートは当の「早稲田文学部」(あるいは文化構想学部)の人々にそこそこRTやふぁぼされたらしい。恐らく、皆どこかに思い当たる節があるのだろう。

 

 まあ、補足してあげると「その人自身の能力がそれほど伴っていないのに、自分は他とは違うという無駄にデカい自意識だけを引っ提げて、根拠ねえ自信だけで世界や他者についてウエメセの判断と裁断を繰り返したり、クソほどイタイ連中が早稲田文学部には多い」ということなのだと思う。文学部生は人が言ってないところを勝手に妄想するのがうまいので。

 

 そう、何を隠そう俺自身が早稲田大学文学部を卒業した。じゃあ君も「異常に自意識がデカい人間」なんだね?と言われたら、自分自身はそうではなかったはずだ、と思っているのだけど、俺の記憶は都合よく改竄されることがしばしあるので何とも言えない。今回論じたいことについて立ち入る前に、俺の話をしないですますのはフェイクだと思うので、包み隠さずやっていきたい。

 

 一応アカデミックサークルの幹事長をやっていた関係で普通の大学生よりは勉強は真面目にやっていたという自負はあったし、正直勉強をしない大学生という種族をメチャクチャバカにしていたし、するべきだと思っていた(当時は)。思い出すと顔がぽっと赤くなっちゃうが、ツイッターではアカデミシャンや有名人の雑な放言やナイーブな見解について「フフッ」とするような人間だったことは否定できない(流石にそれを嘲弄するようなリプや引用RTなどはほとんどしなかった)。そういう意味では、確かに俺はやることをやっているのだから、世界や他者を正しく俯瞰して的確に切り取って何かを述べる――それも冷笑的に――資格があると思っていたのは動かしようのない事実だ。資格、というのは別に何かを言うのはみんな自由なのだが、俺は資格持ちだからこそ重んじられるべきだという発想です。弁護士ですね(違う)。

 

 じゃあ当の俺自身の能力はそんな自意識と釣り合っていたのか。得意分野(人よりは多少明るい程度という意味だが)においては、俺もかつて記事にした人文スノッブしぐさのように参考文献をバーッとあげてみたり研究史に言及したりということをやっていたが、たとえば勉強会でやるテクストの読み筋についてはそんなにパッとしなかったと思う(これは最近哲学書を読んでいるのだが、わからない部分がどうしても多く理解に躓きがちということからの遡及的な推論である)。哲学、というか文学部における学問の基礎となる語学もまあやるだけはやっていたが、今はかろうじて英語が多少とドイツ語の単語がわかるよ、古典語はもうダメだね、という感じなので、学生時代の研鑽が足らなかったのは言うまでもない。俺がツイッター上で自分よりメチャクチャ勉強できるし頭もいいなと思う全然知り合いでない文学部生が数人いたので、客観的に見ても俺は平均よりも若干高い程度の文学部生に過ぎなかったのではないか、と結論している。と、ここまで記述を書き進めた結果、自分で自分の罪に対する論告を書いているような気になってきた。判決は――いや自分で書くのは怖くなったので皆さんに任せる。

 

 しかし、俺というサンプルだけでは巨自オをたくさん輩出しているという傾向を説明する根拠づけにはならない。果たしてそんなもんだっただろうかと大学時代を思い返してはみたものの、そもそも文学部にほとんど友人がおらず(いつかブログでも書いたがドイツ語クラスでいつもドイツ人の先生と会話練習してたほどだ)、無意味だった。所属していたサークルの関係上他学部の友人や知り合いが多かったので。でも、そのわずかな友人においても「異常に自意識がデカい人間」というのとあまり出会わなかったような気がするのだが、しかし先のツイートの指摘には思い当たる節がないもでない感じがする。これはどういうことなのだろうか。

 

 これは推測だが、先のツイートのような非文学部生の持つ文学部生へのイメージがかかわっているような気がする。

 

 法学部や政治経済学部商学部のようにやっていることの“シンプル”な説明ができないのが文学部の特徴、というのには異論は少ないだろう。もちろん文学部生に「へぇ文学やってるんだ」って言うような人は論外だが、逆に言うと「文学部」と初めて聞いて何をやっているのかわからない感じが出てしまっていることは否めない。そういう何でも入る箱に入っていると、何やっているのかがパッと一目で見えてこないというのが、こうした偏見のトリガーではないだろうか(ちなみに早稲田で言うなら社会科学部や人間科学部なんかも似たような事情があるとは思うが、今回はあくまで文学部オンリーで考えていく)。

 

 言い換えるならば、このイメージ格差が、文学部生に対する否定的な見方を導いているのではないだろうか。つまり、文学部生は自身の専門について、法や政経、商などの学部生に比べると人々の認識のハンディキャップがあり、積極的な説明を要するということだ。そうであるからこそ、そこに配慮することなく様々な問題について論じている文学部生が、イッチョカミをやっているとみられてしまっているのではないか。そして、そのイッチョカミを偉そうにできる彼らの根拠は何なんだ?と人々が邪推した結果が「クソデカ自意識」ということなのではないだろうか。

 もちろん、そうした「邪推」には文学部生にありがちなふるまい(たとえば語義の曖昧なジャーゴンをぶん回すとか、とにかく悦に入った文字列だけ並べて解釈コストをメタクソに増大させた挙句言いっぱなしにする人文廃棄物を生み出すとか、人文学の批判的なスキルセットを用いて社会問題に斬り込んでも別の側面から見ると明後日の方向に行きがちとか、何故か相手が「知らない」と思い込んでご教示してくれるマンスプレイニング的なしぐさとか……)だとかが背景にあるのかもしれない。が、クソデカ自意識が何故クソデカいかというと能力が伴ってないように見えるからであって、その認識は必ずしも当該の文学部生の能力だけが問題ではないように思う。その意味では、やはり文学部生に対するこうした偏見みたいなものは、思い当たる節がないわけではないが、外部から見た構成的なものがかなり含まれているような気がしてならない。

 

 以上の考え方はあくまでも推測ではあるが、俺の実感が薄弱ながら根拠としてはある。まあ、こういうことであれば、人類の不幸な認識インシデントということで処理可能かもしれない。俺が問題としたいのはむしろ、この悪辣なイメージに当の文学部生がのっかってしまっているような状況である。

 上掲のツイートは文学部生がそこそこRTしていたようだが、不思議なことに否定的なコメントはあまりなかった(少なくとも当時俺が見た限りでは)。これは根拠の乏しい推測でしかないが、彼らのRTの意図は、きっと自分の自虐込みで、他の文学部生に対する牽制的な意味合いもあるのではないか。というか、こういう自虐的なRTによって自分は他よりかは置かれている状況(そうした”””偏見”””があまり否定できないということ)がよくわかっている分だけマシでしょというアピールだとしたら、申し訳ないがなんとまあクソデカい自意識ですこと。あまり好きな物言いではないが、そういうところだぞ、となってしまう。

 

 とはいえ、別に自意識がクソデカいからといって、他人にマウンティングして不快な思いをさせたり、自分の全能感を理解しない他者を愚弄したり、あるいは自分より優れている人に対するやっかみで何かしたりとか「実害」がない限りはいいんじゃないのと思っている。まあそれも青春のひとつの形ですよね。ただ、かつての自意識デカ盛り丼の助としてひとつだけ言い残しておきたいのは、今のうちにちゃんと勉強しておかないと果てはこんなしょうもないエントリを書くようになるぞということである。これは別に自虐ではなく、事実である。