死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240430――『パイデイア』『Hotel New釜ヶ崎』『なぜ働いていると本が読めないのか』など

【雑感】

 精神的にはまだOK、とまではいかないものの何とか生きています。

 実際適応障害っぽいので、本当はもうさっさと退職まで休職して休養に努めるのが最適解っぽいのですが、何かそこまででもないかな~……と思って、普通に仕事をしてしまっております。とはいえ精神的負荷はやっぱりきつく、それが身体の面にも出ているかなあと。酒飲んでもすぐ酔っぱらって吐くし、過食じみた食べ方をして体重が増えまくるし、いろいろとダメな気がします。

 とはいえ、仕事のことさえシャットアウトできれば何とかなってはいて、Youtubeも徐々に見続けられるようになり、本とかもようやく多少は読めるようになりました。仕事がある日の精神は最悪なので、GWは精神の休養に全振りですかね。

 仕事に難があるというよりも、今の仕事で関わっている人間があまりにも嫌だというところはあります。部署異動さえできれば辞めなくて済んだのかなとは思いつつも、この職場はそういう人には優しくないというのをいろんな局面で見てはいるので、辞めて正解だったと改めて思う次第。

 

【読書】

 この間は3冊読みました。だんだんと気力が回復基調にありますね。よいことだ。

 

 イェーガー『パイデイア 上』(知泉書館、2018)を読了。実は3年前にも1回だけ読んだ記憶がありますが、全ての内容を忘れていたので改めて再読しました。続刊を買うために土曜は池袋ジュンク堂、日曜は神保町を駆けずり回ったのですが売ってなかったのでもう俺は一生ネット通販以外で本を買わないぞとおもみまみた(嘘だよ、これからも書店に行くよ)。中巻が今月、下巻も年内に刊行予定との由。何はともあれ、このトンチキな本を1巻1万円もしない価格で販売してくれる知泉書館には頭が上がらないっすね。永遠についていきます。

 本書はパイデイア=平たく言うと教養(ドイツ語のBildungの形成・陶冶的な意味合いが強い)という視点から、ギリシア文化史・精神史を析出することを目的としている。その意味では、本書は20世紀に書かれたギリシア関連の本でも間違いなく最高峰の一冊であることは疑い得ないし、まさにドイツ古典文献学の巨人的達成であると言える。しかし、今考えるとイェーガーの目論見自体は相当な無理をきたしているなと思う。何故なら実際のところ上巻に出てくる時代(前5世紀)までにそういう意味で「パイデイア」という言葉は使われていたわけではなかったからだ。ブルーノ・スネルが書評で批判的に論じたように、全体的には果たしてどれだけ整合性を持っている話なのか、改めて疑問に思うところがないではない。特に都市国家間における影響関係とか。

 それを承知の上で雑駁にまとめてしまいます(ちなみに訳者解説で丁寧に内容がまとめられているので、関心のある向きはそちらを読んでください。)。上巻ではギリシアにおける教養教育的なムーブメント(「民族の教育」という観点から解された詩人や悲劇詩人の作品の教育的意図の読み込みや、ある種の教育を企図したソフィスト運動等が扱われる)が、畢竟共同体における「アレテー」を有した人間を再生産するためにどのような理念を駆動してきたのかを分析している。ホメロス作品における貴族社会の「名誉」観念と結びついたアレテーの称揚から高貴な人間の理想像が構築され始める。神話を範型とするこうした貴族主義的な教養観は、スパルタという国家教育ガチ勢の市民に対する愛国要求、ヘシオドスの詩作における正義(ディケー)の要請、イオニア諸都市における法治国家的な実践(商業活動を保障する法的平等性の要求など)及び自然科学的な探求(ヒストリエー)によって、理想的な人間像=教養観が徐々に貴族社会の利ねんからずれ落ちていく形でポリス国家の市民たちにも共有されていくようになる経過をたどる。ピンダロスやテオグニスは、貴族社会の没落期においてその役割を聖化するような詩作を行うも、時代はアッティカにおけるポリス国家、つまりアテナイのの全盛であり、教養観は根本的な変化を被る。今や貴族社会の名誉ある人間像以上に、ポリス国家に適合するような人間像が求められていたのである。そして、ソフィストの世紀にあってはポリスにおけるひとかどの人物になる=政治的アレテーを獲得するための様々な教育が開始され、神話に代わって修辞学や哲学等が新たな教養理念として台頭するようになる。こうした時代的背景をヤヌス的に代表したのが、ソポクレスとエウリピデスギリシア悲劇である。さらに、アリストパネスやトゥキュディデスも忘れてはいけない――みたいなてんこ盛り過ぎる内容でした。ただ、全般的にヘーゲルの発展的哲学史的な発想の影響なのか知らんけど、そういう図式に当てはめてええんやろうか?みたいな気持ちになることしばしでした。

 個人的にふーんと思った一節を紹介します。

 「人間共同体の偉大で歴史的な形式は、その生を最期まで生き抜いた時に初めて、あたかもその共同体の不死の部分と死すべき部分とを分かつかのように、認識の究極の深みから、その共同体の精神的な理想を最終的に形成する力を持つ。このことは、ほとんど精神の生の法則であるように見える。したがってギリシアの貴族文化は、その没落に際してピンダロスを生み出した。それはちょうどギリシアのポリス国家がプラトンとデモステネスを、また中世の教会の教権政治(ヒエラルキー)が、その高みを過ぎた時ダンテを生み出したのと同様である。」(p405、なお本書ではこのようにダンテを褒める記述が散見される)

 まあこの叙述を見てわかるとおり、生と形式だの、精神の生だの、如何にも20世紀前半のドイツの知的言説っぽいかほりがしますね。こういう話をされると頭が痛くなるんだよな……。

 もうひとつ、イェーガーのヘーゲルっぽいところを紹介します。

 (ソフィストの歴史的重要性について)「彼らは文化意識の創造者であり、この文化意識においてギリシア精神は自らの「目的」、さらには内的で自己を確信した固有の形式と方向へと到達する。その際ソフィストがこうした概念と意識の出現を助けたことは、彼らがこの概念と意識にまだ最終的な刻印を与えなかったことよりも、差し当たり重要である。ソフィストは伝承されてきた存在の形式が解体する時代にあって、人間の教養を自民族が歴史から受け継いだ偉大な課題として、自己および共同世界に意識させた。これにより、全ての展開が常にそこへと向かい、あらゆる生の自覚的な構築がそこから出立しなければならなかった点を発見した。そしてこの意識化は、(ソフィストという)現象の別の側面である。ソフィストからプラトンアリストテレスへ至る時代は、ギリシア精神の展開の延長上に位置するさらなる高揚である。この主張に説明を要さないとしても、「ミネルヴァの梟は、黄昏にようやく飛行を開始する」というヘーゲルの言葉は、効力を持ち続ける。ギリシア精神はその最初の使者がソフィストである自らの世界支配を、自らの青年期を代償として手に入れた。ニーチェとバッハオーフェンが高みを「理性ratio」が覚醒する前の時代、例えばホメロスや悲劇の偉大という神話的な発端へ移そうとしたことは、理解できる。しかし、こうした初期の時代をロマン主義的に絶対化することは不可能である。なぜなら個人と同様、民族の精神の展開も、踏み越えられない法律を自らの中に持ち、この展開を歴史的に後で経験する者に対して分裂した印象を与えるからである。我々は精神が展開する中で、自らの中にあったものを失うことを遺憾に感じる。しかし展開を可能にする力のどれ一つとして、なしで済ませようとは思わない。なぜなら精神が展開する前提の下でのみ、より以前のことに全く臆することなく準備ができ、驚く力があるということを、我々は十分に知っているからである。これが我々の立場でなければならない。というのも我々自身は後期の文化段階に立ち、幾つかの観点からソフィスト派以来、初めてギリシアこそ我々の根源であると本来の意味で感じ始めるからである。ソフィスト派は、ピンダロスアイスキュロスより我々に「近い」。そのため我々は、ソフィスト派をより多く必要とする。我々はまさにソフィストのお陰で、以前の段階を「継続」することは教養の歴史的な構築にあって決して無意味ではない、という点に気づいている。というのも、我々は以前の段階がこうした教養の中で同時に止揚されている場合にのみ、新たな段階を肯定できるからである。」(pp532-3、下線引用者によるもの)

 これは個人的な呟きですが、イェーガーにおける「第三の人文主義」プロジェクトとギリシア精神史を接続するにあたって、ソフィストにおける種々雑多な試みというのは重要だったんだなあと思いました。

 

 続いてありむら潜Hotel New釜ヶ崎』。これは漫画ですね。元々はヤングチャンピオンコミックスでしたが、Kindleだとビーグリーというコミック配信サービスが出版社になっている。これって出版社か?

 有名な大阪あいりん地区(釜ヶ崎)の生活実態を、戦災孤児・海外での放浪生活歴あり・世話焼き・生活の天才である“かまやん”を主人公にして描く漫画。建築バブル時代の人手不足を背景に日雇いで日々せっせと働きつつ(働けない日は日雇失業保険金をもらう)、お金が貯まれば物価の安いアジア諸国で生活したり、自分のペースで日々を謳歌したりする様が描かれている。戯画化されてはいるものの、警察の不正に怒っての暴動や、随所に鏤められた社会批判も鋭く、ハッとさせられる。例えばソ連崩壊後に逃げ出してきたマルクス(これはもちろん皮肉)が、釜ヶ崎に流れ着いてその実態を観察して「やっぱ俺が正しかったんや!」と言うエピソードは笑ってしまったが、確かに釜ヶ崎の状況は『資本論』の「労働日」を想起するようなところであり、うーんとなった。また、かまやんが出稼ぎに出るという体で、アメリカのホームレスの実態なども紹介しており、そういう意味でも幅のある作品でしたね。

 

 もう1冊は三宅香帆『なぜ働いていると本が読めないのか』(集英社新書、2024)です。社会人なら多くの人がタイトルのような気持ちを持ったことがあると思う。実際問題、神保町の新刊本屋(東京堂三省堂書泉グランデ)のいずれでも在庫がなかった。多分これは数万部はカタいのではないか……。結局Kindleで買いました。

 本書は本を読めなくなることに代表されるような文化的生活の享受が、働きながらでは困難になっている事情について、単純に労働の長時間化に起因するというのではなく、新自由主義的な社会に「トータル」で馴致しようと頑張りすぎる我々のマインドセットにも難があるのではないかという点を指摘する。どうしてこんなに我々は頑張りすぎるようになり、そしてその上で本を読むことを遠ざけるようになったのかを、明治時代からの読書史と労働史を交差させながら探求していく。他階層との距離のパトスとして機能し続けてきた「教養」理念やそれが包括してきた知的消費物の変遷、平成期に生じた自身がコントロールできる範囲だけのことを頑張ろうとする自閉的な自己啓発ブームの到来、そして新自由主義規制緩和を背景とする個性の重視と競争の重視という相反する目標に引き裂かれた結果としての「労働による自己実現」の推奨などが影響していると著者は見る(なお、こうした分析の多くは先行研究に負っている。本書はそのような研究の導入としても読める。)。そして、新自由主義的社会において頑張りすぎる我々にとって、読書等に代表されるノイズ(=思いもがけないコンテクストの広がり)ありの知識の獲得が敬遠され、ノイズ抜きの情報摂取=インターネット時代の効率的な「教養」が好まれるようになり、結果そうでない知識を得る余裕がなくなったのでは、というのが著者なりの分析である。最終的な著者の提言としては、そもそも頑張りすぎたら人生辛くなるから、仕事も含めて何かひとつに人生を全ベットするのではなく、色々なことに「半身」で関われるような社会にしていきましょーよ!ということになる。

 本書の美点を挙げるとすれば、単なる階級格差の再承認に過ぎない教養主義のリブート、つまり「本読んでる人間えらいねー」のようなしょうもない言説に著者が常に一定の違和感を表明し、規範の押し付けを回避している点にある。個人的には↑のような考え方はさっさとゴミ箱にポイすべきだと思っているので。その観点からしても、著者が働く以外の時間を読書以外のコンテンツの享受や趣味の追求も含めて論じている点は妥当だろう(ただ本書のスコープに入っているというだけで、それぞれにフォーカスされて論じられているというほどでもない。もちろん、メインテーマが読書なので当然だが。)。

 とはいえ、これは弱点でもあって、じゃあ結局何で人は忙しい合間を縫って本を読んだ方がいいのか、映画を観た方がいいのか、お芝居を観に行った方がいいのか、という点は本書を読んでも依然疑問として残った感が否めない。著者は、労働に心臓を捧げている狂った社会(とまでは著者自身は言ってませんが……)において、仕事以外の文脈を見出すためには、ひとつのコンテンツに織り込まれている様々なコンテクストを思いもがけず発見する契機を大事にしよう(著者自身の言葉で言うと「ノイズを受け入れる」)という趣旨のことを述べている。

 しかし、仕事以外の文脈を見出すために、ノイズのないファスト教養的なコンテンツを入り口としてもいい(つまり当該コンテンツ自体が仕事と関わってなければいいわけで)と語られている中で、あえて読書等のノイズありの知識享受を選び取る必然性が明確ではないように思う。著者が述べているように、本がそうしたノイズに出会いやすいということは確かかもしれないが、自分の文脈を広げるための選択肢は常に他にもありうるだろう。パズドラやろうがSNSやろうがYoutube見ようが達成できることだとしたら、我々はそもそも「何故働きながら本が読めないんだろう……」とくよくよする必要も大してないのでは?という気持ちにさせられたのも事実だ。

 これは俺の素朴な感想に過ぎないが、上述のような不安というのは、本・映画・お芝居のようなものを「文化的」としつつ、SNSスマホゲー・Youtubeのようなものが「文化的でない」という階層的な二項対立を前提としてしまっているところがある一方で、この二項対立が果たしてどこまで有効なのかをもっと突っ込んで問うた方がいいのかもな、と思った次第である。著者が提言する「半身社会」において、仕事はみんなほどほどになって色々と文化的活動ができるようになったけど、読書最高!Youtubeはクソ!みたいな価値観が支配的になるのだとしたら、それこそ労働による自己実現の肥大化が「読書」に差し替えられるだけなのではないか、という気がする。

 

 最後に、俺の個人的な経験を踏まえて。新卒で入った会社が強烈ブラック企業で、早朝から丑三つ時まで働いていたためか、その時は本はほとんど読めなかったと思う。多分まともに読んだのは、山内志郎の『目的なき人生を生きる』ぐらいではないか(それについて論じたエントリはこちら)。もうちょっと読んだかもしれないが、多分3年で10冊読んだかどうかというところである。

 その後狂った職場を辞めて現職場に入ってからワークライフバランスが改善され、何とか本が読めるようになった(ただ最近うつ状態になり、時間が有り余っても本が手に取れる状態ではなかった。)。もちろん現職場でも7時に来て22時に帰る一週間みたいなイカれた繁忙期がないわけではなかったが、例えば早起きして出社する前に本を読むとか、昼休みは必ず読書するとかで何とか読書時間を捻出した結果、今では大体年間120冊以上は読んでいる。そういう意味では働きながら本を読めて、はいる。

 しかし、これが人生に何かよい影響を与えているかというと微妙なところで、漫然と読み散らかして楽しんでいるだけでしかなく、Youtubeでオモコロを見たりFallout4をしたりしているのとそんなに変わらないような気もする。小説はあんまり読まないで、新書や概説書、学術的な読み物から専門書ばっかりの単純に知的興味の赴くままにという読書傾向だと、著者が述べたような「ノイズ」的な要素を「へーおもしれーなー」ぐらいの感覚でしか受け止めてないのかもしれない。本当に暇つぶし程度にしか思っていない時点で、やっぱりよい読者ではないのだろう。そのあたりから自分の意識を変えないとダメなのかもしれませんね。