死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

本をめくり始めるまで――敗残者の弁明

 今、俺の借りているマンションの部屋にはたくさんの本がある。試しにいくつかあげてみよう。全集ものから。プラトン全集、アリストテレス全集(旧版)、カント全集(段ボールに入ったまま)、マルクスエンゲルス全集(段ボールに入ったまま)、ニーチェ全集、シェイクスピア全集、トルストイ全集、ドストエフスキー全集、トーマス・マン全集、T・S・エリオット著作集。これだけで200冊強ある。次に企画もの。世界教養全集、世界批評大系、西洋思想大事典、中央公論社の哲学の歴史など。さらに、文庫ならばブルクハルト『ギリシア文化史』8巻、ギボン『ローマ帝国衰亡史』10巻、プルターク英雄伝12巻、ギリシア悲劇&喜劇6巻、須賀敦子全集、トロツキーロシア革命史』など……あと、ヒルシュベルガー『西洋哲学史』4巻、田中美知太郎『プラトン』4巻などがある。全集も含めそうした続きものだけでだいたい300~350冊、あとは文庫や単行本などで、合わせるとだいたい800冊ぐらいある。まだ増える予定だ。これだけの本を揃えるのに、恐らく60~70万は使っていると思われる。改めて思ったが俺は本当に頭がよくないみたいだ。

 

 さて、今日のお話ですがこういうことです。

 

 1、一生のうちこれらすべてを読むことはまずない

 2、これだけたくさんあると自分でもどれから読めばいいのかわからない

 3、しかし、時間は刻一刻と過ぎていく

 4、とはいえ、これからも本を諦めない

 5、いつ読めばいいんだろう、という陳腐な問いかけ

 

 1について。人間は一生でどれだけ読めるか?なんてくだらない疑問を持つ暇があったら本を読むべきだろう。読んだ本の量で偉さが決まるというのは、教養ロマン主義者がせっせと築き上げてきた砂上の楼閣での決まり事だ。彼らの居心地のよさを害するつもりはないので、そっとしておきたい。仮にもし読んだ量が意味を持つとしたら、それは「全」か「無」という超越的な場合であり、地上の人間に許されている「一」か「多」の差異はただの誤差である。

 で、死ぬ気で頑張れば800冊は普通に読めると思う。ただここでの意味は目を動かしてとりあえず情報を頭の中にブチ込むことを指す。掃除機のマニュアルを800冊読むことは可能だが、人文書の類は800冊読むなど到底できないだろう、読んだ気にはなれるかもしれない。読んだ気、というのは大事で、実は人文学は「読んだ気」の中間発表である。もし完全に俺は読めた、なんていってそれ以前以後の学問を全て終わらせるような研究が出てきたら、それは詐欺師か魔法使いの仕業だろう。刑務所か生体実験かを選んでくれ。

 

 おいそれは詭弁にもなってないね、お前は前提で「読める」かどうかなんていう話はしていないぞ、「読む」ことはないという事実の話じゃないのかと言われたら確かにと頷くしかない。ここで2について。本がたくさんあることは幸福だろうか?どうだろう?何事も過剰はよくないというおばあちゃんの知恵に還ろう。そう、過剰はよくないのだ。具体的に何冊以上が過剰なのか?なんていう疑問は1の冒頭であげた疑問同様ナンセンスだ。定量分析やめろ、神々の声を聴け。こちらからヒントを提示する。自分の家にある本棚、あるいは本の集積を見て「うわあ、なんだかすごいことになっちゃったぞ」と思ったらそりゃ過剰なのだ。な、神々の声を聴くんだ。

 今、俺は自分の蔵書の物量に圧倒されている。といっても君は俺じゃない。だから手がかりをあげる。大学生になった時、あるいは社会人でもいい、手ごろな図書館に入った君は、あの愚劣だが有益な十進法分類に従って哲学の棚を見たことがないか?西洋哲学の棚に絞ってみよう。大きい図書館だったら必ずプラトン全集、アリストテレス全集があり、運がよければソクラテス以前哲学者断片集成やプロティノス全集も見つかるかもしれない。その他、いくつかの研究書も並んでいることだろう。さて、キケロー選集などを通り越し、中世思想原典集成……はい、中世までで100冊以上あるね? 君はその量に圧倒され、諦めて棚と棚の間を抜け出た経験はないか? それとも、サルトルの『嘔吐』に出てくる独学者的な白痴でもって、プラトン全集の青表紙をめくって、『エウテュプロン』から読み始めるか? そうできる君は、きっと既に人文学の女神が微笑まなかった99人に勝っている。99人は、俺の気持ちがよく分かることだろう。俺はさっきからずっと、その99人を相手にソフィスト漫談をしている。

 独学者はアルファベット順から本を読み続けていった。つまり彼なりに整序があった。よくあるブックリスト(必読書150とか)とは、無限に考えられる整序のアレンジメントを雑多な文献紹介を添えながら提供しているに過ぎない。読書における整序は、膨大な本の塊から凡人を救ってくれる。種村季弘はかつて大方の読書論に反対して「読みたい本を好きに読めばいい」と言っていたが、その言明は実は大方の読書論以上に貴族主義的であることに気づいていたのだろうか? 彼は気づいていたような気がする。

 

 俺の話に戻ろう。俺はヤフオクで安そうな本をどんどん買いまくって、とにかく自分の関心に近いところから本を探していった。1冊ずつ買ってその1冊を読み終えるまで他は買わないという手ももちろんありえた。だが、それはこの資本主義社会という高速道路でスクーターで走っているような気がする。性に合わない、といえばそれまでだ。なので、自分でせっせと蔵書を作り、いざできるとそれを見て逃げ出すという、ちょっとおつむの弱い展開を迎えているわけだ。

 だが、俺だけのせいじゃない。ずっと昔から本=情報の氾濫が嘆かれていた(アン・ブレアという人が書いた『Too Much to Know』という本があり、オススメです)。今はノアの大洪水が狂ったようにリピートされていて、ノアも一対の動物もとっくの昔に海の底というような感じだ。そんな世界で、少しでも読書をしようという人間であれば、増え続ける蔵書という問題に向き合うのは必然ともいえる。増え続ける蔵書は、果てのない旅路を思い起こさせる。厭本感情が一度でも生まれたら、そこから本を手に取っても「読む」までにだいぶ時間がかかるものだ。掃除機のマニュアルでさえ嫌になる。

 

 さて、そろそろ飽きてきた。俺もこんなクソみたいなことを書いている暇があったら本でも読もうかしら……という気分になってきた。3について書くにはもってこいだ。時間は限られている。時間は限られている。時間は限られている。3回書けば脅威がよく伝わるネ。1時間空虚なことをすれば、新書を1冊読む機会を失ったと考えていい。本は増え続けるが、本を読む機会は失われ続けていく。もういやになってきたな、そりゃ「本なんか読んでも意味なくないか?」と思うのは当然だ。さっきも言ったように、読書の量なんて意味がない。教養ロマン主義者のリングでわざわざ一戦おっぱじめようというなら話は別だが。本なんか読まないで別の趣味をすればいい。庭に花を植えるとか、映画を見るとか、セックスするとか……やることはたくさんある。ただ、君が読める量はその分だけ減る。もうそれだけのことなのだ。それさえ受け入れられればいいんじゃないか? というか、受け入れつつあるんじゃないか? 

 

 いや、俺は諦めてないぞ、とここでもう1人の俺がむくりと起きてきた。では彼に4について語ってもらうとしよう。

 こんな無能な俺だが、ささやかな夢がある。本を読み続けること。何があっても読み続けること。今、その夢を放棄すると俺はどうなるんだろうか。仕事に押し潰されて、家に帰ったら惰性のままスカイリムを起動して、目的もなく破壊魔法を山賊に撃ち込むだけの暮らし。それは生きているというよりも、ワンシーンの巻き戻しと早送りを本人の疲れは蓄積したまま繰り返しているような感じだ。いずれ俺は砂漠になる。砂、砂、砂……俺はそれが怖い。怖くて仕方がない。その恐怖感が、俺を読み続けることへと向かわせようとしている。

 なぜ読書なのだろうか? それはよくわからない。映画でもゲームでもいいと思う。ただ、何かが固着している。その固着を俺は無視したくないというだけだ。何かがわからないが、迫りくる砂漠のイメージよりかはずっとマシだということはわかる。

 

 長々と書いてきたが、ざっくり言うと読みたいのに読む気が起きないのだ。じゃあどうすればいいんだろう?いよいよこのクソ長い雑文も最後に来た、はーよかった。俺は今日、答えを見つけたような気がする。

 仕事で午前中に外回りをして、帰りは電車だった。朝からそれは分かっていたので、家から1冊本を持って無聊を慰めようとした。800冊の中から悩んで選んだのは岩波文庫ホメロスイーリアス』上巻である。高校生の頃に読んだっきりで、実は大学に入ってからは一度も読んでいない。もう話の筋もだいぶ忘れている。再読の頃合い、と思って持っていった。電車の中で、本をめくり始めた――そこから第一歌まで、止まらなかった。久しぶりに中断もなく(運よく会社からも電話が来なかった)、本に対してぶっ続けで挑むことができた。電車から降りた時は、晴れやかな気分だった。

 さて、俺は第二歌(アガメムノンが夢を見る展開だ)を読んだのだろうか? 実は読んでいない。家に帰ったら、即座にパソコンにかじりついてスカイリムをプレイ、その後はツイッターを見たりして今はブログを書いている。だが、俺はもうあの陳腐な問いかけをする気にはならない。本を読むタイミングはいつかきっとやってくる。それが10年後でも20年後でもいい。800冊が2000冊、あるいは10000冊に増えても構わない。そのいつかをただ待てばいい。そういう気持ちになれたのだ。人文学の女神なんか知るか、俺は俺の中にこだまする神々の声を確かに聴いたぞ――。

 

 こんな長文を書いて何を証明したかったのかよくわからない。それこそ、こんなこと書いている暇があったら、アガメムノンの夢の中身でも覗くとしようか……。