死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

仲間内のあいさつ

 この土日、東京に帰っていた。日曜日、大学の卒業式があった。俺も大学を卒業して2年経ったんだなと思いつつ、そういえばサークルの後輩が卒業するので集まりませんかとか言ってたな、どうせだし行くかと思い足を運んだ。

 

 小中高の卒業式には一種の浮かれ感があった。「教育」という名の「庇護」が続いている限りにおいて浮かれていられたんだと思う。それに高校から大学への移行は生活が自由に変化することでもある。安心と期待感で胸がいっぱいだった。そんな記憶ももう遠く、遠く、別人のようだ。

 

 だが、俺の後輩たちは浮かれてはいなかった。久しぶりに懐かしいメイツが集まったということはみんな喜んだが、卒業するということについては喜んでいなかった。わかる、その気持ちはよくわかる。俺だってそうだった。次に投げ出されるのは安心できない社会だ。金を稼いで好きな物を買ったり、新しい出会いがあったりなんて期待感よりも不安の方が大きかった。

 

 そしてその不安はだいたい的中した。金は稼いだけどほとんど消えた。新しい出会いは二度と会いたくない人間とした。不安は容易に不満となり、それが身体を満たすと毒になる。毒は自分だけで他人を傷つける。フグの毒でなぜフグは死なないのか?死ねたら楽なのに。いつか毒で誰かを殺す前に。

 

 ところで、後輩たちに会いに来たのは俺だけではなかった。既に社会に出ているメンツも同じ目的で集まってきた。みんな今の生活に不満ということでは共通していた。異常な業務量と異常な周りに精神と肉体を擦り減らされている奴、うつ病で休職している奴、転職のプランを練る奴……。みんなでいろんなことを話し合った。とにかく話し合うことしかできなかった。

 

 だが、話し合うことはとても大事だと確信した。月並みだが、俺には仲間がいるということを再確認できたからだ。社会に対して孤独な個人が戦うのは極めて難しい。だからこそ仲間を作る必要がある。もし現在に仲間を望めないのであれば、過去か未来に作るしかない。それが結果として社会に逆張りする「社会」だとしても、戦術は間違っていないと思う。

 

 俺は仲間たちとの共通点をもうひとつ発見した。みんな「考える」ことを抵抗のよりどころとしていることだ。現状の不満をただ不満として処理するのではなく、その原因を考え、代替案を模索する。その営みに一生懸命だと思った。ある者は休職しながら論理学を始めた。ある者は現状から離脱するために本気で金策について考えを巡らせている。ある者は突然休みをとって会社に抵抗の意志を示した。どれも「考え」なしにはできないことだ。

 

 その姿を見て、俺は端的に勇気づけられた。この仲間たちに次顔を合わせる時に恥ずかしくないよう、俺も考えることをやめない。社会に時間を明け渡さない。批判の芽を摘む娯楽については厳しく律する。善きものとの対話と悪しき内なる自己の内省に向き合う。

 

 だからこそ、俺も仲間に告げる。考えるのをやめないでくれ。明日も、明後日も、明々後日も……。そうしてまた会おう。その時の俺たちのあいさつは「やあ、考えてる?」「ええ、考えていますよ」だ。俺たちは考え続けることをあいさつとしなければならない。

 

 考えるのをやめてはいけない、どれだけ言い古されてきた科白だろうか。だが、言い古されているのはそれが一向に達成されていないからだろう。月並みさに呆れる前にやることがあるはずだ。だからこそ俺は、このエントリにそれを書き記す。

 

 ※考え続けることをあいさつとしなければならない、というのは元ネタがもちろんある。これは藤田省三をもっともよく理解した市村弘正が、藤田の死に際して絞り出した言葉だ。藤田と市村の著作を読み直すことが、今の俺たちに求められている気がしてならないので、あえて引用した次第である。