死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

おめめパッチギ部

 前の記事でも言ってたが最近はビザンツにハマっている。なので関連書籍を通勤電車の中で読んでいる。吊り革を左手に掴みながらオストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』(練馬区図書館から相互貸借しています。ありがとうございます)を右手で持ち上げていると筋トレになることもわかってきた。

 

 ビザンツ関連の本を読んでいて思うのは、残虐な身体刑が多すぎるということだ。たとえばユスティニアノス2世は鼻を削がれた(が、その後鼻をつけ直して帝位に復活した。安倍ちゃんも人工胃腸にしたのかな……)。女帝エイレーネーは、息子が生まれた場所で当の息子の両眼を刳り抜いた。この両眼を刳り抜くというのは後々までビザンツ人の推し刑らしく、オストロゴルスキーを読んでいると何例も出会う。

 

 もう言い古されているが、ビザンツ皇帝(あるいは対立皇帝も含んだ皇帝に反旗を翻した高位の実力者たち)は大体暗殺されるか、両眼を刳り抜かれるか、修道院に押し込められているような気がする。殺害は言うまでもないが、後2者は帝位に復帰できないような社会的抹殺を目論んでいるのだろう(と多くの識者も指摘している)。ビザンツ人は国連に先駆けて障害を社会モデルだと思っていたんだね(違う)。実際、風呂場で殺したとか寝込みを襲ったという事例もあれど、大体は両眼を刳り抜く、鼻を削ぐみたいなところに落ち着いていた。最近は手あたり次第ビザンツと名をつくものを記録もとらずに読んでいるのでどの研究者だったか忘れたが、死刑よりマシじゃね?みたいなことを言っている奴もいた。地獄の前戯の如き現世から魂を解き放つご褒美でつが……。

 

 オストロゴルスキーによると、ビザンツにおける残虐な身体切断刑を最初に確認できるのは7世紀、ヘラクレイオスの姪っ子にして後妻のマルティナ(fanzaで100円セールしてそうなエロCG集かな?)とその息子ヘラクロナスに対する処断である(『ビザンツ帝国史』p152)。マルティナは舌を抜かれ、ヘラクロナスは鼻を削がれた。そして上にあげたような事例もある。こうした身体刑について、オストロゴルスキーはユスティニアノス治下で編纂された『ローマ法大全』にはみられず、8世紀のレオン3世下で編纂された慣習法の集成『エクロゲー法典』に刑罰として記載されていることに注目している。オストロゴルスキーも「風俗習慣がオリエントの影響下で粗野になった結果」(同p216)としていて、割といろんな研究者が似たようなことを言っていた気がするが、果たしてどうなのか。

 

 個人的に一番エグいなというか是非紹介しておきたいと思ったエピソードを1つ。マンジケルトの戦いに敗れたロマノス4世が這う這うの体で帰ってきたらコンスタンティノープルでは既に副帝らの陰謀によって廃位が宣言されており、降伏したにもかかわらず「両眼を焼き鏝で焼かれた」そうだ。はんだごてフィギュアキチガイの先駆けである。そして当代随一の知識人にして政治的カメレオンのミカエル・プセロスはロマノス4世にこんな書簡を送った。「神はあなたの両眼を奪われたが、それは、神があなたにはより高貴な光が相応しいと思し召されたからである」(同p445)だそうだ。それ線路に転落した人にも同じこと言えんの? オストロゴルスキーは割とプセロスを褒めているが俺はサイコ野郎以外の感想を持てなくなってしまった。

 

 興味深いのは、ユスティニアノス2世やイサキオス2世のような数少ない例外を除けば、身体刑を受けた人の多くはその後ひっそり歴史から消えてしまうことだ。つまり、安倍ちゃんと違って再登板が厳しかったということで、まさに「当事者が職務を遂行することは不可能であるという烙印を捺された」(同p152)ことになる。ビザンツの帝位が自然的身体の「完全性」に結びついていることは突っ込んだ考察がなされてもいい気がする(逆に宦官のノーチンチンが肉体的な束縛を離れた天使とのアナロジーになっていたという井上浩一の『ビザンツ』での指摘は興味深い)。

 

 こんなしょうもない話を長々と記述したのは、日弁連が死刑の代替刑として終身刑を導入すべきでは?という意見を出したのと、裁判員裁判が始まった新潟の女児殺害で遺族が「極刑になっても許せない」と言っていたのを同時に思い出したからだ。死刑に匹敵する刑罰、超えるような刑罰はありうるのだろうか。個人的には、死刑とは応報主義的刑罰の極北であり、それゆえに他のいかなる刑罰とも比較不能な刑罰であるように感じる。なので、代替もなければ、それを超えるような刑罰もないと思う。だが、それ自体とても現代的な価値観かもしれなくて、ビザンツ人は少なくとも死刑よりもおめめバチ斬りに意味を見出していたようである。廃止か存置かを考える前に、まず日本人が「死刑」に見出す意味を探ること、そのために過去を参照項として呼び出すのは決して無駄なことではないかもしれない。