死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

2019年――近代2.0から3.0への移行期間における神学的諸前提のリブート

 タイトルに深い意味はありません。意味はどこまで潜っていても俺たちの手には届かないので。つまり、Vtuberを死姦したことがある奴がいるのかという話です。

 

 今年はよかったですね。検察がやらかしまくって人々を逃がしまくったと思ったら、カルロス・ゴーンも逃げて完全にお祭りみたいになってきた。日本の法曹のお粗末さが世界に知れ渡ったので俺は嬉しい。こんな奴らに死刑とか任せていいんですかという素朴なお気持ちで東京拘置所のロープを断ち切りましょう!(政治的スローガン即ち空疎)。まあ12月も振り返りつつ、総括していきましょう。

 

 〈苦役〉

 新しい職場はまあ悪くはない。悪くないけど、しかしやはりフィットしない職場である。でもしょうがない。正直俺にフィットする職場なんてどこにもない気がする。もう生きるために自分を曲げることを許せる年になってきた。できないことが増え続け、妥協に身を委ねる年頃になってくると、人間はせめてもの可能性の拡大を求めて生存を延長したがるのだろう。この生まれた世界が最悪だとしても、生き続けることがもはや最後に残された抵抗の手段なのではないか。逃走は究極の手段であっても、唯一の手段ではない。

 でも職場の他の人とのライフステージに関する根本的な見解の相違は乗り越えられないと思う。そしてだいたいそういう話しか出てこない。まあ、仕事の話もしたくない、趣味も共通項に乏しいとなると、人間のありがちなモデルケースが話題になるのかもしれない。もうこれも仕方のないことなのだろう。そういう話をしなくてすむような共同体が俺にはまだひとつだけ残っている。そこに残りの人生の賭け金を全額ベットするしかないのだろうか。それはわからない。5年後にその共同体は今のままである保証はない。何ひとつ確定的な未来など存在しない。それでも生き続けるために、仕事をしなくてはならない。思えば前職は狂った出来事の連続であった。今の仕事こそ、苦役というのにふさわしいのだろう。

 とはいえ、仕事に希望がないわけではない。幸い勉強が無駄にならないタイプの仕事だ。周りの先輩は勉強よりはコミュニケーションや仕事上のノウハウの蓄積が必要と考えているが、俺はそうではないような気もする。何故なら、勉強することでそうした仕事上の条件も変わってくると思うからだ。それに、幸い自分の分野の勉強は他のことでも役に立つ。なので、何とか勉強につなげていきたいと思う。惰性を繰り返さないというのを、2020年の、いや人生のテーマにしたいと思う。まあ、こんな言明を繰り返しているばかりでは永遠に惰性と初夜を迎え続けるんでしょうね。悲しいね。

 

 〈社交〉

 東京に帰ってきたので、昔なじみの友人と飲むことが多くなった。やはりそれは楽しいものだし、今後も楽しくしていきたい。

 ただ、基本的に昔なじみの友人も俺も陰キャなのでそんなに飲みに行くわけではない。あと付き合いもお互い悪いので、必然的に噛み合わないケースも多い。昔だったら気にしないのかもしれないが、最近はちょっと気になってきた。やはり人生に対する焦りがあるのだろうか。辛い辛いだねえ。

 前職の先輩とかともたまに飯に行くことがある。大体いつでも戻ってこいみたいな話をされるのだが、まあ日本で唯一過労死を問題視しない職業なので自殺を真剣に考えたらまた門を叩こうと思う。

 

 〈読書〉

 今年はいろいろと読んだ。興味のある研究書とかが多かった気がする。12月に読んだ中谷功治の『テマ反乱とビザンツ帝国』はよくて、史料の少ない時期の中期ビザンツにおいて、小アジアのテマ軍団に支えられた中央政権という仮説を手掛かりに、テマ制などの軍制や反乱などの事象を読み解くという、仮説と史実のフィーリングを楽しめる面白い本だった。ジャンルで言えば、西洋史古代ギリシア哲学、ドイツ文学、政治思想史などをよく読んだ気がする。多分一番面白かったのはブログでも書いたバイザーの『啓蒙・革命・ロマン主義』だろうか。

 しかし、読んでも片っ端から忘れていく。なので、来年からは読書ノートを作ることにした。来年からこのブログにちょこちょこあげていくつもりである。もし月ごとの振り返り記事の読んだ本リストと読書ノートの数が合ってなかったら、読書ノートをとるに値しないレベルの本を読んでいたか、俺が怠惰だったかという二択でしかないので、まあそこは各自ご判断いただければと思う(圧倒的に後者だと思う)。

 あと来年、どうせ時間があるのでいろいろ基礎的な部分の足固めにもしたいと思っている。何をやるかは決まっていないが、とりあえず1月2月はちょっといろいろと自分でやっておきたいこともある。ブログではあまり報告しないかもしれないが、そういうことも頑張りますとだけ。

 

 〈文化活動〉

 映画、やはり『サタンタンゴ』が圧倒的で、今年一番頑張って見た映画だと思う。腰も痛くなったし。

 あと、Youtubeにハマりすぎた。来年はYoutube離れをしていきたい。個人的に魅力に思うYoutuberは結構いて、でもあまり人には言いたくない(ブログでちょこちょこ言及はしている)。Youtube、長くても30分が目標です(こうやって言うということは1時間ぐらいやってしまう可能性が高い。というか絶対そうなる)。

 友達に勧められた乃木坂の動画を見てたらいつの間にか1期生から4期生まで全員言えるようになったし、かなり彼女たちのバラエティ的な文脈に詳しくなってしまった。今考えるとマジで何やってんだという感じで、本当に好きでも何でもないのに何故か日課で見ている自分がいたわけだ。この時間を何か別のことに使えただろうという気がしないでもないが、そういうことを考えると人生は詰み始めるので「気がしないでもない」で打ち止めにする。俺は人生というゲームに詳しいんだ。

 ゲームはスカイリムメチャクチャやりましたね。やっぱり俺の故郷はベセスダソフトワークスなんですよね。そして今はFallout4で実銃MODてんこ盛りにしてレイダーの頭ブチ抜いている。人は過ちを繰り返すので(War Never Changesの名訳です)。

 

 〈よもやま話〉

 来年の目標を前の記事で適当に書きました。訂正します。

 

 ①インターネットにかかわらない。

 ②何かのテーマを1年かけて勉強する。

 ③仕事にのまれない。を自分のものにする。そして30になる前に判断する。

 ④貯金して、来年一人暮らしプランを現実にする。

 ⑤アイドルの握手会に白い手袋はめて真っ黒の葬式みたいな格好で参列する。人生に時間はないのでそんな無駄なことはしません。刻苦勉励して生に抗います。

⑥チャンネル登録者数1万人以下の面白いYoutuberを10人見つけてそいつらが伸びたら古参イキリをする。Youtube離れを頑張る。

 ⑦海外ドラマを見る。

 ⑧Sound Horizonに対する気持ちを中2の時ぐらいまでに高める

 ⑨オープンワールドゲーム以外のゲームをちゃんとやってみると真剣に向き合う

 ⑩7時間睡眠で生きていく覚悟をする

 

 そして、ブログでも言及しておかなきゃと思った最近の思考テーマは老いである。

 やはり諸々の認知がバグり始めているというか、スムーズかつアプロプリエイトな行動がとれないような気がする。記憶ができなくなっているとか、怠惰で説明できるような次元ではないような何かを自分の中に感じ始めている。

 そりゃいつかは人間は年老いることはわかってきたし、これまでも老いてきた。14歳の頃のパッションを19歳に持ち越すことはできなかったし、21歳の頃の頭の冴えも25歳ですっかり失われてしまった。だが、それとは違う、根本的に今後の「生の条件」となりうるような何かが降りかかってきたのだ。やはりそれについて真剣に受け止めなきゃなと思ったのが、今年下半期に突然出てきた最大のテーマである。

 最近、酒も弱くなった。あまり食べなくなった(体重は落ちないが)。負債を積み上げながら、徐々に支払い能力も衰えていく。不良債権化していく人生である。救いはあるのだろうか。2020年、今度こそ人類は滅びてくれるだろうか。何もわからない。わからないまま、大人になれないまま、大人のデメリットを引きずって新年を迎える。物悲しくもあるが、それでも老い自分のものだと引き受けるつもりだ。

 

 このブログタイトルの「死者の如き従順」はイエズス会のモットーだと思っている人が多いと思う。だが、実はこれ、アイヒマンがよく使っていた言葉でもある(もちろんラテン語のperinde ac cadaverではなくドイツ語化されたKadavergehorsamで)。彼がカントの定言命法を法廷で諳んじたのはアーレントの報告でよく知られている。「絶対的な何かに従う」というアイヒマンの態度は、悪の凡庸さとかナチズムの理念的特殊性には回収できない、まさしく「アイヒマン」ならではの精神性ではないかと個人的には推量している。彼は中間管理職の最高峰である「親衛隊大佐」にはなりたかったが、将官にはなりたくなかった(と俺が勝手に思っている。実際のところはどうだろう)。大戦末期、彼はなおもカルテンブルンナーに「命令」を求めていた。主体性の喪失とか、権力や多数派への追従という理由づけではなく、「服従」そのものに彼が酔いしれていた、という気がするのである。

 そして、まさしく俺はそういったところに自分を見ている気がした。これがブログタイトルの理由である。タイトルの下の一行文に戦争的ジェスイットであると書いたのは、多分ブログを書いたあたりでエーコの『プラハの墓地』を読んだからかもしれない。そもそも「死者の如き従順」自体、言葉として出会ったのは高校生の頃に読んだ『屍者の帝国』だ。だが、この個人的内省の集積の如きブログにふさわしいタイトルという意味では、やはりアイヒマンのことを考えざるを得ないのである。まあ、年の暮れのしょうもないネタバレです。皆さん、よい年をお迎えください。