死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

【読書感想】トゥキュディデス『戦史 上・中・下』(岩波書店、1997)

 古典、である。もはやそれについては贅言を要さないと思う。古典学者から国際政治学者まで幅広い分野の大家がこれについて云々してきた。「トゥキュディデスの罠」(確かにトゥキュディデスはそういう旨の叙述をしているが、ケーガンは実際には「罠」など存在しなかったと主張している)や、戦時中の指揮官の決定速度の重要性(我々はブラシダスやデモステネスの機敏さとニキアスやアステュオコスの優柔不断さを対比することができる)などの実利的な教訓を抽出できるという点で、本書は「古典」の地位をほしいままにしてきた。

 

 あえてそうした人々の繰り言を受け売りで述べるだけでなく、実際にその著述を読み進めてみれば、たちまち2400年以上の時間の差が、理解を拒むことに気づくだろう。耳慣れない地名や人名が多く出てきて、時系列もしばし混乱をきたす(特に第5巻と第8巻)。古代ギリシアの地図を見る必要から、アサシンクリードオデッセイを起動してわざわざ確認した(英語の本だが、トゥキュディデスの著述に即してランドマークごとに整理した本もあるくらいだ)。

 

 しかし、著述から見えてくるのは、上述の教訓めいた概念よりも、我々とさして変わらないある種の「人間理解」である。予め「世々の遺産」たるべく綴られたこの本を通して、強者の驕慢と恐怖心が裏腹であること、日々変わりゆく情勢についての「民衆」や「ポリス」の非一貫的な在り方、そして「民主主義」や「自由」がお題目でしかない時もあれば、その言葉が力を持つこともまたあること……などを我々は学ぶことができる(し、学ばなければならない。トゥキュディデスを最良の教師としたのが、かのトマス・ホッブズである)。本当に大事なのは、トゥキュディデスという一個人が「今次最大の世界戦争」と思ったペロポネソス戦争を書ききるという大事業(結局それは未完に終わっているのだが)を経て、如何なる「人間理解」に到達したのかを我々も彼の筆を追って確かめることにあるのではないだろうか。国際政治学の教科書や、引用を切り貼りした紹介本だけでは決して辿り着けないものである。

 

 ギリシア史において今次の戦争が最大であることを位置づけるために、過去の戦史を振り返る(いわゆる「考古学」)。ギリシア史に燦然と輝くトロイア戦争でさえ、ペロポネソス戦争に及ばないことを、主に兵站的な側面から説明する(『戦史』は資金や食料などの戦争を下支えする物資にかなり早い段階から着目している)。単純な編年体形式ではなく、所々で必要な記述であれば多少脱線することもあるのが史家のご愛敬だ(脱線の中で有名なのは、アテナイペルシア戦争以後の50年で如何に大帝国に成り上がったかを詳述する「五十年史」や、ペルシア戦争の英雄であるテミストクレスへの評価などが挙げられる)。

 

 そして、著述は戦争の直接の発端であるコリントスとケルキュラの対立に触れる。ケルキュラの植民市エピダムノスを巡っての対立が、アテナイとスパルタ(本書ではラケダイモンとされているが、親しみやすさの観点から本ブログではスパルタと表記する)の潜在的だった対立の火種となる。ここに(プラタイアを除く)ボイオティア諸都市のアテナイ離反も手伝い、両者はやがて戦端を開くに至る。ここでずっと強調されているのは、アテナイが進取の気性を持ち積極的な支配圏の拡大も行うのに対し、スパルタは基本的には現状維持を大事とするという「国民性」の違いである。しかしそれにもかかわらず、スパルタ側も戦争を起こさんという気になったのは、アテナイの膨張に対して恐怖を抱いたから、という説明をトゥキュディデスは施すのである。

 

 戦争はマケドニアからシケリアまで広がり、まさにギリシア世界全体を巻き込むものだった。とはいえ、この戦争に乗じて、各地のポリスの貴族派と民主派がアテナイとスパルタの歓心を買うべく策動した(そのいい例がミュティレネである)ため、「巻き込まれた」というより「飛び込んだ」という方が正確かもしれない。トゥキュディデスも内乱一般についてその原因を考察するほど、ペロポネソス戦争における重大なモーメントだったといえる。戦争はアテナイ優位で展開されるかと思えば、スパルタ率いるペロポネソス同盟も懸命に戦った。しかし、スファクテリアの戦い(ペルシア戦争以来その勇猛さをもって知られたスパルタ重装歩兵を、アテナイのデモステネスとクレオン指揮下の軽装兵がヒットアンドアウェイ戦術で一方的に打ち崩し降伏させた)を契機として、スパルタ側に和議の機運が生じた。

 

 その後、スパルタもブラシダスがトラキアにて作戦を展開しアテナイ側に和議へのプレッシャーをかけさせた。クレオンとブラシダスという主戦派の死後、アテナイとスパルタは和議を結ぶ(いわゆるニキアスの和約)。しかしその和議における履行事項は一向に遅れ、条約解釈などの高度な外交戦を行った後、アテナイアルゴスの同盟とスパルタ・コリントスの同盟がマンティネイアでぶつかり、スパルタ側が勝利を収めた(この時、名目上和約は破られていないことになってはいたが)。アテナイはその後島嶼への支配欲を公然と表した。そして、己が支配者であるがゆえにその地位を守るという強者側の論理を掲げ、アテナイに危害を加えたことのないメロス島を、成人男性を全て虐殺し、女子供は奴隷とすることで征服した。そしてかねてより進めていたシケリアの干渉を民主派アルキビアデスの指嗾により本格的に開始し、大遠征軍を二度にわたって送り込む。しかし、アテナイから遠く離れたこの地で遠征軍は総崩れし、これを機として戦局は一気にアテナイ不利となる。その後は、スパルタはアテナイの目と鼻の先で耕地破壊を繰り返す一方でアテナイへの離反を隷属国や同盟国に呼びかけ、さらにはペルシアの協力も得て一気にアテナイを壊滅させるべく事を進めた。そのペルシアを味方につけるべく、アテナイは輝かしい民主政を捨て去って貴族制へと走り去り「四百人評議会」を作るが、それもすぐに瓦解する……。これが、評者なりにまとめた大まかな展開である。こうしたペロポネソス戦争の歴史を、トゥキュディデスは21年目の途中まで書いた。

 

 著述の中には、かなり退屈で読み飛ばしたくなるところもある。ヘロドトスほどではないにせよ、脱線もそれなりにあったり、著述のつながりがわかりにくい箇所が散見される。しかし、それでも個々の描写には優れたところもあり、当時は珍しかった夜戦の緊張感や、シケリア大遠征終盤のアテナイの撤退戦(とその壊滅的な帰結)などは息をのむところである。アテナイを襲った疫病や、シケリアで捕らえられ採石場に押し込められた兵士たちの悲惨さの著述において、我々は今見ている現実や近過去に思いを馳せることもできるだろう。戦闘の著述はかなり戦術的な部分に多くを割いており、トゥキュディデスがアテナイの将軍であったことが活きているように思う。敵側の内情にも通じているのは、将軍としての指揮の失策を責められ追放されたことにも由来する(このことはアテナイ民主政のアカウンタビリティ要求の苛烈さを示している)。当時の医学などにも通暁しており、それが文体全体にも影響を与えている。

 

 白眉は、やはり「演説」であろう。第8巻を除き、ほぼ必ずといっていいほど一対の演説がそこかしこに鏤められている。もちろんほとんどはトゥキュディデスの「創作」なのだが、その人の置かれた立場や状況を加味して論理的に再構成したもので、恐らくそう話されたであろうものとして書きとどめられているとトゥキュディデスもことわっている。そして、我々は不朽の演説としてペリクレスの葬送演説の偉大さを感じ、ミュティレネ処罰を巡るクレオンとディオドトスの議論はまさに感情と理性の鋭い対立を見ることができるし、メロス島対話におけるアテナイの苛烈さには心胆寒からしめるものを感じる。こうした著述上の戦略は、プラトンが『ティマイオス』において述べた「エイコース・ロゴス」に近いものがあるかもしれないと評者としては思ったところである。

 

 総合的なところはこれぐらいにして、個人的にとても印象に残ったエピソードをひとつだけあげたい。アテナイで貴族制が勃興した時、当時アテナイの同盟であったサモスにいたアテナイ海軍はあくまで民主政を守り抜くべく、サモスの民主派をしっかり抱き込んで(当時アテナイで貴族制を敷こうとしていた人々が、サモスの民主派から有力者とそうでないものを分離させようと画策していた)、サモスの民主政を維持し、自分たちの民議会を作った。アテナイ側は貴族制にすれば、スパルタも和議に応じるだろうし、貴族制のポリスから同盟を取り付けられると考えた。ところがスパルタは和議に応じず、貴族制のポリスは今さらアテナイの支配に復帰する必要がないので、公然とスパルタ側についた。結局こうしたところから、アテナイの貴族制は短期間で崩壊したのだが、ペリクレスが歌い上げた民主政の素晴らしさがクレオンのような煽動政治家の台頭で麻痺し、アルキビアデスらの策動がアテナイの本分を忘れさせて国を滅亡に追いやった時、アテナイに最後の光輝を与えたのが、別の地で守られていた民主政というのはかなり皮肉ではあるが、「政体」というものについて改めて考えさせられる機会にもなった。最初に読んだのが大学1年生の時だが、すっかり忘れていたので初読したような気分になっている。次読み返すのがいつかは分からないが、その時は必ず来るだろうと確信している。それが古典だからだ。

 

 追伸:訳文はかなりこなれており、なおかつ訳注が行き届いていて、かつ面白い。