死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

大学4年間の人文スノッブ術を10分間でざっと学べる記事

 この記事は偉大なる先行研究である『読んでない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールに捧げる。

 

 よっすよっす、どうも。最近はようやく仕事に落ち着きが生まれ(とはいえちょこちょこ忙しいので帰りは大体23時以降なのだが午前様よりはマシだ)、ゲームをしたり本を読んだりと自分の趣味を回復しつつある。土曜の今日も休みで(日曜は仕事)、銭湯でひとっ風呂浴びた後本屋を巡っていた。

 

 本屋の棚でたまたま目に入ったのは「大学4年間の哲学が10時間でざっと学べる本」というの。このシリーズは経営学でも経済学でもマーケティングでもあるらしい。一応哲学科だった身としては「ふーん」という感じで、まともに受け取ってもいなかった。

 

 しかし、大学4年間の●●がざっと一冊の本で学べるのはありがたい。こういう趣旨で何かいいテーマはないだろうか……と思案していたら「大学4年間の人文学が10時間でざっと学べる本」というのを思いついた。いやいやそれはないなと思ったし、実は類書*1がある。

 

 じゃあ、人文学はダメでも人文学もどき、つまり人文スノッブ術は行けるんじゃないかという気がしてきた。一応家に帰ってから調べてみたが、まあ当然ない。Fallout4でも物資がない時は作るタイプなので、作ることにした。10時間もやってられるかと思ったので、たぶん10分ぐらいじゃないかと思います。

 

0、「人文スノッブ」について(ここは読み飛ばしても大丈夫)

 さて、くだらない前置きはこの辺にして、まずこの言葉について。「人文」と「スノッブ」というあまりいいイメージのない言葉がくっつくと字面だけでマジか……という気持ちになる。いわゆる哲学や歴史、文学などのテクストなど*2を対象にする学問を大雑把に「人文学*3」と呼ぶとして、この言葉に否定的なイメージを持つ人はそう多くはないと思う。いや、「エビデンス、ねーよそんなもん」とか言っちゃって方法論も雑なふわっとした柑橘系の学問もどきでしょ?と思う人もいるかもしれないが、そんな某吉田新聞論説委員と同レベルのクソ野郎は無視していく。

 

 ところが、「人文」というのはどこか否定的なニュアンスがないだろうか。試しに「人文 クソ」でツイッター検索するととわかってもらえると思う。しかし、多分「人文」という言葉で指し示されるのは、まぎれもない人文学を勉強している人たちのことだろう。人文系とか言われると、アキバ系とかそんな感じの言葉が否定的に語られていた2000年代前半(間違ってたらごめんなさい)の空気を感じなくもない*4これは理系との対比の際に顕著だ。要はデータに基づいた議論をするという理系と、ふわっとした主観で語り倒す文系。数学や物理学などを必要とする理系と、デカルトとかウィキペディアで見れば一発やんけ!という文系みたいな対比で、その文系と人文が重なっているような気がする。まあ、「人文」というとざっとこんなイメージがあるのではないかというこれまたエビデンスの欠けた人文空談であるが、とりあえず読むにあたってこういう認識を共有しといてください程度の文章です。

 

 「スノッブ」とは皆さんも一度は使いたい言葉ナンバー24ぐらいじゃないだろうか。会話の中で特段必要とも思えない文学だの歴史だのの逸話を織り交ぜてきたり、あの本読んだ?面白いよとか一生かかっても読めないような大著を挙げてきたりするような奴に対して「こいつ知識を鼻にかけやがって……ストリートだったらワンパンで……」という気持ちになったことがないだろうか。さしあたっては、自分の知らない知識やその場で必要とも思えない知識を開陳しまくる「過剰」について「スノッブ」だということにしておきたい*5

 

 長くなってしまった。僕の悪い癖……と杉下右京の似てもいない物真似をしつつ、この節の結論に入る。「人文スノッブ」とはつまり、人文系の学問知識を”過剰に”繰り出してくる野郎のことだ。それこそ中国雑技団ばりに知識をアクロバティックに繰り出してくる奴が世の中にはたまにいる。

 

 一例を紹介する。(なお、これは完全な創作である)

 

 人間「最近プラトンの勉強しています。『国家』とか……」

 スノッブ「ああ、『国家』ね。個人的には前期プラトンの方が面白いんだけど」

 人間「前期ですか?」

 スノッブ「うん、『第一アルキビアデス』とか『クラテュロス』とかね。まあ前者は偽作の可能性高いんだけどwどっちも『国家』の比にならないくらい難しいけどね。注釈は何使ってるの?」

 人間「注釈?」

 スノッブ「うん、日本語訳ってだけじゃないでしょ。アラン・ブルームの注解付き英訳とかは参考になるな。レオ・シュトラウスの『都市と人間』も副読本として読めるよね、納富先生のアレは読んだ?」

 人間「いや、岩波文庫で読んでます。ゼミで指定された奴なんで……」

 スノッブ「そっか。まあ『国家』よりは『法律』の方が好きだなあ」

 人間「はあ。ところで詩人追放論について1000字でレポート書けって言われたんですけど、何かいい文献ありますか?」

 スノッブ「アーあれね、そうか……。詩人追放論か、多分ネットで論文転がっているんじゃない?あれ自体は主題としては珍しくもなんともないからね(とかいいながらスマホをいじり)、ああやっぱりあるわ、うん、ハヴロックの『プラトン序説』、ああこれもあったな……」

 

 俺のつたない想像力でクソムカつく衒学を描き出そうとするとこうなる。この手の「スノッブ」をうまく描きだしているフィクション作品は何だろうか。バルザックの『幻滅』が思い浮かんだが、ちょっと違う気がする(あれはほとんど詐欺師に近い)。あるいは、ウディ・アレンの映画? どうでもいいが、ウディ・アレン好きな奴とかスノッブっぽい。『ミッドナイト・イン・パリ』を見る奴同士でセックスしたらさぞかしウェルメイドなクソガキが生まれるのでしょう。これは印象論なので本当に許してほしい。他に知っている人いたら教えてください。ぼくのかんがえたさいきょうのスノッブでもいいです、募集中です。

 

 ちなみにこのブログの書き手こそ人文スノッブでは???バルザックの幻滅のところあえて鉤括弧とかいらなくね???そもそもスノッブを描写してないならあえて紹介する必要なくね???と思ったそこのあなた、極めて優れた洞察眼を持っていますね。後に紹介する「人文スノッブ術」とか使わずに是非その輪廻眼で世の中を渡り歩いてほしい。

 

1、人文スノッブ術の基本方針

 というわけで、そんな人文スノッブになりきれる術を紹介していくぜ。何でお前が術を伝授できるんだ、免許皆伝なのかという疑問もあると思う。まあ、俺が文学部哲学科だったということで説明は十分ではないでしょうか。

 

 そもそもなりきる必要あんのかというのはあるだろう。全くその通りで、なりきる必要のない奴はならなくて全然いい。大学4年間好きなことをしたらいいだろう。金、暴力、セックス……ところで、人文スノッブというのは時と場所によっては尊敬を集める。たとえば読書サークル、文芸サークル、あるいは人文学ゼミなど。まあそれもそのはず、本なんか読まないという大学生が多いこのご時世、暗記してきたかのように適当な学術用語とか二次文献、ドイツ人やらフランス人の学者の名前を並べ立てるだけで「こいつ……メッチャ頭よさそう……」って思う。特に文学部1年生はこういうのに騙されやすい。当の人文スノッブにしたって、こういうちっぽけな承認を主食にして生きている。霞を食う仙人だって霞がなけりゃ死んでしまうし、自尊心を守ることは大事だ。

 

 人文スノッブの武器は「知識の広さ」だ。人文スノッブは専門らしい専門を持たない。だいたいの人間が面倒くさがり屋で、移り気だ。なので、文学にも哲学にも歴史学にも固有のディシプリンには定住せず、漫然とただおもしろいなーとか思いながら知識を収集し、開陳する。この広さにやられてしまう人は存外多い。自分が知らないことを2つ3つの分野にわたって繰り出してくる奴を「博識だなあ」と思うのは愚劣だが、人文スノッブはその愚劣さに寄生する余地がある(言い換えればスノッブとは常に自認ではなく評価の問題である)。

 

 人文スノッブの天敵は「マジモンの人文主義者」だ。これも世の中に一定数いる。こういう人に会うと、人文スノッブはいつもの威勢はどこへやら押し黙ってしまう。さっきのプラトンの例で行くと、いくら『国家』の二次文献を読んでいたところで、ギリシア語原文を読んで「ここのアオリストが」みたいなこと言う奴には敵わないだろう。人文学ジャンケンでは、一次文献の方が二次文献よりも偉いとされているからだ(一次文献より強いのは著者の霊言である)。

 

 しかしそれだけならば黙っていれば何とかなるだろう。この「黙る時」と「ひけらかす時」の見極めについては後述するが、人文スノッブにとって怖いのは誰かに「自分の知識は実は浅い」と思われることだ。なぜならば、かつてどっかの哲学史家が言っていたことだが、「なんでも語れる知性というのは愚劣」なのだ。ほぼ天文学的確率の例外を除き、ある知識体系の広がりと深さはトレードオフであることはみんな知っている。広いけど浅いとなれば、もうただの言論何でも屋である。みんなそれに気づくころには自分の専門をちゃんと持っていて、スノッブよりも詳しくなっていて、当のスノッブ本人だけが永遠に人文漫談をし続けることになるだろう。

 

 なので、前提として人文スノッブは「俺の知識はちゃんと深いんだ!」という虚偽と「俺は何でも知っているんだぞ!」という幅広さ(と浅さは同義語なのだが)を示し続ける必要がある。今回方法として提示するのはその「示し続ける」ために何をすればいいのか、である。なお、以下に示すのは完全に俺の経験と観察を偏見と独断で調理したジャイアンシチューみたいなのであるので、まあそこのところを理解しつつ使えそうだなと思ったところを実践してみていただきたい。人文スノッブを見破るのにも使える……んじゃないかな……。

 

2、人文スノッブ術十箇条

 とりあえず忙しい人のために簡単に箇条書きしておく。説明は後回し。

 

 その1、下準備はインターネットで、スノッブにも基礎知識がいる

 その2、基本的な話法は「ずらす」ことだ

 その3、ひけらかしの相手を見誤るな、タイミングを誤るな

 その4、知らないことはスマホの出番だ

 その5、もし読むなら二次文献を読め

 その6、語学は「たしなんだ」程度ぐらいにしておけ

 その7、「マジモンの人文主義者」を立てつつ自分もアピールしろ

 その8、社会科学・自然科学・サブカル・エンタメにも「さらっと」触れろ

 その9、転ばぬ先の「人文逸話」

 その10、「読んだふり」するなら大著にしろ

 

 その1。人文スノッブになるために2chのコピペにある「10代で読んでないと恥ずかしい必読書」とか「必読書150」を読むのはマジで無駄だし、仮にあれ全部読んでたらお前はもう立派な人文主義者なのでこんなブログは閉じて高みを目指してくれ。人文スノッブ術はコスパがよくないといけない。なので、まずはインターネットの海に飛び込もう。一番楽だと思うので。

 

 何も知らなければ「スノッブ」にすらなれない。プラトンの話に戻るが、初期・中期・後期のどの著作が分けられるか、イデア論やディアレクティケー、哲人王思想などは抑える必要がある。今挙げたような有名すぎる話はだいたいウィキペディアに載っている。人文系の学問はググれば一発やんけ!っていう批判は間違っているが、しかし基礎の知識はだいたいググれば一発である(もちろん厳密に正しい説明ではないことが多い、学問的には信用すべきではない)。

 

 とはいえ、実際にはこれ以上の知識がいる。プラトンスノッブ芸がしたいのであれば、最低限「何か」読んでおく必要がある。これにはいくつかサブテクニックがある。まず、プラトンを研究している人のツイッターなりブログなりをとにかく調べること。探せばいるので根気よく調べよう。とにかく、最新の研究動向や、従前の解釈に対する検討がなされていたりする。そういう人に感謝しつつ、その知識をまるまるいただくという手がある。すると、まるで最新の研究状況を知っているように仮装できる。また、今は論文などはインターネットに落ちていることが多い。論文を読まなくても、文献目録や註を見たり、前書きのまとめ部分なんかを読んで把握することもできる。

 

 また、英語が読めるのであれば(人文スノッブは往々にして外国語が苦手だが……)SEPを読むといいかもしれない。いや、これはコストかかりすぎだな。プラトンスノッブ芸……入門書1冊ぐらいなら読めるだろ……たとえばエルラー『プラトン』とか納富先生の岩波新書の奴とか(藤沢先生の奴は難しいと思う)。何も田中美知太郎の4巻本を読めと言っているわけではないので、これは頑張ろう。

 

 というように、スノッブとはいえ流石に最低限の知識を抑える必要がある。とはいえ、プラトン全集を読んだりする必要はない。ましてやプラトンの著作を一冊も読まなくてもいい。あらすじだけ知っておけば乗り切れるからだ。重要なのはプラトンではなく、プラトンについてスノッブ芸したければ二次文献が重要である。更にギリシア哲学全体にも目くばせすること。もっといえば、哲学全体もさらっと知っておくこと。そして、人文学全体の「マップ」ぐらいは持っておくこと。これで人文スノッブ君は「知識の広さ」を売りにできるというわけだ。とはいえ、意外にこれは骨が折れる。浅く広くとは言っても、人文学自体が広いからだ。

 

 はい、次はその2の「基本的技法は「ずらす」こと」。これが結構大事だと思う。またプラトンの例で申し訳ないが、今日日「哲人王は可能か?」みたいな問いを朝から晩まで議論してたらそいつらはアホだと思う。重要なのは、哲人王についてのスノッブ君の解釈ではなく、スノッブ君がどんな解釈を知っているかだ。

 

 なので、「哲人王についてどう思う?」と問われて「いや常識的に考えてキチガイでしょ」は間違い。「これはレオ・シュトラウスが言っているんだけど」と言うのが正解。この際、相手がシュトラウスを知っているかどうかは関係ない。とにかくそこはまくし立てろ。相手側も「君の解釈を聞いているんだけど」というよりは「シュトラウスという人の意見を踏まえて言っているのか……流石だ……」と思ってくれる(だろう)。とにかく君はどっかのネットで落ちているシュトラウスの見解をそのまま述べる。もしその後でマーク・リラの『シュラクサイの誘惑』を繰り出し、哲学者と政治の関係についてひとことでも言えればパーフェクトだ。スノッブ君は自分の見解をうまく避け、知識量だけをアピールしたのだから。ちなみに、これらの知識はだいたいネットで拾えます。マジで。

 

 ずらす技法は何もスノッブな会話だけでない。それは知識の領域でも発揮できる。たとえば、メジャーどころへの言及や礼賛はあえて避けるというものだ。とはいえ、これは微妙にセンスを要する高等技芸だということは注意しておく。たとえば、解釈学だったらガダマーやリクールではなく、あえてスタンリー・フィッシュの『このクラスにテクストはありますか?』を引き合いに出すとか。ほかにも、ラカンドゥルーズはディスってフーコーはリスペクト、みたいな姿勢とか、ウンベルト・エーコよりもデイヴィッド・ロッジだとか、アナール学派の中世研究だったらマルク・ブロックやジャック・ル・ゴフじゃなくてルロワ=ラデュリの『モンタイユー』を推す、『現代思想』よりも『ニュクス』読む、みんなが知らない名著(バリントン・ムーア・Jrの『独裁と民主政の社会的起源』とか)を薦めるとか……要はどれだけ「通」ぶれるかということである。居酒屋でそういう人いるでしょ。あの身振りはとても参考になる。

 

 その3「ひけらかしの相手を見誤るな、タイミングを誤るな」ですね。ちょっと先述したが、「マジモンの人文主義者」にスノッブ術は通用しない。プラトンでいえば、こちらがいくらヴラストスのエレンコス批判、オーウェンの第三人間論などで武装してひけらかしたとしても、向こうは原文を読んでいるし、原文を読める奴は大体最新の研究動向も知っているはずなので、もうそれ終わってるよ?みたいに鼻で笑われるだけだ。なので、プラトンの話を軽く振ってみて「ああ、OCTで読んでるけど」とか言われたらそれは危険信号ということです。

 

 逆に、何も知らないような奴に話しても意味がない。たとえばセックスのことしか考えていないアホとかに『饗宴』のアリストパネスの逸話とか話しても意味ないだろう(もちろんスノッブ君も概要しか知らないわけだが)。相手にしやすいのは、それなりに向学心があり、知識は早慶に受かるレベルの社会科知識ぐらいしかなく、伊坂幸太郎とかずっと読んでました……みたいな奴だ。こういう奴はとりあえず勉強でもしてみるかと読書サークルに入ってくる。使用テクストが『饗宴』、そこでそんな彼にいきなり「饗宴はね~~~」とか言い出してはいけない。「うわなんだこいつ、近寄らんとこ」と思われるのがオチである。じっくりと彼の興味が引き出されるのを待つべきだ。興味が引き出された後、獲物を待ち構えていた蜘蛛のように一気に人文スノッブ巣に捕らえてしまうのがいい。タイミングとはそういうことである。とはいえ、これはスノッブ君当人の話術にもよるので、どうとでもなることは付記しておく。

 

 その4「知らないことはスマホの出番だ」である。まあ、そりゃ知らんことだってある。そういう時はスマホで調べればいい。調べて、さも知っていたかのように言ってしまおう(もしくは「あー、思い出せないな、調べればわかるかも……」と元々知っていたけど記憶が……というテクニックも使えるがこれはやりすぎにご用心)。まあ、本当にインターネットというのは便利で、適当に調べてしまえば実は意外に見当がつくことが多い(おかげで何も考えないで済むのだ)。今のご時世、会話しながらスマホする奴なんていくらでもいる、なのでラインでも送るフリでもできる。相手に画面さえ見られなければ勝ちだ。もし仮に日本語で調べても微妙なら、英語で調べるといいかも。

 

 とはいえ、本当に調べても分からない事例がままある。その場合の緊急回避テクニックを一応番外編として。「思い出せない」「その部分は読み飛ばしたかな」は使用回数に注意だ。やりすぎると白痴か知ったか扱いされる。正直に「知らない」と言うのもまた度量の大きさを示す点では有効だろう(とはいえこれはスノッブ術の敗北である)。また、あえて適当にその事項が書いてあるだろうと推測される二次文献の名前をあげておくのが無難か。これは俺の経験だが、仮に誰かに二次文献を教えたとして、そいつが読む確率はほぼゼロに等しい。気づかれる可能性が少ないハッタリだ。しかしその場を切り抜けるだけなので、後で訂正するとかがあってもいいかもしれない。

 

 その5「もし読むなら二次文献を読め」。これはその1と若干被るが、もしスノッブ君がまあプラトンでも読むかとなった時、間違っても岩波の『プラトン全集』を頭から読んではいけない(『エウテュプロン』を面白いと思えたら、スノッブ卒業も近い)。むしろ全集の最終巻?(確かそうだったはずだが)に書いてある参考文献リストが役に立つ。スノッブ君はギリシア語ができない(という設定だ)。そんな彼がプラトンについて知悉していることをアピールするためには、研究を知るのが一番だ。というのも、研究さえ知っていれば中身さえ知らなくてもその「解釈」を提示できる。一次文献を読んでも頭が悪ければできの悪い「要約」が関の山だが、二次文献にアクセスしていればその先の「解釈」をひけらかすことができる。 相手に先んじる努力としては一番コスパがいいだろう。なので、定期的に研究状況の知識はアップデートする必要があるだろう。そのやり方は個々人に任せる。

 

 その6「語学は「たしなんだ」程度ぐらいにしておけ」。人文学の基礎訓練として語学は欠かせない。よく言われるのが、哲学やるんだったら英独仏希羅はできてなきゃお話になりませんという奴(出所は木田元じゃなかったかと思う。まあ彼の時代はそうだったんだろう)。しかし、語学は短期的にはコスパが悪い(長期的にはお得だが)。大学4年間スノッブで暮らすレベルではコスパは悪い方に傾くだろう。なので、適当にやったことにしておくのが一番いい。もちろん流石に格変化とか基本的なことが分からなかったらおしまい畑なので、普通の大学に入ったらやる第二外国語の単位を落とさない程度の勉強は必要だろう。なので、英語と二外を軸にしつつ、「まあ一応ギリシア語もラテン語もちょっとやった」と言うといい。この「ちょっと」というのは、まあ文献は読めなくはないけど、基本的にはあんまり読む気しないなあ程度のもんで、「原文に触れてますよ」アピールはできるが、「じゃあ一緒にクセノポンとか読まない?」とか言われたら丁重に断れるぐらいを想定している。また、「原文と日本語は見比べてるよ」みたいなアピールをするにはネットで十分だ。大体論文が転がっているので。

 

 その7「「マジモンの人文主義者」を立てつつ自分もアピールしろ」。実は天敵である「マジモンの人文主義者」を何とかやり過ごすうまい方法がないわけではない。つまり、褒め殺しである。「エーッ、プラトンを原文で読んでいるのかい!?いやはやすごいなあ、僕なんか英語版ぐらいしか読めないよ……」と言うと、まず「マジモンの人文主義者」からすると「オッこいつよさがわかる感じか?」となる(「マジモンの人文主義者」にだって承認欲求があるはずだ)。また、他の連中からすると「よくわかんないけどあの2人は何かを分かっているらしい」という権威を身につけられるのだ。ここでは英語版なんか読んでいないのに、あえて踏み込むのがミソだ。虎の威を借りる狐、ということになる。

 

 その8「社会科学・自然科学・サブカル・エンタメにも「さらっと」触れろ」は、既に述べた通り、人文スノッブの武器は「知識の広さ」である。ただの学問大好きオタクというイメージを脱臼させるべく、他のことにもちょこっと触れてみよう。たとえば「計量分析とかもちょっと興味があるんだ。ほら、フランコモレッティが『遠読』で使ってるし……」とか言ってみるとか。これはキラーコンテンツだが、人文学やってるのに数学できる奴ってのはすごいと思う。え、お前数学出来ないから私文ちゃうんかったか?みたいな。ただ、何も知らなければ「知ったか」なので本当に基本の基本は抑える必要があるだろう(そうでないと信頼が持てない)。

 

 また、学問とは別口で、たとえばライトノベルとかエンタメ小説をよく読むというのはどうだろう。普段は日本文学大好きで、愛読書は小西甚一の『日本文藝史』全5巻+別巻の『日本文学原論』みたいな奴が、『生徒会の一存』みたいなクソラノベを読んでいたら?あるいは、実はクリス・ライアンとかマーク・グリーニーとかのハヤカワ文庫でよく出ている特殊作戦ものが好きだったら?これはギャップ萌えを狙っていく感じだ。そういうのもいけるんだ、という幅広さは武器だ。

 

 これも番外的に。映画鑑賞や美術鑑賞などの審美的かつ感性の趣味は持っておくべきかもしれない。いつかこのブログでも触れたが、人文というのはやたら感性的なものが大好きだからだ。勉学もできて趣味も上品なarbiter elegantiarumとなれば、そこらのサブカルクソ女をひっかけることができそうなもんだが……いや俺はよく知りませんが……。

 

 その9「転ばぬ先の「人文逸話」」について。プラトンだと、たとえばホワイトヘッドが「西洋哲学史っちゅーのはよお、プラトンの注釈でしかないねん」みたいなことを言っているというのはよく知られている。こういう逸話はたくさん持っておくといい。というのも、これはその2のずらす技術と関係するのだが、本筋と離れた「逸話」を持っておくととりあえず場のつなぎにはなる。あるいは、そういう「逸話」を召喚することで知識を穏当にひけらかすことにもつながる。これはこの前俺がやったことなのだが、あるツイッターのフォロワーが中学の頃犬を蹴った話をしていて、それに「マルブランシュかな?」とエアリプした。知っての通り、マルブランシュは犬を「何も感じねえから」とか言って蹴飛ばしたという逸話が伝えられている。まあ、こんな感じだ。人文の議論がいろいろに及んだ際にあいまいに切り抜けるには、思いがけない逸話がスケープゴートになったりする。話を「逸らす」こと、逸話こそスノッブの本領だ。

 

 いよいよ最後になった。その10は「読んだふり」するなら大著にしろ。もうここまで読んだならこの人文スノッブ術の卑劣さの要諦はだいたいおわかりだろう。つまり、どうせ誰も読んでいないからである。これはピエール・バイヤールが『読んでいない本について堂々と語る方法』で言っていることだが、彼の専門のプルーストで、『失われた時を求めて』をちゃんと通読しているなという奴は文学研究者の中にはほとんどいないということである。人はハリー・ポッターは読んでもプルーストは難しいということである。基準があるわけではないが、学術書なら400ページ以上、小説なら800ページ以上、みたいな感じがする。

 

 おまけに、俺の独断と偏見でお送りする「まあ多くの人間が読んだことないだろう人文大著ベスト3」。カッシーラー『認識問題』、クルティウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』、ウェッジウッド『ドイツ三十年戦争史』である。

 

3、最後に

 

 ここまで読んでくれた人はよくわかっただろう。こんなことする暇があったらちゃんと勉強した方がいいんじゃないですかということです。そうですね……。

 

 ひけらかされた方はたまったもんじゃないが、スノッブスノッブで文化的意義があると思う。虚栄心そのものは否定されるべきではないだろう。だが、虚栄心のみでやるといつかダメになってしまう。なので、その「虚栄心」がほんものになることを祈って、あるいはあえて偽物であることを開き直れる心の強さがあることを願って、擱筆とします。

  

 最後にネタバラシだが、この記事そのものが「人文スノッブ術」の産物です。載っている話は全部ネットで調べたものなので学問的正確性は疑わしい。

*1:安酸敏眞の『人文学概論』(知泉書館、2018に増補改訂版)。ざっと学べるシリーズの類書というのはメチャクチャ失礼で、コンパクトながら大事なことを抑えていてかつ滋味の深い記述が散見される。19世紀ドイツ歴史主義や解釈学の探究という「人文学=テクストの学問」の王道をやってきた著者だからこそ書ける一冊である。

*2:どんな学問が人文学にカテゴライズされるかという議論は本当に七面倒なので「など」で補わせていただく。むろんこれは表象文化論文化人類学のこととか忘れてませんよというエクスキューズでしかない。

*3:個人的に「人文科学」という言葉は好きではない。精神科学ならまだしも

*4:人文系学問の予算縮小、とかいうが、人文系って書かれてる段階で何かムッとなってしまうのは俺だけだろうか。

*5:個人的には「スノッブ」と「知ったかぶり」は違うような気がするのだろうが、どうだろうか。「知ったかぶり」は単純に「嘘つき」に近い。ただ、そうすると「スノッブ」と「知識人」の境界線が難しい。どっちも知識を持っているからだ。いや実は大して変わらんのじゃないかと昔から思って……