死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20230108(とちょびっと正月振り返り)

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

 年末年始はずっと酒を飲んでいました。家もほとんど出なかったですね。初詣何それ美味しいの?みたいな感じでした。そのせいでか、何か自分からみておへその右上の部分を押すと痛いんですよね。この症状が該当するのは胆石?とからしいんですけど、もう流石に痛風やらヘルニアやらいろいろ抱えているのにこれ以上病気は辛いってと思い何もせずに一週間が立ちました。

 サブスク休眠狂人として、U-NEXTに入ったので、水曜日のダウンタウンを2年分を一気見するなどしてとにかく時間を無駄に使った記憶だけがありますね。でも名探偵津田とかメッチャ面白いなと思ったし、落とし穴に落ちて脱出を試みるパンサー尾形とか1000万円を囲碁将棋根立に受け取り拒否されるパンサー尾形とか涙なしに見られない回もありますよね(ただそれとともに際立つ制作陣のとことん木で鼻を括ったような姿勢はヤバいんんだよな……)。ホントはせっかくHBOの影響圏に入ったのだからゲーム・オブ・スローンズ見るはずだったんですけどどうしてこうなった。

 あと、Youtubeでずーっとお笑い関連のチャンネルを見ていた気がする。鬼越トマホークとゆにばーす川瀬名人の絡みで死ぬほど面白かったのとか、裏さらばとか、ママタルトとか……。鬼越トマホークが街録Chのパクリみたいなことをずっとやっているのですが普通に面白いんですよね。ランジャタイ伊藤とかぱーてぃーちゃんのすがちゃん最高No.1の奴とか聞くとやっぱ芸人になる奴はどっか「マジ」なんだなという感じがしてとても興味深かったです。

 こんな感じで過ごしていたので、ほぼ何もしていないに等しいです。休みもそろそろひと段落なので、またブログを書き始めて生活を賦活しようかなと思った次第です。

 ところで、俺が安楽人になっているところに、正月から凄かったですね。能登半島地震は大変だと思ったので、ドラえもん募金をいたしました。大谷や粗品みたいな高額寄付はもちろんできませんが、こういう時ぐらいはと思いますね。飛行機は吹っ飛ぶわ、イランで革命以来最大の自爆テロが起きるわ、無理心中やら無差別殺傷が怒るわ、年初から世界が落ちに落ちまくった感じがしてビックリですわね。不謹慎ながら自民党救われたやんと思っていたら、池田とかいうバカが小渕しぐさ=証拠破壊したせいで日曜日に特捜部にパクられたのできっと再燃すると思います。本当にバカですね。

 最後に。積んでたゲームのホグワーツ・レガシーをやり直しています。最初のストーリーもほぼ忘れていたので事実上1回目のプレイなのですが、やっぱ腰を据えてゲームやると面白いなと思いますね。MODブチ込んで敵にアバダケダブラ撃たせるようにしたら適度に緊張感が出てきたのでよかったです(普通にプロテゴによる防御不可で一撃死なので「ざけんな!!!!」とコントローラー投げてしまった)。 

 

【労働】

 特になし。

 

【ニュース】

 お正月はあんまニュースは見ていないし、震災のニュースばっかりシェアすると気が滅入るので、面白かったものをひとつだけ。


 

digital.asahi.com

 

 昔はあったんですね。こういう勤労青年なりの教養獲得というのが。合間合間にあるブルーカラー労働者の辛さみたいなのと、百科事典が併走している感じが佳きでしたね。百科事典ほしいと思うのですが、家に置き場所がねえンだわ。

 

【読書】

 ちょこちょこ読み進めていたシュトラウスホッブズ政治学』を読み終えました。また難しい本から今年をはじめてしまったンゴねえ。

 

 それでいうと、実はこの本自体は1月5日に読み終えたのですが、記録が面倒くさくて2日ぐらい放置してたんですよね。そして今日改めて読み直しながらまとめ直したのですが苦行オブ苦行だったので、今度からやり方を全面的に改めます。というかちょっと行き詰まっています。

 本のあちこちからの引用か、不出来な要約どっちが有益なのかというと、多分前者な気がするのですが、他方切り貼りだけでは何を言っているのか後々分からないので結局プラスアルファの後者(これは多少適当でもいい)もいるんですよね。ただ、後者を作るにしても、その本に対して7~8割の理解を得た上で作成することが求められるので、今回のシュトラウスの本なんかはかなり難しいです。引用するだけなら本を見て書き写すだけなので楽かなと思うのですが、あれもこれもと引用しているとこれもまた時間がかかるんですよね。そして俺はタイパ至上主義者なので時間を食う仕事が嫌いなんだ。

 いろいろと考えると、どうでもいい引用を重ねるぐらいならば要約をしっかり作った上で、あとは適当に本を手元に残しておけばいいのかなと思いつつあります。以前このブログで書いた感想みたいなものだとあんまり想起の役に立たないので、もう少しレベルを上げないといけないので結構辛いのですが。

 手元に残して見返せればええやん思考だと、たとえば図書館で借りて読む本だとそれは厳しい。線も引けなければ読み直すためにまた借りる必要がある。買ってもいいのだが、マジで本が溜まりすぎて実家での火種となりつつあるので(という話を数年ぐらいしていますが)、最近はできるだけ本当に高い本だけ買うようにして冊数を意図的に抑えている(例えば年末に出版された『聖母の晩年』など)。そろそろ100冊単位で処分しないと厳しいかなと思う。

 究極的にはそもそも覚えることが困難なので諦めるという選択肢もあるにはありますね。多分だが、テーマ的にも読書的にも散漫すぎて、なかなか知識として定着しないのではないかと思われます。体系立てて読書するのが一番いいっぽい。今年はこれを学ぶ、来年はあれを学ぶ、みたいな……。それが分かっていながらも、そういう読書はあんまりしたくないんですよね。何故なら別にどの分野にもそれなりに薄く関心があり、これと一生添い遂げるんやみたいなものは何もないので。昔は哲学や政治思想、歴史についてそれぞれ究極の問いみたいなのを考えていたのだが、俺はそれを問い続けるにはあまりにも知的に脆弱過ぎた。端的にいって知的な忍耐力と好奇心が欠乏している。こうして問いを失った人間がただの文字通りの意味でのページターナーと化すのである。

 そもそも別に何か覚えておく必要があるか?という方向で考えると、これが何にもないのだ。結局のところ、たまたま俺にとっての暇つぶしや現実逃避に適しているのが読書というだけなので、ここまでして苦労する必要があるんだろうか、という気はしないでもない。それに悲しいかな、別に本を読めなくても困るということはあんまりないような気がする。寝る時間が増えるか、Youtubeで別の動画をたくさん見るか、サブスクで映画でも見るか、残念ながらまだまだ俺の人生には読書以外に時間を投下できる何事かが山ほどある。多分Youtubeで一生使うことだって不可能ではないだろう。

 ただ、読んだ本を片っ端から忘れていくだけの人生というのも虚しいなというのと、ブログを続けるという観点から記録している節はあるっちゃある。今のところ後者の策は覿面なのだが、「あーめんどくせー!!!」となったらおしまいですね……。10年後このブログを見返しているかというと怪しい気がする(何故なら2017年頃の記事なんかほとんど読んでないので。)。

 どういうやり方がいいのか分からないのですが、まあしばらくは試行錯誤フェーズかなと思っています。もしかしたらふとした時に辞めているかもしれない。

 

 というわけで、以下は面白いなと思った部分の抜き書きやら簡単なまとめやらの混在です。ちょっと面倒過ぎて草稿段階ということで放棄しました。完全に文と文が羽田よろしく事故っており、文章というより残骸みたいになってしまいましたが、備忘目的で残しておきます。永遠に普請中だったのに崩壊が兆している中世ジャップランドにはお似合いの文章ですね。

 

 ホッブズ研究の「古典」としての地位を獲得している本書ではあるが、すでに乗り越えられている点が多いにしろ(特に宗教論など)、シュトラウスがいかにホッブズ研究を通じて「近代」批判の視座を獲得しえたのか、という点が垣間見えて興味深い。その意味ではシュトラウス研究にあっては依然として『自然権と歴史』同様に参照されるべき書物という気がする。ホッブズ研究としても、ホッブズ人文主義的関心と自然科学に倣ったモデル化の発想とどう折り合いをつけていくのか、という観点から書かれたはじめの一冊であり、改めて読み直してみると深い洞察に驚かされる。

 アリストテレス主義を修正する方向の初期の人文主義的研究(『弁論術』等の抜粋から、トゥキュディデス『歴史』の序論付き翻訳まで)から、ホッブズがその政治学の根底に置く「信念」を獲得したとシュトラウスはみる。人間は「虚栄心」と「暴力による死の恐怖」という2つの情念の抜き差しならぬ対立関係の中でしか活動できず、リヴァイアサンもその所産であるという。こうした観点は、古典的な自然法(ある徳が外的に設定されていて、それを目指すという道筋)とは決定的に対立し、近代的な自然法(ある人間の要求から最小限の自然的権利が構成されるという道筋)を打ち立てるに至った。リヴァイアサンで採用した自然科学に倣った著述において、シュトラウスは倫理的=実践的なアリストテレスではなく規範的なプラトンに接近したのだという指摘をしつつ、その人文主義期と自然科学期の断絶を架橋しようと試みている。こうした方法において、ホッブズは伝統的政治学と決別し、夥しい矛盾にもかかわらず「新しい政治学」を描き得たのだとシュトラウスは結論する。

 

Ⅰ 序論

 ホッブズ政治学における、自然科学的方法を由来としない「信念」を明らかにする。

 

  「したがって、ホッブズの意義が最終的に、しかるべき形で承認されかつ理解されるために必要な条件は、一方におけるホッブズ政治論の「素材」、すなわちホッブズにとって基準となる信念と、他方における古代的であるとともに聖書ーキリスト教的でもある信念との間における根本的な差異、つまり近代自然科学の基礎づけに依存しない、少なくともその意味では「前科学的な」この根本的差異が、明確に概念化されることである。ホッブズにとって基準となる信念は、近代に特有なものであるーーいやむしろわれわれとしてはこういいたい。その信念こそが近代的意識の最下、最深の層にほかならない、と。この信念は、ホッブズ政治学のなかにその最も率直な表現を見出した。しかし、この信念が存在してからというもの、それは概してホッブズ以後よりもホッブズ以前には、古代的およびキリスト教的伝統によってーーホッブズ以後には、なかんずく、ホッブズ自身が道を切り開いた機械論的心理学によって、そして最後には、社会学によって、隠蔽されてきたのであった。だがホッブズは、古代に起源をもつ伝統が同様しだし、かつ近代的自然科学の伝統がいまだ形成され固定化されていなかった、そういう実り豊かな束の間の時期に哲学的思索を行った。この束の間の時期にかれは、そしてかれだけが、人間の正しい生活とは何か、人間の共同生活の正しい秩序とは何か、という基本的な問いを提起したのであった。この束の間の時期は、それ以降の全時代にとって決定的に重要なものとなった。まさしくこの時期に、政治学のより新しい展開を全面的に支える土台となる基盤が据えられたのであり、そして近代的思惟は、この基盤からみてはじめて根源的に理解されうるのである。のちになると、この基盤は二度と当時のように目にみえるものとはならなかった。ホッブズがあの束の間の時期に獲得した着想に従って構築を開始した建築物おは、それが存続しその堅牢さが信じられていた間は、それを支える基盤への洞察を不可能にしたのである。」(pp8-9)

 

Ⅱ 道徳的基礎

 ホッブズにおいて、あくまで自然科学と政治学は二つの学問として区別されていた。このため、自然科学とは異なり、政治学は自己認識や自己吟味によって確証され深められた認識をもとにしている。

 ホッブズは、動物と異なる人間の欲望の在り方として、虚栄心を有するが故の動物と異なり対象の有限性に縛られない無際限な欲望を抱くことができると考える。他方で、こうした欲望のそもそもの前提となる生存のために、人間は「死の恐怖」を覚える。暴力による「死の恐怖」の可能性はまさにそれがゆえに人間を虚栄心に満ちた偽りの世界から引き剥がし、現実を認識させるという連関を有する。この二つの感情こそ、ホッブズ政治学における基礎的な前提である。シュトラウス本人のまとめを借りると、「ホッブズ政治論の根底に横たわっているのは、一方における道徳と無関係な動物的欲望(ないしは道徳と無関係な人間的力の追求)と、他方における道徳と無関係な自己保存への努力との自然主義的な対立ではなく、原則的に不正な虚栄心と原則的に正しい暴力による死への恐怖との、道徳的な人間中心の対立なのである。」(p34)

 引用しておきたいのは次のとおり。

 「したがって、ホッブズ政治論の出発点となる対立は、一方における自然的欲望の根源としての虚栄心と、他方における、人間に道理を弁えさせる情動としての暴力による死への恐怖との対立である。より正確にはこういわレなければならない。すなわち、ホッブズは人間の自然的欲望を虚栄心に還元するがゆえに、それゆえかれは、苦痛に満ちた死一般への恐怖ではなく、いわんや自己保存の追求などではまったくなく、ただただ暴力による死への恐怖だけを道徳の原理として承認することができるのである、と。」(p23)

 「こうして、ホッブズが自らの政治論の根底に据える二つの「人間的理性の要請」の間には、きわめて密接な関連が存在している。放任された虚栄心は、必然的に生死を賭する銭湯へと導く。また「各人は、かれが自分についてするのと同じ程度に、かれの仲間がかれを評価してくれることを求める」から、各人の虚栄心は必然的に「万人対万人の戦い」へと導くのである。そして、人間は自然によりまず自らの想像の世界のなかで生き、ついで他人の思い込みのなかで生きるのだから、他人との闘争において思いがけず現実世界を感知するという、そうした仕方によってしか、かれは現実世界をもともと経験することができない。すなわちかれは、第一かつ最大かつ最高の悪、人間生活の唯一かつ絶対的な基準、現実世界のあらゆる認識の端緒たる死を、もともと暴力による死としてのみ認識するのである。」(p28)

 「スピノザの政治論に対するホッブズ政治論の本質的利点は、スピノザがあらゆる存在者の自然的権利から出発し、まさしくそれゆえに権利という特殊人間的な問題を扱いそこねているのに対し、ホッブズ自然権というとき主として人間の権利のことだと理解している、という点に基づいている。ホッブズ政治論は現実に、その主唱者が要請しているように、各人の自己認識と自己吟味によって確証され深化される人間理解に基づいているのであって、何らか普遍的な自然科学的ないしは形而上学的な理論といったものに基づいているのではない。そして、それが人間的な生の経験に基づいているがゆ絵に、自然科学に由来する激しい誘惑にもかかわらず、それは道徳的な差異の捨象という危険にはまったく陥らないのである。ホッブズの政治論は、それが自然科学から導出されるのではなく、人間的な生の始原的経験に基づくという、そのゆえに、一つの道徳的基本原理を有しているのである」(pp35-6)

 

アリストテレス主義

 ホッブズにおけるアリストテレスとは、スコラ学的なアリストテレスではなく、「理論の優位から実践の優位」(p44)としての道徳論や政治論の重視を意味する。こうした中でシュトラウスは弁論術抜粋(ただし訳者解説にあるとおりホッブズが簡単な方の抜粋と位置づけている文書については別人の作成)における様々な情念の定義と、ホッブズの政治著作におけるそれを対照し、ホッブズの定義づけが前者に負うことを指摘する。

 「要するに、われわれにとっては、ホッブズは以前は詩人や歴史家たちだけに関心をいだいていたが、その後、体系的な哲学的思索への展開ののち突然に、あたかも以前にユークリッドの原理を発見したのと同じように、この場合には『弁論術』をも独力で発見したのだと思い込むよりも、ホッブズの成熟期について証明される『弁論術』の評価と利用は、かれの青年期のアリストテレス主義の最後の残滓であると推定する方が、より適切であると思われる。」(p63)

 

Ⅳ 貴族の徳

 ホッブズにおいては「貴族の徳」を初期においては重視していた。この点では、カスティリオーネ人文主義における貴族徳の重視という線、とりわけ「大度(気前のよさ)」の重視において共通している部分もある。ただし、それはカスティリオーネが論じたものとは微妙に異なる点にも留意する必要がある。後にホッブズの政治哲学においては、貴族的な徳の重視は捨てられ、前述した通りに死の恐怖と虚栄心の対立軸がその情念論的基礎として据えられる。

 「ホッブズは、徳の本質が身分の違いによって影響を受けることはないとしながらも、同時に、その同じ徳も身分が違えば違った名前をもち、違った形で現れることを認めている」(p65)

 (ルネサンスにおける「大度」の重視の説明として)「『ニコマコス倫理学』においては、大度と正義との間に、不安定ながらも一つの均衡関係が維持されているわけだが、もしもこのバランスが崩れて、正義に対する大度の比重がますます増大してくるならば、それは、法と義務が道徳的原理としての意義を失い、それに代わって、卓越した個人の優越性の意識(得意)と自らの優越性が他人によって承認されることへの(すなわち「名誉」への)関心こそが道徳的原理として考えられる」(p73)

 

Ⅴ 国家と宗教

 「これまで述べてきたことから、ホッブズのもともとの政治的見解はつぎのように要約できよう。すなわち、世襲的絶対君主政こそが最善の国家形態である。君主政の事実上および権利上の期限は、父権である。父親たちは、自然によってかれらに与えられるべき、その家族に対する絶対的権力を、自然的に君主およびその後継者に委譲した。こうして正当性を獲得した君主政は、あらゆる簒奪権力から原則的に区別される。君主は、自然の普遍的秩序の中に、つまり全存在者の第一原因たる神の知性のなかに根拠をもつ自然法によって、もっぱらかつ主としてその臣民の身体的安寧に配慮すべき義務を負うだけではなく、なかんずく臣民の道徳的安寧にも配慮すべき義務を負う。分別は君主に対して、貴族政的および民主政的議会を身のまわりに置いて、君主政の利点を貴族政および民主政の利点と結びつけるよう忠告する。もしも何らかの理由から、ある国家体制のなかで世襲的絶対君主政を取ることが不可能であるときは、少なくとも事実上は君主による国家指揮が不可欠である。民主政的傾向は、この君主政的根本信念とは原則的に両立しえない対立関係にある。」(p94)

 

Ⅵ 歴史

 ホッブズにおける歴史への関心は、哲学者たちが「戒律」として設けてきた規範的言説の実効化、すなわち「応用」可能性のために向けられていた。この点は、古典を愛好したボダン等とも相通ずるところではあるが、ホッブズはあくまで戒律の実際化という関心から出発しているため、その歴史的研究以上に実際化を成し遂げうるという自身の政治学を打ち立てるのである。

 「ホッブズ自身、トゥキュディデスの翻訳への序論において、哲学と並行して歴史を研究する必要性を根拠づけて示したが、その際に用いたのと同じ論証によって、かれはのちに自らの政治学の必要性を根拠づけている。すなわち、政治学が必要であるのは、「大多数の人びと」が現に戒律に従っていないからである、と。そして、服従道徳に換えて分別の道徳を置くという、かつて歴史への方向転換を同期づけたのと同じ前提gあ、またホッブズ政治論の基礎にもなっている。それゆえ、ホッブズの政治ろんと伝統的政治論との差異は、ホッブズ先行者たちの見解およびホッブズ自身のもともとの見解によれば、歴史と(伝統的)哲学との間に存在するとみなされた差異と一致することになる。つまり、アリストテレスの道徳論は徳の実現について何も教えてくれないというベーコンの批判は、ホッブズアリストテレス批判にとっても不可欠の構成要素となっているのである。」(pp124−5)

 

Ⅶ 新しい道徳

 「ホッブズが自然状態の恐怖を「評価する」唯一の理由は、このような恐怖の意識の上にのみ真に持続的な社会は依拠しうるからである。もはやこのような恐怖を経験し得ないブルジョワ的存在は、それを想い起こすかぎりにおいて永続するのである。この洞察によってホッブズは、かれの敵対者の中でも、かれのブルジョワ的価値観を原理的には共有するけれども、かれの自然状態の解釈を拒絶した人他人とは、異なっているのである。」(p152)