死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240322(0319−21はメンタル不調のためなし)

【雑感】

 メンタルがね、ダメになったので、お休みをとっておりました。悲しいことです。20日と21日はひたすらYoutubeを見ておりましたのよ。

 それでも今日は頑張って仕事に行ってまいりました。普通に気持ち悪くなったのですが何とか定時まで耐えきったね。

 

【労働】

 虚無すぎる。何もかも終わりにならないかしらん。

 

【ニュース】

 今日は他人のブログをひとつ紹介します。が、リンクフリーなのかがよく分からないので、言及だけします。文化人類学者の磯野真穂氏のブログの「在野研究者として生きるということ――お金についての真面目な話」という記事です。

 内容としてはざっくり言ってしまうと、磯野氏の自身の経験から、人文系の研究というのはメチャクチャ安く買いたたかれている現状にあり、そういったものを安請け合いしていくと後に待っているのは破滅という悲しい話だった。その上で、非常勤講師を依頼する常勤の研究者や出版社等業界の人間たちというのは、人にものを頼む時はもうちょっと考えたらどうかねという問題提起がなされていた。主張としては納得できるが、あずまんがXで「そもそも人文系の知識は金にならねえから」という身もふたもないことを言っていて、それにも納得してしまった。結局のところ、この人文系の知識を金にしていくための活動が大事、というのは動かしがたいように思う。個人的には、俺ぐらいのレベルの「人文学下手の横好き」がたくさん増えたらいいと思う。実際、インターネットには普通に読書家がたくさんいるし、アマチュアながらそれなりの知見を有している人たちもそれなりにいるが、インターネットを世界のミニチュアと考える奴は救いがたいアホなので、どうにかして人文系の裾野をもっともっと広げなければいけないのだろう。そうしたツールとしての新書はまだまだ希望があるように思うのだが、恐らく今後「ゆっくり解説」に全部奪われるような気がします。

 また、別の論点になってしまうが、教授や准教授は安パイかもしれないが、編集者は果たしてどうだろうかという気持ちにもなった。多分非常勤講師の年収200万とかそういうレベルほどでないにしても、人文系の編集者だって大卒の平均に達するような年収を得ている人はあんまりいない気がする。例えば、マイナビ2025でみすず書房が新卒採用をやっている。それを見ると、新卒の基本給は20万(にちょっとした諸手当)。みすずは年収推移のモデルも公表しており、子どもがいる40歳ぐらいの編集者でも600万円に達するかどうかというところである。都内で600万程度の年収であれば、パートナーも結構頑張らないと、みすずに受かるようなレベルの子を育てられるかかなり疑問だ。そして悲しいかな、恐らくみすずは人文系では「上の中」ぐらいなのである(同系統の会社でいえば、中公・筑摩・岩波がもう少し上という気がする。)。これよりもっと年収の少ない会社はたくさんあるだろう。もちろん、正社員として一応社保完備だとは思うので、その点では非常勤講師なんかより幾分かマシとは言えるが、自分ところの社員への給料さえ覚束ないところが原稿料をどれだけ出せるかという話ですよね……。

 俺も人を助けられるほどの給料はもらっていないのだが、それでも人文系学問にずっとお世話になっているマンとしては、何とか微力ながらできることがないだろうかとは思っている。柄にもないことだが、久しぶりに何かしてあげたいという気持ちになった。多分メンタルが弱っているからかもしれない。

 

【読書】

 トマス・アクィナス稲垣良典・山本芳久編訳)『精選 神学大全 2 〔法論〕』(岩波文庫、2024)を読了しました。

 中世哲学下手の横好きっ子だった昔はこういうのを読んで面白いなって思えたかもしれないが、今読んでみると普通に苦痛の方が勝ちましたね。とはいえ、部分部分では面白い箇所もそれなりにあったし、あと多分俺の中での中世哲学ゲージが全然貯まりきっていない時に読んだせいか大事なことを読み落としている気がすごいします。とはいえ、いわゆるスコラの存在論や論理学ではないので、すいすいと読み進められたと思う。前巻の徳論は意味不明すぎて「クソが!」と言って読了後文庫を壁に向かってぶん投げましたが。何で習慣は大事やねで済む話をあんなにクソ難しくできるのか理解できなかったわ。

 本巻で、人間の善なる行為の「外的諸根源principia exteriora」である神が、いかようにして人間を善へと向かわしめるのか、というと、「われわれを法でもって教導し、恩寵でもって助ける」ということが述べられます。というわけで、「法」と「恩寵」が取り扱われます。といっても恩寵の部分はほぼさわりで、大部分が法論として展開されます。流れは次のとおり。まず法の本質、種類、効果など法全般についての考察(第90問題ー92問題)、それに続いて永遠法(第93問題)、自然法(第94問題)、人定法(第95問題ー97問題)、神法のうちの旧法(第98問題ー105問題)、神法のうちの新法(第106問題ー108問題)、そして恩寵論(第109問題)へと至るというもの。なお、本書では旧法における祭儀的規定や司法的規定を扱った第102問題ー104問題は割愛されている。

 ここに出てくるたくさんの法類型については、トマスはそれなりにクリアな整理をしている。この宇宙全般を神的摂理によって統治されているということで、その統治の理念が永遠法と呼ばれる。そういう意味では、法というよりはある種の原理に近いのかなと。この永遠法を理性的被造物としての人間がその自然本性に刻印される形で分有すること、これが自然法である。自然法の定める範疇で、より特殊な法制定が必要な場合に人定法が求められる。最後に、自然法や人定法が基本的には人々の交わりについて定めるほかに、神との交わりの関係を定めたのが神法である。神法は神がモーセに与えた十戒や律法を含む旧法と、キリストの来臨によって新たに制定された新法とに区別され、前者より後者の方が完全性が高い(とはいえ、聖書に数多く見られる律法批判にもかかわらず、旧法を簡単に揚棄せずに総合的に理解しようとするのがトマスである。)。そして人間が至福へ到達するためには、法を理解し実践するのみでは足りず、自由意思を前提としながら神によって与えられる「恩寵」によらなければならないという主張がなされる。

 多分大体言いたいことは上のような話なのですが、これらをきちんと言い通すために、トマスは矛盾する聖書の諸記述や諸権威をこの神学大全というフォーマットで調停しようと試みる。まず検討されるべき論題が提出される(⚪︎⚪︎は××か?)。それに対して、トマスが与える結論とは異なる見解が聖書や教父等権威筋から複数個提出される(「異論」)。異論に対しては、別の聖書の記述や権威筋からの「反対異論」が提出される。その後、トマスが自分なりの考え方のアウトラインを示し(「主文」)、その後に各異論に対して応答を試みる(「異論解答」)。この異論解答では異論に対して全否定するというよりかは、どちらかというと「まあその見方も一理あるよね、この観点なら」みたいな割と折衷的なところに落ち着いているのは印象的である。稲垣の訳註によると、「異論、反対異論においては聖書本文および教父的伝統にもとづいて問題の所在を提示しつつ、主文においてはアリストテレスの哲学的原理を援用して解答のための枠組みを構築している」(pp540-1、訳註(555))とのこと。当時トマスがどのような論敵と対峙していたかなども含めて読んでみると面白いのかなとは思うのですが、結論自体はまあそれなりに穏当な気がしますね。また、こうして設定された論題に答えていく中で、各法類型の輪郭が明らかになっていく感じです(というのも、各類型で領域が競合し合っているので)。ただ、普通に「永遠法はこうで、自然法はこうなんよ」みたいな話を言うために、その前提となっている矛盾する諸記述を整合的に解釈しようとしすぎて、「この概念には二通りの扱い方がある」とかその手のムカつく後退戦ばっかり読まされて嫌になると思います。トマスは火かき棒で殴られたらええ。訳は読みやすいが、旧法部分までの訳注はほとんど役に立たなかった。というのも、他の問題への参照を促す注ばかりで、神学大全全巻持っていない人間には完全に「詰み」だったからである。ところが、新法以降の訳注はメチャクチャ勉強になる指摘が多く、これ本当に同じ人間が作ったのか?と疑問に思ってしまいました。

 この本は問題別にまとめたら綺麗かなと思いつつ、そんな集中力はないので、適宜俺が気になった論点や記述を抜書きして紹介しておきたいと思います。最近歴史の新書とかノンフィクションばっかり読んでいるのでこの手の抽象的な論述を読む力が衰えていた気がしますわね。ボリューミーなので本当は細分化してレジュメ的にまとめてしまった方が面白いと思うのだけども、そんな気力はねえ。

 第90問題第4項主文でトマスは法を次のように定義する。「共同体の配慮を司る者によって制定され、公布せられたところの、理性による共通善への何らかの秩序づけ」(p46)。これがトマスの法理解のミニマムで、ここから派生して様々な議論がなされていくという印象です。この「共通善」への秩序付けというのが、特に重要な感じですね。ちなみに、それではどう見ても共通善のためではなく、立法者が私利私欲のために法を制定して人々を従わせようとした場合はどうだろう。第92問題第1項主文でトマスは「その時には法は人々を端的に善き者たらしめるのではなく、限定された意味において、すなわちそうした体制regimenとの関連において善き者たらしめるであろう。このような意味では、それ自体としては悪しきことがらにおいても善が見出されるのであって、たとえば或るものが有効に目的を遂げるような仕方で働きを為すところから、善い泥棒と呼ばれるようなものである。」(pp80-1)と嘯く。後半の喩えはよく分からんし、何かものは言いようですねとまぜっかえしたくなる気持ちに駆られる。そのすぐ後の異論解答でトマスは、市民は「支配者たちの命令に服従するという程度に有徳」(p82)であればOKと述べており、ここら辺に君主政支持者かよクソがという素朴な感想を持ってしまいました。

 また、永遠法から全ての法が派生するというロジックを貫いたためか、いわゆる「邪欲」とか邪悪な法についても「法」たる側面を認めようとする強弁も面白い。第93問題第3項の異論解答を引く。「邪欲fomesは、神の正義によって下された罰である限り、人間においては法たるの本質・側面を有している。そして、この意味では永遠法から出てくるものなることは明白である。他方しかし、前述のところからあきらかなように、それが罪へと人間を傾かしめるものたるかぎりにおいては、神の法に反するものであり、法たるの本質・側面を有しない」(p101)「人定法はそれが正しい理性ratio rectaにもとづくものであるかぎりにおいて、法たるの本質・側面を有するのであり、またその意味でそれが永遠法から出てくるものなることも明白である。これにたいして、それが理性から離反しているかぎりにおいては、邪悪なる法lex iniquaと呼ばれ、そのようなものであるかぎりでは法たるの本質よりは、むしろ或る種の暴力violentiaの性質を帯びるものとなる。しかしながら、邪悪な法においてさえ、立法者の権力秩序・権限ordo potestatisのゆえに、法との類似性が何ほどか保たれているかぎりにおいて、邪悪な法もまた永遠法から出てくるものである。」(pp101-2)。法というよりむしろ暴力であるという立論は、人定法を扱う第96問題第4項でもでてきましたね。

 第94問題第5項の自然法は改変されるかという問題について、自己保存の傾向や自然本性上の行動、または社会生活を営むというのが自然法を構成する基本要素であり、これに付加されることはあっても基本要素は不変であるという指摘はふーんと思った。

 旧法の規定等を論じた部分は、まあかなり退屈でしたね。脳がおかしくなるかと思った。別に旧法が天使から授けられたかどうかとか、モーセの時代に与えられたのが適切だったかどうか、十戒の並び順はあれでよかったのかとか、ホンマこんな問題にかかずらって一生を終えた人々の人生って何なんやと思ってしまった。これだけ真摯に神様のことを考えられた時代が心底羨ましいわ。

 第100問題第5項の異論解答で笑ってしまったので引用します。十戒では、内心の罪と行いの罪が両方禁止されている(他人のものを欲するな&盗むな、みたいな)。ところで、殺人と虚偽については行いの罪だけだから不完全では?というもはやいちゃもんみたいな異論である。これに対する異論解答は次のとおり。「姦淫の悦楽とか富の効用などは、それらが快適善あるいは有用善としての側面をもっているかぎり、それ自体のゆえに望ましいものである。そして、このゆえに、これらのことに関しては、行いのみではなく(内心の)欲情をも禁止することが必要であった。しかるに殺人とか虚偽とかはそれ自体においては嫌悪をさそうものである――なぜなら、人間は自然本性的に隣人と真理を愛するからである。したがって、殺人や虚偽はただ何らかの他のことゆえにのみ欲求される。それゆえに、殺人や偽りの証言の罪に関しては、内心の罪は禁止する必要はなく、ただ行いの罪を禁止すればよかった。」(p308)トマスの時代には快楽殺人鬼もいなければ、フェイクニュースもなかったんですかね。幸せな時代だよ全く。

 新法については、それが「キリストに対する信仰fides Chirstiを通じて与えられる精霊の恩寵」(p353)であることを把握すればいいのではないか。こうなってくるとその後に何故恩寵をあえて分けて論じる必要があるのか「???」という感じがあるのだが……。新法関連で面白かったのは第108問題第3項の以下の異論解答。異論は「飯食ったり着るものについて思い煩うのは人間にとって当たり前で自然法に属するよね。それを規制するキリストの新法は不適切!」というもの。

 「主キリストは必要不可欠な思い煩いではなく、秩序なき思い煩いを禁じ給うた。ところで、現世的なことがらに関しては、思い煩いが四つの仕方で秩序から外れることを避けなければならない。すなわち、第一に、現世的なことがらをわれわれの目的として追求したり、あるいは食物や着る物などを必要なものを手に入れるために神に奉仕することを避けなければならない。(中略、なお引用中省略箇所は全てマタイからの引用)第二に、われわれは神的扶助に絶望するような仕方で現世的なことがらについて思い煩いをしてはならない。(中略)第三に、人が神的扶助なしにも、自らの思い煩いによって生活に必要なものを確保できると確信するほどに、思い煩いが万神的praesumptuosaになってはならない。(中略)第四に、人は現時点で配慮すべきことではなく、将来において配慮すべきことがらについて、今、思い煩うことによって、思い煩いの時を先取りしてはならない。(以下略)」(pp426-7)なんだか自己啓発みたいな内容で笑ってしまった。

 恩寵については手短に以下を引用しておくことにしたい。重要な指摘である。

 「神への人間の回心conversioはたしかに自由意思によって為されるものであり、その意味で人間にたいして神へと自らを向ける(回心する)ように命じられているのである。しかし、自由意思は神がそれを御自身へと向け給うのでなければ、神へと向けられることは不可能であって、それは『エレミヤ書』第31章(第18節)において「私を帰らせ(回心させ)て下さい、そうすれば帰ります。あなたは私の神、主であるからです」と言われ、『哀歌』第5章(第21節)において「主よ私たちをあなたのもとへ帰らせて下さい、そうすれば私たちは帰ります」と言われているごとくである。」(p468、第109問題第6項異論解答)

 「習慣的恩寵の賜物は、それによってわれわれがもはや神的扶助を必要としなくなるためにわれわれに与えられたのではない。(中略)恩寵があらゆる点で完全になろうところの栄光の状態status gloriaeにおいてさえ、人は神的扶助を必要とするであろうからである。」(p486、第109問題第9項異論解答)